一歳上、同級生。

 七月の空気は、吸うだけで汗になる。
 教室の天井で扇風機がぼーっと回っている。回ってるのに涼しくない。止まったら終わり、みたいな音だけが頼りだ。

「無理。中間テストってさ、暑さとセットなの、罠だろ」
 平野が机に突っ伏して、シャーペンを指先で転がした。

「罠にかかったのは、平野の勉強量」
 岩崎が涼しい顔で言う。涼しい顔が腹立つ。

 平野が顔を上げた。
「やめろ。心が折れる」

「心は折れても成績は折れないよ」

「言い方が鬼!」


 いつもの騒がしさ。
 最近は、その騒がしさが“うるさい”じゃなくて、少しだけ助かる。静かだと、考えすぎるから。


 左隣の梶山は、プリントを二枚重ねて、角を揃えていた。
 紙の端がぴたりと合う、小さな音。あれを聞くと、呼吸が一回分だけ整う。


「祝嶺」
 梶山が呼ぶ。覗き込む距離じゃない。声も軽い。

「……なに」

「英語。ここ、出る。この前のプリントも」
 教科書の端を指でトントン。


 俺はそこを見て、勝手に安心してしまって、腹が立つ。


「……ありがと」
 言葉が先に出た。
 自分で自分にびっくりする。


 平野がぱっと顔を上げた。
「今の、聞いた!? 祝嶺が“ありがと”って!」

「聞こえる声で言うな」

「だって事件!」

「事件にするな」


 岩崎が指先で口元を隠して笑う。
「祝嶺、最近、言葉が増えてる。夏って怖いね」

「夏のせいにすんな」

「夏は人を浮かれさせるの。ほら、平野とか」

「俺は元気!」

「元気が点数に変わればな」

 梶山が淡々と言って、平野が机を叩いた。
「それは今言うなぁぁぁ!」


 何人かが笑って、笑いが教室の中で広がった。
 広がると、俺の肩が少しだけ落ちる。

 ――俺も、輪の外じゃなくて、輪の端に立ってる。

 その事実が、ちょっと怖い。





 テスト初日。
 担任の井上が教壇に立って、いつもの短さで言う。

「机の上。筆記用具だけ。答案、名前から。以上」


 以上、で始まる。迷う暇がない。


 紙の上に、自分の名前を書く。
 文字になると、逃げ場が減る気がする。ここにいるって固定される感じがして。


 教室の空気が一枚、ぴんと張る。
 シャーペンの音。消しゴムの音。ページをめくる音。


 俺は問題を追いながら、時々、左隣の気配を感じる。
 梶山の呼吸のリズム。腕が動く気配。一定で、乱れない。


 テストって孤独のはずなのに。
 孤独じゃない“みたい”に思えてしまうのが、いちばん困る。


 終了の合図。
 答案回収の係が動き出す。


「はい、前から。端、回して」
 平野が声を張る。委員でもないのにこういう時だけ勝手に仕切る。


「平野、声」
 井上が即ツッコむ。

「……以上」


 それで終わるところまでセットみたいで、教室のどこかが笑った。
 張ってた空気が、ぱちんと切れる。


 休み時間。
 教室が一気に生き返る。


「終わったー! いや終わってない! 死んだ!」

「死ぬな」


 岩崎が言って、俺の机の端を指でトントン叩く。
「祝嶺、数学の最後、落とし穴だったよね」

「……落とし穴」

「分かってても落ちるやつ。嫌い」


 俺は返事がうまくできなくて、筆箱の端を揃えた。


 そこへ、梶山が会話に割り込むでもなく、紙を一枚すっと差し出した。
 手書きの小さいメモ。

『最後、符号注意』


 さっき終わったのに。
 でも“見てた”ってことだ。

 喉の奥が熱くなる。


「……ありがとう」
 今度はちゃんと言った。逃げないで言えた。


 梶山は「ん」と短く返して、メモを俺のノートの上に置いた。
 置き方が、乱暴じゃなくて、でも当たり前みたいで――余計に刺さる。


 岩崎がすかさず拾う。
「はい、祝嶺の“ありがとう”二回目。記念にしたい」

「記念って言うな」
