六月の朝は、湿気が先に教室へ入ってくる。
扉を開けた瞬間、空気がぬるい。
「うわ、今日の教室、蒸し風呂じゃん」
平野が入ってきて、わざと大げさに胸を押さえた。
「死ぬ?」
岩崎が口元だけ笑う。
「じゃあ私、弔辞読むね」
「読むな!」
平野が即ツッコミを入れて、俺の机の後ろにどさっと座った。
「祝嶺、今日の湿度どう? 生きてる?」
「……普通」
「普通って便利な言葉だな」
便利だから使ってる。
余計なものを増やさないために。
左隣の梶山は、もう座っていた。
机の上はいつも通り整っていて、教科書の角が揃っている。
俺が椅子を引いた音に反応して、視線だけ寄こしてくる。
「おはよ」
「……おはよ」
それだけで会話が成立する。
成立してしまうのが、六月は怖い。
岩崎が黒板横の掲示板を指で叩いた。
「はい注目。清掃当番表、六月版。貼り替え済み」
「お、ついに来た?」
平野が立ち上がって覗き込む。
「俺、当番の日、絶対なんか起きるんだよな。事件の匂い」
「事件って言うな」
俺が言う前に、梶山が被せた。
止める速度が早い。
「え、梶山、祝嶺のこと絡むと反射神経バグる」
岩崎が楽しそうに言う。
「保護者〜」
「保護者じゃねえ」
「でも止めた」
「はいはい」
平野が掲示板の前で「うお」と声を上げた。
「祝嶺、梶山! 当番一緒じゃん!」
声がでかい。
教室の何人かが「え、まじ?」って顔を向ける。
俺の喉が乾く。
見られるのが嫌、じゃない。
“決まってる”のが、嫌だ。
清掃当番は、断れない。
理由も作れない。
隣よりずっと、逃げ場がない。
「……見なくていい」
俺が小さく言うと、平野が笑った。
「いや見るだろ! だって運命――」
「運命って言うな」
今度は俺が言った。
声がちょっと強くなってしまう。
平野が目を丸くして、すぐニヤニヤした。
「え、祝嶺、ツッコミ増えてる。成長」
「成長じゃない」
梶山が短く言った。
俺じゃなく、平野を切る。
岩崎が「かわいい〜」と歌うように言う。
「ねぇ、清掃当番ってさ、準備室の鍵借りるやつでしょ?」
「鍵?」
平野が首をかしげる。
「何それ。宝探し?」
「宝じゃない。掃除道具、閉まってるの」
岩崎が言って、梶山を見る。
「梶山、こういうの詳しそう」
「前やっただけ」
梶山が淡々と返す。
「印刷室で借りる」
印刷室。
その単語が、俺の身体のどこかを叩いた気がした。
ポケットの中の硬いケースに、指が勝手に触れる。
岩崎が俺を見て、目だけで笑った。
「祝嶺、顔固い。大丈夫?」
「……普通」
「普通、万能すぎ」
平野がまた掲示板を見て、面白そうに言った。
「え、当番、今日じゃん。放課後じゃん」
「……今日?」
俺の声が思ったより出てしまう。
梶山が軽く頷いた。
「今日」
短い。決定事項みたいに。
岩崎がぱちんと手を叩く。
「はい、今日の名場面決定。準備室の鍵をめぐるサスペンス」
「サスペンスにすんな」
梶山が言う。
「掃除だろ」
「掃除も事件も、積み重ね」
岩崎が平然と言って、平野が腹を抱えて笑った。
俺は笑えなかった。
“積み重ね”って言葉が、距離が縮んでいくから。
一限が始まる前、井上が教壇に立った。
相変わらず、声が短い。
「連絡。清掃当番、六月から動き方変える。廊下と階段は二人で動け」
黒板に当番表を貼りながら続ける。
「準備室の鍵は印刷室で借りる。借りたら当日返却。貸出票に記入。学生証を出す。以上」
以上、で終わる。
教室がざわついた。
「学生証いるんだ」
「めんど」
「なくしたら終わるやつだ」
平野が小声で俺に言う。
「祝嶺、学生証、忘れんなよ」
「……忘れない」
忘れない。
忘れないし、見せない。
その二つは俺の中で、同じくらい大事だ。
梶山がノートの端に、さらっと書いた。
《清掃/鍵/印刷室/学生証》
書き方が淡々としてて、余計に本気に見える。
井上が最後に付け足す。
「今日の当番、最初に借り方だけ見せる。放課後、五分だけ残れ。以上」
五分。
短いのに、逃げ場がない。
後ろから平野が「やば、祝嶺と梶山、指名されてるじゃん」と囁いた。
岩崎が「先生も話が早い〜」と笑っている。
俺は笑えない。
昼休み。
購買前は今日も混んでいた。
うちの班――総合⑤班は、先月から「購買の売上改善プラン」を進めている。
アンケートは増えた。
数字が増えると、落ち着く。
落ち着くのが怖いのに、落ち着いてしまう。
「祝嶺、集計、今どのくらい?」
岩崎が俺のスマホを覗き込まない角度で聞いた。
「……二十六」
「いいね。途中報告、数字があると強い」
岩崎が頷く。
「“感想”じゃなく“根拠”で押せる」
「押すな」
平野がツッコむ。
「購買担当の人、かわいそう」
「押さないよ。説得」
岩崎がさらっと言う。
「ねぇ梶山。今日、雨じゃないのに混んでる理由、何」
「単純に昼が短い」
梶山が淡々。
「あと、入口が詰まると“並ぶのやめる”が増える」
「ほら、賢い」
岩崎が言う。
「祝嶺のグラフと梶山の言語化、最強」
「俺は?」
平野が胸を張る。
「声」
岩崎が即答。
