七月の空気は、吸うだけで汗になる。
教室の天井で扇風機がぼーっと回っている。回ってるのに涼しくない。止まったら終わり、みたいな音だけが頼りだ。
「無理。中間テストってさ、暑さとセットなの、罠だろ」
平野が机に突っ伏して、シャーペンを指先で転がした。
「罠にかかったのは、平野の勉強量」
岩崎が涼しい顔で言う。涼しい顔が腹立つ。
平野が顔を上げた。
「やめろ。心が折れる」
「心は折れても成績は折れないよ」
「言い方が鬼!」
いつもの騒がしさ。
最近は、その騒がしさが“うるさい”じゃなくて、少しだけ助かる。静かだと、考えすぎるから。
左隣の梶山は、プリントを二枚重ねて、角を揃えていた。
紙の端がぴたりと合う、小さな音。あれを聞くと、呼吸が一回分だけ整う。
「祝嶺」
梶山が呼ぶ。覗き込む距離じゃない。声も軽い。
「……なに」
「英語。ここ、出る。この前のプリントも」
教科書の端を指でトントン。
俺はそこを見て、勝手に安心してしまって、腹が立つ。
「……ありがと」
言葉が先に出た。
自分で自分にびっくりする。
平野がぱっと顔を上げた。
「今の、聞いた!? 祝嶺が“ありがと”って!」
「聞こえる声で言うな」
「だって事件!」
「事件にするな」
岩崎が指先で口元を隠して笑う。
「祝嶺、最近、言葉が増えてる。夏って怖いね」
「夏のせいにすんな」
「夏は人を浮かれさせるの。ほら、平野とか」
「俺は元気!」
「元気が点数に変わればな」
梶山が淡々と言って、平野が机を叩いた。
「それは今言うなぁぁぁ!」
何人かが笑って、笑いが教室の中で広がった。
広がると、俺の肩が少しだけ落ちる。
――俺も、輪の外じゃなくて、輪の端に立ってる。
その事実が、ちょっと怖い。
*
テスト初日。
担任の井上が教壇に立って、いつもの短さで言う。
「机の上。筆記用具だけ。答案、名前から。以上」
以上、で始まる。迷う暇がない。
紙の上に、自分の名前を書く。
文字になると、逃げ場が減る気がする。ここにいるって固定される感じがして。
教室の空気が一枚、ぴんと張る。
シャーペンの音。消しゴムの音。ページをめくる音。
俺は問題を追いながら、時々、左隣の気配を感じる。
梶山の呼吸のリズム。腕が動く気配。一定で、乱れない。
テストって孤独のはずなのに。
孤独じゃない“みたい”に思えてしまうのが、いちばん困る。
終了の合図。
答案回収の係が動き出す。
「はい、前から。端、回して」
平野が声を張る。委員でもないのにこういう時だけ勝手に仕切る。
「平野、声」
井上が即ツッコむ。
「……以上」
それで終わるところまでセットみたいで、教室のどこかが笑った。
張ってた空気が、ぱちんと切れる。
休み時間。
教室が一気に生き返る。
「終わったー! いや終わってない! 死んだ!」
「死ぬな」
岩崎が言って、俺の机の端を指でトントン叩く。
「祝嶺、数学の最後、落とし穴だったよね」
「……落とし穴」
「分かってても落ちるやつ。嫌い」
俺は返事がうまくできなくて、筆箱の端を揃えた。
そこへ、梶山が会話に割り込むでもなく、紙を一枚すっと差し出した。
手書きの小さいメモ。
『最後、符号注意』
さっき終わったのに。
でも“見てた”ってことだ。
喉の奥が熱くなる。
「……ありがとう」
今度はちゃんと言った。逃げないで言えた。
梶山は「ん」と短く返して、メモを俺のノートの上に置いた。
置き方が、乱暴じゃなくて、でも当たり前みたいで――余計に刺さる。
岩崎がすかさず拾う。
「はい、祝嶺の“ありがとう”二回目。記念にしたい」
「記念って言うな」
