「ノエル様、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。少し休めば元気になるよ」
ミナリスが心配そうに覗き込んでくる中、僕は笑みを浮かべて返事した。
アシュリー商会の見学を終え、僕は四階にある応接室で休憩させてもらっていた。
はじめて外に出て、街を観光し、色々と見て回ったせいで身体が疲れてしまったのだろう。
心は元気なのだが、いかんせん肉体は四歳児なので体力がついてこない。困ったものだ。
しかし、若いので休んでいればすぐに回復するはずだ。
ふかふかのソファーに座りながら商会の従業員が用意してくれた冷たいお茶を飲む。
緑茶みたいな味だ。とても飲みやすい。ミナリスに頼んで、あとでまとめて買ってもらおう。
そんなことを思いながら体力の回復に努めていると、ミナリスが換気のためか窓を開いた。
すると、外からカコーンッとした音が響いてきた。
「……なんの音?」
「商会の丁稚が井戸から水を汲んでいるようです」
「井戸!」
この世界では水を汲むのに井戸を使用しているのか。
前世でも博物館などで井戸は見たことはあるが、それ以外の場所で実物を見たことがない。
工業系に携わっていた者としての血が騒ぐ。
この世界での井戸は一体どんな構造をしているのだろう。
気になった僕はソファーから立ち上がって、ミナリスのいる窓辺まで寄っていく。
しかし、身長が低いせいか窓の外の景色が見えない。
「抱っこして差し上げましょうか?」
「さすがにそれは恥ずかしいよ」
ミナリスがニコニコとしながら提案してくるが、僕はそれをやんわりと拒否する。
三歳ならともかく、五歳にもなってメイドに抱っこされるのは恥ずかしい。
「直接見に行く」
「お身体はもうよろしいのですか?」
「大丈夫。少し休んで元気になった」
しっかりと返事をする僕の様子を見て、ミナリスが安堵の表情を浮かべた。
冷静なよう見えるが、僕の体調をかなり気にしていたようだ。
ごめんね。本当はもう少し大人しくしているべきなんだけど、どうしても井戸の構造が気になるんだ。
「ノエル様、お帰りになられますか?」
僕とミナリスが応接室を出ると、隣室で事務作業をしていたアシュリーが慌ててやってきた。
「ううん、ちょっと裏にある井戸が気になってね。見学してもいい?」
「井戸ですか? まあ、構いませんが……」
僕のお願いにアシュリーは明らかに戸惑いの様子を見せたが、特に嫌がる素振りも見せずに案内してくれた。
一階まで降りて商会の建物の裏側に回ると、板葺きの屋根で覆われた井戸が設置されていた。
そこには僕よりも少し年上の少年が降り、吊るされた滑車に付いたロープを引っ張って、必死に木桶を持ち上げている。釣瓶式と呼ばれるタイプの井戸だ。
「え? アシュリーさん!? それに公爵家の方々!? い、一体、どうされたのでしょう?」
僕たちが近寄ると、少年が驚きの声を上げた。
驚くのも無理はない。急に職場の上司と、貴族が揃ってやってきたのだ。
一体、何事かと思うだろう。
「ノエル様が井戸を見学されたいそうなの。あなたは少し休んでいてもいいわ」
「わ、わかりました」
アシュリーが休憩を指示すると、少年はいそいそと井戸から離れた。
僕は井戸を覗き込む。かなり深くまで掘られているようで底が見えなかった。
ロープを操作して木桶の中に水を入れ、そのまま引っ張ってみる。
「……んんっ! 重い!」
木桶が思っていたよりも大きく、そこに水の重みが丸々と加わっているのでかなりの重さだ。
とてもじゃないか四歳児の力では汲み上げることができない。
「ノエル様のお身体ではまだ水を汲むのは難しいかと」
「……あはは、そうみたいだね」
僕が顔を赤くして踏ん張っていると、見かねたミナリスがロープを掴んでくれた。
「ミナリスなら水を汲める?」
「はい。これくらいでしたら余裕です」
僕が手を離すと、ミナリスは片手でするするとロープを引っ張って木桶を持ち上げた。
木桶の重さ自体が二キロくらいだとして、水は十リットルくらい入っていそうだ。
最低でも十二キロはある重さを片手で引っ張っていたってことか。
「……さすがは獣人、力持ちだね」
「恐縮です」
僕が褒めると、ミナリスは誇らしげに豊かな胸を張った。
「ちなみにアシュリーは井戸水を汲める?」
