一歳上、同級生。

十一月の後半。
朝の空気が、吸い込むたびに少しだけ白い。

校門をくぐると、昨日と同じ匂いがした。
洗剤の残り香みたいな廊下。教室の暖房の乾いた温度。誰かが落とした消しゴムのカス。

――壊れなかった。

あの夜、校庭の端で、俺の一年は梶山に見られて、
それでも、翌日も翌々日も、机はちゃんと隣で、チャイムはいつも通り鳴った。

壊れる音は、まだしてない。

……それなのに。
俺だけが、毎朝ちょっとだけ怖い。
怖いのに、ちょっとだけ嬉しい。

教室に入ると、平野の声が先に飛んできた。

「祝嶺! おはよ! 今日、寒くない? 寒いよな? 寒いって言え!」

「命令すな」

「命令じゃない! 確認!」

「確認の声量じゃない」

後ろから、岩崎が机に肘をついて笑った。

「平野、祝嶺に“寒い”って言わせたいだけでしょ。言わせて満足したいだけ」

「違う! 俺は心配してるの!」

「心配は、もうちょい静かでもできる」

「できない!」

「できる」

「できない!」

その言い合いの隙間で、俺は自分の席に向かった。
左の机。隣。

梶山はもう座っていて、ノートを開いていた。
ペン先が迷いなく動いてる。今日も段取りがいい。

俺が椅子を引いた音で、梶山が視線だけ寄こす。

「おはよ」

「……おはよう」

返した声が、前より薄くない。
薄くしようとしてない、が正しい。

梶山が机の端に、紙パックの飲み物を置いた。
いつの間に買ったのか分からない、温かいミルクティー。

「これ」

「……何」

「温いほうがいいと思って」

言い方が普通すぎて、胸が変に跳ねた。
“好き”って言葉より、こういう方が刺さるのずるい。

「別に、寒くないし」

俺が言うと、梶山はペンを止めずに返した。

「寒いって言えって平野がうるさい」

「おい!」
平野が即座に反応する。

「俺の名前出すな! いや出していいけど! 祝嶺、寒いだろ!?」

梶山が一回だけ顔を上げた。

「うるさい」

「うるさいって言うな!」

「言う」

「言うな!」

岩崎が肩を揺らして笑う。

「平野、ツッコミされると元気出るタイプだよね。燃料、ツッコミ」

「違う! 俺は愛で動いてる!」

「愛って言うな」
梶山が止める。

「言わせて!」

「言うな」

「ひどっ!」

教室が、いつも通りにうるさい。
いつも通りに笑える。

俺はミルクティーのストローを刺して、一口だけ吸った。
温度が、喉の奥に落ちる。

梶山が小さく言った。

「飲んだ」

「……飲んだ」

「よかった」

その“よかった”で、胸がまた鳴る。
俺は自分の机の上を整えるふりをした。
整えないと落ち着かない癖は、まだ消えない。

でも最近、梶山がいると、少しだけ整わなくても息ができる。



昼休み。
購買の前はいつも人が多い。文化祭が終わっても、あの二日間の熱だけはまだ残ってるみたいだ。

岩崎が、わざとらしく腕章のあった場所を指で叩いた。

「懐かしいねえ、総合⑤班。伝説」

「伝説って何! 俺の『パンは正義』?」
平野が胸を張る。

「違う。祝嶺が“ありがとう”を自然に言えた日」

「それを伝説にするな」

「する。だって奇跡」

「奇跡って言うな」
俺が言うと、岩崎はさらっと笑った。

「だって、祝嶺の“ありがとう”って、ちゃんと目が付くんだもん。
言葉だけじゃない。あれ、ずるいよ」

ずるい、って言われて、俺は返せない。
ずるいのは俺じゃない。
俺の隣にいるやつだ。

梶山は無言で弁当の箸を割って、平野の方を見た。

「食べながら喋れ」

「俺、喋りながら食べる派!」

「喉詰まる」

「詰まらない!」

岩崎が平野の弁当を覗き込む。

