俺は、このクラスでただひとり、一歳上だ。
たった一年。けど、その一年がバレた瞬間、俺は“同級生”じゃなくなる。
そうなったら、今ある距離も、作りかけの関係も、ぜんぶ崩れる気がして。
だから、笑う場所も、話す相手も、できるだけ少なくしてきた。
五月。席替え。
俺の隣に来たのは、梶山だった。
連休明けの教室は、空気が軽い。
四月の「初対面」がほどけて、みんなが勝手に馴染みはじめる時期。俺だけ置いていかれる、ちょうどいい季節。
「席替えする。はい、これ。前から順」
担任の井上は箱を片手に言い切った。説明が短い。迷う暇がない。
——話が早い、ってこういうやつだ。
箱の中で棒が擦れて、しゃらしゃら鳴る。
俺は自分の番が来る前に、呼吸を薄くした。大きく吸うと、目立つ気がする。意味はないのに。
棒を一本抜く。数字は「2」。
前から二番目。窓側の列。
……変わらない。助かる。助かるのに、胸の奥が小さくざわついた。席替えは「誰の隣になるか」で世界が変わる。
机を引きずる音が増える。椅子の脚が床を引っかいて、誰かが笑う。誰かが「最悪」と叫ぶ。誰かが「神」と拍手する。
俺は新しい席に座って、机の中を整えた。
ペンは左から。シャーペン、黒、赤。消しゴムは右。定規は一番下。整えると、心が息をする。
右は窓。左は空席。後ろは、平野。
「よ。祝嶺」
背後から声が落ちる。明るい。というより、楽しそう。
振り返ると、平野がにやっと笑っていた。笑顔のまま、机の脚を軽く蹴って椅子を揺らす。落ち着きがないのに、嫌味がない。
「後ろ、俺。よろしくな。……っていうか、これで声かけやすいわ」
「……よろしく」
薄く返す。濃く返したら、その分だけ会話が増える。
「反応うっす。塩対応かよ」
平野は笑って、すぐ次の誰かに手を振った。こっちを長居させない。
——助かる。
前の列がざわついた。
「え、梶山そこ!? やだ〜、運命じゃん」
声のトーンが一段上がる。
岩崎が、肘をついてこっちを振り返っていた。指先がやけにしなやかで、髪を払う動きが上手い。口元だけ笑って、目はちゃんと人を見てる。
「運命って言うな。だる」
梶山の声が、左隣から聞こえた。
……左隣。
分かってたはずなのに、椅子を引く音ひとつで、胃が縮む。
俺の隣の空席に、誰かが座る気配。
視界の端で、制服の袖が揺れる。
「祝嶺、だよな。隣、よろしく」
梶山がこちらを向いた。
爽やか、って言葉がそのまま当てはまる顔。笑うと眩しい。目線がまっすぐで、逃げ道がない。
俺は一度だけ頷いて、目を落とした。
「……祝嶺。よろしく」
名前を呼ばれるたびに、背中が硬くなる。
名前はただの音なのに、呼ばれると「ここにいる」って証明されるみたいで。
「ほら〜、もうできてるじゃん。隣同士、いい感じ〜」
岩崎が手首をくるっと回して笑った。
「いい感じって誰が」
平野が後ろから口を挟む。
「はい、前向け。授業」
井上の声が落ちる。そこで空気が切り替わる。
授業が始まった。
プリントが配られる。前の席から回ってきた束を、梶山が受け取った。
そのまま、俺の机の角に一枚だけすっと置く。
「ほい」
“ほい”の一言で済むのが、逆に怖い。
借りを作った気になる。
「……ありがと」
俺の声が、自分でも思ったよりちゃんと出た。
梶山は「ん」と短く返して前を向いた。そこで終わり。押しつけがましくない。
なのに、消えない。
英語の時間。
「隣同士、会話文。交代で読め」
井上の指示は相変わらず短い。
俺は息を吐いた。隣同士。つまり、俺と梶山。
「先、俺やる」
梶山が迷いなく言った。断る隙がないスピード。
