一歳上、同級生。

十一月三日。文化祭最終日。
朝の校門は、普段より早く目が覚める匂いがした。
焼きそばの鉄板が温まる前の油。紙コップの段ボール。遠くでガムテを引く音。
朝から校内放送がやけに明るいのが、逆に怖い。

――昨日。
学生証が床に落ちて、数字が見えて、世界がズレた。

ズレたのに、今日は続く。
廊下は走る足音で満ちていて、笑い声が当たり前みたいに跳ねる。
誰も俺の一年を指さして笑わない。
誰も知らないみたいに笑ってる。

「いつも通り」が怖い。
怖いのに、歩けてしまう。
歩けてしまう自分が、もっと怖い。

総合⑤班の集合場所は購買前の裏手だった。
段ボールと折り畳み机が積まれていて、騒がしいのに、ここだけ少し狭い。狭いぶん、逃げ道が少ない。

「よし! 総合⑤班! 二日目も勝つぞ!」
平野の声が朝からうるさい。声量が文化祭というより体育祭だ。

「朝から喉を投げるな」
岩崎が笑う。腕章を付ける指先がやたら綺麗で、同じ作業でも“ちゃんとしてる人”の動きだ。

梶山は無言で机の脚を確認して、ぐらつきを直した。
手順が綺麗。速い。静か。
こういうところで勝手に安心してしまうのが腹立つ。

「祝嶺、腕章、逆」
梶山が覗き込まない距離で言って、俺の腕を指先だけで示した。

「……分かってる」
分かってない。留める場所を間違えて、布が変にねじれていた。

梶山は何も言わず、留め具の位置だけ直す。
一ミリ。
それだけで呼吸が戻る。

「段取り、ありがとうございます〜」
岩崎がわざと丁寧に言った。

「やめろ」
梶山が即座に返す。短い。いつも通り。
いつも通り、が刺さる。

「主役は段取りだよねえ」
「主役はパンだろ!!」
平野が被せる。

「まだ言うの」
「言う! 昨日の『パンは正義』、購買の人、笑ってたんだぞ!」

「笑ってた。引いてたじゃなくて、ちゃんと笑ってた」
岩崎が追撃して、平野が誇らしげに胸を張る。

俺は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
笑うと増える。増えたら失ったとき痛い。

でも昨日、俺はもう失いかけた。
だったら今日、いまさら薄く息をしても遅いんじゃないかって思ってしまう。
思ってしまうのが――いちばん怖い。

「祝嶺」
梶山が名前を呼んだ。
“ここにいる”って言われたみたいで、背中が硬くなる。

「……何」

「今日、無理すんな」
いつもより少し、柔らかい声。
柔らかいのに、逃げ道がない。

「してない」
反射で言ってしまう。

梶山の眉がほんの少しだけ動いた。

「してる」
短い。なのに胸の真ん中に入ってくる。

平野が空気を切り替えるみたいに手を叩いた。

「開店準備! 祝嶺、レジ横! 岩崎、誘導! 梶山、壁!」

「壁って何」
俺が言うと岩崎が笑う。

「祝嶺を守る壁」

「言い方」

「言い方が上手いのが私」

梶山が俺を見て、言う。

「行くぞ」

「……うん」

“うん”が出た。
薄くじゃなくて、ちゃんと。



開場と同時に、人が流れ込んできた。
校内は昨日より少しだけ熱い。

平野が声を張る。

「いらっしゃいませー! ……パンは正義!!」

「言うな」
梶山が即ツッコむ。

「言わないと魂が死ぬ!」

「死なない」

「死ぬ!」

「死なない」

岩崎が間に入る。

「二人とも、売り場で魂の話しないで。怖い」

笑いが起きる。
笑うから足を止める。足を止めるから、買う。買うからまた笑う。
この班は、笑いの循環が上手い。

岩崎は誘導が上手い。声の高さがちょうどいい。明るいけど押しつけない。
平野は騒がしいけど、ちゃんと目が優しい。
梶山は前に立つ。邪魔にならない位置で、人の流れを守る。

