一歳上、同級生。

 席替えから、まだ一週間も経っていない。
 梶山の「休むなよ。隣、空くの嫌だから」が、耳の奥に引っかかったまま、授業が進んでいく。
 引っかかるのに、痛くない。
 むしろ、温度みたいに残るから厄介だ。

 俺は今日も、教室のドアを開けた瞬間に呼吸を薄くした。
 大きく吸うと、そこだけ輪郭が濃くなる気がする。
 意味はないのに。

 椅子に座る。
 机の中を整える。
 ペンは左から。シャーペン、黒、赤。消しゴムは右。定規は一番下。
 揃うと、心が息をする。

「祝嶺、おはよー」
 後ろから平野の声が落ちた。明るい。というより、楽しそう。

「……おはよ」

「今日さ、商業基礎あるじゃん。なんか“でかい課題”来るって噂。井上の“以上”で終わるタイプの」

「……知らない」

「知らないって言う時の祝嶺、ちょっと嬉しそう」

「嬉しくない」

 平野が笑う。
 俺は笑わない。笑うと、そこに痕が残る。

 左隣。
 梶山がカバンを机の横に掛ける音がした。

「提出物、忘れんなよ」
 梶山が短く言った。誰に、ってほどでもなく。空気に。

「梶山が言うと怖いんだけど」
 平野が半分ふざけて言う。

「怖くない。面倒になるだけ」

「それが怖いんだって」

 梶山は俺の机を一回だけ見た。
 整ったペン。真っ直ぐな線。
 見られた気がして、指先が机の端を押す。

 残るのが怖い。
 紙に名前が乗るだけで、胸が縮む。

 ――俺は、このクラスでひとつだけ余計を抱えてる。
 一歳上。バレた瞬間、“同級生”じゃなくなる。

 四限。商業基礎。
 井上が教科書を開かずに黒板の前に立った。
 チョークを持つ指が迷わず動く。

 黒板に、大きく四つ。

 キャリア/進路
 地域/社会貢献
 実践スキル
 イベント企画・運営

「班課題。四人で一つ選ぶ。来週、テーマ提出。A4二枚。五分プレゼン。来週、発表順決める。以上」

 以上。
 早い。
 息を吸う暇がない。

 教室がざわついた。

「え、プレゼン!?」
「無理無理」
「社会貢献って何すんの」

 井上はその声を全部無視して続ける。

「班、四人。今の席で近いところ、組め。決まった班は代表ひとり、放課後五分だけ残れ。班名簿とカテゴリを書く。未定は明日まで。以上」

 ――決まった班だけ、残る。
 それなら分かる。
 分かるのに、胸の奥がざわつく。
 “代表ひとり”って言葉が、嫌な形で目立つから。

 俺の周りは、もう決まっていた。
 左は梶山。後ろは平野。斜め前は岩崎。

「はい、もう四人〜」
 岩崎慎吾が椅子に肘をついて振り返る。指先がしなやかに揺れた。

「祝嶺、梶山、平野、私。これで完成。早いって褒めて?」

「話が早いな、お前ら」
 井上が即座に返した。顔を上げるだけで、黒板から目を離さない。

「代表、誰」

「梶山でしょ。まとめ顔」
 平野が即答する。

 まとめ顔って何だ。
 梶山は否定しなかった。否定しないまま、ノートを開く。

「俺でいい」
 短い。
 断る隙がない。

 俺は視線を落として、机の端に置いた学生証ケースに触れた。
 そこに書いてある数字は、俺の味方じゃない。


 授業が終わって、放課後。
 決まった班だけが、教室に残る。
 俺たちの周りだけ空気が薄くなる。
 周りは部活へ散っていって、椅子が鳴って、笑い声が遠ざかる。

 井上が教壇にプリントを置いた。

「班名簿。名前書け。カテゴリに丸。来週までにテーマ。以上」

 また以上。
 本当に短い。

 梶山がプリントを受け取って、机に置いた。
 ペンを取り、迷いなく自分の名前を書き始める。
 書き方まで、迷いがない。

 ――名前。
 紙に並ぶ文字は、消えない気がする。
 いや、消える。捨てればいい。
 でも、いったん“残った”ことが嫌だ。

「祝嶺、書ける?」
 梶山が小声で言った。俺だけに届く音量。
 プリントの空欄を、ペン先で軽く叩く。

「……書ける」

 俺は息を吐いて、自分の名前を書いた。
 手が綺麗に動くのが、逆に腹立つ。