梶山が早い。
「止めるの速」
岩崎が楽しそうに笑う。
平野がニヤニヤして俺を見る。
「梶山、祝嶺のこと見すぎじゃね? 恋じゃん」
「ちげえ」
即否定が早い。
なのに、その否定が俺を見ないまま出るのが、変に嬉しくて困る。
「じゃあ何」
岩崎が聞く。声が軽いのに、刺す角度だけ正確だ。
梶山が一拍置いて、ぽろっと言った。
「……隣の特権」
平野が爆笑した。
「特権て何!? 役職!? 新ジャンル!?」
「うるさい」
梶山の声がいつもより少しだけ低くなる。
その低さが胸に残って、俺は視線を落とした。
残るのが、嫌じゃない。
そのことが、いちばん厄介だ。
*
二日目の昼休み。
購買前の行列は、テスト期間でも普通に伸びる。みんな糖分と炭水化物で脳を動かしてる。
「俺、今日パン三つ。脳が死んでる」
「三つは脳じゃなく胃」
岩崎が即答して、平野が「胃も脳だ!」と意味不明な反論をした。
梶山が列の流れを見ながら言う。
「体育祭の係、そろそろ決めるってさ」
「早くね?」
「秋だろ」
「秋でも暑い」
平野が汗を拭く。
俺は小さく呟いた。
「……夏、長い」
岩崎が目を丸くする。
「今の、祝嶺、かわいい」
「かわいいとか言うな」
梶山がまた速攻で止める。
「止める係、安定」
岩崎が笑う。
平野がさらに煽る。
「祝嶺、梶山に守られてるじゃん」
「守られてない」
「守られてる」
俺は返さず、列の前へ一歩進む。
こういうやり取りが、最近は少しだけ楽しい。楽しいと思った瞬間、胸の奥がひゅっとする。
レジの前。
小銭を出す指先がもたついた。暑さのせいにしたい。
「……あ」
硬貨が一枚、指から滑る。
「いい」
梶山が迷いなく手を出しかけて、止めた。止めて、俺のトレイに小銭をそっと“置いた”。
「貸す」じゃない。
借りを作らせない置き方。
「……あとで返す」
「好きにしろ」
それだけ。
その“それだけ”が、ずるい。
岩崎が小声で「はい、今キュン」と囁いて、平野が「それな」と笑った。
俺は笑えないふりをして、パンの袋を握り直した。
*
三日目。
最後の科目が終わって、答案が回収されて、やっと息がつける――はずだった。
井上がまた短く言う。
「連絡。来週、個票配る。あと夏休み前に個人カード更新。誕生日、連絡先、緊急連絡先。書け。以上」
誕生日。
その単語が落ちた瞬間、背中が硬くなる。
平野が隣の席の誰かに言った。
「個人カードだる。誕生日って、書かなくてもよくね?」
「よくないだろ」
「でも俺、自分の誕生日覚えてない」
「自分のだろ」
「覚えてない」
教室が笑う。
笑いの中に、誕生日って言葉が普通に混ざるのが怖い。
岩崎が俺を見る。
目は笑ってない。けど、責めてない。ただ拾ってる。
「祝嶺、誕生日いつ?」
軽いトーン。軽いから逃げづらい。
「……冬」
「冬って幅広すぎ」
「十二月? 一月? 二月?」
平野が畳みかけてきて、俺は喉の奥がきゅっと痛くなる。
笑って誤魔化したら、会話が続く。続いたら、どこかで匂う。
「祝嶺、ケーキ何派?」
平野がさらに来る。
岩崎が呆れた顔で笑う。
「平野、食べ物の話に着地させるの上手いね。雑だけど」
「雑が正義!」
その瞬間、梶山がプリントの端を指で叩いた。
「個人カード、先。雑談は後」
止め方が自然で、強くない。
でも、確実に流れが変わる。
「えー、梶山、嫉妬?」
平野がいつもの調子でからかう。
「ちげえ」
梶山が短く切る。
「テスト終わって脳、溶けてんだろ。祝嶺も」
“祝嶺も”が、妙に嬉しい。
同じところに置かれたみたいで。