「できないことはないですが、かなり苦労します」
「ちょっと汲んでみてくれる?」
「へ?」
僕がお願いをすると、アシュリーは頬を引きつかせながらも水汲みにチャレンジしてくれる。
顔を真っ赤に染めながら必死にロープと格闘する彼女の様子を見れば、一般的な女性にとって水汲みがどれだけ重労働なのかは理解することができた。
「うん、やっぱり普通の人にとって井戸から水を汲むのはかなり大変だね」
「え、ええ、その通りですね。特に肉体労働から離れていると、かなりきついです……」
僕が冷静に分析していると、アシュリーは息も絶え絶えながらも答えてくれた。
ごめんね。しんどいってわかっているのにやらせてしまって。
僕の身体は小さくてそもそも水を汲めないし、ミナリスは獣人だからかあっさりと水を汲めてしまうので一般的な労力の過酷さがわからなかったから。でも、アシュリーの尊い犠牲のお陰で今の井戸が不便だというのはよくわかった。本当にありがとう。
「この街にある井戸はすべて同じタイプ?」
「はい。すべて同じタイプのもので二十ほどあるかと……」
アシュリーが息を整えながら答えてくれる。
それなりに数はあるようだが、すべてが釣瓶式だとかなり大きな問題だな。
「井戸の水をもっと簡単に汲めるようにしたいね」
「私もできるのであれば、そうしたいと思っております」
「もし、それが可能だとしたらどうします?」
「そのようなことが可能なのでしょうか?」
「うん、頭の中に改善案があるんです。僕が考えている井戸であれば、若い女性だろうと子供だろうと楽に水が汲めるようになります」
頭の中にあるというよりかは、前世の知識にある改良案があると言った方が正しい。
今、僕の頭の中に浮かんでいるのは、ポンプ式の井戸である。
ハンドポンプやピストン式ポンプを取り付けて水を組み上げる形式だ。
レバーを上下させるだけで水が上がるため、桶を引き上げるよりも圧倒的に楽になることは言うまでもないだろう。
ただ問題は四歳児である僕の言葉をアシュリーが信じてくれるかどうかだ。
「もし、それが本当なのであれば、かなり革命的ですね」
息を整えたアシュリーが真剣みを帯びた顔で頷いた。
気が付けば表情は引き締まっている。できる女商人としての顔つきだ。
前世で務めていた会社であれば、ちょっとした設備がいくらでもあるので自身でも部品を生産することは可能だ。しかし、こちらの世界にそんな大規模な工業設備はないし、エルディア公爵家といえど工房なんてものは所有していない。
誰かの手を借りる必要がある。
そのために領内で一番の物流を誇るアシュリー商会に手伝ってもらおう。
アシュリー商会であれば、必要な道具を手配できるだろうし、工房を所有していなかったとしても伝手を頼って職人を手配することができるだろうからね。
「井戸を改良するのに必要な道具と職人を手配してくれませんか? もちろん、必要な料金は色をつけてお支払いいたしますので」
四歳児であるが、僕は公爵家の四男なのである程度のお金は自由に使える。
もちろん、子供なので使えるお金に限りはあるが、この程度の費用を捻出するくらいは余裕だ。
「いいでしょう。すぐに手配いたします」
「あれれ?」
「どうされましたか?」
「いえ、想像よりもあっさりと動いてくれるなと思いまして……」
急に僕みたいな貴族の子供が、井戸の改良案があると言っても普通は信じてくれないだろう。
具体的な井戸の改良案や設計図を持ってくれば、協力してやるくらいのことは言われると思っていた。
「それは当商会にデメリットがまったくないからですよ」
僕が小首を傾げていると、アシュリーがきっぱりと言った。
「改良した井戸が完成すれば私共は新商品に関わることができて儲かります。仮にできなかったとしてもちゃんとお金は頂くことができます。どちらに転んだとしても損をすることはないのです」
「なるほど」
僕はエルディア公爵家の人間なので身元はしっかりとしている。支払い能力はちゃんとあるし、家の名誉にかけて踏み倒すような真似はできない。
さすがは商人。損得勘定が早いものだ。
「それに幼くして天才と謳われるノエル様に関わってみるのは、とても面白そうだと感じました」
感心していると、アシュリーがこちらを見ながら笑みを浮かべた。
