白狐の主様と、契りの血を宿す娘

夜空が、赤く染まっていた。
星の色が分からなくなるほど炎が高く噴き上がり、屋根から屋根へ、獣のように舌を伸ばしていく。

燃え盛る我が家を前に、私は裸足のまま座り込んでいた。
火の粉が舞っても、肌にひりつく感覚はない。
ただ、身体中に残る鈍い痛みは、いつも通り、ドクドクと不愉快な鼓動を感じさせていた。

どうして家が燃えているんだっけ。
さっきまで、確かに――。

思い出すと同時に震え出す身体。
ぎゅっと押さえつけるように自分の身体を掴むけれど、痣だらけの両腕に恐怖を抑える力はない。

肉親にぶたれるというこれ以上ない痛み。
何度受けても慣れることなく心を蝕み続けていたその全てが、大きな炎に飲み込まれた。
そう考えると、燃え盛る炎は、もしかしたら私を救ってくれたのかもしれない。

それでも、震える体はどうにもならなかった。
途切れることのなかった暴力から解放されたのに。
いまなお、私の身体を震えさせるのは、また別の、信じられない現実だったのだ。

「――娘」

炎を背に立ちはだかる大きな人型の影。
その存在に気付いたその瞬間から目を背けていた私は、低く温度のない声に恐る恐る顔を上げた。

汚れひとつない真っ白な和服に言葉を失う。
『美しい』なんてひどく場違いな感情が浮かび上がった。

背が高く、無駄のない骨格が衣の下に透け、人間離れした美しい顔がこちらを見下ろす。
雪のように白い髪や肌。
前髪の隙間から覗く切れ長の瞳は、炎よりも深い紅だった。

空気がわずかに揺れ、和服の背から一本の尾が現れる。
背中をすっかり覆い尽くし、炎の光を柔らかく跳ね返すふわりとした毛並みが美しい。

ただ、理解するより先に、近づいてはいけないものだと本能が告げた。
身体の震えが止まらない。
恐怖で言葉も出ない。
こういった異形の類を目にすることはこれまでにもあったのだけど。
それでもこれほどの威圧感を持った存在を目の前にするのは初めてだった。

「ーーどうする」
もう一度低く響いた声が、心臓を握り潰すように重く響く。

「お前には、もう帰る場所はないが」

すっと背筋が冷えた。

人ならざる者を目の前にしているというのに。
『あなたが燃やしたんでしょう』と、泣き叫ぶこともできただろうに。
それより先に「帰る」という言葉が胸に突き刺さり、私の心を真っ白にする。

そもそもここは、私にとって帰る場所だっただろうか。
今にも崩れそうな、骨組みが露わになった燃え続ける家を冷めた目で見つめてしまう。

「俺と、来るか」
温度のない声と、冷徹な紅の瞳は変わらない。
それでも、ここに残る理由はもうどこにもなかった。

「行くな!」
振り返ると、煤にまみれた幼馴染が、必死な顔で立っていた。
ずれて歪んだ黒縁の眼鏡を片手で押さえながら、こちらに手を伸ばしている。
「……あは」
その姿がひどくちぐはぐで、私は思わず乾いた笑いが溢れた。

彼は、優しかった。
家族にも、友達にも恵まれなかった私に、彼だけはいつも変わらず、穏やかに微笑んでくれていた。

だけどーー。
私は目の前に立つ異形の男に、震える手を差し出した。
彼は、その切れ長の目をすっと細め、細長く綺麗な指先で私の手を優しく引いた。

冷たいその指先に触れたその瞬間、ずっと止まらなかった震えが、すっと消えた。
そのまま私は、真っ暗な闇に吸い込まれていった。



目を覚ますと、障子の向こうには見慣れた薄暗い景色が広がっていた。
霧に包まれて輪郭の曖昧な庭の向こうに、オレンジ色の灯籠が浮かんでいる。

ここは、宿屋とは別の建物である奥殿、その一角にある私の自室。
広くはないけれど、畳も障子もきちんと手入れされていて、過ごしにくさを感じたことは一度もない。
押入れに詰め込まれていたあの頃を思えば、随分と人間らしいとまで思う。
小さな花器に活けられた季節の花がささやかに部屋を彩っていて、私は微笑みを落とした。