嬉しいのが怖くて、俺は机の中を整え直した。
岩崎が俺の手元を見ないふりをして、囁く。
「助かったね」
「……」
「梶山、優しい」
俺は返事ができなくて、鉛筆の芯を折りそうになった。
梶山は助けるだけ助けて、何も聞かない。聞かないのに、見てる。
それがいちばん、ずるい。
*
テスト最終日。放課後。
教室の空気がやっと軽くなる。
何人かが「カラオケ!」「ゲーセン!」と騒いで出ていく。
平野が扉のところで振り返った。
「祝嶺、行く? 打ち上げ! お疲れ会!」
「……行かない」
「即答!」
「ブレないね」
岩崎が笑う。
梶山はプリントをまとめながら、静かに言った。
「俺、残る」
「え? なんで」
平野が目を丸くする。
「原稿。班課題。途中報告」
総合⑤班。購買の改善案。
その言葉が出た瞬間、胃がきゅっと縮む。俺のグラフも、あと少し整えたい。分かってる。分かってるのに――放課後の教室に残るのは、危険だ。
人が減ると、会話が濃くなる。
濃くなると、俺の秘密に触れられる気がする。
「祝嶺も残る?」
岩崎がさらっと聞いてくる。押しつけないのに、逃げると目立つ聞き方。
俺が口を開きかけたとき、梶山が先に言った。
「無理なら、帰っていい」
理由を聞かない。
でも、“いてもいい”の形にしてくれる。
「……少しだけ」
口から出て、自分で驚く。
“少しだけ”って、予定を作る言葉だ。
「おお〜」
平野がニヤニヤする。
「祝嶺が残る! 事件!」
「事件にすんな」
梶山が止めて、岩崎が笑う。
「じゃ、私たち行くね。二人とも、ちゃんと帰れよ〜」
「帰れよ〜」
平野も歌うみたいに言って、廊下へ消えた。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
残ったのは俺と梶山。放課後の教室は、急に広い。
「……ほんとに少しでいい」
俺が先に言う。
「うん」
梶山が頷く。頷き方が、いつもより柔らかい。
「何する」
「……グラフ」
「見せて」
「……うん」
スマホを出して、曜日別の表を開く。
“並ぶのが嫌”が多い。“売り切れ”が次に多い。
「見やすい」
梶山が言う。短い褒め方。だから刺さる。
「……ありがと」
逃げずに言えた。
梶山の目が一瞬だけ細くなる。笑ったわけじゃない。でも、嬉しそう。
「今の、いい」
「……何が」
「ありがとって言うとこ」
俺の胸が勝手に跳ねて、誤魔化す言葉が喉まで上がってきたけど、飲み込んだ。
飲み込めた自分が、少しだけ誇らしい。
しばらく、画面を一緒に見て、言葉が切れた。
その沈黙で、梶山がふっと言う。
「さっきの誕生日の話」
声が低い。俺にだけ落ちる音。
「……何」
「嫌だった?」
“嫌い?”じゃない。過去形で責めない聞き方。
「……別に」
盾が出る。
梶山は追わない。机の上の消しゴムを指で転がして、軽い声に戻す。
「俺、誕生日とかどうでもいい派」
「……」
「祝嶺が言いたくないなら、言わなくていい」
許可みたいな言葉。
俺はそれに弱いのが嫌で、わざとペンを持ち替えた。
「……個人カード、書けって言われた」
「書くやつ、か」
梶山がすぐ拾う。
「じゃあ」
梶山が言って、少しだけ間を置いた。
「書くとき、俺、隣にいる」
隣にいる。
いつもと同じはずなのに、今日言われると意味が変わる。
「……いらない」
「俺がいる」
主語が俺。祝嶺じゃない。逃げ道がない。
俺は小さく息を吐いて、投げるみたいに言った。
「……勝手にしろ」
「うん」
梶山はそれで話を終わらせる。終わらせ方まで上手い。
その上手さが、怖いのに――胸の奥がほどける。
