隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き



季節ごとに行われるサークルのイベントは、いわば内輪向けの発表会みたいなものだ。
非日常的な緊張感はあるにせよ、チケットを捌く必要もないぶん、個別ライブとは違う、ゆるい空気が流れている。

週末の下北沢。雑居ビルの細い階段を降りた先にある小さなライブハウスは、外とは違う温度を持っていた。
コンクリ打ちっぱなしの壁に、古い機材の匂いと、ところどころ染み込んだスモークの甘い残り香。薄暗い照明が低い天井に反射して、ざわつく人たちの影を揺らしている。

開演から一時間ほど経った会場は、いい具合に温まっていた。
ほとんどがサークルメンバーの家族や友達で、のんびり腕を組んで聴いていたり、知り合い同士で肩を寄せ合って笑っていたりする。

その中に今日もちゃんと藤沢がいた。

背が高いので遠慮しているのか、あいつはいつも最後尾だ。
壁に背中をつけて突っ立ったまま、じっとステージを見ている。
黒い無地Tの上に、深い紺色のオーバーシャツを羽織っているせいで、ほんとに壁と同化して見えた。

黒子かよ。

心の中でだけツッコミを入れながら、俺は出番が迫ったステージ脇で手汗を拭った。
スティックを回すドラマーの気配、チューニングする音、照明スタッフの声。
こういう雑多な“舞台裏のざわつき”が、逆に集中を引き寄せてくれる。

さて、あと一曲で俺たちの番だ。

前のバンドの最後のコードが鳴り終わると、客席からわっと拍手が上がった。
ドラマーが締めのスティックを高く掲げ、軽く頭を下げる。
そのままメンバーはそれぞれの楽器を抱えてステージ袖へと下がっていく。

スタッフの一人が手早くマイクスタンドの高さを直し、別のスタッフが床に落ちたピックやケーブルをサッと拾う。
ステージ上はざらついた明かりの中で静かに組み替えが進んでいく。

「次、Blue Mug入りまーす」

PA卓から聞こえる控えめな声が、俺たちのバンド名をコールする。
照明が一段落ちて、会場のざわめきが少しだけ変わる。

メンバーがステージに上がると、客席の奥のほうで、誰かが「フーッ!」と気合いを入れるような声を上げ、それに釣られて数人が笑ったり、軽く手を叩いたりした。

身内ばかりとはいえ、やっぱり多少は緊張する。
手に持ったピックを指先でくるりと回してから、サイドギターの戸塚、ベースの相模、キーボード兼コーラスの金沢、最後にドラムの葉山と順に視線を交わし、軽く頷き合う。

葉山がスティックを構え、小さく空気を切るように カチ、カチ、カチ、カチッ と四拍を刻んだ。
そのままドラムが走り出し、相模のベースが低く床を揺らす。
続いて戸塚のギターが明るいリフを重ね、金沢のキーボードが柔らかい層をつくった。
音が重なっていく気配に自然と手が動き、俺のギターもそこに溶け込んでいく。

最初の一曲は、サークルでも何度かやってきたアップテンポのコピー曲だ。
身体が勝手に動くくらい馴染んでいて、ところどころ客席から小さく手拍子も起きる。

藤沢も、でかい体の胸元で小さく手を叩いている。俺はマイクに向けて歌詞をなぞりながらも、思わず口元に笑みを作った。

サークルのイベントでは、持ち時間十五分でだいたい三曲が通例だ。
一曲目と二曲目は、客層が確実に食いつくJロックのヒットソング。
三曲目は、メンバーが持ち回りで「これやりたい」を出し合って、毎回新しく練習して本番に臨む流れになっている。

オリジナル曲も実は何曲かあるんだけど、ああいうのは友達のバンドと組む 対バン とか、ライブハウスの ブッキングイベント のときしかやらない。

サークルイベントのときは、とにかくみんなが知ってて、ノリで押し切れる曲 を選ぶのが前提だ。 

二曲目に入ると、会場の空気がゆっくりまとまって、音が噛み合うたびに、客席の反応も自然と揃っていく。

バンドを続けている理由は、音楽が好きだから――
それが一番大きいのは間違いない。
でも、それだけじゃない。

ステージに立つと、普段とはまったく別の“空気の流れ”が生まれる。
好意的な視線が向けられるのは、単純に励みになるし、多少カッコつけた仕草をしても場の一部として受け止めてもらえる。
その感覚は、日常生活ではまず味わえない。

そして何より、こうして誰かと音を合わせて一つの曲を形にしていく時間には、独りでは得られない種類の充実感がある。
重なる音の隙間に自分の音がぴたりと落ちた瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた気がした。
指も呼吸も軽くなり、ステージの空気が手のひらでつかめそうな距離まで近づいてくるようだ。
うまく回り始めた歯車に自分も確かに噛み込めたような感覚とともに、内側からボリュームを押し上げられるような高揚が、全身へじわりと広がっていく。
 
