一歳上、同級生。

 六月の朝は、湿気が先に教室へ入ってくる。
 扉を開けた瞬間、空気がぬるい。

「うわ、今日の教室、蒸し風呂じゃん」
 平野が入ってきて、わざと大げさに胸を押さえた。

「死ぬ?」
 岩崎が口元だけ笑う。

「じゃあ私、弔辞読むね」

「読むな!」

 平野が即ツッコミを入れて、俺の机の後ろにどさっと座った。

「祝嶺、今日の湿度どう? 生きてる?」

「……普通」

「普通って便利な言葉だな」

 便利だから使ってる。
 余計なものを増やさないために。


 左隣の梶山は、もう座っていた。
 机の上はいつも通り整っていて、教科書の角が揃っている。
 俺が椅子を引いた音に反応して、視線だけ寄こしてくる。

「おはよ」

「……おはよ」

 それだけで会話が成立する。
 成立してしまうのが、六月は怖い。


 岩崎が黒板横の掲示板を指で叩いた。

「はい注目。清掃当番表、六月版。貼り替え済み」

「お、ついに来た?」
 平野が立ち上がって覗き込む。

「俺、当番の日、絶対なんか起きるんだよな。事件の匂い」

「事件って言うな」

 俺が言う前に、梶山が被せた。
 止める速度が早い。

「え、梶山、祝嶺のこと絡むと反射神経バグる」
 岩崎が楽しそうに言う。

「保護者〜」

「保護者じゃねえ」

「でも止めた」

「はいはい」


 平野が掲示板の前で「うお」と声を上げた。

「祝嶺、梶山! 当番一緒じゃん!」

 声がでかい。
 教室の何人かが「え、まじ?」って顔を向ける。


 俺の喉が乾く。
 見られるのが嫌、じゃない。
 “決まってる”のが、嫌だ。
 清掃当番は、断れない。
 理由も作れない。
 隣よりずっと、逃げ場がない。


「……見なくていい」

 俺が小さく言うと、平野が笑った。

「いや見るだろ! だって運命――」

「運命って言うな」

 今度は俺が言った。
 声がちょっと強くなってしまう。

 平野が目を丸くして、すぐニヤニヤした。

「え、祝嶺、ツッコミ増えてる。成長」

「成長じゃない」

 梶山が短く言った。
 俺じゃなく、平野を切る。


 岩崎が「かわいい〜」と歌うように言う。

「ねぇ、清掃当番ってさ、準備室の鍵借りるやつでしょ?」

「鍵?」
 平野が首をかしげる。

「何それ。宝探し?」

「宝じゃない。掃除道具、閉まってるの」
 岩崎が言って、梶山を見る。

「梶山、こういうの詳しそう」

「前やっただけ」
 梶山が淡々と返す。

「印刷室で借りる」


 印刷室。
 その単語が、俺の身体のどこかを叩いた気がした。
 ポケットの中の硬いケースに、指が勝手に触れる。


 岩崎が俺を見て、目だけで笑った。

「祝嶺、顔固い。大丈夫?」

「……普通」

「普通、万能すぎ」


 平野がまた掲示板を見て、面白そうに言った。

「え、当番、今日じゃん。放課後じゃん」

「……今日?」

 俺の声が思ったより出てしまう。

 梶山が軽く頷いた。

「今日」

 短い。決定事項みたいに。


 岩崎がぱちんと手を叩く。

「はい、今日の名場面決定。準備室の鍵をめぐるサスペンス」

「サスペンスにすんな」
 梶山が言う。

「掃除だろ」

「掃除も事件も、積み重ね」

 岩崎が平然と言って、平野が腹を抱えて笑った。


 俺は笑えなかった。
 “積み重ね”って言葉が、距離が縮んでいくから。


 一限が始まる前、井上が教壇に立った。
 相変わらず、声が短い。

「連絡。清掃当番、六月から動き方変える。廊下と階段は二人で動け」

 黒板に当番表を貼りながら続ける。

「準備室の鍵は印刷室で借りる。借りたら当日返却。貸出票に記入。学生証を出す。以上」