慣れた手つきで着物に袖を通し、帯を締める。
淡い生成りで、裾に小さな草花の文様が入った着物は、主様が私にくれた一枚だ。
裾を整え、家事用の襷を肩に掛けると、身体が自然と引き締まる。
鏡を見る必要もないほど、この身支度は五年の間に染みついていた。

部屋を出て、奥殿の廊下を抜け、主様のための厨房へ向かう。
奥殿は全貌が分からないほど広く、廊下は幾重にも伸びているが、襖の向こうに何があるのかを私はほとんど知らない。
そもそも奥殿に入れる存在すらも限られており、ここには強い結界が張られているのだそうだ。
かつてその境を越えようとした者が、音もなく消えるのを見たことがあった。
悲鳴も血もなく、一瞬にして、最初から存在しなかったみたいに消えた映像は、恐怖に似た感情のまま私の記憶にこびりついている。
だから私は知っている、この奥殿は誰でも入れる場所じゃない。
だからと言って、人間の私が、どうして入ることができているのかはわからないままなのだけれど。

辿り着いた厨房で、鍋に火を入れ刻んだ野菜を落としながら、私はふと五年前のことを思い返していた。
空を覆い尽くすほどの大きな炎を、忘れたことは一度もない。
訳も分からないまま手を伸ばした私は、気づけば、ここで女中として働くことを選んでいた。

ここは妖の宿屋《常夜ノ宿》。
人の世界と妖の世界、その境界に近い境目域に門を構える、上位妖御用達の老舗旅館らしい。
あの夜、炎の中に現れた一尾狐は、この宿を治める主様だった。

最初は妖の理も分からず、何度も立ち尽くした。
それでも、居場所を与えられた私は、いつの間にか仕事を覚え、ここでの生活が日常となっている。
不思議と過ごしにくいと思ったことは一度もないのだ。
人間界での生きづらさが嘘のように。

鍋の中を確かめながら、私は当然のように今の日常を受け入れている自分の適応力に笑ってしまう。
15歳の時に、家が燃えてもう5年。
本日20歳になった私、稲代結乃は《常夜ノ宿》で女中をしている。



朝餉の支度が整うと、盆に膳をのせ、私は奥殿の廊下を進んだ。
主様の部屋の前で一度膝をつけて座り、呼吸を整えてから障子を開けた。
「失礼します」と声をかけても返事はない。
けれど、それはいつものこと。
私はすっと立ち上がって、慣れたように主様の部屋へと足を踏み入れた。

準備が整う頃、上品に襖の開く音がして、主様が静かに部屋へ入ってきた。
主様の姿は、毎日見ていても見慣れることはない。
白を基調とした和服に身を包み、高い身長が私を見下ろす。
雪のように白い前髪が切れ長の目元にかかっているが、その奥の瞳は夜のように真っ暗で感情をほとんど映さない。

「おはようございます」と告げると「ああ」と短い返事が返ってくる。
主様は軽く服装を整えると、膳の前に座り、自然な流れで食事が始まった。
向かい合って食事をするこの時間も、五年のうちにすっかり馴染んだものになっていた。



食事を終えた主様は静かに立ち上がり、そのまま奥殿の玄関へ向かった。
私は用意しておいた羽織を手に、少し遅れてその背を追う。
玄関に立つ白い背中に近づき、そっと羽織を持ち上げると、主様はわずかに肩を動かし慣れたように袖を通す。

襟元を正したところで、主様が振り返った。
その動きは静かで、けれど距離が一気に詰まる。
見下ろされる形になり、白い髪の隙間から落ちる視線がまっすぐこちらを捉えた。

毎朝のことなのに、この瞳に見つめられる時間だけは、何年経っても緊張する。

「結乃」
突然呼ばれた名前に、さらに心臓が跳ねた。
主様が私の名を口にしたのは、五年前、ここへ連れて来られた日に名を告げて以来だと思う。
どう返事をすればいいのか分からず、ただ視線を上げる。
見下ろす黒い瞳に、胸の奥が落ち着かない音を立てた。

私は小さく息を吸い、着物の襟元が崩れないように気をつけながら、そっと首を傾けた。
主様は軽く身をかがめ、白い首筋に迷いなく唇を落とす。
触れるだけの口づけに、私はぎゅっと目を閉じた。

