自室にて設計図を描いていると、不意に甘い匂いがするのを感じた。
振り返ってみると、ミナリスが後ろに立っていた。
「……ミナリス? いつからそこに……?」
「二十分ほど前からでしょうか?」
尋ねると、ミナリスが黒髪をサラリと揺らしながら答えた。
「ええ、そんなに前からいるなら普通に声をかけてよ」
いつの間に部屋に入ってきたんだろう。まるで足音も気配もなかった。
僕が人の気配に鈍いっていうのもあるかもしれないが、ミナリスの気配を消す技術もかなりのものだと思う。
もしかして、ミナリスは暗殺者なんじゃないだろうか?
いや、彼女は幼い頃からエルディア家に仕えるメイドだ。そんなわけあるはずがない。
「ノエル様があまりに集中して何かを描いていらっしゃる様子だったので。何を描かれているのでしょう?」
「リヤカーの設計図だよ」
「まるで小さな荷馬車みたいですね?」
設計図を覗き込んだミナリスが不思議そうに言った。
「イメージとしてはそんな感じだよ。荷台に荷物を載せて、ハンドルを押したり引いたりして運搬するんだ」
「それで重い荷物を運べるものなのでしょうか?」
「二つの車輪が重さを支えてくれるからね。力が無くてもたくさん運べるよ」
馬がいなくても人の力でたくさんの荷物を運べる。これで領民の生活がぐんと楽になるはずだ。
「ノエル様は次から次へと新しいものを思いつきますね。どうすれば、このような便利なものを思いつくようになるのでしょう?」
「皆が苦労しているのを見ると、もっと楽にできないかなって思ってね。そうやって考えていると、頭の中にこうしたら便利になるって絵が浮かぶんだ」
本当は前世にあったものを再現しているだけだが、そんなことを言っても信じてもらえないだろうからそれらしいことを述べてみる。
「絵が浮かぶですか……私には想像できない世界です」
「ノエル様は本当にお優しいのですね」
「そんな立派な人じゃないよ。ただ面倒くさがりなだけさ」
だから、そんな天才を見るような目はやめてほしい。
「リヤカーもアシュリー商会でお作りになられますか?」
「いや、リヤカーはそこまで複雑な設計じゃないし、僕たちだけで造り上げることができるよ」
エルディア公爵家の倉庫には簡単な大工道具や木材などがあるのは、既に確認済みだ。
鉄輪や車軸についても馬車の予備が保管されているのを見かけたので、それらを拝借させてもらえばいい。
「ミナリスも手伝ってくれるかな?」
「もちろんです、ノエル様」
非力な僕一人では製作は困難であるが、獣人であるミナリスが手伝ってくれるのであればすぐに完成させられるだろう。
屋敷の自室から中庭へと移動する。
「じゃあ、これらを中庭に持ってきてくれるかな?」
「かしこまりました」
リヤカーを製作するのに必要な大工道具や資材をメモした紙を渡すと、ミナリスは屋敷の裏側にある倉庫へと向かってくれた。
こういった荷物運びは男である僕がやるべきなんだけど、残念ながら今の僕は非力な四歳児だ。
大工道具はまだしも、重い木材を運ぶことなど到底できない。
僕は大人しく中庭で待機するだけだ。
とはいえ、ボーッと待機しているのも申し訳ないのでスムーズにできるように頭の中で製作の段取りを考えておくことにする。
「……ノエル様、資材を持ってきました」
程なくすると、ミナリスが木材を両肩に担いで戻ってきた。
その長さの木材だと一本で二十キロくらいはするよね? それを両肩に三本ずつ担いでくるなんてミナリスはどれだけ力持ちなんだろうか。
「わ、わぁ、こんなにたくさんありがとう……」
あまりの力持ち具合にちょっと頬が引きつってしまったが、ミナリスは嬉しそうにぴょこぴょこと長い耳を動かしていた。
「持ちきれなかった分も急いでお持ちしますね」
「うん、ゆっくりで大丈夫だから気を付けて」
ドスンッと木材を地面に置くと、ミナリスは一息つく間もなく身を翻した。
とりあえず、今ある資材でできる分だけ作業を進めてしまおう。