 梶山が早い。


「止めるの速」
 岩崎が楽しそうに笑う。


 平野がニヤニヤして俺を見る。
「梶山、祝嶺のこと見すぎじゃね? 恋じゃん」

「ちげえ」
 即否定が早い。
 なのに、その否定が俺を見ないまま出るのが、変に嬉しくて困る。


「じゃあ何」
 岩崎が聞く。声が軽いのに、刺す角度だけ正確だ。

 梶山が一拍置いて、ぽろっと言った。
「……隣の特権」

 平野が爆笑した。
「特権て何!? 役職!? 新ジャンル!?」

「うるさい」
 梶山の声がいつもより少しだけ低くなる。

 その低さが胸に残って、俺は視線を落とした。
 残るのが、嫌じゃない。

 そのことが、いちばん厄介だ。





 二日目の昼休み。
 購買前の行列は、テスト期間でも普通に伸びる。みんな糖分と炭水化物で脳を動かしてる。


「俺、今日パン三つ。脳が死んでる」

「三つは脳じゃなく胃」
 岩崎が即答して、平野が「胃も脳だ!」と意味不明な反論をした。


 梶山が列の流れを見ながら言う。
「体育祭の係、そろそろ決めるってさ」

「早くね?」

「秋だろ」

「秋でも暑い」
 平野が汗を拭く。


 俺は小さく呟いた。
「……夏、長い」


 岩崎が目を丸くする。
「今の、祝嶺、かわいい」

「かわいいとか言うな」
 梶山がまた速攻で止める。

「止める係、安定」
 岩崎が笑う。

 平野がさらに煽る。
「祝嶺、梶山に守られてるじゃん」

「守られてない」

「守られてる」

 俺は返さず、列の前へ一歩進む。
 こういうやり取りが、最近は少しだけ楽しい。楽しいと思った瞬間、胸の奥がひゅっとする。

 レジの前。
 小銭を出す指先がもたついた。暑さのせいにしたい。


「……あ」
 硬貨が一枚、指から滑る。


「いい」
 梶山が迷いなく手を出しかけて、止めた。止めて、俺のトレイに小銭をそっと“置いた”。

 「貸す」じゃない。
 借りを作らせない置き方。


「……あとで返す」

「好きにしろ」

 それだけ。
 その“それだけ”が、ずるい。


 岩崎が小声で「はい、今キュン」と囁いて、平野が「それな」と笑った。
 俺は笑えないふりをして、パンの袋を握り直した。





 三日目。
 最後の科目が終わって、答案が回収されて、やっと息がつける――はずだった。


 井上がまた短く言う。

「連絡。来週、個票配る。あと夏休み前に個人カード更新。誕生日、連絡先、緊急連絡先。書け。以上」


 誕生日。
 その単語が落ちた瞬間、背中が硬くなる。


 平野が隣の席の誰かに言った。
「個人カードだる。誕生日って、書かなくてもよくね?」

「よくないだろ」

「でも俺、自分の誕生日覚えてない」

「自分のだろ」

「覚えてない」


 教室が笑う。
 笑いの中に、誕生日って言葉が普通に混ざるのが怖い。


 岩崎が俺を見る。
 目は笑ってない。けど、責めてない。ただ拾ってる。


「祝嶺、誕生日いつ?」

 軽いトーン。軽いから逃げづらい。


「……冬」

「冬って幅広すぎ」

「十二月? 一月? 二月?」


 平野が畳みかけてきて、俺は喉の奥がきゅっと痛くなる。
 笑って誤魔化したら、会話が続く。続いたら、どこかで匂う。


「祝嶺、ケーキ何派?」
 平野がさらに来る。


 岩崎が呆れた顔で笑う。
「平野、食べ物の話に着地させるの上手いね。雑だけど」

「雑が正義!」

 その瞬間、梶山がプリントの端を指で叩いた。
「個人カード、先。雑談は後」

 止め方が自然で、強くない。
 でも、確実に流れが変わる。


「えー、梶山、嫉妬?」
 平野がいつもの調子でからかう。

「ちげえ」
 梶山が短く切る。


「テスト終わって脳、溶けてんだろ。祝嶺も」

 “祝嶺も”が、妙に嬉しい。
 同じところに置かれたみたいで。


 嬉しいのが怖くて、俺は机の中を整え直した。