「……あくまで噂だけかもしれませんよ?」
「いえ、こうしてお話しをするだけでノエル様の異常さは伝わってきます。それに私、人を見る目には自信があるのです」
●
井戸を改良するための道具と職人の手配をお願いすると、アシュリーは一時間ほどですべての準備を整えると言った。どうやら今日中に進めてしまうつもりらしい。
僕は慌てて商会の応接室にこもってポンプの設計図を書いた。
職人がわざわざ来てくれるっていうのに、設計図も無しに会うわけにいかないからね。
僕が慌てて設計図を書き終えると同時に、アシュリーが手配してくれた鍛冶師がやってきた。
「はじめまして! 僕はエルディア公爵家の四男、ノエル=エルディアといいます!」
「鍛冶師のローグだ――じゃなかった、ローグと申しますです」
ローグと名乗る男は見るからに偏屈そうな職人といった風体であった。
アシュリーに睨まれて慌てて口調を訂正したが、かなり怪しい敬語になっていた。
無理もない。この世界では文字の識字率はかなり低いのだ。平民の職人に対し、礼儀作法を求めるのは酷だろう。
「申し訳ありません、ノエル様。ローグ氏はこの街一番の腕を誇る鍛冶師なのですが、あまり礼儀作法が得意ではなく……」
「大丈夫です」
アシュリーが申し訳なさそうに言うが、僕はまったく気にしていない。
僕としてはあまり仕事が入っていない若手の新人のような者がくると思っていた。それなのにエルドで一番の腕を誇る鍛冶師を紹介してくれるとは、それだけで感謝だ。
腕さえあれば礼儀作法なんてどうでもいい。
「ローグさん、そんなに畏まらなくていいですよ。僕は気にしないので普段通りの口調で話してください」
「いや、だが……」
「わかった。そこまで言うのであれば、いつもの口調でいかせてもらおう。不敬だなんて言わないでくれよな?」
「もちろんです。そんな器の小さなことは言いませんよ」
素の口調のままでのやり取りをお願いすると、ようやくローグとの会話がスムーズになった。
無理に敬語で話しても円滑に意思の疎通ができなければ意味はないからね。
「それで? 井戸の改良案があるだってな?」
「はい、こちらになります」
「これは設計図か? 丁寧でわかりやすいな」
先程書き上げた設計図を渡すと、ローグの顔色が明らかに変わった。
「まずは筒です。木をくり抜いてもいいですし、青銅で鋳造してもいいです。内側を滑らかに仕上げて水を閉じ込めるんです」
「ふむ、それでどうするんだ?」
「ピストンを入れます。木の円盤に革を巻き付けて、筒の内壁にピタリと沿わせるんです。そのまま上下に動かせば水を押し出すことができます」
「……それじゃあ、水が戻るだろう?」
その懸念点を挙げられるということは、ローグはここまでの設計を理解し、脳内に形をイメージできている証拠だ。意思の疎通ができていることがわかって安心する。
僕はよりわかりやすく伝えるために落ちていた棒を拾い、地面に仕掛けの図を描く。
「ですので底とピストンに弁をつけるんです! 革の板を片側にだけ留めれば、下から押されれば開き、逆に上から流れ戻ろうとすれば板が押し付けられて閉じます。つまり、水は下には戻れない」
「なるほど。二つの門で水を一方通行にしてやるってわけか」
礼儀作法こそ問題はあるが、街一番の鍛冶師と言われるだけあって優秀だ。理解が早い。
「そういうことです! これを作れば、少ない力で連続して水を汲み上げられます!」
「……これを考えたやつは天才だな」
「ありがとうございます」
「んん? もしかして、この設計図はノエル様が書いたっていうのか?」
「そうですが?」
小首を傾げながら肯定すると、ローグが驚きの表情を浮かべた。
「……すまねえ。てっきり別の人が考えたものだと思っていた」
「ふふふ、ノエル様を甘く見過ぎです。ノエル様は天才なんですから」
何故かミナリスが自分のことのように誇る中、ローグの僕を見る視線は明らかに変わっていた。
これまではただ利発な子供を見るような視線であったが、職人として敬意を払うべき人間に変わったような感じだった。
ポンプ式の井戸に関しては前世でも中世ヨーロッパ時代には開発されていた。
僕が発明したものではないので自らの功績にするのに後ろめたい気持ちがあるが、円滑に事業を進めるためにも優れた発明者として尊敬された方がいいだろう。
