隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き



シャワーを終えて洗面室に出ると、洗濯機の上には、バスタオルと新品の下着、そして寝巻き用のTシャツとジャージまでもが丁寧に揃えられていた。
俺は誰にも聞こえないだろうけど、口元で小さく「サンキュ」と呟いてから、有難くそれらを使わせてもらった。
見覚えがあると思ったら、ジャージは高校の時の指定のものだ。右側のポケットの前に藤沢の名前が刺繍してある。
思わず吹き出しつつも、髪を乾かして洗面室を出る。
部屋の電気は付いていたけど、藤沢が見当たらない。
あれ?
と思ったら、不意に視界の隅に気配が映って、俺は思わず肩を跳ね上げた。
藤沢が手前の壁際に背筋を伸ばして正座している。

「バスタオル、洗濯機入れといたけど、良かった?」
 
「あ、う、うん、良かった」

藤沢はこっちをみない。とにかく笑えるくらいにガチガチに緊張していた。なぜか俺はそんな藤沢をみて安心したというか、嬉しくなったというか、そんなよくわからない心境だ。

「これさ、持ってきてたんだな」
 
「え?」

藤沢がようやくこちらに視線向ける。俺は着ている高校のジャージを引っ張って「これ」と藤沢に示した。
何が恥ずかしかったのか、藤沢は俺を見上げて顔を真っ赤にしてからまたすぐに目を逸らしてしまう。

「うん、それ、なんか馴染み深いというか。破れるまで着ようかなって」
 
「まあ、わかるわ。俺も実家帰った時とか、寝巻きにしてた」

少し空気が緩んだ気がしたところで、ふと部屋を見渡す。

ここは俺の部屋と同じ間取りなのに、置いているものが違うだけでずいぶん印象が変わる。
ベッドは壁際にすっきり置かれ、テレビとゲーム機が小さなローテーブルに並んでいる。
部屋の奥には背の高い本棚があって、参考書や専門書に混じって、文庫や単行本がぎっしり詰まっていた。

なんとなく手持ち無沙汰で、俺は本棚のほうへ歩く。
背表紙を指で軽くたどると、背後で藤沢が小さく息を呑んだような気配がした。

「鶴見、え、っと、その、シャツサイズ平気?」
 
「あ? シャツ? うん、平気。あ、てか貸してくれてありがとうな」

直接お礼を言ってなかった。俺が振り返ると、藤沢はまた反射みたいに目を逸らす。

「なんかさ、匂いする」
 
「えっ?! 臭い?!」
 
「いや、そうでなくて。自分と違う匂い? 洗剤だろうけど、何使ってんの? けっこうこの匂い好きかも」
 
「親が柔軟剤送ってくるから……それの、匂いかも」
 
「へえ」

俺は襟元を引っ張って、くん、と鼻を寄せた。
そういえば、隣に座ってた藤沢から微かに同じ匂いがしていた気がする。
藤沢はその俺の仕草を見て「あぁ」と小さく何か呟いて、耳まで真っ赤だ。もう少し揶揄ってやりたくなる。
何か次の話のタネはないかと部屋を見回したところで、それを遮るように「つ、鶴見」と藤沢が声を上擦らせた。

「寝ようか……も、もう遅いし」

条件反射で心臓が跳ねた。その理由を深く思考する前に、藤沢が次の言葉を続ける。

「鶴見が、ベッド使っていいから」
 
「え……藤沢は? どこで寝るの」

藤沢の部屋は寝転がれるようなソファもないし、客用の布団があるようには見えない。

「俺は、ラグの上で平気」
 
「……硬くね?」
 
「そ、そんなことないよ、けっこうふわふわで――」

言いながら藤沢が四つん這いでラグに手を置いた瞬間、どう聞いても“ふわふわ”ではない硬質な音が返ってくる。

だが、本人は聞こえなかったことにしたのか、そのままクッションを持ってきて、ラグの上に無理やり寝床を作り始めた。
 
とりあえず、俺は藤沢のベッドを借りることにした。
俺が寝転がるのを見計らって、藤沢がリモコンで部屋の照明を落とす。 

「おやすみ」

何かの宣言みたいにそう言うと、藤沢の影がラグの上で面白いほど真っ直ぐに横になった。
静けさの中に、エアコンの送風音がゆるく回る。
その奥で、冷蔵庫の小さなコンプレッサーが周期的に唸り、また静まった。