床板用の板を並べ、僕は膝をついて寸法を確かめた。
「まずは枠を作ろう」
用意した角材を四本。二本は長さ一・五メートル。もう一本一メートル。
これで長方形の骨組みとなる。僕はそれを地面に置き、かすがいと釘で仮止めした。
コンコンと木槌を打ち込む度に骨組みが少しずつ形を持っていく。
これで外枠は完成だ。
次に荷重を支えるための根太を渡す。床下に三本、等間隔に梁を通して補強。
角材を枠に合わせてはめ込み、釘で固定。少し揺すってみるとギシッと木が鳴いた。
「……よし、ちゃんと噛んでるな」
その上に床板を敷く。板と板の隙間ができないように並べ、釘を打ち込む。
真新しい木目が一枚の面ができると、荷台らしさが出てきて、僕は思わず頬が緩んだ。
こうやって物作りをする工程はとても地味であるが、自分の手で形になっていく感触は達成感があって心地良い。
「……ミナリス、遅いな」
最初に大工道具と木材を持ってきてから結構な時間が経過している気がする。
エルディア公爵家の敷地は確かに広いけど、中庭から裏の倉庫に回るのにここまで時間がかかるものではないはずだ。
資材を運んでいる途中で他の仕事を頼まれたとか? いや、ミナリスが僕の専属メイドであることは周知の事実だ。たとえ、他の家族に雑用を頼まれようが僕の頼み事の方が優先されるはずなんだけどなぁ。
「様子を見に行こう」
ミナリスの様子が気になった僕は、木槌を置いて屋敷の裏側にある倉庫に足を向けた。
小道を抜ける途中、人気のない庭の一角から低い声が聞こえてきた。
僕は足を止めて、そっと植え込み越しに覗き込む。
そこには三人のメイドがミナリスを取り囲むようにして立っていた。
三人のメイドには見覚えがある。あまり接することがないので名前まで覚えていないけど、僕の兄たちに仕えているメイドだった気がする。
彼女たちがどうしてこんな人気のない場所でミナリスを取り囲んでいるのか。
メイド同士で仲良く交流っていう風にはお世辞にも見えないな。
状況が気になり聞き耳を立てていると、一人のメイドがミナリスを見下ろしながら言った。
「……本当に吐き気がするわ。薄汚い亜人風情が屋敷に出入りするだけでも汚らわしいっていうのに……よりによってノエル様の専属だなんておこがましいわ!」
「本来なら私たちのような正しい血を持つ人間こそが、ノエル様に仕えるべきなのよ! それなのに獣の血を引く獣人――しかも、奴隷のあなたがノエル様にお仕えするなんて信じられない!」
「エルディア公爵家に対する侮辱よ!」
三人のメイドが口々にミナリスを罵倒する。
雰囲気から察していたが、やはりメイド同士の和やかな交流というわけではないらしい。
それにしてもミナリスが奴隷ってどういうことだろう? そんな雰囲気は感じていなかったけど、それは後で本人に尋ねればわかることだ。あとで聞いてみよう。
三人のメイドたちには専属メイドであるミナリスへの嫉妬もあるが、それ以上に獣人である彼女への差別が強いな。
亜人とは、人間に似ているが人間とは異なる特徴を持つ種族の総称だ。
そして、人間が生み出した差別用語である。
ミナリスから王国に関する歴史を学んだので薄っすらとそういうことがあるのは知っていたが、身近に生活しているエルディア公爵家の中でもそのような差別があるなんて思ってもいなかった。
僕がショックを受けている間にもメイドたちからの罵倒の言葉は続いていた。
それに対してミナリスは傷ついた様子を一切見せない。表情を崩さずに背筋をしっかりと伸びている。その毅然とした態度を見るに、彼女がこうやって罵倒されるのが初めてではないのだろう。
「何か言い返したらどう? それとも獣だから人の言葉が出ないの?」
ずっと黙っていたミナリスが初めて口を開いた。
「……当主様の正式な許可が下りています、それがすべてです」
感情に流されることなく、あくまで事実を告げるのみ。