左右のこめかみあたりと、尾てい骨の中央にぐぐっと熱を感じる。
くすぐったいようなその感覚に数秒耐えれば、主様の唇はそっと離れた。

「……二十歳だな」
低く落とされた声が、すぐ近くで響く。
私は小さく息を整え、着物の襟元を正す。
「知っていてくれたんですか」
「ああ」
いつもなら、すぐに背を向けて出ていく主様が、今日はじっと私を見つめたままだった。
今度こそ本当に戸惑って主様を見つめる。

次の瞬間、主様の白く細い指先が首に触れ、先ほどよりもわずかに強い感触が重ねられた。
歯がかすかに触れ、ちり、と小さな痛みが走る。

主様は、何かを確かめるように一瞬だけ視線を落とし、ほんのわずかに息を緩めた。
そんな柔らかな表情を見るのは初めてのことで、遅れて耳の裏が熱を帯びる。

「行ってくる」
袖を翻した主様は、迷いなく奥殿を出ていった。

私は胸元を押さえたまま、少しだけ立ち尽くす。
両耳に触れれば、いつも通りの温かい毛並みがそこにあった。

――いつもと同じだ。
そう言い聞かせるように、背筋を伸ばす。
けれど、大きく高鳴る心臓の音は、しばらくのあいだ耳の奥に残り続けていた。



身支度を整えた私は、宿屋へと向かって竹箒を手に庭へ出た。
霧はまだ薄く残っていて、庭石の輪郭を柔らかく曖昧にしている。

「結乃、落ち葉こっち多い」
高く尖った声が響いて、私は振り返る。
「黒羽」
人の姿を取っていても、動くたびに黒い羽の名残が首元や腕に見える彼女は、鴉の妖だ。

五年前、ふさぎこんでいた私に、主様が紹介してくれたのが黒羽だった。
「普段の仕事を教えてやってくれ」
突如目の前に現れた主様に、地面にめり込むほど頭を垂れていた彼女の姿は、衝撃的だった。
けれど彼女もまた、平気で主様の隣に立つ私に驚いていたようだ。

「あんた、何者なの……?」
主様が去ったあと不可解な視線を向けながらも、自然に仕事の輪に入れてくれた。
今は妖の世界にも慣れてきて、彼女たちには人間のような情が存在しないことは分かっている。
だからきっと黒羽の優しさは、ただの合理的な判断だったと思うのだけれど。
それでも、輪に入れてもらうことの少ない人生を歩んできた私にとっては、救われた瞬間だった。
だからいまもこうして、彼女の隣で仕事を続けているのだ。

並んで箒を動かし、苔の間に溜まった落ち葉を集める。
ふと顔を上げると、庭の向こうの宿屋がいつもより賑わっているのが見えた。
灯籠の数も多く、一段とオレンジ色の明かりが眩しい。

「今日はにぎやかだね」
私がそう言うと、黒羽は箒を止めずに答えた。
「上が集まってるからな」
「上って、上級の妖?」
「ああ、なにかあるんだろ」
黒羽は一瞬、肩をすくめるように身を震わせた。
「気配が重い」
私は宿屋に目を向けたまま小さく呟く。
「黒羽は、そういうの分かるんだもんね」
「分かりたくなくてもな」
言葉が終わる前に、ふっと空気の温度が変わった。
黒羽が箒を止め、崩れ落ちるように膝を折る。
ガクガクと音を立てるように、庭にいた妖たちが次々と地面に伏した。

人間の私は妖力の変化を感じ取れない。
けれど、五年も過ごしていれば状況は推測できる。

ーー主様が通る。
遅れて箒を置き、周囲に倣って膝をついた。
額を下げると、衣擦れの音が近づいてくる。

重さも、息苦しさも感じない。
ただ無言で過ぎ去るのを待っていると、足音が止まった。
隣で、黒羽が妖力に当てられて苦しそうに息を詰める。

「結乃」
伏せたまま、胸の奥がわずかにざわつく。
ほんの少しだけ顔を上げると、奥殿で見るよりもずっと感情の見えない黒い瞳が確かにこちらを見ていた。
「今日は、遅くなる。夕餉はいらない」
短くそれだけ告げると、足音は再び動き出した。
周囲の空気は重く沈み、膝をつく妖たちが、ひそやかに苦しさを滲ませている。
それなのに、私の胸の奥だけが、朝の続きのように、落ち着かないままだった。