「声が大きい」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「やった!」
平野がすぐ購買前に飛び出して、いつものテンションで声を張った。
「すみませーん! 購買アンケ、30秒! お願いします!」
「またかよ」って笑い声。
でも止まってくれる人もいる。
岩崎が言う。
「平野の良さは、軽さ。怖くない」
怖くない。
それは、俺が一番欲しい要素だ。
梶山が俺の方を見ないまま言った。
「祝嶺、途中報告用のグラフ、作れる?」
短い。
断る隙がない聞き方じゃないのに、断る理由がない。
「……作れる」
俺は言ってしまった。
平野が戻ってきて「うお! 祝嶺、仕事できる!」と大げさに喜ぶ。
岩崎が「えらい」と笑う。
梶山が淡々と続ける。
「印刷、必要だな。A4と、掲示用にA3」
「印刷室?」
岩崎が首を傾げる。
「印刷室」
梶山が答える。
その瞬間、俺の指先がポケットの硬いケースをまた押さえる。
岩崎がすぐ拾って、わざと軽く言った。
「今日、鍵借りるのも印刷室。ちょうど良いじゃん」
「ちょうど良くない」
俺の口から出てしまった。
三人が一瞬止まって、平野が先に笑った。
「祝嶺、急に正直!」
「……正直じゃない」
「正直だって〜」
梶山が俺を見る。
目線がまっすぐで、逃げ道がない。
「嫌なら、俺が一人で行く」
軽い声じゃない。
でも重すぎない。
「……嫌じゃない」
俺は咄嗟に言い返してしまった。
言ってから、しまったと思う。
嫌じゃない、って言葉は残る。
残ると増える。
岩崎が口元を押さえて、笑いをこぼした。
「はい、今日も尊い」
「尊いとか言うな」
梶山が言う。
止める速度が早い。
「止めるのも尊い」
「やかましい」
平野が「清掃当番、イベント化しすぎ」と笑う。
俺は笑えないはずなのに、口の端だけが少しだけ動いて、慌てて戻した。
放課後。
チャイムが鳴ると、教室が一気に軽くなる。
部活へ散る足音。椅子の音。誰かの「またね」。
俺は帰る準備をしていた。
帰る。それだけでいい。
それだけで――
「今日の当番、残れ」
井上の声が落ちた。
短い。容赦がない。
俺と梶山は自然に立ち止まる。
自然になってしまうのが怖い。
井上が教壇から言う。
「鍵の借り方、見せる。貸出票に名前書く。学生証出す。返却は大塚に直接。以上」
「大塚って誰」
平野が小声で俺に聞く。
「印刷室の人。無表情」
岩崎が言う。
「一回見たら忘れないタイプ」
井上が最後に、短く釘を刺す。
「鍵、落とすな。なくしたら面倒だぞ。以上。行け」
“鍵、落とすな。”
その言葉が、俺には別の意味に聞こえた。
落としたら終わるものが、俺のポケットにはもう入ってる。
教室を出る直前、平野が俺に耳打ちする。
「祝嶺、梶山、準備室で二人きりだな」
「言うな」
「言いたい」
「……やめろ」
梶山が平野を軽く睨んで言った。
「邪魔すんな」
「邪魔する予定ないけど! 圧、強!」
平野が笑う。
岩崎が指先をひらひらさせて言った。
「いってらっしゃい。二人とも。清掃の神に祝福されて」
「祝福いらない」
俺が言うと、岩崎が「出た、祝嶺の否定」と笑った。
梶山が俺の横に並ぶ。
「行く」
短い。
でも、歩幅が俺に合ってる。
印刷室までの廊下は、放課後になると妙に長い。
教室が空いて、音が減るからだと思う。
俺の足音が目立つ。
だから、自然に小さくなる。
「祝嶺」
梶山が歩きながら言った。
「……なに」
「緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してない」
短い往復。
それだけで、息が少しだけ楽になるのが悔しい。
「学生証、俺が先に出す」
梶山が言った。
「祝嶺は、後でいい」
後でいい。
それは、優しい。
優しいのに、胸がちくっとする。
「……別に」
盾を出す。
梶山は笑わない。
でも、声の温度だけ落ちる。
「別にって言うな」
「……」
「今日は、掃除だろ。逃げる理由、いらない」
逃げる理由がいらない。
その言葉の優しさが、逆に怖い。
印刷室の前に着く。
扉の横に「備品・印刷」。
中から紙の匂いがする。
梶山がノックして、返事を待たずに開けた。
「失礼します」
中にいたのは、大塚。
無表情。
机に向かって紙を揃えている。
「……何」
声も無表情だ。
梶山が淡々と言う。
「清掃当番。準備室の鍵、借りたいです」
大塚は顔を上げもせず引き出しを開け、鍵束を出した。
金属の音が、やけに大きい。
「貸出票」
大塚が用紙を指で押す。
「名前」
「はい」
梶山が自分の名前を書き始める。
「両名」
大塚が言った。
短い。容赦がない。
俺の喉が乾く。
ポケットの硬いケースが急に熱くなる。
梶山がペンを止めずに言った。
「俺が代表で借りる。返却も俺がする」
「規則」
大塚が言う。
「両名、学生証」
来た。
逃げ場が消える。
梶山が先に学生証を出した。
大塚が受け取り、番号を見て返す。
それから俺を見る。無表情のまま。
「祝嶺」
名前だけ呼ばれた。