俺はレジ横で票と注文メモを整えた。
紙は怖い。残るから。

……なのに今日の紙は、残ってほしい、が混じってしまう。
最悪だ。

「祝嶺、今の、ありがとう言った?」
平野が目を輝かせる。

「言ってない」

「言ってた!」

「聞いてたのかよ」

「聞いてる! 俺は接客監視員!」

「監視って言うな」
岩崎が笑った。

「じゃあ、祝嶺がありがとう言うたびに、平野が一秒だけ静かになる罰ゲームにしよう」

「罰ゲーム扱い!?」

「静かになったら、みんな助かる」

「ひどっ!」

梶山が小さく息を吐いた。

「……助かる」

「梶山まで!」
平野が叫んで、また周りが笑う。

俺はその笑いを、羨ましいと思ってしまった。
羨ましいと思うのは、欲しいってことだ。
欲しいと思うのは、壊したくないってことだ。

――壊したくない。



午前中のピークが一段落した頃、商品が一部足りなくなった。
段ボールを開けても、底が見える。

「え、嘘だろ、もうないの!?」
平野が叫ぶ。叫ぶな。

「落ち着け。叫ぶと余計なくなる」
岩崎が言う。意味が分からないのに説得力がある。

梶山は棚の奥を見て、在庫の位置を確認して、淡々と言う。

「補充、二分でできる。祝嶺、メモ」

「……うん」
俺はメモ帳を出した。指が勝手に動く。
“整える”作業は息ができる。

「今、並んでる人、どうする?」
俺が聞くと、平野が即答した。

「俺が盛る!」

「盛るな」
梶山が止める。

岩崎が口元だけ笑う。

「じゃあ平野、“盛る”じゃなくて“謝る”」

「俺、謝れる! めっちゃ謝れる!」

「声量は控えめにね」

「そこは不得意!」

平野が前に出て、いつもの声より一段落として言った。

「すみません! ただいま補充中で! でも、待たせません! 俺ら、段取り強いんで!」

「段取り強いって言うな」
梶山が小さく言って、俺の横に来る。

「祝嶺」

「……何」

「今の、助かった」

短い。
でも、その短さが胸に残る。
“言葉を足さない優しさ”が、梶山にはある。

俺は目を逸らして、メモの字を整えた。
整えないと、胸がぐちゃぐちゃになるから。



昼過ぎ。
人波が一度引いて、廊下の音が少し薄くなる。
その隙に、班の四人が段ボールの影で紙コップの水を飲んだ。

「生き返る……」
平野が言う。

「昨日も生きてた」
梶山が即ツッコむ。

「昨日は“生きた”。今日は“生き返る”」

「差が分からない」

「青春の差だよ!」

「青春って言うな」
梶山と俺の声が、ほぼ同時に出てしまって、岩崎が笑った。

「ほら、二人、声そろった」

「そろってない」
俺が言うと、梶山も同じタイミングで言う。

「そろってない」

岩崎が拍手の真似をした。

「そろってる」

平野がニヤッとする。

「え、なに? 俺、今、見ちゃった?」

「見てない」
梶山が即答する。

「見てないって言うやつほど見てる」
岩崎が淡々と言って、俺の方を見た。

「祝嶺、今の顔、ちょっとだけ軽い」
言い切る。逃げ道がない。

俺は反射で言ってしまう。

「……別に」

「別に、でいい」
岩崎が笑う。

「別にって言いながら、ちゃんとここにいるのが、今日の勝ち」

勝ち。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
勝ちたいなんて思ってないのに、勝ちって言われると、続けたくなる。