教科書を開いて、指で行を押さえる。指先が机の境界をほんの少し越える。越え方が自然すぎて、指摘できない。
梶山の発音は上手かった。ふざけない。真面目。
読み終えると、顎を軽く上げて俺を促した。言葉じゃなく動き。
「……うん」
俺も読む。
途中で詰まった単語の上に、梶山のペン先がそっと置かれた。無言で、答えだけ差し出す。
助けられたことが悔しくて、ありがとうが出ない。
出ないまま読み切る。
「今の、いい」
梶山が小声で言った。俺にだけ届く音量。
「……別に」
短く返す。いつもの盾。
梶山は笑わない。「別に」を責めない。
昼休み。
平野が後ろから俺の肩を軽く叩いた。
「昼、どうする? 購買行く? ……ってか、岩崎も行く?」
「行く行く〜。私、甘いの欲しい。糖分、今すぐ」
岩崎が立ち上がる。椅子が甲高く鳴る。
動きが大きいのに、手のひらの角度がいちいち綺麗で、目がいく。
梶山が俺を見る。
“行く?”って顔だけで聞いてくる。言葉にしないのが、ずるい。
「……行かない」
俺は即答した。即答できるところだけ、強い。
「うける。即答」
平野が笑う。
「祝嶺、そういうとこ、好き〜」
岩崎が言って、口元に指を当てた。
——言い方は軽いのに、目が俺の反応を取りこぼさない。
「好きとか言うな」
俺が言う前に、梶山がさらっと被せた。軽いトーン。冗談みたい。
でも、岩崎の言葉を止める速度が早い。
「え、嫉妬? かわい」
「ちげえ」
梶山は短く言って、パンを片手に立ち上がった。
「じゃ、俺ら行ってくる。祝嶺、置いとく?」
「……大丈夫」
「オッケ」
梶山はそれ以上聞かずに、平野と岩崎を連れて教室を出た。
置いていかれた、のに。
置いていかれた感じがしないのが、いちばん腹立つ。
午後の授業は眠かった。
眠いふりをして、関わりを薄くする。これも癖。
五限は体育。
校庭に出ると、井上が笛を鳴らした。
「二人組。はい、早く」
俺が動く前に、梶山が隣に立った。
「組も」
短い。断る理由を作らせない。
準備運動のストレッチ。俺が片足を上げた瞬間、バランスが崩れてよろける。
転びはしない。でも、視線が集まるのが分かって胃が縮んだ。
梶山が笑わないまま、手のひらを差し出した。
掴まるのは嫌だ。嫌なのに、俺の指が勝手に動いた。
一瞬だけ触れて、すぐ離す。触れたところが熱い。
「無理すんな」
梶山の声は小さい。俺にだけ届く。
「してない」
「してる」
短い往復。言い返す暇がない。
少し離れたところで、平野が大げさに転んで砂を払っていた。
「見た!? 今の俺の華麗な受け身!」
「受け身じゃなくてただの転倒〜」
岩崎が笑いながら、こっちを一瞬だけ見る。目が合って、すぐ逸らされる。
——今の、見てた。
***
放課後。
井上が教壇の上でプリントをまとめながら言った。
「連絡。来週から清掃当番、変える。席替えしたからな。以上。帰れ」
以上、で終わる。話が早い。
みんなが一斉に立ち上がる。
俺もカバンを持った。帰る。それだけでいい。
それだけで——
「祝嶺」
左から呼ばれて、足が止まった。
まだ何も起きてないのに、体が先に構える。
梶山が立っていた。カバンの持ち手を握っている。目だけまっすぐ。
「今日さ。帰り、まっすぐ?」
質問が軽い。だけど、意味は重い。
どこに住んでる、何をしてる、そういう話に繋がる入口。
「……うん」
「そっか」
梶山は頷いて、それだけで終わると思った。
でも、終わらない。
梶山は教室の扉を先に開けた。誰かのために、って言わないまま。
岩崎が「ジェントル〜」と小さく囁いて、平野が「うるせ」と笑う。
俺はその輪の端に、立ってしまった。
「帰り」
梶山が振り向く。声はいつも通り軽い。