主様が完全に見えなくなり、ようやく庭の空気は緩んだ。
誰かが大きく息を吐き、別の誰かが、擦れた声で笑った。
「……やっと、通り過ぎた」
「立ち止まられるとは、皆大丈夫だったか?」

そんな中、ほんの小さな声が、自然と私の方へ流れてくる。
「主様と会話をしているのを初めてみた」
「やっぱり結乃は特別なんだな……」
「妖力に当てられないのは羨ましいよ」
「……主様のお気に入りだ。触らぬが吉だ」
ひそやかな声が途切れ、代わりに遠慮がちな視線が私に集まった。

「主様の話なんて、私たちがすることじゃない」
空気を壊すような甲高い声が響く。
ピシリと言い放った黒羽は、いつも通り落ち葉を集め始めた。
一瞬だけ気まずい沈黙が落ち、周囲の妖たちは視線を逸らしてそれぞれの持ち場へと戻っていった。

相変わらず、何も聞いてこない黒羽の背中を、ちらりと見る。
淡々としていて、冷たくも見える。
それでも、異質な私を皆と同じところに立たせてくれる。
黒羽のそういうところが、好きだった。

私は箒を握り直し、いつも通り、黒羽の隣に立つ。
「私は黒羽と一緒にいられて嬉しいよ」
その言葉に、黒羽は一瞬だけ動きを止めた。
漆黒の瞳に、私の髪の隙間から覗く、二つの狐の耳が映る。
「……変わった狐だな」
そう言い残して、再び落ち葉を集め始める。
私はその横顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じていた。



庭の掃除を終えた私たちは、宿屋に戻って、客室用の布団を運ぶ仕事に取りかかっていた。
使用済みの寝具を下げ、新しいものと入れ替える。
同じ建物内に上位の妖が集まっているからか、黒羽は終始苦しそうに仕事を行っていた。

「黒羽。私がやるから、無理しないで」
私はそれを感じることができないので、その分役に立とうと人一倍に動き回る。
「そんなことしたってあんたにメリットは何もないのに」
言いながらも黒羽は、苦しそうに替えの寝具を差し出した。
姉御肌の強い黒羽が、素直に私に任せるということは相当苦しい思いをしているのだ。
そう考えると、私まで胸がぎゅっと痛んだ。

その時、背後で黒羽が立ち上がる音がした。
「……結乃下がった方がいい」
低く抑えた声が聞こえ、私は彼女を振り返る。
黒羽は窓際に立ち、庭に広がる広大な森を見下ろしていた。

「どうしたの?」
肩口の羽毛が、ざわりと逆立っていた。
ただ事ではない雰囲気を感じ、私は布団を置いて黒羽に近付く。

「何か来る」
黒羽がそう呟いた、その瞬間だった。

甲高い音とともに、廊下沿いの窓ガラスが内側へ弾け飛ぶ。
霧と破片が一気に流れ込み、遅れて、黒羽の頬が裂けた。
黒い血が細く走り、黒い鴉の羽が、まるで引き裂かれた影のように舞った。

「黒羽!」
声を上げるより早く、割れた窓の向こうから黒い靄が滑り込んでくる。
形を持たないそれが、意思を持つように黒羽へ絡みついた。

何が起きているのか分からなかった。
これまでの五年間、私の目の前でこんなことが起きることは一度もなかった。
固まっている間に、靄が黒羽の腕と肩を包み込み、動きを奪う。
黒羽が歯を食いしばり、身を捩った。

「近づくな!」
その声は、助けようと拳を握った私に向けられたものだった。
そうは言われても飲み込まれるように姿が見えなくなっていく黒羽を放っておくことはできない。

「黒羽を返して!」
黒い靄に手を伸ばした瞬間、鋭い痛みが走った。
何かが腕を掠め、熱が弾ける。

「……っ」
床に、赤い雫が落ちた。
黒い羽毛の上に、はっきりとした血が滲む。
その瞬間、黒い靄が、まるで獲物を見つけた獣のように動きを変えた。
黒羽を絡め取っていた影が、音もなくほどける。
解放された黒羽が膝をつくのと同時に、靄の塊が確かにこちらを捉え、私の身体にまとわりついた。

「や、離して……!」
縄で縛られているように全身が締め付けられていく。
息を吸おうとしても、胸が動かない。
身体の内側を掴まれるような感覚に、視界が少しずつ暗くなっていった。