しかし、その冷淡な反応がメイドたちの神経を逆撫でしてしまったようだ。
一人のメイドが堪え切れずに手を振り上げる。
ミナリスの頬に手が叩きつけられ、乾いた音が庭に響いた。
しかし、彼女は身じろぎもせず、ただ静かに顔を戻して冷淡な瞳で睨み返した。
「……ッ! 亜人の癖に人間を睨むなんて生意気なのよ! お前なんかがノエル様に相応しいはずがない!」
ビンタを放ったメイドが激情に駆られ、声を震わせる。
頬を腫らしながらも一歩も引かないミナリス。
――これ以上、見ているのは限界だった。
「やめろ!」
僕の叫びが庭に響いた。
植え込みを飛び越えて駆け寄り、ミナリスの前に立ちはだかる。
「ノ、ノエル様!?」
「な、なんでここに……!?」
僕がやってくると、メイドたちの傲慢な態度は消え失せ、狼狽の色が濃く浮かんだ。
まさか、僕に見られていたとは思わなかったのだろう。
「……ノエル様」
そして、僕が割り込んできたことに何故かミナリスも驚いていた。
五感が鋭いミナリスが僕の接近に気付かないなんて珍しい。
メイドたちに囲まれて平気な顔をしていたが、実はいっぱいいっぱいだったのかもしれない。
「こ、これは違うんです。私たちはただ、その……仲良く交流をしていただけで……」
「へえ、この屋敷の使用人たちは交流する際に、相手を罵倒した上にビンタまで見舞うんだ。独特な風習があるんだね?」
案に序盤から見ていたことを告げると、メイドが気まずそうな顔をして口をつぐんだ。
「ミナリスが僕の専属メイドに相応しくないなんて誰が決めたの?」
「昔から貴族の御子に仕えるのは、由緒ある家の娘と相場が決まっているのです!」
「そうです! 獣人など本来であれば下働きでももったいないのに専属だなんて!」
「私たちは皆、代々この家に仕えてきた家の出です。だからこそ、選ばれるべきなのです!」
僕が問いかけると、メイドたちは伝統や慣習を持ち出して正当性を主張し出した。
「そんなものは関係ありません」
「――ッ!?」
僕がきっぱりと告げると、メイドたちは言葉を失った。
「人間がどうだとか亜人だからどうだとか、そんなものは関係ありません。僕がミナリスを信じ、傍にいて欲しいと望んでいる。それが全てです」
「……ノエル様」
僕が本心を語ると、後ろのミナリスから息を呑むような声が漏れた。
「だから、二度と彼女のことを侮辱しないでください」
僕が一歩前に出て強い視線を向けると、メイドたちは悔しげに唇を噛み締めながら去っていくのだった。
●
【ミナリス視点】
頬にまだ熱が残っている。
頬を叩かれた痛みよりも、ノエル様が飛び出してきた姿の方が私の胸をかき乱していた。
「やめろ!」
そう叫んで、私の守るようにして立ちはだかった小さな背中。
なぜ? 私は亜人。屋敷に仕える人間たちからは、いつも汚れ物のように扱われてきた。
蔑みと嘲笑の中で立ち続け、叩かれれば耐え、罵られれば黙殺する。
それが私の生き方であり、生き延びるための術だった。
それなのに――
「人間がどうだとか亜人だからどうだとか、そんなものは関係ありません。僕がミナリスを信じ、傍にいて欲しいと望んでいる。それが全てです」
その言葉がまだ耳に残っている。
どうして亜人である私を人間であるノエル様が庇うのか。
こんなことは生まれて初めてのことでわからなかった。
私が呆然としている間に、ノエル様はメイドたちを追い払ってしまった。
「ミナリス、大丈夫? すぐに助けてあげられなくてごめんね」
「いえ、助けていただいてありがとうございます」
こちらへ振り返って尋ねてくるノエル様の表情は、心配に満ちたものであった。
そこに同情心は含まれていない。
純粋に私のことを心配してくれているのがわかった。
「……どうして、ですか?」
「え?」
「私は亜人です。誰もが蔑み、忌み嫌われる存在です。それなのにどうして私を庇ったのです?」
どうして、この人は私なんかを……。