「それは詰まる。白米が白米すぎる」

「米を悪く言うな!」

「悪く言ってない。白いって褒めてる」

「褒め方が雑!」

笑いながら、俺は箸を持ち上げて、少しだけ止まった。
梶山の弁当の端に、俺の苦手なものが入っているのが見えたから。

前だったら、見ないふりをした。
言ったら面倒だし、気を遣わせるし、俺の“薄さ”が剥がれる。

でも今日は、口が勝手に言った。

「……それ、食べるの」

梶山が箸を止めて俺を見る。

「食べないなら、やる」

「やるって言い方」
岩崎が突っ込む。

「譲る、ね。譲る」

平野がニヤついた。

「うわ。なんか今、夫婦みたいだった」

「黙れ」
梶山が即座に言って、俺は同時に言った。

「違う」

声が重なって、岩崎が笑う。

「はいはい。息ぴったり」

“息ぴったり”が、胸にくる。
あの夜から、俺たちは何も変わってないふりをして、
でも確実に、こういうところが変わってる。

梶山が、俺の弁当に目線を落として、ぼそっと言う。

「……それ、苦いの多くない?」

「多くない」

「多い」

「多くない」

短い往復。
だけど今日は、喧嘩っぽくならない。

梶山が俺の弁当の端にある野菜を、自分の方に寄せた。
箸で、そっと。
“勝手に”じゃない、触れない優しさ。

俺はそれを止めなかった。
止めなかった自分に、少しだけ驚く。

「祝嶺、今、拒否してない」
岩崎が言った。
当てるのが上手い。逃げ道がない。

「……してない」

「えらい」
平野が言う。今日は声量が少しだけ落ちてる。

「いや、えらいっていうか、普通じゃん」

俺が言うと、平野が箸を止めた。

「普通って、けっこう難しいんだぞ」

その言い方が、妙に真面目で。
俺は視線を落とした。

梶山が、いつもの調子で言う。

「平野、噛んで食え」

「今、いいこと言ったのに!」

「喉詰まる」

「詰まらない!」

岩崎が笑う。

「詰まらないって言いながら、今日ずっと噛んでる。えらい」

「えらいって言うな!」

「言う」

「言うな!」

また笑いが起きる。
壊れなかった日常は、こういう音でできてる。



放課後。
日が落ちるのが早い。窓の外が薄い青になって、廊下の蛍光灯が少し眩しい。

俺は帰り支度をしながら、何度も鞄の中を確かめた。
財布、鍵、学生証。

――学生証。

以前は触れるだけで胃が縮んだ。
でも今は、怖さの形が少し違う。
“バレる”が怖いんじゃなくて、
“知っても隣にいる”が、信じきれなくて怖い。

梶山が鞄を持って立ち上がった。

「帰るぞ」

「……うん」

声がちゃんと出る。
ちゃんと返せる。

平野が椅子を引きずって来た。

「なあ、今日、寄り道!」

「だめ」
梶山が即答する。

「なんで!?」

「寒い」

「俺、寒くない!」

「お前の体感は信用できない」

岩崎が笑う。

「平野、冬でも半袖で“平気”って言う人」

「平気だし!」

「平気って言う人ほど、風邪ひく」

「ひかない!」

「ひく」

「ひかない!」

そのやり取りの途中で、梶山の指先が俺の袖を軽く引いた。
引いて、放す。
誰にも見えないくらい小さい。

でも、俺には分かる。
“行く”って合図。

俺は一秒だけ迷って、頷いた。
梶山は何も言わない。
でも、そのまま俺の歩幅に合わせて歩く。

岩崎が、歩きながら俺の横に来て、声を落とした。

「ねえ、祝嶺」

「……何」

「壊れてない?」

質問が優しいのに、逃げ道がない。

俺は一回だけ息を吸って、吐いて。

「……壊れてない」

言えた。
言えたことが、胸の奥を温めた。

岩崎が満足そうに笑って、前へ戻る。

「平野、寄り道はまた今度。今日は帰る」

