一歳上、同級生。

 雨が降ってるだけで、学校はちょっとだけ同じ方向を向く。
 みんな、早く教室に逃げ込みたくて。
 濡れたくなくて。
 それで、余計なことを言う余裕がなくなる。

 俺にとっては、助かる日だ。
 ……本当は、そういう日に限って助からない。

 昇降口の床が、つるっと光っていた。
 濡れた靴の跡が点々と並んで、誰がどこを通ったか丸わかりで。

 俺は靴底を意識して歩く。滑らないように、じゃない。
 変な足音を立てないように。


「祝嶺、おはよー」
 平野の声は、雨より元気だ。
 傘を閉じながら、こっちに近づいてくる。

「髪、終わった。見て。終わってない?」

「……終わってる」

「優しいじゃん!」

 優しいって言葉は、軽く投げられる。
 軽いのに、拾ったら残る。


「ねぇ、平野。そこ、床、滑る」
 横から岩崎が言った。
 言い方は柔らかいのに、目がちゃんと足元を見てる。

「え、岩崎、保健室の先生みたい」

「先生じゃない。人間観察が趣味なだけ」

「趣味、こわ」

 笑いながら言って、平野が先に廊下へ走り出す。
 岩崎が「転ぶなよ〜」と手を振って、それから俺を見る。


「祝嶺、袖。濡れてる」

「……濡れてない」

「濡れてる。嘘つき」

 俺が言い返す前に、左から声が落ちた。


「濡れてる」

 梶山。
 教室の扉のところで、俺を待ってたみたいに立っている。


「……だから、濡れてない」

 俺はつい意地を張る。


「濡れてる」
 梶山は譲らない。
 譲らないくせに、声は軽い。


「え、何それ。新しい遊び?」
 平野が戻ってきて笑う。

「濡れてる濡れてない論争?」

「論争じゃない」
 梶山が即答して、俺の机の端に何か置いた。


 白い、小さいタオル。
 折り目がきっちりしてて、角が揃ってる。梶山っぽい。


「貸す」

「……いらない」

「貸すだけ」

「……」

「返すの、いつでもいい」


 “いつでもいい”が、ずるい。
 返す予定ができる。
 返すために会う理由ができる。
 そういうのを、俺は増やしたくないはずなのに。


 岩崎が机に肘をついて、にやっとする。

「梶山、優しさがバレてる」

「バレてない」

「バレてる。祝嶺の袖のこと、誰より先に気づいてる」

「偶然」

「偶然で二回言わないでしょ、濡れてるって」


 平野が「やば、甘酸っぱ」と言って、わざと胸を押さえて倒れる真似をした。
 岩崎が「救急車呼ぶ?」と軽口を返す。


 梶山は俺を見ない。
 見ないのに、タオルだけはそこに残す。


 俺はタオルを“見ないふり”のまま、袖の冷たさに負けた。
 こっそり、袖口を押さえる。
 擦らない。押さえるだけ。

 ふっと、冷たさが消えた。


 その瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
 理由は分かる。
 「助かった」じゃない。
 “助けられたのに、責められてない”からだ。