「ローグさん、ノエル様が考案してくださった井戸は実現可能なのでしょうか?」
僕たちのやり取りを見守っていたアシュリーが初めて口を挟んでくる。
「作れる。これは間違いなく画期的な発明になるぞ」
鍛冶師であるローグが断言したことにより、アシュリーの表情がさらに真剣なものになった。
きっとの彼女の脳内では、ポンプ式の井戸をどのようにして売り出すかを考えているに違いない。
パチパチと算盤を弾く音が聞こえるようだった。
「……なあ、ノエル様。ひとつ質問してもいいか?」
「なんでしょう?」
「どうして井戸を改良しようと思ったんだ? ノエル様ほどの頭の良さがあれば、他のものを発明することもできたはずだ」
「え? だって、水は誰しもが必要とするものじゃないですか? それなのに今の井戸では水を汲むのがとても大変で、なんとかしたいと思ったんです。どうせ何かを作るのであれば、僕は領民の皆さんが少しでも喜んでもらえるようなものを作りたいです」
「……そうか」
「そのためには鍛冶師であるローグさんやアシュリーさんのお力が必要なんです。どうか力を貸してくれませんか?」
僕が頭を下げてぺこりと頼み込むと、ローグとアシュリーは信じられないものを見るような顔になった。
「あれ? なんで無言!?」
「すみません。貴族の方がそんな風に頭を下げて頼み込んでくるとは思わず……」
「ああ、驚いた。世の中にはこんなにも謙虚な貴族がいるんだな」
僕が突っ込むと、アシュリーとローグが呆然としながら答えた。
ええ? 世の中にいる貴族はどれだけ傍若無人な振る舞いをしているのだろう? ちょっと心配になってきた。世間の人たちが想像する貴族象とは一体……。
「正直、最初は乗り気じゃなかったが、ノエル様の話を聞いて気が変わった。是非とも俺に改良型の井戸を作らせてくれ」
「私も商会の力を駆使して、全力で支援させていただきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
こうして僕の考案したポンプ式の井戸は街一番の鍛冶師であるローグと、アシュリー商会のバックアップの元に製作が開始されることになった。
「うん、大丈夫。少し休めば元気になるよ」
ミナリスが心配そうに覗き込んでくる中、僕は笑みを浮かべて返事した。
アシュリー商会の見学を終え、僕は四階にある応接室で休憩させてもらっていた。
はじめて外に出て、街を観光し、色々と見て回ったせいで身体が疲れてしまったのだろう。
心は元気なのだが、いかんせん肉体は四歳児なので体力がついてこない。困ったものだ。
しかし、若いので休んでいればすぐに回復するはずだ。
ふかふかのソファーに座りながら商会の従業員が用意してくれた冷たいお茶を飲む。
緑茶みたいな味だ。とても飲みやすい。ミナリスに頼んで、あとでまとめて買ってもらおう。
そんなことを思いながら体力の回復に努めていると、ミナリスが換気のためか窓を開いた。
すると、外からカコーンッとした音が響いてきた。
「……なんの音?」
「商会の丁稚が井戸から水を汲んでいるようです」
「井戸!」
この世界では水を汲むのに井戸を使用しているのか。
前世でも博物館などで井戸は見たことはあるが、それ以外の場所で実物を見たことがない。
工業系に携わっていた者としての血が騒ぐ。
この世界での井戸は一体どんな構造をしているのだろう。
気になった僕はソファーから立ち上がって、ミナリスのいる窓辺まで寄っていく。
しかし、身長が低いせいか窓の外の景色が見えない。
「抱っこして差し上げましょうか?」
「さすがにそれは恥ずかしいよ」
ミナリスがニコニコとしながら提案してくるが、僕はそれをやんわりと拒否する。
三歳ならともかく、五歳にもなってメイドに抱っこされるのは恥ずかしい。
「直接見に行く」
「お身体はもうよろしいのですか?」
「大丈夫。少し休んで元気になった」
しっかりと返事をする僕の様子を見て、ミナリスが安堵の表情を浮かべた。
冷静なよう見えるが、僕の体調をかなり気にしていたようだ。
ごめんね。本当はもう少し大人しくしているべきなんだけど、どうしても井戸の構造が気になるんだ。
「ノエル様、お帰りになられますか?」
僕とミナリスが応接室を出ると、隣室で事務作業をしていたアシュリーが慌ててやってきた。