「岩崎まで! 裏切り者!」

「裏切ってない。風邪ひかせたくないだけ」

平野が俺を見る。

「祝嶺、寒い?」

「……寒い」

俺が言うと、平野が目を丸くした。

「え、今の、素直!?」

「うるさい」
梶山が止める。

平野が笑って、両手を上げる。

「はいはい! 帰ります帰ります!」



昇降口を出ると、夜の空気が頬に当たる。
息が白い。

梶山は、俺の横にいる。
近いのに、無理に近づいてこない。
その距離が、いちばんずるい。

校門を出て、人通りが少し減ったところで、梶山が立ち止まった。
俺も止まる。

「……何」

言った声が、少しだけ震える。
薄くしようとしてないのに、震える。

梶山は俺の前に回り込まない。
ただ横に立ったまま、俺の手袋のない指先を見た。

「冷えてる」

「平気」

「嘘」

「……嘘かも」

言ったら、梶山が小さく笑った。

笑ったまま、梶山の手が俺の手の近くに落ちる。
掴まない。
でも、逃げられる距離じゃない。

――また、訊かれてる。
言葉じゃなくて、この近さで。

俺は一秒だけ迷って、指先を動かした。
梶山の手の甲に触れる。触れて、止まらない。
指が絡む。手が繋がる。

その瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴った。
痛いんじゃなくて、ちゃんと生きてる音。

梶山が、俺の顔を見た。
確認みたいな目。

俺は逸らさない。
息を吐く。
逃げない。

梶山がほんの少しだけ顔を寄せて、
唇が触れた。

一瞬。
確認みたいな軽い触れ。
風の中で、熱だけ残る。

離れたと思った次の瞬間、梶山がもう一回。
今度はちゃんと。
逃げ道がないのに、怖くない。

俺は遅れて追いついて、
遅れて、目を閉じた。

梶山が離れて、低く言う。

「……明日も、隣」

当たり前みたいに。
でも、ちゃんと約束みたいに。

俺は薄く息をしなかった。
ちゃんと吸って、ちゃんと吐いて。

「……うん」

その“うん”が、いつもより少しだけ強い。



帰り道。
前を歩く平野が、振り返って叫んだ。

「おーい! 遅い! 寒い!」

岩崎が笑いながら腕を振る。

「平野、まず声で温まるのやめな」

「やめない!」

「やめな」

「やめない!」

いつもの音。
いつもの空気。

その後ろで、俺は手を繋いだまま歩く。
誰かに見られたらどうする、とか、まだ怖い。

でも、怖いままでも、隣を選べるって分かった。
たった一年の秘密は消えない。
でも、それだけで全部が壊れるほど、俺たちは弱くない。

梶山の手が、少しだけ強く握り返してきた。
言葉じゃない返事。

俺はその温度を確かめるみたいに、指を絡め直した。

――この先も。
壊れなかった日常の中で、少しずつ距離が変わっていく。
変わっていくのが、怖いんじゃなくて。
変わっていけるのが、嬉しい。

平野がまた振り返る。

「祝嶺! 明日、購買行くぞ! ミルクティー買え! 寒いから!」

「命令すな」

「命令じゃない! 誘い!」

岩崎が笑う。

「祝嶺、断る?」

俺は一瞬だけ迷って、梶山を見る。
梶山はいつも通りの顔で、でも目だけが柔らかい。

「……行く」

俺が言うと、平野が大げさにガッツポーズした。

「よし! 総合⑤班、継続!」

「班じゃない」
梶山が止める。

「班だよ! 心の班!」

岩崎が肩を揺らして笑う。

「それ、ちょっと好き」

俺も、ほんの少しだけ笑った。

十一月の夜は、早く終わっていく。
でも、俺の隣は――明日も続く。
そしてたぶん、明後日も。
その先も。

見守ってもらえるくらい、ちゃんと、進める気がするから。