このまま、死ぬの?
そう思った瞬間、胸の奥に浮かんだのは、あの白い背中だった。

主様。主様。助けて。

そう願った瞬間。
低く獣の唸りにも似た音が響き、闇が一瞬で押し退けられた。

「……っ、ごほ……!」
突如解放された肺に、勢いよく酸素が流れ込み、私は大きく咳き込む。
視界が白く滲み、意識がふわりと揺れた。
倒れそうになった身体を柔らかな感触が受け止める。

ふわりとした毛並み。
白い狐の尾が、私を包み込むように支えているのが分かる。

「主……様」
ゆっくり目を開けると、白い和服に包まれ、私は主様の腕に抱き留められていた。

「……結乃。遅くなった」
低く、いつもの声が響く。
視線は真っ直ぐに靄を見据えたまま、私を腕に抱いた姿勢を崩さない。
普段は黒い切れ長の瞳が、あの夜のような深い紅に染まっていた。

主様が片手を上げると、床に残っていた黒い靄が、引き裂かれるように歪んだ。

「消えろ」
それだけだった。

私には、主様が何をしたのかも分からない。
ただ、その一言で、影は潰れ、最初から存在しなかったみたいに消えていく。

主様は、靄が完全に消えたことを確認してから、ようやく周囲へ視線を巡らせた。
その視線が、地面に膝をついたまま動かない黒羽で止まる。

空気が変わった。
さっきまで感じなかった圧が、一気に部屋一帯を満たす。

黒羽が、音もなく地面に伏した。
羽毛が床に散り、喉から短い息が漏れる。

「なぜ、結乃が傷ついている」
低く落とされた声には、感情の色がなかった。
黒羽は顔を上げることもできず、ただ震える身体を押さえるように伏している。
主様の指先が、わずかに動き、それだけで空気が軋んだ。
「説明しろ。お前が関わっているのなら――今すぐ消す」
黒羽の身体が、びくりと跳ねる。
このままでは、確実に。

「やめて!」
気づいたら、私は声を上げていた。
「黒羽は、守ってくれたの!」
腕の中で身を乗り出し、主様の衣をぎゅっと掴む。
「私が勝手に前に出たから……!黒羽だって傷ついてるの!黒羽、傷を見せて」
主様の動きが、ぴたりと止まった。
結乃、という名が、黒羽の喉の奥でかすかに震えたのが分かった。

「……顔を上げろ」
命令に従い、黒羽はゆっくりと顔を上げた。
主様の視線が、頬の傷と床に散った羽毛を捉える。
「治療を受け、終わり次第、片付けを」
一瞬の沈黙の後、主様はそう呟いた。
腕の中で、知らずのうちに小さく息を吐く。
主様の衣に触れている指先に、力がこもった。

主様が視線を落とし、私の衣に滲む赤を確認する。
私を抱えた腕にわずかに力が込められたと思ったら、次の瞬間、身体が宙に浮いた。

「主様……?」
主様は無言で私を抱いたまま、廊下へと出る。
廊下に出た瞬間、居合わせていた数名の上位妖が、息を呑んだ。
主様の近くに控える、狐の一族だ。
彼らは一瞬だけ、主様の腕の中にいる私へ視線を走らせ、すぐに揃って膝を折った。
「少し、場を開ける」
淡々とした声だった。
「宴は」
狐の一族のひとりが、短く問うが、主様は歩みを止めない。
「緊急事態だ。別日を設けろ」
一瞬の沈黙の後、揃った声が返る。
「……はっ」
返答を確認した主様はためらいなく障子を開け放った。

常夜の空の下、境目域の森と宿屋の灯が、遥か下に瞬いている。
「……っ」
思わず息を吸い込み、私は主様の衣を掴んだ。
足元に地面はなく、風だけが静かに吹き抜ける。
主様は何も言わず、私を抱く腕をほんの少しだけ強めた。
その仕草ひとつで、胸の奥が静かに落ち着いていく。

次の瞬間、景色が反転した。
白い影が夜を切り裂き、奥殿の屋根を越える。

瞬きをする間に、私たちは主様の自室にいた。
障子が勢いよく閉じられ、結界が静かに降りる。
皆が恐れ慄くそれに、私はほっと息を吐いていた。

主様は私を寝台に座らせると、無言のまま膝をついた。
白い指先が、私の腕の傷に触れる。

「あ……大丈夫です。少し切れただけで」
立ち上がろうとした私を、主様の低い声が引き止めた。
「動くな」
言い終わるより早く、主様は傷に顔を寄せる。
整った唇が、滲んだ血に触れた。