私がそのような疑問を投げかけると、ノエル様は少し困ったような顔をしつつも答えてくれた。
「亜人だからとか関係ないよ。助けたいと思ったから助けた。それだけだよ」
呆然とした。信じられなかった。
差別が蔓延する世界でどうしてこんなことを真顔で言えるのか。
「ノエル様はまだお若いから……この世界の現実をまだ知らないから言えるのです」
だから、そんな真っ直ぐな言葉を口にできるのだ。
勉学でも私は敢えて亜人差別に関することをぼかして伝えていた。
それは幼いノエル様に差別意識を植え付けたくないという気持ちがあったが、本心は私自身が嫌われないようにするためだった。
ノエル様はまだお若いために、私のような薄汚い亜人であっても普通の人間のように分け隔てることなく接してくれる。それがあまりにも心地良かったから。
私はなんて卑怯な女なのだろう。
「違うよ。僕は幼いから言っているんじゃない。ちゃんと歴史を勉強した。亜人がどう扱われてきたか、どんな目に遭ってきたかも本で知った上で言っているんだ」
浅ましさを自覚して俯いてしまう私に、ノエル様は目線を合わせながら言った。
そうだ。ノエル様は幼くして聡明な方だ。
私が亜人に対する差別部分をぼかして伝えたとしても、ノエル様は自分で勉強し、その事実になどあっという間にたどり着かれるだろう。
ノエル様の優秀さは私が一番理解しているはずなのに恥ずかしい。
「こんなことを言うと、教会批判になっちゃうかもしれないけど、今の人間たちの亜人に対する扱いは不当だと思う。人間だろうと獣人だろうと人は皆平等だ。誰かを下にして支配しようとするのは間違っている」
「――ッ!?」
ノエル様の想像を超える過激な台詞に私は驚いた。
その澄んだ瞳には打算や飾りといった色はまったくなかった。本気で言っている。
……こんな人が本当にいるのか。
亜人である私を蔑むのではなく、傍に置き、信じるといってくれる人間が。
信じたい。信じてはいけない。そのせめぎ合いを一瞬で押し流してしまうほどに彼の言葉は純粋で力強かった。
この人は本当に違うかもしれない。
この人なら亜人に対する不当な差別を変えてくれるかもしれない。
そんなあり得ない考えが心に芽生えてしまった。
「……ノエル様、私はあなたを信じます。そして、あなたに忠誠を誓います」
気が付けば、私は片膝を地面についてそんな言葉を放っていた。
「え!? 忠誠!? 別にちょっと助けただけだよ。そんな恩に感じる必要なんて――」
「いいえ、私はあなたに救われたんです。ですから、この誓いに揺るぎはありません」
この方にお仕えたい。
今までのようにただ命じられたわけではなく、自分の意思で初めてそう思った。
ジーッと見上げると、困惑していたノエル様はゆっくりと息を吐いた。
「……わかったよ。ミナリスがそこまで言うんだったら、その気持ちはありがたく受け取らせてもらうよ。これからも僕を支えてくれると嬉しい」
「はい。誠心誠意お仕えさせていただきます」
私がにっこりと笑みを浮かべると、ノエル様は照れくさそうな顔になった。
ノエル様は私の存在そのものを肯定してくれた。
血も種族も関係なく、ただ「ミナリス」だからと。
私の存在を認めるただ一つの理由。
胸が熱い。
これはただの感謝の気持ちか、それとも守られたことによる安心感なのだろうか。
いや、もっと別の私には名前のつけられない感情なのかもしれない。
振り返ってみると、ミナリスが後ろに立っていた。
「……ミナリス? いつからそこに……?」
「二十分ほど前からでしょうか?」
尋ねると、ミナリスが黒髪をサラリと揺らしながら答えた。
「ええ、そんなに前からいるなら普通に声をかけてよ」
いつの間に部屋に入ってきたんだろう。まるで足音も気配もなかった。
僕が人の気配に鈍いっていうのもあるかもしれないが、ミナリスの気配を消す技術もかなりのものだと思う。
もしかして、ミナリスは暗殺者なんじゃないだろうか?