「ううん、ちょっと裏にある井戸が気になってね。見学してもいい?」
「井戸ですか? まあ、構いませんが……」
僕のお願いにアシュリーは明らかに戸惑いの様子を見せたが、特に嫌がる素振りも見せずに案内してくれた。
一階まで降りて商会の建物の裏側に回ると、板葺きの屋根で覆われた井戸が設置されていた。
そこには僕よりも少し年上の少年が降り、吊るされた滑車に付いたロープを引っ張って、必死に木桶を持ち上げている。釣瓶式と呼ばれるタイプの井戸だ。
「え? アシュリーさん!? それに公爵家の方々!? い、一体、どうされたのでしょう?」
僕たちが近寄ると、少年が驚きの声を上げた。
驚くのも無理はない。急に職場の上司と、貴族が揃ってやってきたのだ。
一体、何事かと思うだろう。
「ノエル様が井戸を見学されたいそうなの。あなたは少し休んでいてもいいわ」
「わ、わかりました」
アシュリーが休憩を指示すると、少年はいそいそと井戸から離れた。
僕は井戸を覗き込む。かなり深くまで掘られているようで底が見えなかった。
ロープを操作して木桶の中に水を入れ、そのまま引っ張ってみる。
「……んんっ! 重い!」
木桶が思っていたよりも大きく、そこに水の重みが丸々と加わっているのでかなりの重さだ。
とてもじゃないか四歳児の力では汲み上げることができない。
「ノエル様のお身体ではまだ水を汲むのは難しいかと」
「……あはは、そうみたいだね」
僕が顔を赤くして踏ん張っていると、見かねたミナリスがロープを掴んでくれた。
「ミナリスなら水を汲める?」
「はい。これくらいでしたら余裕です」
僕が手を離すと、ミナリスは片手でするするとロープを引っ張って木桶を持ち上げた。
木桶の重さ自体が二キロくらいだとして、水は十リットルくらい入っていそうだ。
最低でも十二キロはある重さを片手で引っ張っていたってことか。
「……さすがは獣人、力持ちだね」
「恐縮です」
僕が褒めると、ミナリスは誇らしげに豊かな胸を張った。
「ちなみにアシュリーは井戸水を汲める?」
「できないことはないですが、かなり苦労します」
「ちょっと汲んでみてくれる?」
「へ?」
僕がお願いをすると、アシュリーは頬を引きつかせながらも水汲みにチャレンジしてくれる。
顔を真っ赤に染めながら必死にロープと格闘する彼女の様子を見れば、一般的な女性にとって水汲みがどれだけ重労働なのかは理解することができた。
「うん、やっぱり普通の人にとって井戸から水を汲むのはかなり大変だね」
「え、ええ、その通りですね。特に肉体労働から離れていると、かなりきついです……」
僕が冷静に分析していると、アシュリーは息も絶え絶えながらも答えてくれた。
ごめんね。しんどいってわかっているのにやらせてしまって。
僕の身体は小さくてそもそも水を汲めないし、ミナリスは獣人だからかあっさりと水を汲めてしまうので一般的な労力の過酷さがわからなかったから。でも、アシュリーの尊い犠牲のお陰で今の井戸が不便だというのはよくわかった。本当にありがとう。
「この街にある井戸はすべて同じタイプ?」
「はい。すべて同じタイプのもので二十ほどあるかと……」
アシュリーが息を整えながら答えてくれる。
それなりに数はあるようだが、すべてが釣瓶式だとかなり大きな問題だな。
「井戸の水をもっと簡単に汲めるようにしたいね」
「私もできるのであれば、そうしたいと思っております」
「もし、それが可能だとしたらどうします?」
「そのようなことが可能なのでしょうか?」
「うん、頭の中に改善案があるんです。僕が考えている井戸であれば、若い女性だろうと子供だろうと楽に水が汲めるようになります」
頭の中にあるというよりかは、前世の知識にある改良案があると言った方が正しい。
今、僕の頭の中に浮かんでいるのは、ポンプ式の井戸である。
ハンドポンプやピストン式ポンプを取り付けて水を組み上げる形式だ。
レバーを上下させるだけで水が上がるため、桶を引き上げるよりも圧倒的に楽になることは言うまでもないだろう。
ただ問題は四歳児である僕の言葉をアシュリーが信じてくれるかどうかだ。
「もし、それが本当なのであれば、かなり革命的ですね」
息を整えたアシュリーが真剣みを帯びた顔で頷いた。