音が冷たい。
俺の指先が勝手にケースを探した。
探してしまった瞬間、負けた気がする。
でも――梶山が、俺と大塚の間に半歩だけ出た。
壁じゃない。
でも、視線の通り道がずれる。
「祝嶺、今朝、職員室で出してる。戻ってない」
梶山がさらっと言った。
嘘の言い方が上手すぎて、息が止まる。
大塚は一秒だけ止まって、無表情で言った。
「次回。必ず」
「はい」
梶山が即答する。
「すみません」
大塚が鍵を渡した。
「返却、今日中」
「はい」
終わった。
俺は息を吐くのを忘れていたことに気づいた。
印刷室を出た瞬間、梶山が小声で言った。
「今の、良かった?」
「……何が」
「俺の言い方」
俺は言葉が出なくて、頷いた。
頷くしかなかった。
「次はどうする?」
梶山が聞く。
「次も、俺が言う」
次。
もう次の話をする。
それが、怖い。
それが、ちょっとだけ――救われる。
「……別に」
俺が盾を出すと、梶山が小さく息を吐いた。
「今日だけでいい」
短く。
でも、強くない。
その言い方が、ずるい。
準備室は廊下の突き当たりにあった。
普段は閉まっていて、取っ手に小さな札がぶら下がっている。
梶山が鍵を差し込む。
カチャ、と音がして扉が開く。
中は狭い。
モップ、バケツ、雑巾、洗剤。
ワックスの匂いが濃い。
「狭」
俺が思わず言うと、梶山が「だろ」と笑う。
笑う。
その笑いが、妙に近い距離で響く。
梶山が棚から雑巾を二枚取って、俺に渡した。
触れないように、でも落とさない距離。
「廊下、端から」
「……うん」
「階段は、平野と岩崎がやってる」
あいつら、わざと別になったな。
俺が言う前に、梶山が付け足す。
「あとで絶対、茶化してくる」
「……分かる」
「先に言っとく。相手すんな」
「……分かる」
短い往復なのに、会話が成立する。
成立するのが、怖い。
俺が一歩入った瞬間、扉が背中で閉まった。
反射で肩が強張る。
「閉めた」
梶山が言う。
「開けとく?」
開けとく、って言われると、俺が怖がってるみたいになる。
怖がってるのに、怖がってないふりをしたい。
「……いい」
「オッケ」
梶山がそれ以上言わずに、バケツに水を入れる。
水の音が、やけに大きい。
俺が雑巾を握り直したとき、ポケットの硬いケースが太ももに当たって、コツンと音がした。
小さいのに、心臓が跳ねる。
梶山の視線が一瞬だけ落ちた。
見た。
見てないふりをした。
「落とすなよ」
梶山が言った。
鍵のことみたいに。
でも俺には別のものに聞こえる。
「落とさない」
俺が言うと、梶山が「うん」とだけ返した。
それだけなのに、胸が少しだけ熱い。
廊下の掃除は静かな作業だ。
雑巾の音。
バケツの水の音。
遠くの部活の声。
梶山は無駄口を叩かない。
でも、黙りすぎない。
ちょうどいいタイミングで短い言葉を落とす。
「そこ、滑る」
「……分かった」
「端、先に拭く」
「……うん」
俺がしゃがんだとき、バランスが少し崩れて、床に手をつきそうになった。
転ばない。
でも、姿勢が崩れるのは目立つ。
その瞬間、梶山が何も言わずに俺の腕に指を添えた。
掴まない。
押さえもしない。
ただ、支えるだけ。
俺は姿勢を戻して、すぐ腕を引いた。
「……平気」
「うん」
梶山はそれ以上言わない。
言わないのに、距離だけは戻させない感じがする。
それが、キツい。
それが、嫌じゃない。
嫌じゃないのが、いちばん困る。
廊下の向こうから、騒がしい足音が来た。
「うおー! 階段、地獄!」
平野が叫びながら現れる。
「岩崎、雑巾、追加でくれ!」
「はいはい、声でか」
岩崎が笑って、こっちを見る。
「え、二人、静かすぎ。夫婦?」
「夫婦じゃない」
俺が言う前に、梶山が言った。
止める速度が早い。
「早っ」
平野が笑う。
「梶山、祝嶺の否定、代行すんなよ」
「代行じゃない」
「代行だって。祝嶺、今、言うタイミングなくした顔してる」
……してない。
してないけど、言い返すと会話が増える。
岩崎がわざとらしく胸に手を当てた。
「いいねぇ。祝嶺、最近ちゃんと“いる”」
「いる」
平野が復唱する。
「祝嶺、存在感出てきた」
「出てない」
俺が言うと、岩崎がすぐ笑う。
「出てる。だって今、“出てない”って言った」
「……うるさい」
俺の口から出た。
さっきより、少しだけ自然に。
平野が目を丸くして、すぐ大げさに拍手した。
「うわ、祝嶺が言った! 今日、事件だわ」
「事件って言うな」
梶山が言う。
俺も言いたかった。
言えなくて、悔しいのに、少しだけ笑いそうになった。
岩崎がにやにやして梶山を見る。
「梶山。祝嶺が笑いそう」
「……笑うな」
梶山が俺にだけ聞こえる音量で言った。
「笑わない」
「笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってる」
短い往復。
その間に、雑巾が進む。
平野が「はいはい、ごちそうさま」と言って階段へ戻っていく。
岩崎も「転ぶなよ〜」と手を振って去る。
残ったのは、また俺と梶山だけ。