いや、彼女は幼い頃からエルディア家に仕えるメイドだ。そんなわけあるはずがない。
「ノエル様があまりに集中して何かを描いていらっしゃる様子だったので。何を描かれているのでしょう?」
「リヤカーの設計図だよ」
「まるで小さな荷馬車みたいですね?」
設計図を覗き込んだミナリスが不思議そうに言った。
「イメージとしてはそんな感じだよ。荷台に荷物を載せて、ハンドルを押したり引いたりして運搬するんだ」
「それで重い荷物を運べるものなのでしょうか?」
「二つの車輪が重さを支えてくれるからね。力が無くてもたくさん運べるよ」
馬がいなくても人の力でたくさんの荷物を運べる。これで領民の生活がぐんと楽になるはずだ。
「ノエル様は次から次へと新しいものを思いつきますね。どうすれば、このような便利なものを思いつくようになるのでしょう?」
「皆が苦労しているのを見ると、もっと楽にできないかなって思ってね。そうやって考えていると、頭の中にこうしたら便利になるって絵が浮かぶんだ」
本当は前世にあったものを再現しているだけだが、そんなことを言っても信じてもらえないだろうからそれらしいことを述べてみる。
「絵が浮かぶですか……私には想像できない世界です」
「ノエル様は本当にお優しいのですね」
「そんな立派な人じゃないよ。ただ面倒くさがりなだけさ」
だから、そんな天才を見るような目はやめてほしい。
「リヤカーもアシュリー商会でお作りになられますか?」
「いや、リヤカーはそこまで複雑な設計じゃないし、僕たちだけで造り上げることができるよ」
エルディア公爵家の倉庫には簡単な大工道具や木材などがあるのは、既に確認済みだ。
鉄輪や車軸についても馬車の予備が保管されているのを見かけたので、それらを拝借させてもらえばいい。
「ミナリスも手伝ってくれるかな?」
「もちろんです、ノエル様」
非力な僕一人では製作は困難であるが、獣人であるミナリスが手伝ってくれるのであればすぐに完成させられるだろう。
屋敷の自室から中庭へと移動する。
「じゃあ、これらを中庭に持ってきてくれるかな?」
「かしこまりました」
リヤカーを製作するのに必要な大工道具や資材をメモした紙を渡すと、ミナリスは屋敷の裏側にある倉庫へと向かってくれた。
こういった荷物運びは男である僕がやるべきなんだけど、残念ながら今の僕は非力な四歳児だ。
大工道具はまだしも、重い木材を運ぶことなど到底できない。
僕は大人しく中庭で待機するだけだ。
とはいえ、ボーッと待機しているのも申し訳ないのでスムーズにできるように頭の中で製作の段取りを考えておくことにする。
「……ノエル様、資材を持ってきました」
程なくすると、ミナリスが木材を両肩に担いで戻ってきた。
その長さの木材だと一本で二十キロくらいはするよね? それを両肩に三本ずつ担いでくるなんてミナリスはどれだけ力持ちなんだろうか。
「わ、わぁ、こんなにたくさんありがとう……」
あまりの力持ち具合にちょっと頬が引きつってしまったが、ミナリスは嬉しそうにぴょこぴょこと長い耳を動かしていた。
「持ちきれなかった分も急いでお持ちしますね」
「うん、ゆっくりで大丈夫だから気を付けて」
ドスンッと木材を地面に置くと、ミナリスは一息つく間もなく身を翻した。
とりあえず、今ある資材でできる分だけ作業を進めてしまおう。
床板用の板を並べ、僕は膝をついて寸法を確かめた。
「まずは枠を作ろう」
用意した角材を四本。二本は長さ一・五メートル。もう一本一メートル。
これで長方形の骨組みとなる。僕はそれを地面に置き、かすがいと釘で仮止めした。
コンコンと木槌を打ち込む度に骨組みが少しずつ形を持っていく。