「……ありがと」

 俺は、声が出る前に言ってしまった。
 言ってから、口が勝手に閉じる。


 平野が目を丸くした。

「え、今、祝嶺、ありがとって言った?」

「言ってない」

「言った!」

「言ってない」

「言ったって〜!」


 岩崎がケラケラ笑って、梶山の方を見た。

「梶山、どうする? 今の、記念日?」

「記念日とか言うな」
 梶山が短く言った。
 でも、その声がほんの少しだけ柔らかい。


 俺はその“柔らかさ”が、怖かった。
 否定のはずなのに、肯定に聞こえたから。


 一限。
 井上が黒板に何か書くより早く言った。

「連絡。班課題、途中報告を来週やる。数字と仮説、出せ。A4一枚。以上」

 以上。
 雨の日でも容赦ない。


「来週!? 鬼!」
 どこかで声が上がる。


「鬼じゃない。話が早いだけ」
 岩崎が涼しい顔で言う。

 平野が「それが鬼だろ」と言って笑う。


 梶山がノートに「途中報告/雨の日」とだけ書いた。
 書き方が淡々としてて、余計に本気に見える。


「昼、雨の日データ取る」
 梶山が小声で言った。

「……今日?」

「今日」

「……」

「短くやる。30秒アンケ」


 短い。
 短い言葉で決められると、断る隙がない。


 俺は頷いた。
 頷くしかない。
 ……頷いた自分を、ちょっとだけ嫌いになりかけて、やめた。

 頷けたのは、タオルのせいだ。
 そう思うことにした。


 昼休み。
 購買前は、雨の日だけ“密度”が違う。

 みんな傘を持ってる。
 濡れた傘がぶつかる。
 入口が詰まる。
 靴の水が床に落ちて、床が光る。


「ほら、入口で詰まる」
 梶山が言う。
 声は軽いのに、目が真面目だ。


「雨の日、購買、地獄」
 平野が言う。

「なあ、雨の日限定でパン配ればよくね? 空から」

「空からは無理」
 岩崎が即答。

「でも“傘置き場”は現実的」


 俺はスマホを開いて、天候欄に「雨」と入れた。
 数字が増える。
 増えると落ち着く。
 落ち着くのが怖い。


「すみませーん! 購買アンケ! 雨の日版! 30秒!」
 平野がいつものテンションで突撃する。


「雨の日版って何」
 女子が笑う。


 岩崎が前に出て、笑いながら言った。

「“雨の日だと困ること”だけ聞かせて。名前もクラスも聞かない」

「ならいいよ」


 回答が増える。

 「傘が邪魔」
 「濡れるから早く買いたい」
 「入口が詰まる」
 「床が滑る」


 床が滑る――の直後だった。
 入口の手前で、誰かが傘を落とした。
 床に水が広がる。

 俺は避けようとして、靴が水に乗った。


 転ぶ、って脳が決めるより早く。
 左から手が伸びてきた。

 梶山の指が、俺の手首を掴んだ。

 強くない。
 でも、逃げられない確かさ。


 俺の体が止まる。
 転ばない。


 それだけなのに、心臓が変な跳ね方をする。


「危ね」
 梶山の声が、いつもより少しだけ低い。


 俺は反射で手を引こうとした。
 でも、梶山の方が先に離した。
 離し方まで、丁寧だ。


「平気」
 俺が言う。


「平気じゃない顔」
 岩崎が、すぐ横で囁く。
 目が笑ってない。拾ってる。


「岩崎」
 梶山がさらっと止める。

「黙れ」

「はいはい、保護者〜」
 岩崎が笑う。


 平野が「保護者が二人いるんだけど」と言って、わざと俺を見る。


「俺は保護者じゃない」
 俺が言うと、平野が「出た、祝嶺の否定芸」と笑った。


 否定芸。
 芸じゃない。生き残り方だ。


 でも、その瞬間だけ。
 梶山の手首の熱が残っていて、否定の芯が少しだけ揺れた。


 ――あ。
 俺、今。

 “助かった”って思った。
 助かった、だけじゃない。
 掴まれたことが、嫌じゃなかった。


 嫌じゃないのが怖くて、俺は視線を落とした。


「記録、記録」
 岩崎がわざと明るく言って、俺の画面を見ずに顎で示す。

「今の“滑りやすい”も理由に入れよう」


 俺は小さく頷いて、「床が滑る」を入力した。
 入力すると、現実になる気がして嫌なのに。

 今は、嫌より先に“やらなきゃ”が来た。


 平野がまた声を張る。

「すみませーん! 雨の日アンケ、ラスト一人!」