気が付けば表情は引き締まっている。できる女商人としての顔つきだ。
前世で務めていた会社であれば、ちょっとした設備がいくらでもあるので自身でも部品を生産することは可能だ。しかし、こちらの世界にそんな大規模な工業設備はないし、エルディア公爵家といえど工房なんてものは所有していない。
誰かの手を借りる必要がある。
そのために領内で一番の物流を誇るアシュリー商会に手伝ってもらおう。
アシュリー商会であれば、必要な道具を手配できるだろうし、工房を所有していなかったとしても伝手を頼って職人を手配することができるだろうからね。
「井戸を改良するのに必要な道具と職人を手配してくれませんか? もちろん、必要な料金は色をつけてお支払いいたしますので」
四歳児であるが、僕は公爵家の四男なのである程度のお金は自由に使える。
もちろん、子供なので使えるお金に限りはあるが、この程度の費用を捻出するくらいは余裕だ。
「いいでしょう。すぐに手配いたします」
「あれれ?」
「どうされましたか?」
「いえ、想像よりもあっさりと動いてくれるなと思いまして……」
急に僕みたいな貴族の子供が、井戸の改良案があると言っても普通は信じてくれないだろう。
具体的な井戸の改良案や設計図を持ってくれば、協力してやるくらいのことは言われると思っていた。
「それは当商会にデメリットがまったくないからですよ」
僕が小首を傾げていると、アシュリーがきっぱりと言った。
「改良した井戸が完成すれば私共は新商品に関わることができて儲かります。仮にできなかったとしてもちゃんとお金は頂くことができます。どちらに転んだとしても損をすることはないのです」
「なるほど」
僕はエルディア公爵家の人間なので身元はしっかりとしている。支払い能力はちゃんとあるし、家の名誉にかけて踏み倒すような真似はできない。
さすがは商人。損得勘定が早いものだ。
「それに幼くして天才と謳われるノエル様に関わってみるのは、とても面白そうだと感じました」
感心していると、アシュリーがこちらを見ながら笑みを浮かべた。
「……あくまで噂だけかもしれませんよ?」
「いえ、こうしてお話しをするだけでノエル様の異常さは伝わってきます。それに私、人を見る目には自信があるのです」
●
井戸を改良するための道具と職人の手配をお願いすると、アシュリーは一時間ほどですべての準備を整えると言った。どうやら今日中に進めてしまうつもりらしい。
僕は慌てて商会の応接室にこもってポンプの設計図を書いた。
職人がわざわざ来てくれるっていうのに、設計図も無しに会うわけにいかないからね。
僕が慌てて設計図を書き終えると同時に、アシュリーが手配してくれた鍛冶師がやってきた。
「はじめまして! 僕はエルディア公爵家の四男、ノエル=エルディアといいます!」
「鍛冶師のローグだ――じゃなかった、ローグと申しますです」
ローグと名乗る男は見るからに偏屈そうな職人といった風体であった。
アシュリーに睨まれて慌てて口調を訂正したが、かなり怪しい敬語になっていた。
無理もない。この世界では文字の識字率はかなり低いのだ。平民の職人に対し、礼儀作法を求めるのは酷だろう。
「申し訳ありません、ノエル様。ローグ氏はこの街一番の腕を誇る鍛冶師なのですが、あまり礼儀作法が得意ではなく……」
「大丈夫です」
アシュリーが申し訳なさそうに言うが、僕はまったく気にしていない。
僕としてはあまり仕事が入っていない若手の新人のような者がくると思っていた。それなのにエルドで一番の腕を誇る鍛冶師を紹介してくれるとは、それだけで感謝だ。
腕さえあれば礼儀作法なんてどうでもいい。
「ローグさん、そんなに畏まらなくていいですよ。僕は気にしないので普段通りの口調で話してください」
「いや、だが……」
「わかった。そこまで言うのであれば、いつもの口調でいかせてもらおう。不敬だなんて言わないでくれよな?」
「もちろんです。そんな器の小さなことは言いませんよ」
素の口調のままでのやり取りをお願いすると、ようやくローグとの会話がスムーズになった。
無理に敬語で話しても円滑に意思の疎通ができなければ意味はないからね。
「それで? 井戸の改良案があるだってな?」
「はい、こちらになります」
「これは設計図か? 丁寧でわかりやすいな」