これで外枠は完成だ。
次に荷重を支えるための根太を渡す。床下に三本、等間隔に梁を通して補強。
角材を枠に合わせてはめ込み、釘で固定。少し揺すってみるとギシッと木が鳴いた。
「……よし、ちゃんと噛んでるな」
その上に床板を敷く。板と板の隙間ができないように並べ、釘を打ち込む。
真新しい木目が一枚の面ができると、荷台らしさが出てきて、僕は思わず頬が緩んだ。
こうやって物作りをする工程はとても地味であるが、自分の手で形になっていく感触は達成感があって心地良い。
「……ミナリス、遅いな」
最初に大工道具と木材を持ってきてから結構な時間が経過している気がする。
エルディア公爵家の敷地は確かに広いけど、中庭から裏の倉庫に回るのにここまで時間がかかるものではないはずだ。
資材を運んでいる途中で他の仕事を頼まれたとか? いや、ミナリスが僕の専属メイドであることは周知の事実だ。たとえ、他の家族に雑用を頼まれようが僕の頼み事の方が優先されるはずなんだけどなぁ。
「様子を見に行こう」
ミナリスの様子が気になった僕は、木槌を置いて屋敷の裏側にある倉庫に足を向けた。
小道を抜ける途中、人気のない庭の一角から低い声が聞こえてきた。
僕は足を止めて、そっと植え込み越しに覗き込む。
そこには三人のメイドがミナリスを取り囲むようにして立っていた。
三人のメイドには見覚えがある。あまり接することがないので名前まで覚えていないけど、僕の兄たちに仕えているメイドだった気がする。
彼女たちがどうしてこんな人気のない場所でミナリスを取り囲んでいるのか。
メイド同士で仲良く交流っていう風にはお世辞にも見えないな。
状況が気になり聞き耳を立てていると、一人のメイドがミナリスを見下ろしながら言った。
「……本当に吐き気がするわ。薄汚い亜人風情が屋敷に出入りするだけでも汚らわしいっていうのに……よりによってノエル様の専属だなんておこがましいわ!」
「本来なら私たちのような正しい血を持つ人間こそが、ノエル様に仕えるべきなのよ! それなのに獣の血を引く獣人――しかも、奴隷のあなたがノエル様にお仕えするなんて信じられない!」
「エルディア公爵家に対する侮辱よ!」
三人のメイドが口々にミナリスを罵倒する。
雰囲気から察していたが、やはりメイド同士の和やかな交流というわけではないらしい。
それにしてもミナリスが奴隷ってどういうことだろう? そんな雰囲気は感じていなかったけど、それは後で本人に尋ねればわかることだ。あとで聞いてみよう。
三人のメイドたちには専属メイドであるミナリスへの嫉妬もあるが、それ以上に獣人である彼女への差別が強いな。
亜人とは、人間に似ているが人間とは異なる特徴を持つ種族の総称だ。
そして、人間が生み出した差別用語である。
ミナリスから王国に関する歴史を学んだので薄っすらとそういうことがあるのは知っていたが、身近に生活しているエルディア公爵家の中でもそのような差別があるなんて思ってもいなかった。
僕がショックを受けている間にもメイドたちからの罵倒の言葉は続いていた。
それに対してミナリスは傷ついた様子を一切見せない。表情を崩さずに背筋をしっかりと伸びている。その毅然とした態度を見るに、彼女がこうやって罵倒されるのが初めてではないのだろう。
「何か言い返したらどう? それとも獣だから人の言葉が出ないの?」
ずっと黙っていたミナリスが初めて口を開いた。
「……当主様の正式な許可が下りています、それがすべてです」
感情に流されることなく、あくまで事実を告げるのみ。
しかし、その冷淡な反応がメイドたちの神経を逆撫でしてしまったようだ。