静かになった途端、心臓の音が目立つ。
「今の、今の返し、良かった」
梶山が言った。
褒めるみたいに言うのに、押しつけがましくない。
「……良くない」
「良い」
「……」
「今の返事、逃げてない」
俺は言い返せなかった。
言い返したら、認めることになるから。
でも胸の奥は、変に跳ねた。
——好きになる瞬間って、こういうのかもしれない。
大事件じゃなくて。
ただ、言われたくなかった言葉を、言われてしまう瞬間。
それが嫌じゃない瞬間。
俺はそれをごまかすみたいに、雑巾を絞った。
掃除が終わって、準備室に道具を戻す。
また狭い。
また距離が近い。
梶山がモップを立てかけたとき、鍵束がタグに引っかかってガチャンと音を立てた。
音に反射して、俺の指が勝手に動く。
鍵束を押さえる。
梶山の手と、俺の手が一瞬だけ重なった。
触れた。
一瞬。
でも確かに。
俺は反射で手を引っ込めた。
引っ込めた瞬間、心臓が騒がしくなる。
「……悪い」
俺は、言いたくもないのに言ってしまった。
梶山が俺を見る。
眩しい笑いじゃない。
逃げ道がない目線。
「謝ることじゃない」
短い。
でも、温度がある。
その温度が、俺の指先に残ってしまった。
印刷室へ戻る。
大塚は相変わらず無表情で机に向かっていた。
梶山が鍵を差し出す。
「返却です」
大塚が受け取って、番号札を見て引き出しに戻す。
それだけで終わるはずだった。
「貸出票」
大塚が言う。
「返却、署名」
梶山がペンを取り、さらっと書く。
大塚が紙を見て、短く言った。
「次回。両名、学生証」
「はい」
梶山が即答する。
俺の喉が乾いた。
次回、って言葉が怖い。
帰り際、ポケットの硬いケースが少しだけずれて、縁が見えた。
気づいた瞬間、俺の指が反射で押し込む。
押し込む動きが、焦っていて。
焦っているのが、自分で分かってしまって、余計に嫌になる。
大塚の視線が一瞬だけ俺の手元に落ちた。
無表情のまま。
でも、見た。
俺の背中が冷たくなる。
——見られた?
次の瞬間、梶山が俺の前に半歩出て、扉を先に開けた。
「どうぞ」なんて言わない。
言わないまま、通り道を作る。
俺はその隙に、ポケットの中のケースをもう一度押さえた。
裏返しにした学生証の数字を、見せないまま。
廊下に出た瞬間、息が戻る。
「……さっき」
俺が言いかけると、梶山が先に言った。
「大塚、見てない」
「……」
「見てたら言う。あの人、言う時は言う」
根拠がある言い方だった。
根拠があるから、少しだけ信じてしまう。
信じてしまうのが、怖い。
「祝嶺」
梶山が言う。
声は軽く戻っている。
「今日、逃げなかった」
「……当番だから」
「当番でも逃げるやついる」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
落ちたのに、痛くない。
痛くないのが、困る。
「明日」
梶山が続ける。
「班のグラフ、見せて」
「……分かった」
俺は頷いた。
頷いたら、予定が増える。
増えると怖い。
でも――その怖さの中に、妙に温かいものが混じっている。
それが六月だ。
家に着いて、玄関の鍵を開ける。
制服を脱ぐ前に、スマホが震えた。
“総合⑤班”。
平野:
「清掃当番おつ! 祝嶺、梶山、二人きりどうだった?(ニヤニヤ)」
岩崎:
(スタンプ)
「尊い〜」
画面が賑やかだ。
でも、その賑やかさが嫌じゃない。
俺は入力欄を見て指が止まった。
送ったら残る。
残ると怖い。
でも今日は、もう残ってしまっている。
鍵の音。
指先の熱。
「逃げなかった」の一言。
俺は短く打った。
「おつ」
送信。
既読がつく。
平野が秒で返す。
「祝嶺きた!!!!」
岩崎が「えらいえらい」スタンプを押す。
そして、少し遅れて――梶山から個別。
「おつかれ。今日は助かった」
たった一行。
でも、胸が熱くなる。
俺はスマホを伏せて、ポケットから学生証ケースを出した。
指先が一度だけ止まる。
そこに書いてある数字は、俺の味方じゃない。
俺は裏返した。
見ない。見せない。
なのに。
印刷室で、無表情の視線が一瞬だけ落ちた気がして、喉が乾く。
次回、必ず――って言葉が耳に残る。
でも、同じくらい。
準備室で一瞬触れた手の熱も、残っている。
俺は裏返した学生証を机の端に置き、スマホをもう一度だけ開いた。
梶山のメッセージの下に、もう一通。
「明日、無理すんなよ」
短い。
余計な理由を聞かない。
そのくせ、ちゃんと見てる。
俺は返事を打ちかけて止めた。
返したら、また残る。
残ると怖い。
でも――今日は、もう少しだけ残ってもいい気がした。
俺は息を薄くして、短く返した。
「うん」
送信。
既読。
すぐに返ってきた。
「うん、だけ?」
……また、それだ。
また、胸が跳ねる。
六月の清掃当番は、ただ掃除しただけだ。
ただ鍵を借りただけだ。
……そう思いたい。
でも、印刷室の「次回」が、もう怖い。
怖いのに、明日も隣に座るのが当たり前になっている。
鍵みたいに。
返し忘れたら終わるものを、ポケットに隠したまま。