梶山が俺にだけ聞こえる音で言った。

「今日、逃げるな」

昨日の言葉と同じ形なのに、今日は少し違う。
“命令”じゃない。
“願い”に近い。

俺は水を飲んで、喉を落ち着かせた。
落ち着いたら、言えそうになってしまう。
言えそうになって、怖い。



午後。
また人が戻ってきて、校内が眩しくなる。
眩しいのは、光じゃない。
“普通”が眩しい。

途中、他クラスの男子が俺に声をかけてきた。

「さっきのPOP、いいね。分かりやすい」

「……ありがと」
俺の口から、自然に出た。

平野が即反応する。

「出た! ありがとう!」

「黙れ」
俺が言うと、梶山が被せる。

「黙れ」

二人の“黙れ”が重なって、岩崎が吹いた。

「ねえ、ほんと仲いいね」

「良くない」
俺が言う。

梶山も言う。

「良くない」

またそろって、平野が大喜びする。

「ほら! 良くないがそろうのは良いってことだろ!」

意味が分からない。
分からないのに笑いそうになって、俺はまた喉の奥で止めた。
止めるのが癖だ。
でも今日は、止め切れない瞬間が増えている。

その増えた瞬間のそばに、いつも梶山がいる。
――それが、いちばんまずい。



夕方。
片付けの時間になって、廊下の騒ぎが少しずつ薄くなる。
机を畳んで、箱をまとめて、ガムテを剥がす。

平野が段ボールを潰しながら言った。

「なあ、俺さ、今日さ」

「なに」
岩崎が返す。

「祝嶺、昨日よりちょっとだけ喋ってない?」
わざと明るい声。わざと軽い言い方。
俺の肩が固まる。

梶山が平野の額を軽く押した。

「余計なこと言うな」

「いてっ! 押すな!」

「押しただけ」

「押すなって!」

岩崎が俺を見て、口元だけ笑う。

「祝嶺。平野は余計なこと言う係」

「係って何だよ……」
平野がむくれる。

「でもね」
岩崎が続ける。

「余計なこと言うのは、嬉しい時だけ」

嬉しい。
俺は嬉しいのが怖い。
嬉しいと分かった瞬間、失うのが怖くなるから。

梶山が俺の手元を見ずに言う。

「祝嶺」

「……何」

「無理すんな」

「してない」

「してる」

いつもの往復。
でも今日は、梶山の声が少し柔らかい。

俺はガムテが指に絡んで、ベタッとした感触に顔をしかめた。

「うわ……最悪」

「祝嶺、不器用」
平野が笑う。

「お前が言うな」
岩崎が即返す。

梶山が無言でガムテの端をつまんで、俺の指から剥がした。
触れないぎりぎりで、剥がす。
その距離が、痛いほど優しい。

「……ありがと」
俺は言ってしまった。

梶山は短く言う。

「うん」

その“うん”が、昨日の“うん”と同じで。
同じなのに、今日は胸が熱い。



夕方
校庭で、閉会のフィナーレが始まった。
大げさじゃない。先生たちが見てて、時間も決まってて、音も規則の範囲。
それでも、みんなはそれを特別みたいに笑った。

スマホのライトが揺れる。
短い音楽。
誰かの歓声。
文化祭の最後の、少しだけ特別な時間。

平野は相変わらず騒いでいた。
動きが雑で、本気で、周りが笑う。

「平野、腰! 折れる!」
岩崎が叫ぶ。

「折れない! 俺は今日だけ強い!」

「今日だけって言うな」
梶山が止める。

「だって明日は筋肉痛!」

「それは正直」
岩崎が笑って、俺を見る。

「祝嶺、笑って」
言い切る。逃げ道がない。
でも今日は、逃げ道がないのが少しだけ救いだった。

俺は輪の端に立った。
端なら逃げられる。端なら目立たない。

でも、梶山が俺の隣に来た。
来て、半歩だけ前に出る。
いつもの壁。

「祝嶺、寒い?」

「平気」

「嘘」

「……嘘かも」

俺が認めると、梶山が小さく笑った。
胸の奥が、きゅっとなる。

平野がスマホを構えて叫ぶ。

「写真! 祝嶺も来い! 班の――」

「言い方」
梶山が即座に止めた。

平野が慌てて言い直す。

「ごめん! じゃあ……記念! 記念だから!」

岩崎が俺の横に来て、軽い声で言う。

「写らなくていい」
俺の体が少しだけ緩む。

「でもね」
岩崎は続ける。

「梶山の隣に立つだけでいい」

写らないなら残らない。
でも隣に立ったら、心に残る。
残るのが怖いのに、残したいと思ってしまう。

俺は一歩だけ動いた。
梶山の隣に立つ。

梶山は何も言わない。
でも俺と平野の間に半歩入って、壁を作る。
覗き込ませない。触れさせない。守る。

平野がシャッターを切った。

「……よし。祝嶺、顔、ちょっとだけ柔らかい」

声量が落ちた。
平野が気を遣ってるのが分かる。