 以上、で終わる。

 教室がざわついた。

「学生証いるんだ」
「めんど」
「なくしたら終わるやつだ」


 平野が小声で俺に言う。

「祝嶺、学生証、忘れんなよ」

「……忘れない」

 忘れない。
 忘れないし、見せない。
 その二つは俺の中で、同じくらい大事だ。


 梶山がノートの端に、さらっと書いた。

《清掃/鍵/印刷室/学生証》

 書き方が淡々としてて、余計に本気に見える。


 井上が最後に付け足す。

「今日の当番、最初に借り方だけ見せる。放課後、五分だけ残れ。以上」

 五分。
 短いのに、逃げ場がない。


 後ろから平野が「やば、祝嶺と梶山、指名されてるじゃん」と囁いた。
 岩崎が「先生も話が早い〜」と笑っている。

 俺は笑えない。


 昼休み。
 購買前は今日も混んでいた。
 うちの班――総合⑤班は、先月から「購買の売上改善プラン」を進めている。

 アンケートは増えた。
 数字が増えると、落ち着く。
 落ち着くのが怖いのに、落ち着いてしまう。


「祝嶺、集計、今どのくらい?」
 岩崎が俺のスマホを覗き込まない角度で聞いた。

「……二十六」

「いいね。途中報告、数字があると強い」
 岩崎が頷く。

「“感想”じゃなく“根拠”で押せる」

「押すな」
 平野がツッコむ。

「購買担当の人、かわいそう」

「押さないよ。説得」
 岩崎がさらっと言う。

「ねぇ梶山。今日、雨じゃないのに混んでる理由、何」

「単純に昼が短い」
 梶山が淡々。

「あと、入口が詰まると“並ぶのやめる”が増える」

「ほら、賢い」
 岩崎が言う。

「祝嶺のグラフと梶山の言語化、最強」

「俺は?」
 平野が胸を張る。

「声」
 岩崎が即答。

「声が大きい」

「それ褒めてる?」

「褒めてる」

「やった!」


 平野がすぐ購買前に飛び出して、いつものテンションで声を張った。

「すみませーん! 購買アンケ、30秒! お願いします!」

「またかよ」って笑い声。
 でも止まってくれる人もいる。


 岩崎が言う。

「平野の良さは、軽さ。怖くない」

 怖くない。
 それは、俺が一番欲しい要素だ。


 梶山が俺の方を見ないまま言った。

「祝嶺、途中報告用のグラフ、作れる?」

 短い。
 断る隙がない聞き方じゃないのに、断る理由がない。

「……作れる」

 俺は言ってしまった。


 平野が戻ってきて「うお! 祝嶺、仕事できる!」と大げさに喜ぶ。
 岩崎が「えらい」と笑う。


 梶山が淡々と続ける。

「印刷、必要だな。A4と、掲示用にA3」

「印刷室?」
 岩崎が首を傾げる。

「印刷室」
 梶山が答える。

 その瞬間、俺の指先がポケットの硬いケースをまた押さえる。


 岩崎がすぐ拾って、わざと軽く言った。

「今日、鍵借りるのも印刷室。ちょうど良いじゃん」

「ちょうど良くない」

 俺の口から出てしまった。


 三人が一瞬止まって、平野が先に笑った。

「祝嶺、急に正直!」

「……正直じゃない」

「正直だって〜」


 梶山が俺を見る。
 目線がまっすぐで、逃げ道がない。

「嫌なら、俺が一人で行く」

 軽い声じゃない。
 でも重すぎない。

「……嫌じゃない」

 俺は咄嗟に言い返してしまった。
 言ってから、しまったと思う。
 嫌じゃない、って言葉は残る。
 残ると増える。


 岩崎が口元を押さえて、笑いをこぼした。

「はい、今日も尊い」

「尊いとか言うな」
 梶山が言う。
 止める速度が早い。

「止めるのも尊い」

「やかましい」

 平野が「清掃当番、イベント化しすぎ」と笑う。

 俺は笑えないはずなのに、口の端だけが少しだけ動いて、慌てて戻した。