俺はベッドの上で肩肘をついたまま、藤沢のことを見下ろしている。だんだん目が慣れてきて、ぎゅっと目を瞑っている藤沢の表情が見えてきた。
面白い……し、なんか可愛い。

「藤沢」
 
「は、はい……」
 
「お腹冷えない?」

室内はエアコンが効いている。タオルケットはベッドの上に一枚だけで、それは俺が使っていた。

「大丈夫……」

そう言って、藤沢は手探りでそこらにあったパーカーか何かを引き寄せて、お腹の上にかけている。

「藤沢」
 
「は、はい……」
 
「こっちで寝れば」
 
「へっ……ぐ、ゴホッ――!」

声の出し方を間違えたのか、藤沢が激しく咳き込んだ。
とりあえず、それが落ち着くのを待ってから、俺は言葉を続ける。

「てか、藤沢の家なんだから、お前が床って変だよな」
 
「大丈夫、ラグだから」
 
「ほぼ床だろ」
 
「……平気だよ。ベッドで二人は、狭いし」
 
「じゃあ、俺が床で寝るよ」

カバリッと藤沢が体を起こした。思いがけず顔が近い位置に来ている。暗いからなのか、今度藤沢は視線を逸さなかった。

「鶴見を床に寝かせるなんて――できないよ」

やけに真剣な表情なので、俺は思わず小さく吹き出してしまう。

「じゃあ、俺も藤沢を床になんて寝かせられない」

売り言葉に買い言葉じゃないけれど、俺はそんなふうに藤沢を揶揄って、口元にニヤリと笑みを作る。

次に何を言ってくるかなと思ったけど、藤沢はそのまま言葉を探して迷子になってしまったようだ。
もういいよ。ああだこうだまどろっこしい。
俺は藤沢の腕を掴み、「いいから来いって」と半ば強引にベッドの上に引き上げた。
藤沢は「ふぁっ」とか「ふぇっ」とか変な声を出していたけれど、結局は大人しくベッドの上に横になった。
 
俺がわざと藤沢の上に覆い被さるように手を伸ばして、床に置いてあったクッションを取り上げた時なんか、「ひゃっ」と声を上げたので笑える。
 
ケラケラ笑う俺を見て、藤沢は揶揄われていることに気づいただろう。両手で顔を覆い隠した藤沢に、「ほら、枕使えよ」と言って、頭の下にクッションを捩じ込んでやった。

「藤沢さ、なんで俺といるときそんなに緊張すんの」

理由はわかっていたけど、わざと尋ねる。はっきりと言わせたい訳ではなくて、どんな風に誤魔化すのかなと興味本位だ。
藤沢のは顔を両手で覆ったまま仰向けで硬直している。俺はまた強引にその手首を掴んで藤沢の体をこちらに向けた。
藤沢はまだ隠れてるつもりかもしれないが、指の隙間からこちらの様子を伺っていることに、俺は気づいている。
質問を流されないように、無言を貫いた。

「き、緊張してないよ」
 
「嘘つけ、ガチガチじゃん」
 
「ぐ……」
 
思わず吹き出す。
真正面から手のひらごと覗き込んでやると、観念したのか、藤沢が少し手をずらして目元だけをのぞかせた。
 
「言ったじゃん。鶴見は俺の憧れだから――」
 
「んー、思うんだけど、俺ってそんなにお前に憧れられる要素あんのかな? 高校の時、あんまり話したこともないじゃん」
 
「そう……なんだけど……」

藤沢は一度そこで言葉を止めた。
目を逸らすかと思ったけど、意外にも真っ直ぐこちらを見据えたままだ。
カーテンの隙間から微かに入り込む街灯の灯りを、藤沢の黒目が反射している。

「鶴見はさ、なんか、俺が持ってないものをたくさん持ってて……」
 
「そんなの、お互い様だろ、勉強は藤沢の方ができるし、背も高い」
 
「ははっ、そう、かもだけど」

ようやく、藤沢が笑みをつくった。空気が少し緩んだ気がする。

「俺、あんまり人とのコミュニケーション得意じゃなかったり、疲れちゃったりして、諦めてた時期があったんだ」

高校のときの藤沢の姿を思い浮かべる。
目立つタイプではなかったけど、嫌われているようにも見えなかった。何人か友達はいるようだったが、それでも本人はあまり上手く馴染めていなかったのだろうか。