「お前、声でか」
 男子が笑いながら答える。


 たったそれだけで、購買前が少しだけ明るくなる。
 その明るさが、ハッピーで。
 その中に自分が混じってるのが、怖い。


 俺は、また数字を入れた。


 教室に戻ると、湿気が少しだけ落ち着いていた。
 机の端のタオルが、朝より“普通”に見える。


 俺はタオルで袖口を押さえた。
 もうこそこそしない。
 堂々ともしない。
 ただ、押さえる。


 梶山は何も言わない。
 言わない代わりに、ノートに「傘置き場」「入口導線」「滑り注意」と書いている。


「祝嶺、今、何件?」
 岩崎が聞く。

「……十二」

「いいじゃん。雨の日データ、刺さる」
 岩崎が言う。

「途中報告、これで説明が通る」


 語れる。
 その言葉が少しだけ嬉しくて、少しだけ怖い。


 平野が俺の机に手をついて言った。

「祝嶺、今日さ、手首、梶山に掴まれてたじゃん」

「言うな」
 俺が言う。声がちょっとだけ強くなる。

「え、照れてる?」
 平野がニヤニヤする。

「照れてない」

「じゃあ、耳赤いのは?」

「赤くない」

「はい出た、強がり!」

「うるさい」

 岩崎が笑って、梶山を見る。

「梶山、祝嶺が“うるさい”って言った。成長」

「成長じゃない」
 梶山が言う。
 でも、その口元がほんの少しだけ上がる。


 俺はそれを見て、胸がまた跳ねた。
 理由が、今度は分かってしまった。

 ――梶山が笑うの、俺のせいだ。

 その自覚が、怖い。
 怖いのに、嫌じゃない。


 放課後。
 途中報告の準備で、教室に残る班が多い。

 俺たちも机をくっつけた。
 この形が、もう自然になってるのが怖い。


 岩崎が紙に見出しを書き始める。

「問題:雨の日の混雑/入口詰まり/傘の扱い」


 平野が横から読む。

「施策:傘置き場の提案、入口導線の整理、売れ筋ランキング掲示」


「祝嶺のグラフ、貼れる?」
 平野が言う。

「……貼れる」
 俺が答えると、平野が即座に笑った。

「よし! 祝嶺、仕事できる彼女みたい!」


「彼女じゃない」
 俺が言う前に、梶山が言った。
 止める速度が早い。
 冗談みたいに言うのに、そこだけ早い。


「え、梶山また嫉妬?」
 平野が楽しそうに言う。

「嫉妬じゃない」

「嫉妬だろ」

 梶山は返事をせず、視線だけで平野を止めた。
 平野が「はいはい」と両手を上げる。

 梶山が俺を見る。
 目が真面目だ

「データ、ファイルで送って」
 短い。
 業務連絡みたいで、でも“頼ってる”って意味が混じってる。


「……分かった」
 俺は頷いた。
 頷けたのは、タオルのせいだと思うことにする。


 岩崎がわざとらしくため息をつく。

「は〜、いいね。こういうの、なんか可愛い」

「可愛いとか言うな」
 梶山が言う。

「途中報告だぞ」

「途中報告ってさ、“ちゃんと隣にいる”の証拠じゃん」
 岩崎が言い切る。

「“一緒にやる”って、そういうこと」


 平野が「岩崎、語ると急に怖い」と言って笑う。


 梶山がノートを閉じて言った。

「印刷、俺が出す」

 さらっと。


 俺の喉が少しだけ楽になる。
 その楽を、自分で認めたくなくて、俺は目を逸らした。


「印刷室、行くの?」
 岩崎が聞く。

「行く」
 梶山が言う。

 それから、俺の方は見ないまま付け足した。

「祝嶺は来なくていい」


 来なくていい。
 その言い方は優しい。
 優しいのに、胸がちくっとする。


 ――俺、行かなくていいのに。
 行きたいって思ったの、今。

 思ってしまったことが、怖い。


「じゃあ私は、祝嶺の横で“えらいえらい”係やるね」
 岩崎が笑う。

「いらない」

「いらないって言いながら、ちょっと嬉しい顔した」

「してない」

「してる」

 岩崎が笑う。
 平野も笑う。


 笑いの中にいるのに、俺だけ心臓がうるさい。
 うるさいのが、嫌じゃない。


 帰り道。
 雨はまだ止んでいなかった。


 平野は「俺、傘忘れた!」って騒いで、岩崎に「知らない」と突き放される。
 結局、誰かに借りて走っていった。

 岩崎は「転ぶなよ〜」と手を振って別方向へ。