 岩崎が俺の手元を見ないふりをして、囁く。
「助かったね」

「……」

「梶山、優しい」


 俺は返事ができなくて、鉛筆の芯を折りそうになった。
 梶山は助けるだけ助けて、何も聞かない。聞かないのに、見てる。

 それがいちばん、ずるい。





 テスト最終日。放課後。
 教室の空気がやっと軽くなる。


 何人かが「カラオケ!」「ゲーセン!」と騒いで出ていく。


 平野が扉のところで振り返った。
「祝嶺、行く? 打ち上げ! お疲れ会!」

「……行かない」

「即答!」

「ブレないね」
 岩崎が笑う。


 梶山はプリントをまとめながら、静かに言った。
「俺、残る」

「え? なんで」
 平野が目を丸くする。


「原稿。班課題。途中報告」

 総合⑤班。購買の改善案。
 その言葉が出た瞬間、胃がきゅっと縮む。俺のグラフも、あと少し整えたい。分かってる。分かってるのに――放課後の教室に残るのは、危険だ。


 人が減ると、会話が濃くなる。
 濃くなると、俺の秘密に触れられる気がする。


「祝嶺も残る?」
 岩崎がさらっと聞いてくる。押しつけないのに、逃げると目立つ聞き方。


 俺が口を開きかけたとき、梶山が先に言った。
「無理なら、帰っていい」

 理由を聞かない。
 でも、“いてもいい”の形にしてくれる。


「……少しだけ」
 口から出て、自分で驚く。
 “少しだけ”って、予定を作る言葉だ。


「おお〜」
 平野がニヤニヤする。

「祝嶺が残る! 事件!」

「事件にすんな」
 梶山が止めて、岩崎が笑う。


「じゃ、私たち行くね。二人とも、ちゃんと帰れよ〜」

「帰れよ〜」
 平野も歌うみたいに言って、廊下へ消えた。


 扉が閉まる音が、やけに大きい。


 残ったのは俺と梶山。放課後の教室は、急に広い。


「……ほんとに少しでいい」
 俺が先に言う。

「うん」
 梶山が頷く。頷き方が、いつもより柔らかい。


「何する」

「……グラフ」

「見せて」

「……うん」


 スマホを出して、曜日別の表を開く。
 “並ぶのが嫌”が多い。“売り切れ”が次に多い。


「見やすい」
 梶山が言う。短い褒め方。だから刺さる。

「……ありがと」
 逃げずに言えた。


 梶山の目が一瞬だけ細くなる。笑ったわけじゃない。でも、嬉しそう。

「今の、いい」

「……何が」

「ありがとって言うとこ」


 俺の胸が勝手に跳ねて、誤魔化す言葉が喉まで上がってきたけど、飲み込んだ。
 飲み込めた自分が、少しだけ誇らしい。


 しばらく、画面を一緒に見て、言葉が切れた。
 その沈黙で、梶山がふっと言う。


「さっきの誕生日の話」

 声が低い。俺にだけ落ちる音。


「……何」

「嫌だった?」

 “嫌い?”じゃない。過去形で責めない聞き方。


「……別に」
 盾が出る。


 梶山は追わない。机の上の消しゴムを指で転がして、軽い声に戻す。
「俺、誕生日とかどうでもいい派」

「……」

「祝嶺が言いたくないなら、言わなくていい」

 許可みたいな言葉。
 俺はそれに弱いのが嫌で、わざとペンを持ち替えた。


「……個人カード、書けって言われた」

「書くやつ、か」
 梶山がすぐ拾う。

「じゃあ」
 梶山が言って、少しだけ間を置いた。

「書くとき、俺、隣にいる」


 隣にいる。
 いつもと同じはずなのに、今日言われると意味が変わる。


「……いらない」

「俺がいる」

 主語が俺。祝嶺じゃない。逃げ道がない。


 俺は小さく息を吐いて、投げるみたいに言った。
「……勝手にしろ」

「うん」

 梶山はそれで話を終わらせる。終わらせ方まで上手い。
 その上手さが、怖いのに――胸の奥がほどける。

 聞かれたくないところを、こじ開けない。
 踏み込まないのに、隣にはいる。