「……っ」
舌先が、ゆっくりと傷口をなぞる。
思わず目を閉じると、熱が吸い上げられていく感覚だけが残った。
みるみるうちに痛みが引いていく慣れない感覚。
狐の力だと、身体が理解するのには時間はかからなかった。

ふと、主様の動きが止まった。
ゆっくり目を開けると、傷口を見つめる瞳がわずかに紅を帯びていた。
「封妖師の術……人間か」
呟くような声に、心臓が小さく跳ねる。
怒りの滲む深い声に思わずその瞳を見つめると、主様は一度だけ視線を上げて、そっと指先で私の腕を撫でた。
「お前は気にしなくていい」
柔らかい声色でそう言ってから、再び傷口に触れる。
今度は、傷口にそっと口づけるような仕草だった。
白い光が滲み、皮膚が静かに塞がっていく。

「……っ、はぁ」
ぎゅっと胸を掴まれるような感覚に息を吐いた瞬間、指先から熱を失った。
こめかみの上から控えめに覗いていた耳が、音もなくほどけるように消える。
背後で感じていた重みもスッと軽くなった。

「まだ、仕事があるのに……戻っちゃった」
自身の髪に触れ、掠れた声でそう呟くと、主様の手が止まる。
「回復に力を使ったんだ。今日はもう休め」
傷が塞がったのを確かめてから、主様の手が私の腕に触れた。

顔を上げると、伏せがちになった視線と、わずかな沈黙が落ちる。
珍しい表情に目を丸くした瞬間、寝台から下されるように身体が引き寄せられ、私はそのまま、主様の胸元に包まれていた。

「主……様?」
驚いて身を動かそうとした。
けれど、それを許さないように腕に込められる力が強くなる。
ーーいつもと違う。
そう感じた私はそれ以上抵抗するのをやめた。

「俺の不在で、傷つけた」
しばらく大人しく抱きしめられていると、低く押し殺したような声が聞こえた。
その声の持つ重みを受けて、私は初めて、主様が自分自身を責めているのだと気づく。
ここでの暮らしは過ごしやすく、人間である私を妖として匿ってくれている主様を優しい存在だと思っていた。
けれど、こんなふうに、動揺する姿を見るのは初めてだった。
ましてや、私のことで。

「……もう、二度と」
そこで、言葉が途切れた。
私は少しだけ身を動かし、主様の胸元に額を寄せる。
「大丈夫です」
その声に、主様の身体がわずかに強張った。
「……何が大丈夫なんだ」
返ってきたのは、掠れた声だった。
弱々しいその響きに、私の指先は自然と白い髪へと伸びていた。
「助けてくれたじゃないですか」
彼を安心させるように、ふわふわとした白髪をゆっくりと撫でる。
「あの夜から、ずっと。私は、痛い思いも、怖い思いもしてません」
その言葉に、主様がわずかに顔を上げた。
驚いたように揺れる瞳から、紅の色が消えていく。

「主様がいるからです」
少しだけ間を置いて、私はにこりと笑った。
主様の腕から、張りつめていた力がすっと抜けていく。
その温かな変化に、私は思わずぎゅっと抱きついた。
主様は何も言わないまま、応えるように静かに腕を回してくれる。

「何かあればすぐに呼べ。必ず助けるから」
「はい、信じてます」
笑顔で返した私に、主様は呆れたようにため息をついた。
けれど、抱き寄せる腕の力が強くなったのを、私は確かに感じていた。



山中にある、古い神社の奥。
夜の気配が色濃く残る社殿の裏で、黒髪の男がひとり立ち尽くしていた。
足元には、術式を書き込まれた和紙が大量にばら撒かれている。
その多くが、中心を焦がすように破れ、役目を終えたことを示していた。

男は銀縁の眼鏡を指で押し上げ、散らばった和紙の中から、一枚を拾い上げる。
残っていた痕を確認し、眼鏡の奥の瞳が、微かに光を帯びた。

「五年も探したよ。結乃」
そこに残った血の感触を、確かめるように紙を指でなぞる。

「……絶対、助けに行くからな」