隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き



洗面台の蛇口をひねると、水音が一気に静けさを押し広げた。
手のひらで掬った冷たい水を顔に当てる。
鏡に映った自分の表情には、思ったほど酔いは回っていない。

トイレのドア一枚向こうでは、店内のBGMが曲を変えながら流れている。
誰かの笑い声と、グラスが触れ合う軽い音が混じって、まるで遠くの出来事みたいにぼんやり届いていた。
呼吸を整えて、水滴を指で払う。
藤沢はなんだか戸塚や金沢と楽しそうに話しながら打ち解けていた。
俺との会話ですらまだぎこちないくせに。人見知りじゃなかったのかよ。
 
鏡越しに見える自分の口元が、不機嫌に引き結ばれている。
 
というか、今日のライブの三曲目。あの英語歌詞、けっこう苦労したんだが。
そこをもうちょい褒めてくれても良かったんじゃないか?

金沢のコーラス? 戸塚のギター? そりゃ確かに良かったけどさ。

俺のアレンジなんて、ひとこと触れただけじゃん。なんか……違うんだよな。

俺の中では、歌詞の意味とか気にしながらドギマギしてる藤沢を想像してた。
なのに、あいつはあいつで、ただ普通に“いい曲だ”って感じで受け取って終わり。

なんで気づかない?
いや、「気づかない」って言い方も変か。別に俺自身は深い意味なんて込めてないし。ただ、藤沢を動揺させたかっただけ。もっと俺のことで悩んだり焦ったり、喜んだりとかしろよ。

――ガチャ。

不意にドアが開き、店内の喧騒が一瞬だけ流れこんだ。
俺の存在に気づいた藤沢が「あ」と小さく口を開く。

一瞬謎のためらいを見せて、でも戻るほうが不自然だと思ったのか、藤沢は結局トイレの中へ足を踏み入れてきた。

個室二つに小便器に洗面台。狭すぎないけど少し気まずい空間だ。もう俺は用を済ませたワケだけど、こういう場面、相手が藤沢じゃなかったら、どんな反応してたっけ、と一瞬わからなくなってしまう。
軽く会釈をして立ち去ればいいか。そう結論付けたはずなのに、何故か俺は「藤沢……」と声をかけてしまっていた。

「え?」

藤沢は律儀に立ち止まり、鏡越しに俺をみた。
店内よりもずいぶん明るい照明で、藤沢の顔がはっきり見える。小さく眉を持ち上げたその表情をみてから、俺はようやくなにを話せば良いのか考え始めた。

「あー、えっと……大丈夫?」

……何がだよ。
自分で言って内心自分で突っ込んだ。

「うん。え? な、何が……だろ?」

いったん頷いたものの、藤沢も当然首を傾げる。
俺が振り返ると、相変わらず藤沢は照れたように視線をそらした。

「ほら、酒も飲んでないのに、いづらくないかなって」 

「え?」

俺の言葉に、パチリと藤沢が顔を上げる。

「大丈夫、ぜんぜん、そんなことないよ!」
 
「そっか……ならいいんだけど」

言葉とは反対に、表情が僅かに強張ってしまう。それを隠すみたいに、俺はまたさりげなく口元に左手を当てた。

「なんか、ずっとステージの上にみてたから、戸塚くんや金沢さんと話すの少し不思議な感じ。だけど、二人とも、とても気さくでいい人だね」
 
「まあ、うん」

そうなんだよ。戸塚も金沢もいいやつだ。それは俺も知ってるし、あいつらが藤沢と親しくなるのは別にいいことじゃないか。藤沢も、素で喜んでるみたいだし。
なのに、なんで、モヤつくんだ。多分俺はこの楽しそうな藤沢の何かが気に入らないわけなんだけど、その正体がいまいち掴めなくて、気持ちが悪い。