明日も、隣だ。
扉を開けた瞬間、空気がぬるい。
「うわ、今日の教室、蒸し風呂じゃん」
平野が入ってきて、わざと大げさに胸を押さえた。
「死ぬ?」
岩崎が口元だけ笑う。
「じゃあ私、弔辞読むね」
「読むな!」
平野が即ツッコミを入れて、俺の机の後ろにどさっと座った。
「祝嶺、今日の湿度どう? 生きてる?」
「……普通」
「普通って便利な言葉だな」
便利だから使ってる。
余計なものを増やさないために。
左隣の梶山は、もう座っていた。
机の上はいつも通り整っていて、教科書の角が揃っている。
俺が椅子を引いた音に反応して、視線だけ寄こしてくる。
「おはよ」
「……おはよ」
それだけで会話が成立する。
成立してしまうのが、六月は怖い。
岩崎が黒板横の掲示板を指で叩いた。
「はい注目。清掃当番表、六月版。貼り替え済み」
「お、ついに来た?」
平野が立ち上がって覗き込む。
「俺、当番の日、絶対なんか起きるんだよな。事件の匂い」
「事件って言うな」
俺が言う前に、梶山が被せた。
止める速度が早い。
「え、梶山、祝嶺のこと絡むと反射神経バグる」
岩崎が楽しそうに言う。
「保護者〜」
「保護者じゃねえ」
「でも止めた」
「はいはい」
平野が掲示板の前で「うお」と声を上げた。
「祝嶺、梶山! 当番一緒じゃん!」
声がでかい。
教室の何人かが「え、まじ?」って顔を向ける。
俺の喉が乾く。
見られるのが嫌、じゃない。
“決まってる”のが、嫌だ。
清掃当番は、断れない。
理由も作れない。
隣よりずっと、逃げ場がない。
「……見なくていい」
俺が小さく言うと、平野が笑った。
「いや見るだろ! だって運命――」
「運命って言うな」
今度は俺が言った。
声がちょっと強くなってしまう。
平野が目を丸くして、すぐニヤニヤした。
「え、祝嶺、ツッコミ増えてる。成長」
「成長じゃない」
梶山が短く言った。
俺じゃなく、平野を切る。
岩崎が「かわいい〜」と歌うように言う。
「ねぇ、清掃当番ってさ、準備室の鍵借りるやつでしょ?」
「鍵?」
平野が首をかしげる。
「何それ。宝探し?」
「宝じゃない。掃除道具、閉まってるの」
岩崎が言って、梶山を見る。
「梶山、こういうの詳しそう」
「前やっただけ」
梶山が淡々と返す。
「印刷室で借りる」
印刷室。
その単語が、俺の身体のどこかを叩いた気がした。
ポケットの中の硬いケースに、指が勝手に触れる。
岩崎が俺を見て、目だけで笑った。
「祝嶺、顔固い。大丈夫?」
「……普通」
「普通、万能すぎ」
平野がまた掲示板を見て、面白そうに言った。
「え、当番、今日じゃん。放課後じゃん」
「……今日?」
俺の声が思ったより出てしまう。
梶山が軽く頷いた。
「今日」
短い。決定事項みたいに。
岩崎がぱちんと手を叩く。
「はい、今日の名場面決定。準備室の鍵をめぐるサスペンス」
「サスペンスにすんな」
梶山が言う。
「掃除だろ」
「掃除も事件も、積み重ね」
岩崎が平然と言って、平野が腹を抱えて笑った。
俺は笑えなかった。
“積み重ね”って言葉が、距離が縮んでいくから。
一限が始まる前、井上が教壇に立った。
相変わらず、声が短い。
「連絡。清掃当番、六月から動き方変える。廊下と階段は二人で動け」
黒板に当番表を貼りながら続ける。
「準備室の鍵は印刷室で借りる。借りたら当日返却。貸出票に記入。学生証を出す。以上」
以上、で終わる。
教室がざわついた。
「学生証いるんだ」
「めんど」
「なくしたら終わるやつだ」
平野が小声で俺に言う。
「祝嶺、学生証、忘れんなよ」
「……忘れない」
忘れない。
忘れないし、見せない。
その二つは俺の中で、同じくらい大事だ。
梶山がノートの端に、さらっと書いた。
《清掃/鍵/印刷室/学生証》
書き方が淡々としてて、余計に本気に見える。
井上が最後に付け足す。
「今日の当番、最初に借り方だけ見せる。放課後、五分だけ残れ。以上」
五分。
短いのに、逃げ場がない。
後ろから平野が「やば、祝嶺と梶山、指名されてるじゃん」と囁いた。
岩崎が「先生も話が早い〜」と笑っている。
俺は笑えない。
昼休み。
購買前は今日も混んでいた。
うちの班――総合⑤班は、先月から「購買の売上改善プラン」を進めている。
アンケートは増えた。
数字が増えると、落ち着く。
落ち着くのが怖いのに、落ち着いてしまう。
「祝嶺、集計、今どのくらい?」
岩崎が俺のスマホを覗き込まない角度で聞いた。
「……二十六」
「いいね。途中報告、数字があると強い」
岩崎が頷く。
「“感想”じゃなく“根拠”で押せる」
「押すな」
平野がツッコむ。
「購買担当の人、かわいそう」
「押さないよ。説得」
岩崎がさらっと言う。
「ねぇ梶山。今日、雨じゃないのに混んでる理由、何」
「単純に昼が短い」
梶山が淡々。
「あと、入口が詰まると“並ぶのやめる”が増える」
「ほら、賢い」
岩崎が言う。
「祝嶺のグラフと梶山の言語化、最強」
「俺は?」
平野が胸を張る。
「声」
岩崎が即答。