 震えてくれれば、怖い理由の言い訳になるのに。

 書き終えた瞬間、学生証ケースが机の縁でカツンと鳴った。
 俺は反射で手のひらで押さえて、裏返す。
 誰も見てない。たぶん。
 それでも、体が先に動く。

「今の、何隠した?」
 平野が笑いながら聞いた。

「何も」

「怪しい〜」

 岩崎が覗き込んで、「え、字きれい。真面目〜」と笑う。
 平野が「祝嶺、無駄に育ちいいよな」と適当を言う。

「無駄とか言うな」
 俺が薄く返すより先に、梶山がさらっと被せた。
 軽いトーン。冗談みたい。
 でも、止めるのが速い。

「はいはい、梶山、守護神〜」

「守ってねえ」

 井上がプリントを回収して、さっさと帰る準備を始めた。
 話が早い。
 救われる。

「来週、テーマ。遅れるな」
 井上はそれだけ言って教室を出た。

 残ったのは、俺たち四人。
 急に静かになる。
 静かになると、心臓の音が目立つ。


「で、テーマどうする?」
 平野が机に肘をついて言った。

「イベント企画とか楽しそうじゃね? 文化祭の広報とかさ」

「平野は“楽しそう”って言いながら当日までに飽きるタイプ」
 岩崎が口元に指を当てて笑う。仕草がいちいち綺麗なのが腹立つ。

「ごめん、悪口じゃなくて予想」

「予想するな!」

 梶山がノートを開いて、淡々と言った。

「外部取材が必要なやつは、時間足りない。校内で完結する題材がいい。数字が取れて、企画書に落ちるやつ」

 “校内で完結”
 その言葉に、俺は少しだけ息がしやすくなった。
 外へ出ない。知らない人に会わない。
 そういう意味での安全。

 梶山は続ける。

「校内購買。売上改善」
 ノートの中央に大きく書いた。

「購買なら毎日動いてる。買う人と買わない人がいる。理由も取れる。仮説立てて、アンケで検証して、POPで改善。A4二枚に収まる」

 分かりやすい。
 分かりやすすぎて、反論が出ない。

「購買って、そんな研究っぽくなる?」
 平野が首をかしげる。

「俺、買って食う場所ってイメージだけど」

「研究っぽくしなくていいの。改善なの」
 岩崎が笑う。

「“並びが長いから買わない”とか、“メニューが偏ってるから買わない”とか。そういうのを数字で見せるの」

 ――数字。
 感情より、まだ扱える。……残るのは怖いけど。

「結果も出せる」
 梶山が言った。

「POPは印刷して貼る。企画書も印刷。発表のときも紙がいる」

 印刷。
 紙。
 ——字が残る。名前が残る。

 俺は反射で視線を落とした。

「祝嶺、嫌?」
 梶山が短く言った。

 嫌、って言葉は言いたくない。
 言った瞬間、理由を聞かれる。
 理由を言った瞬間、どこかが繋がる。
 繋がったら、ほどけない。

「……別に。購買でいい」
 俺は、許可だけ出した。

 梶山はそこで、ようやく小さく頷く。

「決定」

 岩崎が指先を揺らして「はい、決定〜」と歌う。
 平野が「早っ」と笑う。
 ――話が早いのは、井上だけじゃない。


「じゃ、役割」
 梶山がノートを叩いた。

「俺、まとめ。企画書の構成。発表もやる」

「え、全部やる気?」
 平野が目を丸くする。

「できるやつがやる。時間がない」
 梶山は平然と言う。正しさを、癖みたいに出す。

「じゃあ俺、現場!」
 平野が手を上げる。

「アンケ声かけとか得意だし。購買前で捕まえるわ」

「捕まえるって言い方、怖い」
 岩崎が笑う。

「でも、平野の勢いならいけるかも。購買の人にも好かれそう」

「誰に好かれる話してんだよ!」

 岩崎は笑いながら、自分の役を勝手に取った。

「私、質問項目と文面。あとPOPの言い回し。そういうの得意だし」

 梶山が「助かる」と短く言う。
 そして、俺を見る。

「祝嶺は、集計」

 集計。
 数字。
 安全、のはず。

 俺が黙ったままだと、梶山が続けた。

 「フォームで取る。個人名は入力させない。学年と頻度と、買わない理由。それだけで十分。
  発表も“担当者名”は出さない。祝嶺はスプレッドだけ見てればいい」