 放課後。
 チャイムが鳴ると、教室が一気に軽くなる。
 部活へ散る足音。椅子の音。誰かの「またね」。

 俺は帰る準備をしていた。
 帰る。それだけでいい。
 それだけで――


「今日の当番、残れ」
 井上の声が落ちた。
 短い。容赦がない。


 俺と梶山は自然に立ち止まる。
 自然になってしまうのが怖い。

 井上が教壇から言う。

「鍵の借り方、見せる。貸出票に名前書く。学生証出す。返却は大塚に直接。以上」

「大塚って誰」
 平野が小声で俺に聞く。

「印刷室の人。無表情」
 岩崎が言う。

「一回見たら忘れないタイプ」


 井上が最後に、短く釘を刺す。

「鍵、落とすな。なくしたら面倒だぞ。以上。行け」


 “鍵、落とすな。”
 その言葉が、俺には別の意味に聞こえた。
 落としたら終わるものが、俺のポケットにはもう入ってる。


 教室を出る直前、平野が俺に耳打ちする。

「祝嶺、梶山、準備室で二人きりだな」

「言うな」

「言いたい」

「……やめろ」


 梶山が平野を軽く睨んで言った。

「邪魔すんな」

「邪魔する予定ないけど! 圧、強!」
 平野が笑う。


 岩崎が指先をひらひらさせて言った。

「いってらっしゃい。二人とも。清掃の神に祝福されて」

「祝福いらない」

 俺が言うと、岩崎が「出た、祝嶺の否定」と笑った。


 梶山が俺の横に並ぶ。

「行く」

 短い。
 でも、歩幅が俺に合ってる。


 印刷室までの廊下は、放課後になると妙に長い。
 教室が空いて、音が減るからだと思う。
 俺の足音が目立つ。
 だから、自然に小さくなる。


「祝嶺」
 梶山が歩きながら言った。

「……なに」

「緊張してる?」

「してない」

「してる」

「してない」


 短い往復。
 それだけで、息が少しだけ楽になるのが悔しい。


「学生証、俺が先に出す」
 梶山が言った。

「祝嶺は、後でいい」


 後でいい。
 それは、優しい。
 優しいのに、胸がちくっとする。


「……別に」
 盾を出す。


 梶山は笑わない。
 でも、声の温度だけ落ちる。

「別にって言うな」

「……」

「今日は、掃除だろ。逃げる理由、いらない」


 逃げる理由がいらない。
 その言葉の優しさが、逆に怖い。


 印刷室の前に着く。
 扉の横に「備品・印刷」。
 中から紙の匂いがする。

 梶山がノックして、返事を待たずに開けた。

「失礼します」


 中にいたのは、大塚。
 無表情。
 机に向かって紙を揃えている。

「……何」
 声も無表情だ。


 梶山が淡々と言う。

「清掃当番。準備室の鍵、借りたいです」


 大塚は顔を上げもせず引き出しを開け、鍵束を出した。
 金属の音が、やけに大きい。


「貸出票」
 大塚が用紙を指で押す。

「名前」

「はい」

 梶山が自分の名前を書き始める。


「両名」
 大塚が言った。
 短い。容赦がない。


 俺の喉が乾く。
 ポケットの硬いケースが急に熱くなる。


 梶山がペンを止めずに言った。

「俺が代表で借りる。返却も俺がする」

「規則」
 大塚が言う。

「両名、学生証」


 来た。
 逃げ場が消える。


 梶山が先に学生証を出した。
 大塚が受け取り、番号を見て返す。


 それから俺を見る。無表情のまま。

「祝嶺」

 名前だけ呼ばれた。
 音が冷たい。


 俺の指先が勝手にケースを探した。
 探してしまった瞬間、負けた気がする。


 でも――梶山が、俺と大塚の間に半歩だけ出た。
 壁じゃない。
 でも、視線の通り道がずれる。


「祝嶺、今朝、職員室で出してる。戻ってない」