「声が大きい」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「やった!」
平野がすぐ購買前に飛び出して、いつものテンションで声を張った。
「すみませーん! 購買アンケ、30秒! お願いします!」
「またかよ」って笑い声。
でも止まってくれる人もいる。
岩崎が言う。
「平野の良さは、軽さ。怖くない」
怖くない。
それは、俺が一番欲しい要素だ。
梶山が俺の方を見ないまま言った。
「祝嶺、途中報告用のグラフ、作れる?」
短い。
断る隙がない聞き方じゃないのに、断る理由がない。
「……作れる」
俺は言ってしまった。
平野が戻ってきて「うお! 祝嶺、仕事できる!」と大げさに喜ぶ。
岩崎が「えらい」と笑う。
梶山が淡々と続ける。
「印刷、必要だな。A4と、掲示用にA3」
「印刷室?」
岩崎が首を傾げる。
「印刷室」
梶山が答える。
その瞬間、俺の指先がポケットの硬いケースをまた押さえる。
岩崎がすぐ拾って、わざと軽く言った。
「今日、鍵借りるのも印刷室。ちょうど良いじゃん」
「ちょうど良くない」
俺の口から出てしまった。
三人が一瞬止まって、平野が先に笑った。
「祝嶺、急に正直!」
「……正直じゃない」
「正直だって〜」
梶山が俺を見る。
目線がまっすぐで、逃げ道がない。
「嫌なら、俺が一人で行く」
軽い声じゃない。
でも重すぎない。
「……嫌じゃない」
俺は咄嗟に言い返してしまった。
言ってから、しまったと思う。
嫌じゃない、って言葉は残る。
残ると増える。
岩崎が口元を押さえて、笑いをこぼした。
「はい、今日も尊い」
「尊いとか言うな」
梶山が言う。
止める速度が早い。
「止めるのも尊い」
「やかましい」
平野が「清掃当番、イベント化しすぎ」と笑う。
俺は笑えないはずなのに、口の端だけが少しだけ動いて、慌てて戻した。
放課後。
チャイムが鳴ると、教室が一気に軽くなる。
部活へ散る足音。椅子の音。誰かの「またね」。
俺は帰る準備をしていた。
帰る。それだけでいい。
それだけで――
「今日の当番、残れ」
井上の声が落ちた。
短い。容赦がない。
俺と梶山は自然に立ち止まる。
自然になってしまうのが怖い。
井上が教壇から言う。
「鍵の借り方、見せる。貸出票に名前書く。学生証出す。返却は大塚に直接。以上」
「大塚って誰」
平野が小声で俺に聞く。
「印刷室の人。無表情」
岩崎が言う。
「一回見たら忘れないタイプ」
井上が最後に、短く釘を刺す。
「鍵、落とすな。なくしたら面倒だぞ。以上。行け」
“鍵、落とすな。”
その言葉が、俺には別の意味に聞こえた。
落としたら終わるものが、俺のポケットにはもう入ってる。
教室を出る直前、平野が俺に耳打ちする。
「祝嶺、梶山、準備室で二人きりだな」
「言うな」
「言いたい」
「……やめろ」
梶山が平野を軽く睨んで言った。
「邪魔すんな」
「邪魔する予定ないけど! 圧、強!」
平野が笑う。
岩崎が指先をひらひらさせて言った。
「いってらっしゃい。二人とも。清掃の神に祝福されて」
「祝福いらない」
俺が言うと、岩崎が「出た、祝嶺の否定」と笑った。
梶山が俺の横に並ぶ。
「行く」
短い。
でも、歩幅が俺に合ってる。
印刷室までの廊下は、放課後になると妙に長い。
教室が空いて、音が減るからだと思う。
俺の足音が目立つ。
だから、自然に小さくなる。
「祝嶺」
梶山が歩きながら言った。
「……なに」
「緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してない」
短い往復。
それだけで、息が少しだけ楽になるのが悔しい。
「学生証、俺が先に出す」
梶山が言った。
「祝嶺は、後でいい」
後でいい。
それは、優しい。
優しいのに、胸がちくっとする。
「……別に」
盾を出す。
梶山は笑わない。
でも、声の温度だけ落ちる。
「別にって言うな」
「……」
「今日は、掃除だろ。逃げる理由、いらない」
逃げる理由がいらない。
その言葉の優しさが、逆に怖い。
印刷室の前に着く。
扉の横に「備品・印刷」。
中から紙の匂いがする。
梶山がノックして、返事を待たずに開けた。
「失礼します」
中にいたのは、大塚。
無表情。
机に向かって紙を揃えている。
「……何」
声も無表情だ。
梶山が淡々と言う。
「清掃当番。準備室の鍵、借りたいです」
大塚は顔を上げもせず引き出しを開け、鍵束を出した。
金属の音が、やけに大きい。
「貸出票」
大塚が用紙を指で押す。
「名前」
「はい」
梶山が自分の名前を書き始める。
「両名」
大塚が言った。
短い。容赦がない。
俺の喉が乾く。
ポケットの硬いケースが急に熱くなる。
梶山がペンを止めずに言った。
「俺が代表で借りる。返却も俺がする」
「規則」
大塚が言う。
「両名、学生証」
来た。
逃げ場が消える。
梶山が先に学生証を出した。
大塚が受け取り、番号を見て返す。
それから俺を見る。無表情のまま。
「祝嶺」
名前だけ呼ばれた。
音が冷たい。