一人のメイドが堪え切れずに手を振り上げる。
ミナリスの頬に手が叩きつけられ、乾いた音が庭に響いた。
しかし、彼女は身じろぎもせず、ただ静かに顔を戻して冷淡な瞳で睨み返した。
「……ッ! 亜人の癖に人間を睨むなんて生意気なのよ! お前なんかがノエル様に相応しいはずがない!」
ビンタを放ったメイドが激情に駆られ、声を震わせる。
頬を腫らしながらも一歩も引かないミナリス。
――これ以上、見ているのは限界だった。
「やめろ!」
僕の叫びが庭に響いた。
植え込みを飛び越えて駆け寄り、ミナリスの前に立ちはだかる。
「ノ、ノエル様!?」
「な、なんでここに……!?」
僕がやってくると、メイドたちの傲慢な態度は消え失せ、狼狽の色が濃く浮かんだ。
まさか、僕に見られていたとは思わなかったのだろう。
「……ノエル様」
そして、僕が割り込んできたことに何故かミナリスも驚いていた。
五感が鋭いミナリスが僕の接近に気付かないなんて珍しい。
メイドたちに囲まれて平気な顔をしていたが、実はいっぱいいっぱいだったのかもしれない。
「こ、これは違うんです。私たちはただ、その……仲良く交流をしていただけで……」
「へえ、この屋敷の使用人たちは交流する際に、相手を罵倒した上にビンタまで見舞うんだ。独特な風習があるんだね?」
案に序盤から見ていたことを告げると、メイドが気まずそうな顔をして口をつぐんだ。
「ミナリスが僕の専属メイドに相応しくないなんて誰が決めたの?」
「昔から貴族の御子に仕えるのは、由緒ある家の娘と相場が決まっているのです!」
「そうです! 獣人など本来であれば下働きでももったいないのに専属だなんて!」
「私たちは皆、代々この家に仕えてきた家の出です。だからこそ、選ばれるべきなのです!」
僕が問いかけると、メイドたちは伝統や慣習を持ち出して正当性を主張し出した。
「そんなものは関係ありません」
「――ッ!?」
僕がきっぱりと告げると、メイドたちは言葉を失った。
「人間がどうだとか亜人だからどうだとか、そんなものは関係ありません。僕がミナリスを信じ、傍にいて欲しいと望んでいる。それが全てです」
「……ノエル様」
僕が本心を語ると、後ろのミナリスから息を呑むような声が漏れた。
「だから、二度と彼女のことを侮辱しないでください」
僕が一歩前に出て強い視線を向けると、メイドたちは悔しげに唇を噛み締めながら去っていくのだった。
●
【ミナリス視点】
頬にまだ熱が残っている。
頬を叩かれた痛みよりも、ノエル様が飛び出してきた姿の方が私の胸をかき乱していた。
「やめろ!」
そう叫んで、私の守るようにして立ちはだかった小さな背中。
なぜ? 私は亜人。屋敷に仕える人間たちからは、いつも汚れ物のように扱われてきた。
蔑みと嘲笑の中で立ち続け、叩かれれば耐え、罵られれば黙殺する。
それが私の生き方であり、生き延びるための術だった。
それなのに――
「人間がどうだとか亜人だからどうだとか、そんなものは関係ありません。僕がミナリスを信じ、傍にいて欲しいと望んでいる。それが全てです」
その言葉がまだ耳に残っている。
どうして亜人である私を人間であるノエル様が庇うのか。
こんなことは生まれて初めてのことでわからなかった。
私が呆然としている間に、ノエル様はメイドたちを追い払ってしまった。
「ミナリス、大丈夫? すぐに助けてあげられなくてごめんね」
「いえ、助けていただいてありがとうございます」
こちらへ振り返って尋ねてくるノエル様の表情は、心配に満ちたものであった。
そこに同情心は含まれていない。