 そういう瞬間に、俺は勝手に落ちていく。





 外が少し暗くなってきた。窓に夕方の色が落ちる。


「そろそろ帰る?」

「……うん」


 立ち上がったとき、机の中から紙が一枚滑り出た。
 個人カードの下書き。俺が絶対に残さないはずのもの。


 心臓がひゅっと縮む。
 名前と住所と――誕生日欄。空欄なのに、そこがやけに目立つ。


 梶山の視線が落ちた。
 落ちた瞬間、俺の指が反射で紙を引っ込める。


「……それ」
 梶山が言いかけて止めた。止め方が上手い。


「ただの書くやつ」
 嘘じゃない。けど本当でもない。


 梶山はそれ以上言わないまま、俺のカバンの持ち手を見て、唐突に言った。


「手、冷たい」

「……冷たくない」

「冷たい」

「……」

「自販機、寄る?」


 話題を変える。変え方が自然すぎて胸が苦しい。


「寄らない」

「じゃあ、これ」


 梶山がポケットから飴を一つ出して、机の端に置いた。
 “渡す”じゃなくて“置く”。借りを作らせない。


「……いらない」

「置いた」

「……」

「食べなくていい。持っとけ」


 六月の雨の日みたいな言い方。
 胸の奥がまた跳ねる。


 俺は飴を握った。熱くも冷たくもないはずなのに、指先だけが妙に熱い。





 校門を出ると、空が薄紫になっていた。夏の夕方は暗くなるのが遅い。


「テスト、おつかれ」

「……おつかれ」

 返せるようになってる。
 返せるようになってることが、少し怖い。


「今日、残ってくれてよかった」
 梶山が言う。
 “よかった”が胸の奥でじわっと広がる。


「……グラフ、進んだ」

「うん。それもある」
 梶山が頷いて、続ける。

「でも、それだけじゃない」


 言外が怖くて、俺は黙って歩いた。黙って歩けるのが今は助かる。


 角を曲がる手前で、梶山が足を止める。


「誕生日、言わなくていい」

 またその言葉。許可。救い。


「でも」
 梶山が続ける。

「言いたくなる日が来たら、聞く」


「……そんな日、来ない」
 言った瞬間、喉の奥が痛くなった。


 梶山は笑わないまま、短く言う。
「来る」

 断定なのに、押しつけじゃない。


 俺はそれ以上言えなくて、飴をポケットの中で握り潰しそうになった。


「じゃ、また明日」
 梶山が背を向ける。


 俺はその背中を見て思う。――見守っていたい、って。たぶん、こういう小さい瞬間が積み重なるからだ。





 家に着いて、鍵を開ける。
 学生証ケースを机の端に置いて、裏返す。見ない。見せない。

 その横に、梶山の飴を置いた。
 包装の小さな音が、夜の部屋にやけに響く。


 スマホが震える。
 “総合⑤班”。


 平野:『打ち上げ最高! 祝嶺も来いよ!』

 岩崎:『放課後、静かに尊かった(ニヤ)』


 うるさい。
 でも、そのうるささが嫌じゃない。


 俺は短く打つ。
『おつ』

 既読がつく。


 平野が秒で返す。
『祝嶺きた!!!!』


 そして少し遅れて、梶山から個別。
『飴、持った?』


 入力欄を見て、指が止まる。
 返したら残る。残ると怖い。――でも今日はもう、残ってしまっている。


 放課後に二人でいたこと。
 誕生日を避けたこと。
 避けたのに、隣がそれを拾って、守ったこと。


 俺は息を薄くして、短く返す。
『うん』

 既読。
 すぐ返ってくる。


『うん、で終わるなよ』


 ……まただ。
 胸が跳ねて、悔しいのに、少しだけ笑った。


 七月の中間テストは、ただ終わっただけ。
 そう思いたいのに、個人カードの空欄が頭から消えない。


 空欄のままじゃいられない日が、いつか来る。
 そのとき、隣にいるって言った声が、まだ耳の奥に残っている。


 秘密の匂いが、少し濃くなった夜だった。