その分、胸が痛い。

岩崎が画面を見て頷いた。

「うん。いい。……この班、ちゃんとしてる」

“ちゃんとしてる”が、胸に落ちる。
ちゃんとしてるって言われたら、壊したくなくなる。



閉会の放送が流れて、拍手が散った。
先生の「解散! 寄り道すんな!」が飛んで、笑い声が遠ざかっていく。
照明が順番に落ちて、校庭がゆっくり暗くなる。

俺は帰ろうとした。
校庭は避ける。
特別の残り香が怖いから。

平野が俺の前で止まった。
さっきまで騒いでたのに、今は声が落ちている。

「祝嶺! 今日、よく頑張った! ……ほんとに」

言い方が、いつもより真面目で。
それが逆に、胸に刺さる。

俺は言葉を探して、結局、短く言った。

「……お前も」

平野が一瞬だけ固まって、すぐ笑った。

「え、今、祝嶺に褒められた? 俺、明日生きれる!」

「生きて」
岩崎が即ツッコむ。

岩崎が軽く手を振る。

「祝嶺。道、気をつけて。……寒いから」

「……うん」

梶山は何も言わない。
でも視線が離れない。離れないのに追ってこない。
それが一番逃げづらい。

平野が最後に、もう一回だけ言った。

「じゃ、また月曜な! ……普通に、な!」

普通に。
その言葉が、泣きそうになるくらい優しい。

岩崎が平野の背中を押して言う。

「ほら、行くよ。平野、転ぶなよ」

「転ばねえ! ……たぶん!」

二人は笑いながら帰っていく。
背中が遠ざかって、校門の外の暗さに溶ける。
その瞬間、世界の音がひとつ減った。

残った音は、風と、俺の呼吸と、梶山の足音だけ。

俺は校庭の真ん中を避けた。
明るい場所を通ると、“普通に帰る班”のふりをしなきゃいけない。
ふりが、もうできない気がしたから。

裏の渡り廊下へ回る。昇降口の脇を抜ける。
靴紐を結ぶ指が震えて、二回結び直した。

外に出ると、夜の空気が刺さる。

見ない。校庭の方を見ない。
見たら止まる。……止まってはいけない。

そう思って歩き出したとき。
視界の端に、人影が入った。

校庭の端。ベンチの近く。
光の外側。影の中に、立っている。

――梶山。

反射で引き返したくなった。
引き返せば逃げられる。逃げれば終われる。

でも。

足が、止まった。体が先に負けた。
逃げる前に、止まってしまった。

梶山は動かない。
ただ、そこにいる。
目線だけがまっすぐで、逃げ道がない。

たった一年の秘密が、喉の奥で暴れたまま。
十一月三日、十九時を少し回っていた。

梶山が、距離を詰めないまま言った。

「寒くない?」

固定された一言が、静かな夜に落ちた。

「平気。帰るから。」
言い切ったつもりなのに、声が少し震えた。
平気じゃないのに。帰れないのに。

梶山は頷かない。
頷かないまま、距離を固定する。
追わない形で、でも通り道の角度だけ消す。

「……まだ、話してない。」

俺の喉の奥が、きゅっと縮む。

「話すことなんて、ない」
言えば終わる。終われば同級生のふりに戻れる。戻れば痛くない――はずだ。

「……ないって言えば、終われると思った」
言った瞬間、自分の声が自分を殴った。
終われると思った、って。終わりたくないくせに。

梶山が、俺を見た。
眩しい笑顔じゃない。
でも、目が真っ直ぐで、逃げ道がない。

「昨日、逃げたろ」
責める声じゃない。確認みたいな声。

「……逃げた」

認めた瞬間、胸が痛い。
でも、認めた瞬間、少しだけ楽でもある。

「今日は」
梶山が言いかけて、止めた。
止めて、言い直す。

「今日は、逃げないで来た」

――逃げないで来た。
その言葉が、俺の中の何かを揺らす。

「……来たんじゃない」
口が勝手に抵抗する。
「気づいたら、ここに……」

「うん」
梶山が頷く。否定しない。
否定しないから、俺の言葉は止まらない。

「見たんだろ」
俺は言った。学生証の数字を。

「見た」
梶山は認める。誤魔化さない。
その誠実さが怖い。

「じゃあ、もう――」
言いかけた言葉を、喉が止めた。言ったら終わるから。

梶山が、低くない声で言う。

「俺は、祝嶺を別にしない」

“別にしない”が、胸の奥に落ちる。

「……できるわけない」
俺は言った。
「分かった瞬間、変わる。みんな、線を引く。『同級生じゃない』って、勝手にする」

梶山は黙って聞く。口を挟まない。
挟まないから、俺は止まれない。

「一年休んだってだけなのに」
喉が熱くなる。
「でも俺は、その一年で……置いていかれたみたいで」

梶山の目が揺れた。怒りじゃない。痛みみたいな揺れ。