先程書き上げた設計図を渡すと、ローグの顔色が明らかに変わった。
「まずは筒です。木をくり抜いてもいいですし、青銅で鋳造してもいいです。内側を滑らかに仕上げて水を閉じ込めるんです」
「ふむ、それでどうするんだ?」
「ピストンを入れます。木の円盤に革を巻き付けて、筒の内壁にピタリと沿わせるんです。そのまま上下に動かせば水を押し出すことができます」
「……それじゃあ、水が戻るだろう?」
その懸念点を挙げられるということは、ローグはここまでの設計を理解し、脳内に形をイメージできている証拠だ。意思の疎通ができていることがわかって安心する。
僕はよりわかりやすく伝えるために落ちていた棒を拾い、地面に仕掛けの図を描く。
「ですので底とピストンに弁をつけるんです! 革の板を片側にだけ留めれば、下から押されれば開き、逆に上から流れ戻ろうとすれば板が押し付けられて閉じます。つまり、水は下には戻れない」
「なるほど。二つの門で水を一方通行にしてやるってわけか」
礼儀作法こそ問題はあるが、街一番の鍛冶師と言われるだけあって優秀だ。理解が早い。
「そういうことです! これを作れば、少ない力で連続して水を汲み上げられます!」
「……これを考えたやつは天才だな」
「ありがとうございます」
「んん? もしかして、この設計図はノエル様が書いたっていうのか?」
「そうですが?」
小首を傾げながら肯定すると、ローグが驚きの表情を浮かべた。
「……すまねえ。てっきり別の人が考えたものだと思っていた」
「ふふふ、ノエル様を甘く見過ぎです。ノエル様は天才なんですから」
何故かミナリスが自分のことのように誇る中、ローグの僕を見る視線は明らかに変わっていた。
これまではただ利発な子供を見るような視線であったが、職人として敬意を払うべき人間に変わったような感じだった。
ポンプ式の井戸に関しては前世でも中世ヨーロッパ時代には開発されていた。
僕が発明したものではないので自らの功績にするのに後ろめたい気持ちがあるが、円滑に事業を進めるためにも優れた発明者として尊敬された方がいいだろう。
「ローグさん、ノエル様が考案してくださった井戸は実現可能なのでしょうか?」
僕たちのやり取りを見守っていたアシュリーが初めて口を挟んでくる。
「作れる。これは間違いなく画期的な発明になるぞ」
鍛冶師であるローグが断言したことにより、アシュリーの表情がさらに真剣なものになった。
きっとの彼女の脳内では、ポンプ式の井戸をどのようにして売り出すかを考えているに違いない。
パチパチと算盤を弾く音が聞こえるようだった。
「……なあ、ノエル様。ひとつ質問してもいいか?」
「なんでしょう?」
「どうして井戸を改良しようと思ったんだ? ノエル様ほどの頭の良さがあれば、他のものを発明することもできたはずだ」
「え? だって、水は誰しもが必要とするものじゃないですか? それなのに今の井戸では水を汲むのがとても大変で、なんとかしたいと思ったんです。どうせ何かを作るのであれば、僕は領民の皆さんが少しでも喜んでもらえるようなものを作りたいです」
「……そうか」
「そのためには鍛冶師であるローグさんやアシュリーさんのお力が必要なんです。どうか力を貸してくれませんか?」
僕が頭を下げてぺこりと頼み込むと、ローグとアシュリーは信じられないものを見るような顔になった。
「あれ? なんで無言!?」
「すみません。貴族の方がそんな風に頭を下げて頼み込んでくるとは思わず……」
「ああ、驚いた。世の中にはこんなにも謙虚な貴族がいるんだな」
僕が突っ込むと、アシュリーとローグが呆然としながら答えた。
ええ? 世の中にいる貴族はどれだけ傍若無人な振る舞いをしているのだろう? ちょっと心配になってきた。世間の人たちが想像する貴族象とは一体……。
「正直、最初は乗り気じゃなかったが、ノエル様の話を聞いて気が変わった。是非とも俺に改良型の井戸を作らせてくれ」
「私も商会の力を駆使して、全力で支援させていただきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
こうして僕の考案したポンプ式の井戸は街一番の鍛冶師であるローグと、アシュリー商会のバックアップの元に製作が開始されることになった。