「言葉にしにくいんだけど。なんていうか、他人と自分の境界線を、すごくはっきりと感じる。たぶん、これは俺の考え方の癖みたいなものでさ」

「ふぅん」

藤沢の心の中を想像してみる。
他人との境界線。

「誰かと一緒にいても、孤独を感じるってこと?」

「……うん、そうかも。そんなに深刻なことでもないけどね」

なるほど。身に覚えがない訳でもない。俺にも友達と話していても、ふと隔たりを感じる瞬間はある。でも、藤沢はその感情に対して、俺よりずいぶん敏感で、そして気にしていて、人と接することに疲れてしまうということらしい。

「今も、感じてんの、孤独?」

純粋な疑問として尋ねてみると、藤沢はぐっと眉を寄せて視線を伏せた。

「今は、ちょっと、緊張しすぎててそれどころではない……かも」

理想通りのリアクションで、俺はまた口元に笑みを浮かべる。

「で、そのことと俺とどういう関係があんの」

話の腰を折ってしまった。
本筋に戻そうと俺が尋ねると、藤沢は「うん……」と言葉を区切り、その先を慎重に考えている様子だ。
 
「やっぱりきっかけは……文化祭で、鶴見のライブ観たことなんだけど」
 
「うん」
 
「すごくかっこよくて。鶴見、楽しそうでさ。そこから、気になって、ずっと観てて、鶴見ってほら、誰かと仲良くなるの上手じゃん?」
 
「まあ、藤沢よりはな」

俺が茶化すと、藤沢はへへっと少しだけ眉を下げて笑う。

「皆んなも鶴見のこと慕ってるし、羨ましいなぁとか、そういう気持ちだったのかも、最初は」

慕ってる、とは、ちょっと違う部分もあったと思う。俺は外面を取り繕って、誰にも嫌われないように無意識に振る舞っていただけだ。だから女子に「順番待ち」だなんて揶揄されたように、上部だけだと上手くいかないこともあった。
ただ、藤沢の目には良いように映っていたなら、それでいいや、とずるい考えが浮かんでしまう。

「それでさ、ライブとか、練習してるところとか、観てるうちに、だんだん憧れみたいな気持ちが強くなってきてさ……」

はぁ、と感嘆するようなため息をこぼす藤沢。なんとなく、目の前の俺ではなくて、今まで藤沢が追ってきた過去の俺に思いを馳せているような、そんな気がした。
今の俺はここにいるんですけど、というアピールもこめて、「で?」と俺は続きを促す。
そのあとで、いったい自分は藤沢に何を言わせたいのか、と、思考が立ち止まる。
好きだ、と言わせたいのか?
言わせて、どうするつもりだろう。考えがまとまらないうちに、藤沢が口を開く。

「変な話なんだけどさ……」
 
「うん」

藤沢が言おうとしている言葉を、止めた方がいいのではないか。
言われたところで、俺は真正面から受け入れる準備なんてできてないだろ。
だけど、なんだろう。言わせたい。言われたい。という欲が前に出てきてしまう。

「俺……憧れが強すぎて……」

ゴクリと喉がなった。藤沢のではなくて、俺の喉だ。 

「もはや鶴見になりたい」

言ったあと、藤沢は「あぁ」と嘆くように息をもらして、両手で顔を覆い隠した。
 
「……それは、なに、どういうことだ?」

期待していた言葉じゃなかったせいもあるけど、本当に意味がつかめなくて、俺は眉を寄せた。
 
「藤沢は、俺になりたいの?」

この顔になりたいとか?
ああ、だから楽器をやりたがってる?
でも、なんだそれ。

「意味わかんないよね」
 
「うん、意味がわかんないな」

俺は藤沢の手首をとらえて、顔を覆っている手のひらを、少し強引に外す。

「俺も自分で言ってて意味わかんない」
 
「なんだそれ」

ぷ、と吹き出すと、藤沢もつられるみたいにへらっと笑った。

「あー、それってさ。俺との境界線、無くしたいってことなんじゃね?」
 
「ああ」

俺の言葉に、藤沢は真底感心したように眉を上げる。

「そうかも」

真っ直ぐに視線がかち合った。
藤沢の手首を掴んでいる俺の手を、このまま握っているべきか、離すべきかを迷っている。離す場合、その仕草を自然にできるか、自信がなかった。