俺の指先が勝手にケースを探した。
探してしまった瞬間、負けた気がする。
でも――梶山が、俺と大塚の間に半歩だけ出た。
壁じゃない。
でも、視線の通り道がずれる。
「祝嶺、今朝、職員室で出してる。戻ってない」
梶山がさらっと言った。
嘘の言い方が上手すぎて、息が止まる。
大塚は一秒だけ止まって、無表情で言った。
「次回。必ず」
「はい」
梶山が即答する。
「すみません」
大塚が鍵を渡した。
「返却、今日中」
「はい」
終わった。
俺は息を吐くのを忘れていたことに気づいた。
印刷室を出た瞬間、梶山が小声で言った。
「今の、良かった?」
「……何が」
「俺の言い方」
俺は言葉が出なくて、頷いた。
頷くしかなかった。
「次はどうする?」
梶山が聞く。
「次も、俺が言う」
次。
もう次の話をする。
それが、怖い。
それが、ちょっとだけ――救われる。
「……別に」
俺が盾を出すと、梶山が小さく息を吐いた。
「今日だけでいい」
短く。
でも、強くない。
その言い方が、ずるい。
準備室は廊下の突き当たりにあった。
普段は閉まっていて、取っ手に小さな札がぶら下がっている。
梶山が鍵を差し込む。
カチャ、と音がして扉が開く。
中は狭い。
モップ、バケツ、雑巾、洗剤。
ワックスの匂いが濃い。
「狭」
俺が思わず言うと、梶山が「だろ」と笑う。
笑う。
その笑いが、妙に近い距離で響く。
梶山が棚から雑巾を二枚取って、俺に渡した。
触れないように、でも落とさない距離。
「廊下、端から」
「……うん」
「階段は、平野と岩崎がやってる」
あいつら、わざと別になったな。
俺が言う前に、梶山が付け足す。
「あとで絶対、茶化してくる」
「……分かる」
「先に言っとく。相手すんな」
「……分かる」
短い往復なのに、会話が成立する。
成立するのが、怖い。
俺が一歩入った瞬間、扉が背中で閉まった。
反射で肩が強張る。
「閉めた」
梶山が言う。
「開けとく?」
開けとく、って言われると、俺が怖がってるみたいになる。
怖がってるのに、怖がってないふりをしたい。
「……いい」
「オッケ」
梶山がそれ以上言わずに、バケツに水を入れる。
水の音が、やけに大きい。
俺が雑巾を握り直したとき、ポケットの硬いケースが太ももに当たって、コツンと音がした。
小さいのに、心臓が跳ねる。
梶山の視線が一瞬だけ落ちた。
見た。
見てないふりをした。
「落とすなよ」
梶山が言った。
鍵のことみたいに。
でも俺には別のものに聞こえる。
「落とさない」
俺が言うと、梶山が「うん」とだけ返した。
それだけなのに、胸が少しだけ熱い。
廊下の掃除は静かな作業だ。
雑巾の音。
バケツの水の音。
遠くの部活の声。
梶山は無駄口を叩かない。
でも、黙りすぎない。
ちょうどいいタイミングで短い言葉を落とす。
「そこ、滑る」
「……分かった」
「端、先に拭く」
「……うん」
俺がしゃがんだとき、バランスが少し崩れて、床に手をつきそうになった。
転ばない。
でも、姿勢が崩れるのは目立つ。
その瞬間、梶山が何も言わずに俺の腕に指を添えた。
掴まない。
押さえもしない。
ただ、支えるだけ。
俺は姿勢を戻して、すぐ腕を引いた。
「……平気」
「うん」
梶山はそれ以上言わない。
言わないのに、距離だけは戻させない感じがする。
それが、キツい。
それが、嫌じゃない。
嫌じゃないのが、いちばん困る。
廊下の向こうから、騒がしい足音が来た。
「うおー! 階段、地獄!」
平野が叫びながら現れる。
「岩崎、雑巾、追加でくれ!」
「はいはい、声でか」
岩崎が笑って、こっちを見る。
「え、二人、静かすぎ。夫婦?」
「夫婦じゃない」
俺が言う前に、梶山が言った。
止める速度が早い。
「早っ」
平野が笑う。
「梶山、祝嶺の否定、代行すんなよ」
「代行じゃない」
「代行だって。祝嶺、今、言うタイミングなくした顔してる」
……してない。
してないけど、言い返すと会話が増える。
岩崎がわざとらしく胸に手を当てた。
「いいねぇ。祝嶺、最近ちゃんと“いる”」
「いる」
平野が復唱する。
「祝嶺、存在感出てきた」
「出てない」
俺が言うと、岩崎がすぐ笑う。
「出てる。だって今、“出てない”って言った」
「……うるさい」
俺の口から出た。
さっきより、少しだけ自然に。
平野が目を丸くして、すぐ大げさに拍手した。
「うわ、祝嶺が言った! 今日、事件だわ」
「事件って言うな」
梶山が言う。
俺も言いたかった。
言えなくて、悔しいのに、少しだけ笑いそうになった。
岩崎がにやにやして梶山を見る。
「梶山。祝嶺が笑いそう」
「……笑うな」
梶山が俺にだけ聞こえる音量で言った。
「笑わない」
「笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってる」
短い往復。
その間に、雑巾が進む。
平野が「はいはい、ごちそうさま」と言って階段へ戻っていく。
岩崎も「転ぶなよ〜」と手を振って去る。
残ったのは、また俺と梶山だけ。
静かになった途端、心臓の音が目立つ。