「一緒でいい?」
質問の形。だけど、もう断る理由を用意できない。
断ったら理由を聞かれる。理由は言えない。
「……別に」
いちばんずるい返事をした。
梶山は、笑った。
「よし」
それだけで決まったみたいに廊下へ歩き出す。
岩崎が指先を揺らして「はい、決定〜」と歌い、平野が「早っ」と笑う。
俺は歩き出すタイミングを一拍遅らせてから、ついていった。
同級生のふりのまま、梶山の隣に並ぶために。
校門を出ると空気が少し冷えた。
五月の夕方は、まだ肌に薄い刃みたいな冷たさがある。
梶山は自販機の前で立ち止まり、温かい缶を二本落とした。
「はい」
一本が俺の手のひらに押しつけられる。
「……いらない」
「手、冷たい。持っとけ」
それだけ。
俺は缶を握ってしまう。熱がじわっと移る。
道が分かれる手前で、平野が腕を上げた。
「じゃ、俺こっち! ゲーセン寄ってく! 祝嶺、気が向いたら来いよ!」
「……今日は、帰る」
口が先に出た。
断ったっていう事実が、胸の奥で小さく鳴る。
「え、即答!? 冷た!」
「冷たくない。ちゃんとしてる」
岩崎があっさり言って、平野が「なんだそれ!」と騒ぐ。
梶山が俺を見ずに言った。
「今日は、まっすぐ」
「梶山が言うと強い!」
平野が笑って、肩をすくめる。
「はいはい! じゃ、また明日な!」
明るいまま走っていく。
岩崎はその背中に「転ぶなよ〜」と手を振ってから、俺を見る。
笑い方は軽いのに、言葉だけが妙に真ん中を突いてきた。
「祝嶺。……『無理』って言えるの、ちゃんとしてる」
褒めてるみたいで、見抜いてるみたいで。
俺は反射で目を逸らした。
「別に」
「別に、今日何回目?」
岩崎が小さく笑って、別の道へ曲がっていった。
残ったのは、俺と梶山だけ。
急に静かになると、心臓の音が目立つ。
「……さっきの、断ったやつ」
梶山が前を向いたまま言った。
「嫌なら嫌でいい」
理由を聞かない。掘らない。
そのくせ、隣にいることだけは当然みたいにする。
「……うん」
「『うん』で片づけるなよ」
梶山が冗談みたいに言う。
目線はまっすぐで逃げ道がない。
角を曲がって住宅の匂いがする。味噌汁とか、洗剤とか。
ここに居場所ができたら、失くした時が痛い。そう思うのに。
「祝嶺さ」
梶山が缶を口元に当てながら言った。
「部活、決めた?」
「……まだ」
「そっか。俺は鉄研」
「……鉄研」
「意外?」
「……意外じゃない」
梶山が「だろ」と笑った。
「今度、見に来る? って言いたいけど、強要はしない」
「……そのうち」
また、ずるい返事をした。
梶山は追及しない。「うん」とだけ言った。
交差点の角、横断歩道の手前で俺は足を止めた。
「俺、こっち」
「そっちか」
梶山も止まる。ちょっとだけ距離が近い。触れないのに、近い。
「明日」
梶山が言った。
軽い声のまま、でも、最後だけ少しだけ真面目になった。
「休むなよ。隣、空くの嫌だから」
胸の奥が、変に跳ねた。
冗談みたいに言える距離なのに、冗談で済まない言い方。
「……うん」
「じゃ、また明日」
梶山が背を向ける。
俺はその背中を見て、缶の温かさを思い出す。
家に着いて、玄関の鍵を開けた。
ポケットから学生証を出した瞬間、指先が一度だけ止まる。
そこに書いてある数字は、俺の味方じゃない。
俺は学生証を机の端に置いて、裏返した。
文字を見ない。見せない。
五月の席替えは、ただ席が変わっただけだ。
……そう思いたい。
でも、梶山の「隣、空くの嫌だから」が、耳に残ったままだ。
同級生のままでいたい。
同級生として、隣に座りたい。
たった一年の秘密を、喉の奥に隠したまま。
明日も、隣だ。