聞かれたくないところを、こじ開けない。
踏み込まないのに、隣にはいる。
そういう瞬間に、俺は勝手に落ちていく。
*
外が少し暗くなってきた。窓に夕方の色が落ちる。
「そろそろ帰る?」
「……うん」
立ち上がったとき、机の中から紙が一枚滑り出た。
個人カードの下書き。俺が絶対に残さないはずのもの。
心臓がひゅっと縮む。
名前と住所と――誕生日欄。空欄なのに、そこがやけに目立つ。
梶山の視線が落ちた。
落ちた瞬間、俺の指が反射で紙を引っ込める。
「……それ」
梶山が言いかけて止めた。止め方が上手い。
「ただの書くやつ」
嘘じゃない。けど本当でもない。
梶山はそれ以上言わないまま、俺のカバンの持ち手を見て、唐突に言った。
「手、冷たい」
「……冷たくない」
「冷たい」
「……」
「自販機、寄る?」
話題を変える。変え方が自然すぎて胸が苦しい。
「寄らない」
「じゃあ、これ」
梶山がポケットから飴を一つ出して、机の端に置いた。
“渡す”じゃなくて“置く”。借りを作らせない。
「……いらない」
「置いた」
「……」
「食べなくていい。持っとけ」
六月の雨の日みたいな言い方。
胸の奥がまた跳ねる。
俺は飴を握った。熱くも冷たくもないはずなのに、指先だけが妙に熱い。
*
校門を出ると、空が薄紫になっていた。夏の夕方は暗くなるのが遅い。
「テスト、おつかれ」
「……おつかれ」
返せるようになってる。
返せるようになってることが、少し怖い。
「今日、残ってくれてよかった」
梶山が言う。
“よかった”が胸の奥でじわっと広がる。
「……グラフ、進んだ」
「うん。それもある」
梶山が頷いて、続ける。
「でも、それだけじゃない」
言外が怖くて、俺は黙って歩いた。黙って歩けるのが今は助かる。
角を曲がる手前で、梶山が足を止める。
「誕生日、言わなくていい」
またその言葉。許可。救い。
「でも」
梶山が続ける。
「言いたくなる日が来たら、聞く」
「……そんな日、来ない」
言った瞬間、喉の奥が痛くなった。
梶山は笑わないまま、短く言う。
「来る」
断定なのに、押しつけじゃない。
俺はそれ以上言えなくて、飴をポケットの中で握り潰しそうになった。
「じゃ、また明日」
梶山が背を向ける。
俺はその背中を見て思う。――見守っていたい、って。たぶん、こういう小さい瞬間が積み重なるからだ。
*
家に着いて、鍵を開ける。
学生証ケースを机の端に置いて、裏返す。見ない。見せない。
その横に、梶山の飴を置いた。
包装の小さな音が、夜の部屋にやけに響く。
スマホが震える。
“総合⑤班”。
平野:『打ち上げ最高! 祝嶺も来いよ!』
岩崎:『放課後、静かに尊かった(ニヤ)』
うるさい。
でも、そのうるささが嫌じゃない。
俺は短く打つ。
『おつ』
既読がつく。
平野が秒で返す。
『祝嶺きた!!!!』
そして少し遅れて、梶山から個別。
『飴、持った?』
入力欄を見て、指が止まる。
返したら残る。残ると怖い。――でも今日はもう、残ってしまっている。
放課後に二人でいたこと。
誕生日を避けたこと。
避けたのに、隣がそれを拾って、守ったこと。
俺は息を薄くして、短く返す。
『うん』
既読。
すぐ返ってくる。
『うん、で終わるなよ』
……まただ。
胸が跳ねて、悔しいのに、少しだけ笑った。
七月の中間テストは、ただ終わっただけ。
そう思いたいのに、個人カードの空欄が頭から消えない。
空欄のままじゃいられない日が、いつか来る。
そのとき、隣にいるって言った声が、まだ耳の奥に残っている。
秘密の匂いが、少し濃くなった夜だった。