 梶山がさらっと言った。

 嘘の言い方が上手すぎて、息が止まる。


 大塚は一秒だけ止まって、無表情で言った。

「次回。必ず」

「はい」
 梶山が即答する。

「すみません」


 大塚が鍵を渡した。

「返却、今日中」

「はい」


 終わった。
 俺は息を吐くのを忘れていたことに気づいた。


 印刷室を出た瞬間、梶山が小声で言った。

「今の、良かった?」

「……何が」

「俺の言い方」


 俺は言葉が出なくて、頷いた。
 頷くしかなかった。


「次はどうする?」
 梶山が聞く。

「次も、俺が言う」


 次。
 もう次の話をする。
 それが、怖い。
 それが、ちょっとだけ――救われる。


「……別に」

 俺が盾を出すと、梶山が小さく息を吐いた。

「今日だけでいい」

 短く。
 でも、強くない。
 その言い方が、ずるい。


 準備室は廊下の突き当たりにあった。
 普段は閉まっていて、取っ手に小さな札がぶら下がっている。


 梶山が鍵を差し込む。
 カチャ、と音がして扉が開く。


 中は狭い。
 モップ、バケツ、雑巾、洗剤。
 ワックスの匂いが濃い。


「狭」

 俺が思わず言うと、梶山が「だろ」と笑う。
 笑う。
 その笑いが、妙に近い距離で響く。


 梶山が棚から雑巾を二枚取って、俺に渡した。
 触れないように、でも落とさない距離。


「廊下、端から」

「……うん」

「階段は、平野と岩崎がやってる」


 あいつら、わざと別になったな。


 俺が言う前に、梶山が付け足す。

「あとで絶対、茶化してくる」

「……分かる」

「先に言っとく。相手すんな」

「……分かる」


 短い往復なのに、会話が成立する。
 成立するのが、怖い。


 俺が一歩入った瞬間、扉が背中で閉まった。
 反射で肩が強張る。


「閉めた」
 梶山が言う。

「開けとく?」


 開けとく、って言われると、俺が怖がってるみたいになる。
 怖がってるのに、怖がってないふりをしたい。


「……いい」

「オッケ」


 梶山がそれ以上言わずに、バケツに水を入れる。
 水の音が、やけに大きい。


 俺が雑巾を握り直したとき、ポケットの硬いケースが太ももに当たって、コツンと音がした。
 小さいのに、心臓が跳ねる。


 梶山の視線が一瞬だけ落ちた。
 見た。
 見てないふりをした。


「落とすなよ」
 梶山が言った。

 鍵のことみたいに。
 でも俺には別のものに聞こえる。


「落とさない」

 俺が言うと、梶山が「うん」とだけ返した。
 それだけなのに、胸が少しだけ熱い。


 廊下の掃除は静かな作業だ。
 雑巾の音。
 バケツの水の音。
 遠くの部活の声。


 梶山は無駄口を叩かない。
 でも、黙りすぎない。
 ちょうどいいタイミングで短い言葉を落とす。


「そこ、滑る」

「……分かった」

「端、先に拭く」

「……うん」


 俺がしゃがんだとき、バランスが少し崩れて、床に手をつきそうになった。
 転ばない。
 でも、姿勢が崩れるのは目立つ。


 その瞬間、梶山が何も言わずに俺の腕に指を添えた。
 掴まない。
 押さえもしない。
 ただ、支えるだけ。


 俺は姿勢を戻して、すぐ腕を引いた。

「……平気」

「うん」

 梶山はそれ以上言わない。
 言わないのに、距離だけは戻させない感じがする。


 それが、キツい。
 それが、嫌じゃない。
 嫌じゃないのが、いちばん困る。


 廊下の向こうから、騒がしい足音が来た。

「うおー! 階段、地獄!」
 平野が叫びながら現れる。

「岩崎、雑巾、追加でくれ!」

「はいはい、声でか」
 岩崎が笑って、こっちを見る。