純粋に私のことを心配してくれているのがわかった。
「……どうして、ですか?」
「え?」
「私は亜人です。誰もが蔑み、忌み嫌われる存在です。それなのにどうして私を庇ったのです?」
どうして、この人は私なんかを……。
私がそのような疑問を投げかけると、ノエル様は少し困ったような顔をしつつも答えてくれた。
「亜人だからとか関係ないよ。助けたいと思ったから助けた。それだけだよ」
呆然とした。信じられなかった。
差別が蔓延する世界でどうしてこんなことを真顔で言えるのか。
「ノエル様はまだお若いから……この世界の現実をまだ知らないから言えるのです」
だから、そんな真っ直ぐな言葉を口にできるのだ。
勉学でも私は敢えて亜人差別に関することをぼかして伝えていた。
それは幼いノエル様に差別意識を植え付けたくないという気持ちがあったが、本心は私自身が嫌われないようにするためだった。
ノエル様はまだお若いために、私のような薄汚い亜人であっても普通の人間のように分け隔てることなく接してくれる。それがあまりにも心地良かったから。
私はなんて卑怯な女なのだろう。
「違うよ。僕は幼いから言っているんじゃない。ちゃんと歴史を勉強した。亜人がどう扱われてきたか、どんな目に遭ってきたかも本で知った上で言っているんだ」
浅ましさを自覚して俯いてしまう私に、ノエル様は目線を合わせながら言った。
そうだ。ノエル様は幼くして聡明な方だ。
私が亜人に対する差別部分をぼかして伝えたとしても、ノエル様は自分で勉強し、その事実になどあっという間にたどり着かれるだろう。
ノエル様の優秀さは私が一番理解しているはずなのに恥ずかしい。
「こんなことを言うと、教会批判になっちゃうかもしれないけど、今の人間たちの亜人に対する扱いは不当だと思う。人間だろうと獣人だろうと人は皆平等だ。誰かを下にして支配しようとするのは間違っている」
「――ッ!?」
ノエル様の想像を超える過激な台詞に私は驚いた。
その澄んだ瞳には打算や飾りといった色はまったくなかった。本気で言っている。
……こんな人が本当にいるのか。
亜人である私を蔑むのではなく、傍に置き、信じるといってくれる人間が。
信じたい。信じてはいけない。そのせめぎ合いを一瞬で押し流してしまうほどに彼の言葉は純粋で力強かった。
この人は本当に違うかもしれない。
この人なら亜人に対する不当な差別を変えてくれるかもしれない。
そんなあり得ない考えが心に芽生えてしまった。
「……ノエル様、私はあなたを信じます。そして、あなたに忠誠を誓います」
気が付けば、私は片膝を地面についてそんな言葉を放っていた。
「え!? 忠誠!? 別にちょっと助けただけだよ。そんな恩に感じる必要なんて――」
「いいえ、私はあなたに救われたんです。ですから、この誓いに揺るぎはありません」
この方にお仕えたい。
今までのようにただ命じられたわけではなく、自分の意思で初めてそう思った。
ジーッと見上げると、困惑していたノエル様はゆっくりと息を吐いた。
「……わかったよ。ミナリスがそこまで言うんだったら、その気持ちはありがたく受け取らせてもらうよ。これからも僕を支えてくれると嬉しい」
「はい。誠心誠意お仕えさせていただきます」
私がにっこりと笑みを浮かべると、ノエル様は照れくさそうな顔になった。
ノエル様は私の存在そのものを肯定してくれた。
血も種族も関係なく、ただ「ミナリス」だからと。
私の存在を認めるただ一つの理由。
胸が熱い。
これはただの感謝の気持ちか、それとも守られたことによる安心感なのだろうか。
いや、もっと別の私には名前のつけられない感情なのかもしれない。