教室の天井で扇風機がぼーっと回っている。回ってるのに涼しくない。止まったら終わり、みたいな音だけが頼りだ。
「無理。中間テストってさ、暑さとセットなの、罠だろ」
平野が机に突っ伏して、シャーペンを指先で転がした。
「罠にかかったのは、平野の勉強量」
岩崎が涼しい顔で言う。涼しい顔が腹立つ。
平野が顔を上げた。
「やめろ。心が折れる」
「心は折れても成績は折れないよ」
「言い方が鬼!」
いつもの騒がしさ。
最近は、その騒がしさが“うるさい”じゃなくて、少しだけ助かる。静かだと、考えすぎるから。
左隣の梶山は、プリントを二枚重ねて、角を揃えていた。
紙の端がぴたりと合う、小さな音。あれを聞くと、呼吸が一回分だけ整う。
「祝嶺」
梶山が呼ぶ。覗き込む距離じゃない。声も軽い。
「……なに」
「英語。ここ、出る。この前のプリントも」
教科書の端を指でトントン。
俺はそこを見て、勝手に安心してしまって、腹が立つ。
「……ありがと」
言葉が先に出た。
自分で自分にびっくりする。
平野がぱっと顔を上げた。
「今の、聞いた!? 祝嶺が“ありがと”って!」
「聞こえる声で言うな」
「だって事件!」
「事件にするな」
岩崎が指先で口元を隠して笑う。
「祝嶺、最近、言葉が増えてる。夏って怖いね」
「夏のせいにすんな」
「夏は人を浮かれさせるの。ほら、平野とか」
「俺は元気!」
「元気が点数に変わればな」
梶山が淡々と言って、平野が机を叩いた。
「それは今言うなぁぁぁ!」
何人かが笑って、笑いが教室の中で広がった。
広がると、俺の肩が少しだけ落ちる。
――俺も、輪の外じゃなくて、輪の端に立ってる。
その事実が、ちょっと怖い。
*
テスト初日。
担任の井上が教壇に立って、いつもの短さで言う。
「机の上。筆記用具だけ。答案、名前から。以上」
以上、で始まる。迷う暇がない。
紙の上に、自分の名前を書く。
文字になると、逃げ場が減る気がする。ここにいるって固定される感じがして。
教室の空気が一枚、ぴんと張る。
シャーペンの音。消しゴムの音。ページをめくる音。
俺は問題を追いながら、時々、左隣の気配を感じる。
梶山の呼吸のリズム。腕が動く気配。一定で、乱れない。
テストって孤独のはずなのに。
孤独じゃない“みたい”に思えてしまうのが、いちばん困る。
終了の合図。
答案回収の係が動き出す。
「はい、前から。端、回して」
平野が声を張る。委員でもないのにこういう時だけ勝手に仕切る。
「平野、声」
井上が即ツッコむ。
「……以上」
それで終わるところまでセットみたいで、教室のどこかが笑った。
張ってた空気が、ぱちんと切れる。
休み時間。
教室が一気に生き返る。
「終わったー! いや終わってない! 死んだ!」
「死ぬな」
岩崎が言って、俺の机の端を指でトントン叩く。
「祝嶺、数学の最後、落とし穴だったよね」
「……落とし穴」
「分かってても落ちるやつ。嫌い」
俺は返事がうまくできなくて、筆箱の端を揃えた。
そこへ、梶山が会話に割り込むでもなく、紙を一枚すっと差し出した。
手書きの小さいメモ。
『最後、符号注意』
さっき終わったのに。
でも“見てた”ってことだ。
喉の奥が熱くなる。
「……ありがとう」
今度はちゃんと言った。逃げないで言えた。
梶山は「ん」と短く返して、メモを俺のノートの上に置いた。
置き方が、乱暴じゃなくて、でも当たり前みたいで――余計に刺さる。
岩崎がすかさず拾う。
「はい、祝嶺の“ありがとう”二回目。記念にしたい」
「記念って言うな」
梶山が早い。