「え、二人、静かすぎ。夫婦?」

「夫婦じゃない」

 俺が言う前に、梶山が言った。
 止める速度が早い。


「早っ」
 平野が笑う。

「梶山、祝嶺の否定、代行すんなよ」

「代行じゃない」

「代行だって。祝嶺、今、言うタイミングなくした顔してる」


 ……してない。
 してないけど、言い返すと会話が増える。


 岩崎がわざとらしく胸に手を当てた。

「いいねぇ。祝嶺、最近ちゃんと“いる”」

「いる」

 平野が復唱する。

「祝嶺、存在感出てきた」

「出てない」

 俺が言うと、岩崎がすぐ笑う。

「出てる。だって今、“出てない”って言った」


「……うるさい」

 俺の口から出た。
 さっきより、少しだけ自然に。


 平野が目を丸くして、すぐ大げさに拍手した。

「うわ、祝嶺が言った! 今日、事件だわ」

「事件って言うな」
 梶山が言う。


 俺も言いたかった。
 言えなくて、悔しいのに、少しだけ笑いそうになった。


 岩崎がにやにやして梶山を見る。

「梶山。祝嶺が笑いそう」

「……笑うな」
 梶山が俺にだけ聞こえる音量で言った。

「笑わない」

「笑ってる」

「笑ってない」

「笑ってる」


 短い往復。
 その間に、雑巾が進む。


 平野が「はいはい、ごちそうさま」と言って階段へ戻っていく。
 岩崎も「転ぶなよ〜」と手を振って去る。


 残ったのは、また俺と梶山だけ。


 静かになった途端、心臓の音が目立つ。


「今の、今の返し、良かった」
 梶山が言った。

 褒めるみたいに言うのに、押しつけがましくない。


「……良くない」

「良い」

「……」

「今の返事、逃げてない」


 俺は言い返せなかった。
 言い返したら、認めることになるから。
 でも胸の奥は、変に跳ねた。


 ——好きになる瞬間って、こういうのかもしれない。
 大事件じゃなくて。
 ただ、言われたくなかった言葉を、言われてしまう瞬間。
 それが嫌じゃない瞬間。


 俺はそれをごまかすみたいに、雑巾を絞った。


 掃除が終わって、準備室に道具を戻す。
 また狭い。
 また距離が近い。


 梶山がモップを立てかけたとき、鍵束がタグに引っかかってガチャンと音を立てた。
 音に反射して、俺の指が勝手に動く。
 鍵束を押さえる。


 梶山の手と、俺の手が一瞬だけ重なった。
 触れた。
 一瞬。
 でも確かに。


 俺は反射で手を引っ込めた。
 引っ込めた瞬間、心臓が騒がしくなる。


「……悪い」

 俺は、言いたくもないのに言ってしまった。


 梶山が俺を見る。
 眩しい笑いじゃない。
 逃げ道がない目線。

「謝ることじゃない」

 短い。
 でも、温度がある。


 その温度が、俺の指先に残ってしまった。


 印刷室へ戻る。
 大塚は相変わらず無表情で机に向かっていた。


 梶山が鍵を差し出す。

「返却です」

 大塚が受け取って、番号札を見て引き出しに戻す。
 それだけで終わるはずだった。


「貸出票」
 大塚が言う。

「返却、署名」


 梶山がペンを取り、さらっと書く。


 大塚が紙を見て、短く言った。

「次回。両名、学生証」

「はい」
 梶山が即答する。


 俺の喉が乾いた。
 次回、って言葉が怖い。


 帰り際、ポケットの硬いケースが少しだけずれて、縁が見えた。
 気づいた瞬間、俺の指が反射で押し込む。
 押し込む動きが、焦っていて。
 焦っているのが、自分で分かってしまって、余計に嫌になる。


 大塚の視線が一瞬だけ俺の手元に落ちた。
 無表情のまま。
 でも、見た。


 俺の背中が冷たくなる。
 ——見られた?