「大人数の飲み会とか、誰と何話していいかわからなくて苦手だったんだけど。共通の話題があると楽しいね」
 
「そうだな」

自分でもわかるくらい、声の調子が悪い。うまく抑揚が作れないんだ。
そんな俺の声音に気がついたのか、藤沢の表情が不安で一段階沈んだ気がした。

「鶴見――」
「藤沢さ」

何かを言いかけた藤沢の言葉を遮ってしまったのはわざとじゃない。だけど、なんとなく引き下がれなくて、俺はそのまま言葉を続けた。

「そろそろ、帰った方がいいんじゃね?」
 
「え……」
 
「ほら、こっから先は、割と内輪ノリな感じになるし」

腹の奥がなんだか気持ち悪い。自分でも意地の悪い言い方になっていることに気がついている。なんでこんなことを言う。なんでこんな言い方をするんだ。そう思う自分がいる一方で、口からこぼれる言葉の方が止まらない。

「他の人がいると、なんとなく盛り上がりきれないとかあると思うんだよな。気遣うし」

「あ、そ、そっか……」

藤沢はまた、視線をそらして、気まずげに顔を赤くしている。気を遣えない自分を恥じたような様子だ。

「うん、ちょうどそろそろ帰ろうかと思ってたとこだから……」
「うん」

胸元がピリリと冷たい痛みを感じた。
俺は藤沢の表情を見るのが怖くてそのまま顔を合わせずにトイレを後にした。

その後、席に戻ってきた藤沢は、まさしく俺の言いつけ通り、周囲に軽い挨拶をして、いくらかの飲み代を俺に預けると、あっさりと帰って行った。
 
「またね」
 
「じゃあ」
 
なんて定型の挨拶を交わす間も、俺は藤沢の目をまともに見られなかった。

飲み会はそのまま何事もなかった顔で続いていく。
さっきまで「えー帰っちゃうの」とか「もう少しいいじゃん」とか言っていた戸塚も金沢も、すぐに藤沢のことは忘れたみたいに他のメンバーと談笑していた。

その中で、俺は氷で薄くなったカクテルをちまちま傾けながら、舌の上に残る苦い何かを噛み潰していた。
 




湿気を纏う初夏の夜は、風があれば心地が良い。けれどモヤモヤとしたものを胸の辺りに抱えた俺は、浮かない気分だ。
結局、終電前に帰るという第一陣にまぎれて、俺も飲み会を切り上げてしまった。
駅からマンションまでの道を、気分の重さに引っ張られるみたいに靴裏を引きずってノロノロと歩く。
酔ってないからこそタチが悪い。先ほどの自分の言動をしっかりと認識してしまっている。

「帰ったほうがいい」だなんて。
「内輪ノリだから」って。
ああ、何言ってんだ。最悪。
ぜんぜんそんなことねぇよ。酔っ払ったら、みんな誰がいようが盛り上がるし。むしろ、社交的なやつが多いから、サークル外からの参加も歓迎される。
 
だから、単純にあれは俺の意地悪で。なんであんなこと言ってしまったのかも定かではない。

とにかく、自分の行いが恥ずかしすぎて、マンションの下で一度立ち止まった俺は、頭を掻きむしってしゃがみ込んだ。
 
「謝るか……」

小さく息を吐くように、独り言を呟くと少しだけ気分が楽になった。
スマホの時計を確認すると深夜0時を過ぎている。
今度会った時にでも、ひとこと謝罪すればいい。多分藤沢は「え?そんな、気にしてないよ」とかなんとかあっさり返してくるだろう。
 
でもなんだか少し怖い。

俺のあの言葉が、藤沢とのあいだにうっすらと溝みたいなものを作ってしまったんじゃないか。
当人にしかわからない程度の、けれど放っておくとゆっくり広がりそうな溝。
今まで藤沢から向けられていた、あのまっすぐな感情が、Y字路の分岐みたいに、時間をかけて別の方向へ流れていってしまうんじゃないかと思うと、不安になる。

部屋の前まで来て、通り過ぎる前にちらりとドアを確認する。
鉄のマンションの扉からは、当然ながら内側の気配なんて読み取れない。
まあ、寝てるよな。

ため息をひとつ吐いて、ポケットを探る。

「あれ?」
 
そこにあるはずのキーケースがない。
反対側のポケット、ギターケースの外ポケット、それから服の上をひととおり探る。
それでも出てこない。

道の途中で落とした? それとも店か?