「今の、今の返し、良かった」
梶山が言った。
褒めるみたいに言うのに、押しつけがましくない。
「……良くない」
「良い」
「……」
「今の返事、逃げてない」
俺は言い返せなかった。
言い返したら、認めることになるから。
でも胸の奥は、変に跳ねた。
——好きになる瞬間って、こういうのかもしれない。
大事件じゃなくて。
ただ、言われたくなかった言葉を、言われてしまう瞬間。
それが嫌じゃない瞬間。
俺はそれをごまかすみたいに、雑巾を絞った。
掃除が終わって、準備室に道具を戻す。
また狭い。
また距離が近い。
梶山がモップを立てかけたとき、鍵束がタグに引っかかってガチャンと音を立てた。
音に反射して、俺の指が勝手に動く。
鍵束を押さえる。
梶山の手と、俺の手が一瞬だけ重なった。
触れた。
一瞬。
でも確かに。
俺は反射で手を引っ込めた。
引っ込めた瞬間、心臓が騒がしくなる。
「……悪い」
俺は、言いたくもないのに言ってしまった。
梶山が俺を見る。
眩しい笑いじゃない。
逃げ道がない目線。
「謝ることじゃない」
短い。
でも、温度がある。
その温度が、俺の指先に残ってしまった。
印刷室へ戻る。
大塚は相変わらず無表情で机に向かっていた。
梶山が鍵を差し出す。
「返却です」
大塚が受け取って、番号札を見て引き出しに戻す。
それだけで終わるはずだった。
「貸出票」
大塚が言う。
「返却、署名」
梶山がペンを取り、さらっと書く。
大塚が紙を見て、短く言った。
「次回。両名、学生証」
「はい」
梶山が即答する。
俺の喉が乾いた。
次回、って言葉が怖い。
帰り際、ポケットの硬いケースが少しだけずれて、縁が見えた。
気づいた瞬間、俺の指が反射で押し込む。
押し込む動きが、焦っていて。
焦っているのが、自分で分かってしまって、余計に嫌になる。
大塚の視線が一瞬だけ俺の手元に落ちた。
無表情のまま。
でも、見た。
俺の背中が冷たくなる。
——見られた?
次の瞬間、梶山が俺の前に半歩出て、扉を先に開けた。
「どうぞ」なんて言わない。
言わないまま、通り道を作る。
俺はその隙に、ポケットの中のケースをもう一度押さえた。
裏返しにした学生証の数字を、見せないまま。
廊下に出た瞬間、息が戻る。
「……さっき」
俺が言いかけると、梶山が先に言った。
「大塚、見てない」
「……」
「見てたら言う。あの人、言う時は言う」
根拠がある言い方だった。
根拠があるから、少しだけ信じてしまう。
信じてしまうのが、怖い。
「祝嶺」
梶山が言う。
声は軽く戻っている。
「今日、逃げなかった」
「……当番だから」
「当番でも逃げるやついる」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
落ちたのに、痛くない。
痛くないのが、困る。
「明日」
梶山が続ける。
「班のグラフ、見せて」
「……分かった」
俺は頷いた。
頷いたら、予定が増える。
増えると怖い。
でも――その怖さの中に、妙に温かいものが混じっている。
それが六月だ。
家に着いて、玄関の鍵を開ける。
制服を脱ぐ前に、スマホが震えた。
“総合⑤班”。
平野:
「清掃当番おつ! 祝嶺、梶山、二人きりどうだった?(ニヤニヤ)」
岩崎:
(スタンプ)
「尊い〜」
画面が賑やかだ。
でも、その賑やかさが嫌じゃない。
俺は入力欄を見て指が止まった。
送ったら残る。
残ると怖い。
でも今日は、もう残ってしまっている。
鍵の音。
指先の熱。
「逃げなかった」の一言。
俺は短く打った。
「おつ」
送信。
既読がつく。
平野が秒で返す。
「祝嶺きた!!!!」
岩崎が「えらいえらい」スタンプを押す。
そして、少し遅れて――梶山から個別。
「おつかれ。今日は助かった」
たった一行。
でも、胸が熱くなる。
俺はスマホを伏せて、ポケットから学生証ケースを出した。
指先が一度だけ止まる。
そこに書いてある数字は、俺の味方じゃない。
俺は裏返した。
見ない。見せない。
なのに。
印刷室で、無表情の視線が一瞬だけ落ちた気がして、喉が乾く。
次回、必ず――って言葉が耳に残る。
でも、同じくらい。
準備室で一瞬触れた手の熱も、残っている。
俺は裏返した学生証を机の端に置き、スマホをもう一度だけ開いた。
梶山のメッセージの下に、もう一通。
「明日、無理すんなよ」
短い。
余計な理由を聞かない。
そのくせ、ちゃんと見てる。
俺は返事を打ちかけて止めた。
返したら、また残る。
残ると怖い。
でも――今日は、もう少しだけ残ってもいい気がした。
俺は息を薄くして、短く返した。
「うん」
送信。
既読。
すぐに返ってきた。
「うん、だけ?」
……また、それだ。
また、胸が跳ねる。
六月の清掃当番は、ただ掃除しただけだ。
ただ鍵を借りただけだ。
……そう思いたい。
でも、印刷室の「次回」が、もう怖い。
怖いのに、明日も隣に座るのが当たり前になっている。
鍵みたいに。
返し忘れたら終わるものを、ポケットに隠したまま。
明日も、隣だ。