 次の瞬間、梶山が俺の前に半歩出て、扉を先に開けた。
 「どうぞ」なんて言わない。
 言わないまま、通り道を作る。


 俺はその隙に、ポケットの中のケースをもう一度押さえた。
 裏返しにした学生証の数字を、見せないまま。


 廊下に出た瞬間、息が戻る。


「……さっき」
 俺が言いかけると、梶山が先に言った。

「大塚、見てない」

「……」

「見てたら言う。あの人、言う時は言う」


 根拠がある言い方だった。
 根拠があるから、少しだけ信じてしまう。
 信じてしまうのが、怖い。


「祝嶺」
 梶山が言う。
 声は軽く戻っている。

「今日、逃げなかった」

「……当番だから」

「当番でも逃げるやついる」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。
 落ちたのに、痛くない。
 痛くないのが、困る。


「明日」
 梶山が続ける。

「班のグラフ、見せて」

「……分かった」

 俺は頷いた。


 頷いたら、予定が増える。
 増えると怖い。
 でも――その怖さの中に、妙に温かいものが混じっている。
 それが六月だ。


 家に着いて、玄関の鍵を開ける。
 制服を脱ぐ前に、スマホが震えた。


 “総合⑤班”。


 平野:
「清掃当番おつ! 祝嶺、梶山、二人きりどうだった?(ニヤニヤ)」

 岩崎:
(スタンプ)
「尊い〜」


 画面が賑やかだ。
 でも、その賑やかさが嫌じゃない。


 俺は入力欄を見て指が止まった。
 送ったら残る。
 残ると怖い。
 でも今日は、もう残ってしまっている。


 鍵の音。
 指先の熱。
 「逃げなかった」の一言。


 俺は短く打った。

「おつ」

 送信。
 既読がつく。


 平野が秒で返す。

「祝嶺きた!!!!」

 岩崎が「えらいえらい」スタンプを押す。


 そして、少し遅れて――梶山から個別。

「おつかれ。今日は助かった」

 たった一行。
 でも、胸が熱くなる。


 俺はスマホを伏せて、ポケットから学生証ケースを出した。
 指先が一度だけ止まる。
 そこに書いてある数字は、俺の味方じゃない。


 俺は裏返した。
 見ない。見せない。


 なのに。
 印刷室で、無表情の視線が一瞬だけ落ちた気がして、喉が乾く。
 次回、必ず――って言葉が耳に残る。


 でも、同じくらい。
 準備室で一瞬触れた手の熱も、残っている。


 俺は裏返した学生証を机の端に置き、スマホをもう一度だけ開いた。


 梶山のメッセージの下に、もう一通。

「明日、無理すんなよ」

 短い。
 余計な理由を聞かない。
 そのくせ、ちゃんと見てる。


 俺は返事を打ちかけて止めた。
 返したら、また残る。
 残ると怖い。


 でも――今日は、もう少しだけ残ってもいい気がした。


 俺は息を薄くして、短く返した。

「うん」

 送信。
 既読。


 すぐに返ってきた。

「うん、だけ?」


 ……また、それだ。
 また、胸が跳ねる。


 六月の清掃当番は、ただ掃除しただけだ。
 ただ鍵を借りただけだ。
 ……そう思いたい。


 でも、印刷室の「次回」が、もう怖い。
 怖いのに、明日も隣に座るのが当たり前になっている。
 鍵みたいに。
 返し忘れたら終わるものを、ポケットに隠したまま。


 明日も、隣だ。