「怖かった?」
短い。答えを急かさない。
でも逃がさない。

「……怖かった」
認めた瞬間、胸が少しだけ軽くなる。軽くなるのが怖いのに、軽い。

「だから、笑う場所も話す相手も減らした」
俺は言う。
「増えたら、失ったとき痛いから」

梶山が、静かに言った。

「……俺は、増えてよかった」

その一言で、胸がぎゅっとなる。

「そういうこと、軽く言うなよ」

「軽く言ってない」

「……重い」

「うん」

認めるな。
認められたら、逃げる理由が減る。

俺は唇を噛んで、絞るみたいに言った。

「……俺、好きになったからだよ」

言った瞬間、風の音だけが残った。
世界が止まった気がした。
止まったのは世界じゃない。俺の中の逃げ道だ。

梶山は驚かない。
でも目の奥が揺れる。
揺れて、すぐ固まる。

「……いつ」

「分かんない」

俺は息を吐いた。
「気づいたら、隣が怖くなくなってた。『無理すんな』って言われるのムカつくのに、安心して」

止まらない。
止めたら、また隠す。隠したら、もう二度と出せない気がした。

「好きになった分だけ、バレたら終わるのが怖くなった」
言葉が勝手に続く。
「同級生じゃなくなったら、隣に座れなくなると思った」

梶山は、すぐに否定しない。
否定しないで、ただ言う。

「座れる」

「座れない」

「座れる」

短い往復。
いつもの喧嘩みたいで、泣きそうになる。

梶山が息を吐いて言った。

「祝嶺が“同級生”でいたいなら、俺もそうする」

優しすぎて痛い。

「でも」
梶山が続ける。

「ふりにするな」

ふりにするな。
それは俺が一番逃げに使ってきた言葉だ。

梶山は一歩も近づかない。
なのに近い。

「俺は、お前が一歳上でも――」
そこで止める。
止めて、言い直す。

「俺は、お前が“怖い”って言うとこも、好きだ」

好き。
その言葉が胸の奥に落ちて、じわっと広がる。

俺は視線を落として、言った。

「……俺も」
声が震える。震えても、出した。

「俺も、好き」

言った瞬間、喉の奥の一年が少しだけ静かになった。
消えない。
でも、暴れない。

梶山が、やっと笑った。
眩しい笑顔じゃない。
でも俺が一番好きな笑い方。

梶山の手が、俺の頬の横に来る。
触れない。触れる直前で止まる。

――訊かれてる。
言葉じゃなくて。
距離と目で。

俺は逃げない。
息を吐く。
目を逸らさない。

その“間”で、梶山は分かったみたいに目を細めて――
唇が触れた。

一瞬。
確認みたいな軽い触れ。
熱が形になる前に、すぐ離れる。

俺の胸が遅れて追いつく。
遅れて追いつくのが、俺らしい。

梶山が俺を見た。
声じゃなくて、目で聞くみたいに。

俺は頷いた。小さく。
逃げない、っていう頷き。

次の瞬間、梶山がもう一度来る。
今度はちゃんと。
離れたと思った世界を、もう一回つなぎ直すみたいに。

深く――というより、長い。
長くて、丁寧で、逃げ道を作らない。

怖くない。
怖くないのが、涙が出そうで怖い。

梶山がやっと離れて、俺を見た。

「……嫌だった?」
確認は声で。優しさで。

俺は首を振った。今度はちゃんと。

「……嫌じゃない」

言えた。
その事実だけで胸が熱い。

梶山が小さく息を吐く。安心したみたいに。

「祝嶺」

名前を呼ぶ声が、もう刺さらない。
刺さらない代わりに、温かい。

「明日も、隣」
当たり前みたいに。
でも、ちゃんと約束みたいに。

俺は息を薄くしなかった。
ちゃんと吸って、ちゃんと吐いて、言った。

「……うん」

その“うん”が、今日一番の決着だった。

梶山の手が、俺の手の近くに落ちる。
掴まない。
でも、逃げられる距離じゃない。

――訊かれてる。
言葉じゃなくて。
この近さで。

俺は一秒だけ迷って、指先を動かした。
梶山の手の甲に触れる。触れて、止まらない。
指が絡む。
手が、繋がる。

小さい。
でも俺の胸の中では、さっきのキスより大きい音が鳴った。

梶山が、繋いだまま言う。

「帰るか」

俺は繋いだ手を見ないで言った。
見たら泣きそうだから。

「……帰る」

「うん」

「……寒い」

「知ってる」

知ってる、が優しい。
“知ってる”の中に、全部入っている。

校庭の灯りはもうほとんど消えて、校舎の窓だけが残っている。
俺たちはその暗さの中で、手だけは離さなかった。

たった一年の秘密は消えない。
でも、隠すための一年じゃなくなった。

十一月三日。
夜は早く終わっていく。
でも、俺の隣は――明日も続く。