そう思ってスマホを取り出し、まだ店に残っているはずのメンバーの名前を探す。
いちばん正気を保っていそうな葉山を選んで電話をかけた。

「もしもし?」

着信に気づいて場所を移動したのか、葉山の背後の音楽が少し遠のく。

「あ、もしもし? 悪い。俺さ、キーケース落としたみたいで」
 
『え? まじ?』
 
「店にない?」
 
『ちょっと待ってろ』

受話器越しに、

『鶴見のキーケース?』
『そう、ない?』
『みんな探せー』

という声が飛び交って、申し訳なさがじわっと滲む。

『キーケース、ポールスミスのやつ?』
 
「あー! そうそう!」
 
『あったぞ! どうする? そっち行くか?』
 
「んー……」

言葉を伸ばしたまま少し考える。
終電はもうない。
みんな酒を飲んでるから運転も無理。
わざわざ飲み会抜けてタクシーで来てもらうのも申し訳ないし、こっちからタクシー乗ってまた往復するのもなぁ。

「いや、いいよ。預かっといて。明日取りに行く」
 
『それはいいけど……お前どうすんの? あ、そっか。隣に藤沢くんいるのか』
 
「え……」
 
『泊めてもらえばいいじゃん』
 
「ん、まぁ……そうだな。適当にやるよ」

そんな感じで通話を切った。

確かに、普通なら藤沢に頼めばいい。
藤沢なら断らないだろうし。

「……けど、気まずいんだよな」

さっき意地悪を言って帰したばかり。
この状況、笑うしかないほどの因果応報だ。

俺は玄関の扉に背中を預けて、ずるっとしゃがみ込んだ。

幸い、スマホと財布はあるし、駅まで戻れば、ファミレスでもカラオケでも、始発までの居場所くらいなんとかなる。

ちらりと顔を上げて、藤沢の部屋の玄関を見た。

――開かないかな。

そんなことを心のどこかで思った自分に気づいて、苦笑が漏れた。

スマホのアプリを開く。
今日の飲み会で、ようやく藤沢とLINEを交換したばかりだ。
アイコンはデフォルトのまま。

数分迷ってから、空白のトーク画面に指を落とす。

『起きてる?』

絵文字もつけず、ただそれだけ打ち込んだ。

送ってから十秒もたたず、既読の文字がポツリと表示された。

「はや」

一瞬口元に笑みを浮かべてしまうが……そこから十秒数えても返信がない。
――起きてるよ、のひと言だけなら、すぐ返せるはずだ。
なんだよ、やっぱりちょっと怒ってたりするのかなと、苛立つような不安なような気持ちが胸に浮かぶ。

――ガチャ。

急に、ドアノブの下りる音。その後で、恐る恐ると言ったゆっくりさでドアが開き、その隙間から藤沢がひょこりと顔を覗かせた。

「鶴見?」
 
「あ……」
 
「声、ちょっと聞こえてた。どうしたの?」

スマホの画面の向こうにいた相手が、そのまま現実に立っているようで、一瞬頭が変な感覚になる。
俺はスマホを握ったまま反射的に立ち上がった。

「いや、ちょっと……そのぉ、鍵落として」
 
「えっ? 大丈夫?」

藤沢は深夜の時間であることを気にしているのか声を抑えているが、それでも驚いたように眉を上げた。

「うん、店にあったから大丈夫。葉山が預かってくれてる」

「そうなんだ」 

そこから、また変な間が落ちた。
いつも挙動不審なのは藤沢のほうだけど、今は俺もどこへ視線を置けばいいのかわからない。

『泊めてくれない?』なんて、さっきの態度のあとで言えるわけない。
でも、藤沢は気にしてないかもしれない。
……いや、それでも自分から言い出すのは、どう考えても調子が良すぎるし、格好つかない。

そんなくだらない逡巡だけが頭をぐるぐる回る。

「鶴見……」

先に口を開いたのは藤沢だった。
助け舟を出されたみたいで、思わず顔を上げる。

「その……良かったら、ウチで寝てく?」

一瞬だけ視線を合わせて、すぐ逸らす。
そんな態度をとるから、待ってた言葉のはずなのに、こっちが一瞬つっかえてしまう。

でもまあ、普通に考えて断る理由なんてない。
別に変な意味じゃない。
友達が同じ状況なら、俺だって藤沢と同じことを言う。

「あ、じゃあ……お願い、します」

胸の奥にむず痒いような空気が残るまま、俺は藤沢の部屋のドアに手をかけた。