「止めるの速」
岩崎が楽しそうに笑う。
平野がニヤニヤして俺を見る。
「梶山、祝嶺のこと見すぎじゃね? 恋じゃん」
「ちげえ」
即否定が早い。
なのに、その否定が俺を見ないまま出るのが、変に嬉しくて困る。
「じゃあ何」
岩崎が聞く。声が軽いのに、刺す角度だけ正確だ。
梶山が一拍置いて、ぽろっと言った。
「……隣の特権」
平野が爆笑した。
「特権て何!? 役職!? 新ジャンル!?」
「うるさい」
梶山の声がいつもより少しだけ低くなる。
その低さが胸に残って、俺は視線を落とした。
残るのが、嫌じゃない。
そのことが、いちばん厄介だ。
*
二日目の昼休み。
購買前の行列は、テスト期間でも普通に伸びる。みんな糖分と炭水化物で脳を動かしてる。
「俺、今日パン三つ。脳が死んでる」
「三つは脳じゃなく胃」
岩崎が即答して、平野が「胃も脳だ!」と意味不明な反論をした。
梶山が列の流れを見ながら言う。
「体育祭の係、そろそろ決めるってさ」
「早くね?」
「秋だろ」
「秋でも暑い」
平野が汗を拭く。
俺は小さく呟いた。
「……夏、長い」
岩崎が目を丸くする。
「今の、祝嶺、かわいい」
「かわいいとか言うな」
梶山がまた速攻で止める。
「止める係、安定」
岩崎が笑う。
平野がさらに煽る。
「祝嶺、梶山に守られてるじゃん」
「守られてない」
「守られてる」
俺は返さず、列の前へ一歩進む。
こういうやり取りが、最近は少しだけ楽しい。楽しいと思った瞬間、胸の奥がひゅっとする。
レジの前。
小銭を出す指先がもたついた。暑さのせいにしたい。
「……あ」
硬貨が一枚、指から滑る。
「いい」
梶山が迷いなく手を出しかけて、止めた。止めて、俺のトレイに小銭をそっと“置いた”。
「貸す」じゃない。
借りを作らせない置き方。
「……あとで返す」
「好きにしろ」
それだけ。
その“それだけ”が、ずるい。
岩崎が小声で「はい、今キュン」と囁いて、平野が「それな」と笑った。
俺は笑えないふりをして、パンの袋を握り直した。
*
三日目。
最後の科目が終わって、答案が回収されて、やっと息がつける――はずだった。
井上がまた短く言う。
「連絡。来週、個票配る。あと夏休み前に個人カード更新。誕生日、連絡先、緊急連絡先。書け。以上」
誕生日。
その単語が落ちた瞬間、背中が硬くなる。
平野が隣の席の誰かに言った。
「個人カードだる。誕生日って、書かなくてもよくね?」
「よくないだろ」
「でも俺、自分の誕生日覚えてない」
「自分のだろ」
「覚えてない」
教室が笑う。
笑いの中に、誕生日って言葉が普通に混ざるのが怖い。
岩崎が俺を見る。
目は笑ってない。けど、責めてない。ただ拾ってる。
「祝嶺、誕生日いつ?」
軽いトーン。軽いから逃げづらい。
「……冬」
「冬って幅広すぎ」
「十二月? 一月? 二月?」
平野が畳みかけてきて、俺は喉の奥がきゅっと痛くなる。
笑って誤魔化したら、会話が続く。続いたら、どこかで匂う。
「祝嶺、ケーキ何派?」
平野がさらに来る。
岩崎が呆れた顔で笑う。
「平野、食べ物の話に着地させるの上手いね。雑だけど」
「雑が正義!」
その瞬間、梶山がプリントの端を指で叩いた。
「個人カード、先。雑談は後」
止め方が自然で、強くない。
でも、確実に流れが変わる。
「えー、梶山、嫉妬?」
平野がいつもの調子でからかう。
「ちげえ」
梶山が短く切る。
「テスト終わって脳、溶けてんだろ。祝嶺も」
“祝嶺も”が、妙に嬉しい。
同じところに置かれたみたいで。
嬉しいのが怖くて、俺は机の中を整え直した。