 ——担当者名は出さない。
 その一言が、胸の奥に落ちた。
 落ちたのに、軽くならない。
 梶山が“俺の怖いもの”を知ってるみたいで。

「……分かった」
 俺は小さく頷いた。

「お、祝嶺、頷いた」
 平野がわざと大きな声で言う。

「今日、祝嶺の感情、二センチくらい見えたわ」

「見えてない」

「見えてるって」

 岩崎が口元で笑って、俺を見た。
 軽い顔なのに、目だけはちゃんと拾う。

「祝嶺、数字にすると急に生きるよね。そういう人いる」

「生きてる」

「生きてるって言うほど生きてないだけ〜」

 俺は反射で目を逸らした。
 話が続くほど、痕が増える。


「連絡手段」
 平野がスマホを出す。

「LINEでいい? グループ作るわ」

 ――来た。
 距離が、ひとつ縮むやつ。

 LINEは“連絡”の顔をして、関係を固定する。
 既読がつく。返事の速度が残る。話題が続く。
 誕生日とか、身分証とか、そういう方向に――いつか必ず触れる。

 俺の指が机の端を押した。
 強く押しすぎて、爪の先が白くなる。
「グループ名、何にする?」
 平野が楽しそうに言う。

「購買革命隊、とか!」

「ダサい」
 梶山が即答する。

「じゃあ、“購買を救う会”」

「それもダサい」

「うるせぇ!」

 岩崎が肩をすくめた。

「無難でいいよ。総合⑤班、とか。目立たないやつ」
 言いながら、俺をちらっと見る。
 “目立たない”を、ちゃんと選んでくれる。

「それで」
 梶山が短く言った。

 平野が「センスゼロ!」って笑いながら、でも入力する。
 “総合⑤班”。

 招待が送られる。
 通知音。
 俺の画面に、招待が出た。

 参加、を押せばいいだけ。
 押せば、残る。

 指が止まる。

「祝嶺、入れよ」
 平野が軽く言う。
 悪気がないから、余計に怖い。

 俺は「……うん」と言いかけて、言葉が喉で止まった。

 梶山が、平野のスマホを軽く押し下げた。

「急かすな」
 声は軽い。だけど、温度が落ちている。

「え、急かしてねえよ」

「急かしてる」

 短い往復。
 そこで終わらせて、梶山は俺を見る。

「今、無理なら無理でいい」
 梶山が言った。

「あとで。焦らなくていい」

 焦らなくていい、って言い方が、ずるい。
 焦らなくていいなら、ずっとこのままでいられる。
 でも、ずっとこのままじゃいられないことも、分かってる。

 岩崎がふっと笑う。

「梶山、優し〜」

「ちげえ。効率」

 梶山は効率って言葉で隠す。
 隠すのが上手い。
 それが、いちばん刺さる。

 平野が「効率って言えば何でも許されると思ってるだろ」と笑って、空気を戻した。

 俺は招待画面を閉じた。
 入る、入らないの答えを、今出さないまま。

 逃げた。
 逃げたのに、梶山は追わなかった。


「じゃ、質問項目の骨」
 岩崎がホワイトボードを出して、さらさら書く。

 買う頻度
 よく買うもの
 買わない理由
 あったら買うもの
 価格帯
 並び時間のストレス

「買わない理由、ってさ」
 平野が首をかしげる。

「めんどい、とか? 並ぶ、とか? 金ない、とか?」

「最後、リアルすぎ」
 岩崎が笑う。

「買わない理由は複数回答にする」
 梶山が淡々と言う。

「“時間がない”“欲しいものがない”“高い”“並ぶのが嫌”とか。数字にしやすい」

 数字にしやすい。
 俺が息をしやすい言葉。

「質問文、俺が直す」
 岩崎が言った。

「“買わない理由は?”って直球すぎるから、“利用しにくい点は?”にする。角、丸く」

「角、丸くって言う割に、お前の言葉は刺さる」
 平野が言うと、岩崎は悪びれず笑った。

「刺さるのは、必要だからよぉ」

 梶山がノートにまとめを書き、俺の方に向けた。

「祝嶺、集計のフォーマット作れる?」

「……できる」
 俺の声が、思ったよりちゃんと出た。

 平野が「お、祝嶺、声出た」と笑って、わざと軽くした。
 岩崎も「今日は生きてる日〜」と歌う。

 俺は笑わないまま、でも、拒まなかった。