 残ったのは、俺と梶山。
 雨の音が、傘の上で均一に鳴る。
 均一なのに、俺の心臓だけが勝手にテンポを上げる。


「タオル」
 梶山が言う。
 前を向いたまま。

「……借りた」
 俺が言うと、梶山が小さく「うん」と返した。

 それだけ。
 でも、それだけで会話が成立するのが、怖い。
 成立するってことは、“二人の当たり前”が増えるってことだから。


「返す」
 俺は言った。
 言えたことに、自分で驚く。


「明日でいい」
 梶山が言う。


 明日。
 予定になる。
 関係になる。


 俺は頷いた。
 頷くしかない。
 ……頷きたかった。


「洗わなくていい」
 梶山が続ける。
 声は軽いのに、そこだけ妙に真面目。


「……洗う」
 俺は言った。
 意地じゃない。意地じゃないって言い訳したい。


「好きにしろ」
 梶山が言った。

 それから、少しだけ声の温度を落とす。


「でも、返すの忘れるな」
「覚えてる」
「怪しい」
「じゃあ、忘れない顔して」

 そんな顔って、何だよ。
 俺は言い返せず、傘の端を握り直した。


 梶山がそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
 その笑い方が、ずるい。
 俺の心臓が勝手に跳ねるのを知ってるみたいに笑う。


 ――好きになる瞬間って、こういうのだと思った。
 大事件じゃない。
 言葉じゃない。
 ただ、笑い方が、刺さる。

 刺さったのに、痛いより先に「もう一回見たい」が来る。
 それが、怖い。


 家。
 制服を脱ぐ前に、タオルを机に置いた。


 白い。
 朝より白く見えるのは、俺が気にしてるからだ。


 学生証ケースを出して、裏返す。
 いつもの動作。
 見ない。見せない。
 数字は俺の味方じゃない。


 それから、タオルを見る。

 洗わなくていい。
 そう言われたのに、洗いたかった。


 理由は簡単だ。
 “借りたまま”が嫌だから。
 借りたままは、関係が続くから。


 でも、洗うってことは――
 俺の生活の中に、梶山のものを入れるってことでもある。


 それが嫌で。
 嫌なのに。


 俺は洗面所で、タオルを水に通した。
 絞ると、雨の匂いが少しだけ立つ。

 その匂いで、購買前の手首の熱が戻ってきて、胸がむず痒い。


「……ばか」
 小さく言って、タオルを干した。


 スマホが震えた。
 “総合⑤班”。

 平野:
「雨の日データ神! 途中報告勝った!」

 岩崎:
(スタンプ)
「祝嶺のグラフ、天才〜」


 俺は入力欄を見て、指が止まる。
 送ったら残る。既読がつく。
 俺の痕が増える。


 でも、今日はもう一回、増えてしまっている。
 タオルを借りた。
 手首を掴まれた。
 梶山が笑ったのを、もう一回見たいと思った。


 俺は短く打った。

「データ、送る」

 送信。
 既読がつく。


 平野が秒で返す。

「祝嶺きた!!!!」

 うるさい。


 岩崎が「えらいえらい」スタンプを押す。


 少し遅れて、梶山。

「助かる。印刷は俺が出す」


 たったそれだけなのに、胸が熱くなる。
 熱くなるのが怖くて、スマホを伏せた。


 その直後、個別の通知が震えた。
 梶山から。

「タオル、明日」


 短い。
 予定が確定する、短さ。


 俺は、返事を打ちかけて止まった。
 返したら、また痕が増える。


 でも――増えてもいい痕って、あるのかもしれない。
 そんなことを思ってしまうのが、怖い。


 俺は息を薄くして、短く返した。

「うん」

 送信。
 既読。


 すぐに返ってきた。

「うん、で終わるなよ」


 ……昨日と同じだ。
 同じなのに、今日は笑ってしまった。
 声は出さない。
 出さないけど、口の端が上がるのが自分で分かった。


 ハッピーな世界って、たぶんこういうことだ。
 大げさじゃない。
 でも、ちゃんと温かい。


 俺は学生証ケースを、もう一度裏返したまま机の端に置く。
 秘密はまだ喉の奥にある。

 でも。

 明日、タオルを返す。
 返すために、また隣に座る。

 それが、怖いのに。
 ちょっとだけ、楽しみになってしまっている自分がいた。