岩崎が俺の手元を見ないふりをして、囁く。
「助かったね」
「……」
「梶山、優しい」
俺は返事ができなくて、鉛筆の芯を折りそうになった。
梶山は助けるだけ助けて、何も聞かない。聞かないのに、見てる。
それがいちばん、ずるい。
*
テスト最終日。放課後。
教室の空気がやっと軽くなる。
何人かが「カラオケ!」「ゲーセン!」と騒いで出ていく。
平野が扉のところで振り返った。
「祝嶺、行く? 打ち上げ! お疲れ会!」
「……行かない」
「即答!」
「ブレないね」
岩崎が笑う。
梶山はプリントをまとめながら、静かに言った。
「俺、残る」
「え? なんで」
平野が目を丸くする。
「原稿。班課題。途中報告」
総合⑤班。購買の改善案。
その言葉が出た瞬間、胃がきゅっと縮む。俺のグラフも、あと少し整えたい。分かってる。分かってるのに――放課後の教室に残るのは、危険だ。
人が減ると、会話が濃くなる。
濃くなると、俺の秘密に触れられる気がする。
「祝嶺も残る?」
岩崎がさらっと聞いてくる。押しつけないのに、逃げると目立つ聞き方。
俺が口を開きかけたとき、梶山が先に言った。
「無理なら、帰っていい」
理由を聞かない。
でも、“いてもいい”の形にしてくれる。
「……少しだけ」
口から出て、自分で驚く。
“少しだけ”って、予定を作る言葉だ。
「おお〜」
平野がニヤニヤする。
「祝嶺が残る! 事件!」
「事件にすんな」
梶山が止めて、岩崎が笑う。
「じゃ、私たち行くね。二人とも、ちゃんと帰れよ〜」
「帰れよ〜」
平野も歌うみたいに言って、廊下へ消えた。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
残ったのは俺と梶山。放課後の教室は、急に広い。
「……ほんとに少しでいい」
俺が先に言う。
「うん」
梶山が頷く。頷き方が、いつもより柔らかい。
「何する」
「……グラフ」
「見せて」
「……うん」
スマホを出して、曜日別の表を開く。
“並ぶのが嫌”が多い。“売り切れ”が次に多い。
「見やすい」
梶山が言う。短い褒め方。だから刺さる。
「……ありがと」
逃げずに言えた。
梶山の目が一瞬だけ細くなる。笑ったわけじゃない。でも、嬉しそう。
「今の、いい」
「……何が」
「ありがとって言うとこ」
俺の胸が勝手に跳ねて、誤魔化す言葉が喉まで上がってきたけど、飲み込んだ。
飲み込めた自分が、少しだけ誇らしい。
しばらく、画面を一緒に見て、言葉が切れた。
その沈黙で、梶山がふっと言う。
「さっきの誕生日の話」
声が低い。俺にだけ落ちる音。
「……何」
「嫌だった?」
“嫌い?”じゃない。過去形で責めない聞き方。
「……別に」
盾が出る。
梶山は追わない。机の上の消しゴムを指で転がして、軽い声に戻す。
「俺、誕生日とかどうでもいい派」
「……」
「祝嶺が言いたくないなら、言わなくていい」
許可みたいな言葉。
俺はそれに弱いのが嫌で、わざとペンを持ち替えた。
「……個人カード、書けって言われた」
「書くやつ、か」
梶山がすぐ拾う。
「じゃあ」
梶山が言って、少しだけ間を置いた。
「書くとき、俺、隣にいる」
隣にいる。
いつもと同じはずなのに、今日言われると意味が変わる。
「……いらない」
「俺がいる」
主語が俺。祝嶺じゃない。逃げ道がない。
俺は小さく息を吐いて、投げるみたいに言った。
「……勝手にしろ」
「うん」
梶山はそれで話を終わらせる。終わらせ方まで上手い。
その上手さが、怖いのに――胸の奥がほどける。