 拒まないことが、俺の中では大事件なのに。

「明日、昼休み。購買前でアンケ試走」
 梶山が言った。

「平野、声かけ。岩崎、質問文。祝嶺、集計シート」

 決まった。
 残るものが、また増えた。


 解散の空気になって、みんなが立ち上がる。

「じゃ、明日、昼休みな!」
 平野が言って、すぐ走った。

「購買寄って下見してくる!」

「下見って言うな、ただの買い物」
 岩崎が笑って手を振る。

「転ぶなよ〜」

 岩崎も別の友達に呼ばれて、廊下の向こうへ消えた。

 残ったのは、俺と梶山だけ。

 急に静かになると、心臓の音が目立つ。

 梶山は前を向いたまま、ぽつりと言った。

「祝嶺」

「……なに」

「さっきのLINE。無理なら無理でいい」
 梶山は一回区切って、続ける。

「でも班は止まらない。誰もお前を置いていかない」

「連絡が残るって、逃げ道が減るだけだろ。嫌なら、俺が止める」

「……分かった」
 俺は薄い返事で逃げた。

 梶山はそれ以上追わない。
 追わないまま、隣にいることだけは当然みたいにする。

「帰り」
 梶山が言う。

「一緒でいい?」

 質問の形。
 でも、もう断る理由を用意できない。

「……別に」
 また、ずるい返事。

 梶山は小さく笑った。

「よし」
 それだけで決まったみたいに歩き出す。


 家に向かう道。
 梶山は歩く速度を俺に合わせた。
 合わせた、と言わないくらい自然に。

「購買のやつ」
 梶山が言った。

「祝嶺、無理しなくていい。数字だけでいいから」

 数字だけ。
 そこだけ。
 優しい言い方なのに、囲われる感じがする。

「……うん」

「うん、で終わるなよ」
 梶山が冗談みたいに言う。
 目線はまっすぐで逃げ道がない。

 俺は答えを探して、結局、薄い言葉しか出せない。

「……ありがと」
 声が、少しだけ震えた。

 梶山は何も言わず、前を向いたまま「ん」と返した。
 それが、いちばんずるい。


 家に着いて、カバンを下ろす。
 ポケットから学生証ケースを出す。
 指が止まる。
 そこに書いてある数字は、俺の味方じゃない。

 俺は机の端に置いて、裏返した。
 文字を見ない。見せない。

 スマホの画面を開くと、まだ“総合⑤班”の招待が残っていた。
 参加、のボタンが、押してくれと言わんばかりに光って見える。

 押せば、残る。
 押さなければ、遅れる。
 遅れたら、置いていかれる。
 置いていかれたら、“同級生”のふりが崩れる。

 俺は息を薄くして、親指を押した。

 参加。

 チャット画面が開く。
 すでに平野がメッセージを投げていた。
「明日昼休み、購買前でアンケ試すぞ!」
 岩崎のスタンプが続く。
 梶山が「質問文、岩崎案でいく」と短く送っている。

 俺の指が止まる。
 何か返さないと、と思う。
 でも、返したら俺の言葉が残る。

 俺は何も送らないまま、画面を閉じた。
 それでも通知は鳴る。
 鳴るたびに、“ここにいる”って証明が増える気がする。

 俺はトークの通知を「オフ」にした。
 消したいのは音じゃなくて、履歴の方なのに。

 それでも指が動いたのは、たぶん――少しだけ楽になりたかったからだ。

 机の端の学生証ケースが視界に入って、俺はまた裏返した。
 裏返してるのに、そこに“日付”がある気がして落ち着かない。
 メモ帳を一枚乗せて、見えないふりをした。

 スマホが震えた。
 今度は個別。
 梶山から。

「企画書、無理なら俺がやる。返事はいらない」

 返事はいらない。
 そう書かれているのに、胸の奥がざわつく。
 返事がいらないなら、俺は黙っていられる。
 黙っていられるのに――“読んだ”ことだけは、俺の中に残る。

 俺はスマホを伏せた。
 それでも、メッセージの文字は消えなかった。
 爪の先に残る熱みたいに、じわじわ残る。

 五月。班決め。
 俺はまだ、“同級生”のふりをしている。
 そのふりのまま、梶山の隣にいる。

 明日も、隣だ。
 その事実が、怖いのに少しだけ、嬉しかった。