「鶴見とは、近づきたいのかも」

一瞬、息が止まりそうになる。
なんでこんな時ばかり、馬鹿正直に真っ直ぐに俺をみるんだ。自分の内心の新発見に気を取られている様子で、藤沢は恥ずかしがることを忘れている。
だから、このやたらと速い鼓動は多分俺自身のものだ。

「じゃあ……さ、近づいて、みる?」

何を言ってるんだと、内心自分にツッコミを入れる。これは、なんだろう。単なる好奇心なのか、それとも別の感情なのか。

「近づくって……、もう、十分、近いけど」

ようやく、藤沢が思い出したように照れたそぶりを見せた。鳩尾の奥の方が疼く。この感情は、気持ち悪いけど、気持ちが良くて、なぜだかすごく興奮する。

「もうちょい、近づけるんじゃね?」

俺は、ほんの少し、枕の上で頭を滑らせて、藤沢との距離を詰めた。
藤沢はハッと息を呑んだけれど、硬直したまま近づくことも離れることもしない。俺は鼻先が擦れるほどの位置で視線を合わせて停止した。
これ以上は、近づかない。揶揄うだけなら、ここまでで止めるべきだ。

「近づくって……その――」

空気に戸惑う藤沢が、野暮な一言を口走りそうだった。やめてくれよ。言葉にされたら、より一層変な感じになるだろ。
だから、俺はあえてそのまま、唇を重ねた。一瞬だけど、当たっただけとは誤魔化せない長さで触れ合ってしまう。

藤沢は馬鹿みたいな顔で呆然として、瞬いている。
何が起こったのかを脳が処理しきれていない様子だ。
それをみて、俺も俺で急に恥ずかしさが込み上げてくる。何してるんだと自分にもつっこみつつ、「ファンサ」と短くこぼして、藤沢に対しても誤魔化した。

「ファン……サ……過剰すぎ、ない?」
 
「まあ、お前、古参だしな」
 
「古参……には、ファンサ、するの?」
 
「…………まあ」
 
「古参は、他にいる?」
 
「…………いいや」
 
「俺だけ?」
 
「……うん」

藤沢の質問がそこで止まる。
その空白に耐えられなくなって、俺は逸らしていた視線をもう一度上げた。
 
「鶴見」
 
「ん」
 
「も、もう一回、ファンサ、いい?」

脈が早すぎて喉の奥から、まさしく心臓が飛び出してしまいそうだ。息苦しささえ覚えるけれど、それは不快なものではない。でも、この動揺や昂りを俺は藤沢に悟られたくなかった。
だから、できるだけ平坦な声を絞り出した。

「いいけど」

そう答えてすぐ、藤沢が顔を近づけてくる。ファンサは俺からするのではなく、今度は藤沢からくるシステムらしい。そんなことを考えているうちに唇が重なる。探るみたいに触れ合った場所が、少しだけ深く沈んでいく。
鼻が擦れて気恥ずかしい。間近で目が合うから、藤沢がどんな表情をしているのかわからない。だけど、どこか真剣で緩やかな火が灯ったように見える。少し離したのに、またどちらからともなくくっつける。
キスだけなら、男も女も変わらないな。でも、藤沢相手だと、背徳感と高揚感で背中の辺りがそわそわする。
何してんだろ――ともう一度唇を重ねたところで、ようやく思考が浮かぶ。
そろそろやめないと、もっと変なことになりそうだ。でも、藤沢、コイツ、しつこいな。
 
「おい」
 
「いてっ」

ペチリッと藤沢の額を叩くと、小気味のいい音がした。

「がっつきすぎ」
 
「ご、ごめん」

額を抑えて、藤沢がしょぼんと眉を下げる。ちょっと可哀想になり、「次からは金取るからな」と冗談めかして誤魔化した。
「えっ」と小さく漏らした藤沢の声を耳に入れつつ、俺はベッドの上で寝返りをうった。

もう今日はここまで。もう喋らない。俺は寝る――そんなサインを、黙ったまま置いておく。

視線がしばらく刺さっていたけど、やがて藤沢がもそもそ体勢を変える気配がした。
  
壁際にぎゅっと体を寄せたのは、ベッドが狭いせいじゃない。いつまでも治らない心音を、藤沢に気が付かれたくなかったからだ。