聞かれたくないところを、こじ開けない。
踏み込まないのに、隣にはいる。
そういう瞬間に、俺は勝手に落ちていく。
*
外が少し暗くなってきた。窓に夕方の色が落ちる。
「そろそろ帰る?」
「……うん」
立ち上がったとき、机の中から紙が一枚滑り出た。
個人カードの下書き。俺が絶対に残さないはずのもの。
心臓がひゅっと縮む。
名前と住所と――誕生日欄。空欄なのに、そこがやけに目立つ。
梶山の視線が落ちた。
落ちた瞬間、俺の指が反射で紙を引っ込める。
「……それ」
梶山が言いかけて止めた。止め方が上手い。
「ただの書くやつ」
嘘じゃない。けど本当でもない。
梶山はそれ以上言わないまま、俺のカバンの持ち手を見て、唐突に言った。
「手、冷たい」
「……冷たくない」
「冷たい」
「……」
「自販機、寄る?」
話題を変える。変え方が自然すぎて胸が苦しい。
「寄らない」
「じゃあ、これ」
梶山がポケットから飴を一つ出して、机の端に置いた。
“渡す”じゃなくて“置く”。借りを作らせない。
「……いらない」
「置いた」
「……」
「食べなくていい。持っとけ」
六月の雨の日みたいな言い方。
胸の奥がまた跳ねる。
俺は飴を握った。熱くも冷たくもないはずなのに、指先だけが妙に熱い。
*
校門を出ると、空が薄紫になっていた。夏の夕方は暗くなるのが遅い。
「テスト、おつかれ」
「……おつかれ」
返せるようになってる。
返せるようになってることが、少し怖い。
「今日、残ってくれてよかった」
梶山が言う。
“よかった”が胸の奥でじわっと広がる。
「……グラフ、進んだ」
「うん。それもある」
梶山が頷いて、続ける。
「でも、それだけじゃない」
言外が怖くて、俺は黙って歩いた。黙って歩けるのが今は助かる。
角を曲がる手前で、梶山が足を止める。
「誕生日、言わなくていい」
またその言葉。許可。救い。
「でも」
梶山が続ける。
「言いたくなる日が来たら、聞く」
「……そんな日、来ない」
言った瞬間、喉の奥が痛くなった。
梶山は笑わないまま、短く言う。
「来る」
断定なのに、押しつけじゃない。
俺はそれ以上言えなくて、飴をポケットの中で握り潰しそうになった。
「じゃ、また明日」
梶山が背を向ける。
俺はその背中を見て思う。――見守っていたい、って。たぶん、こういう小さい瞬間が積み重なるからだ。
*
家に着いて、鍵を開ける。
学生証ケースを机の端に置いて、裏返す。見ない。見せない。
その横に、梶山の飴を置いた。
包装の小さな音が、夜の部屋にやけに響く。
スマホが震える。
“総合⑤班”。
平野:『打ち上げ最高! 祝嶺も来いよ!』
岩崎:『放課後、静かに尊かった(ニヤ)』
うるさい。
でも、そのうるささが嫌じゃない。
俺は短く打つ。
『おつ』
既読がつく。
平野が秒で返す。
『祝嶺きた!!!!』
そして少し遅れて、梶山から個別。
『飴、持った?』
入力欄を見て、指が止まる。
返したら残る。残ると怖い。――でも今日はもう、残ってしまっている。
放課後に二人でいたこと。
誕生日を避けたこと。
避けたのに、隣がそれを拾って、守ったこと。
俺は息を薄くして、短く返す。
『うん』
既読。
すぐ返ってくる。
『うん、で終わるなよ』
……まただ。
胸が跳ねて、悔しいのに、少しだけ笑った。
七月の中間テストは、ただ終わっただけ。
そう思いたいのに、個人カードの空欄が頭から消えない。
空欄のままじゃいられない日が、いつか来る。
そのとき、隣にいるって言った声が、まだ耳の奥に残っている。
秘密の匂いが、少し濃くなった夜だった。