二曲目のアウトロを弾き切ると、照明の熱と集中のせいで額にうっすら汗が滲んでいた。
ふっと息をつきながら振り返ると、戸塚が親指を立て、金沢は小さく頷き、葉山はスティックをくるりと回して合図してくる。

余韻が客席に落ち着いたあたりで、マイクをほんの少し引き寄せた。

「こんばんは、Blue Mugです」

MCは毎回俺の役目だ。ただ、サークルイベントは持ち時間が限られてるから、長々喋るわけにもいかない。今やった二曲のタイトルと、メンバーを軽く紹介するだけの簡素なものだ。

でも、曲が終わった直後の“急に素に戻される感じ”がどうにも照れくさくて、俺はいつも相模にそっと顎で合図する。
相模は「はいはい」とでも言いたげに肩をすくめ、ベースで低く短いフレーズを鳴らした。

その一音でステージの空気がふわりと整う。
足元から立ち上がる低音に背中を押されるように、俺はマイクへ顔を寄せた。

「えーっと、このイベントに出るの、今回で九……え、十回目? そんな出てんだ、俺ら」

マイクの外で、戸塚が「数えとけよ」と口パクでツッコみ、相模が小声で「前回も同じこと言ってたな」と笑う。
そのやり取りに、客席の前のほうからクスクスと笑いが起きる。

「で、毎回ラストの曲はメンバー持ち回りで選曲してまして。今回の担当は……ワタクシでございます」

軽く手を挙げて言うと、どこからともなく「おおーっ」と盛り上げる声が飛んだ。
その空気が静まるのを待って、息を軽く吸う。

「じゃ、時間もないので。やりますかね」

メンバーへ視線を送り、戸塚が頷き、金沢が指を二つ立て、葉山がスティックを軽く掲げる。
全員の呼吸が合うのを確認してから、マイクへ口を寄せる。

「――懐かしのラヴァーボーイ」

曲名を告げた瞬間、会場の空気がきゅっと締まる。
間髪入れず、俺はギターのピックを弦に落とした。

軽やかなイントロが、ライブハウスの天井へ跳ね上がっていく。
指がフレットの上を滑り、ピッキングの合間にふっと片手が空いた瞬間、俺は顔だけわずかに客席の奥へ向けた。

気配でわかったのか、そこにいる藤沢がハッとしたように顔を上げる。
スポットが届かないせいで表情は半分影に沈んでいるのに、目だけは驚いたように見開かれていた。

その視線をしっかり捉えたまま、俺は空いた左手の指で “見てろよ” の合図を送る。
人差し指と中指をそっと自分の目元へ当ててから、すっと藤沢のほうへ向けて払うように伸ばすごく短い仕草だ。

その瞬間、藤沢の喉が上下に小さく揺れたきがした。
驚いたのか、嬉しいのか、緊張なのか。
 
気分がいい。

俺の動きで一喜一憂する藤沢の姿を見てると、勝手に気分が乗ってくる。
俺は再び両手でギターを抱え、イントロから流れでサビ前へ繋ぐフレーズを滑らせた。
音が一段階明るく跳ね、会場がざわっと色づく。

この曲をやろうと言い出したのは俺なんだけど――実は最初は歌詞の意味、ちゃんと理解してなかったんだよな。
名曲だし、俺がこの曲を選んだ理由を深く考えるやつなんてそういない。歌ってる俺自身も、別にそこに“意味”を背負わせてるわけじゃない。

――だけど、今になって、急にクソ恥ずい。
 
あいつはわかって言ってたのか?
そんな風に勘ぐった。
でも、近づくだけで硬直していた藤沢の姿を思い出すと、いや、たぶんわかってねぇなと結論がでる。

でも、じゃあなんで、俺がこの曲を選んだのかっていうと――

そんなことを一瞬だけよぎらせながら、指をフレットの上で滑らせる。
ギターソロに入ると、客席のざわめきが少し遠のいた。

最後のフレーズで指を跳ね上げ、伴奏に戻るタイミングで視界を自然に客席へ流す。
壁際にいる藤沢は、胸の前で手を合わせた姿勢のまま固まっていた。
手拍子をするのを忘れたみたいに、指先が中途半端な位置で止まっている。
そのまま、口だけぽかんと開けて俺を見ていた。
照明が揺れるたびに、その目の奥がわずかにほどけていく。言葉にするまでもなく、藤沢が何を感じてるのかは伝わってくる。

最後のコードを切った瞬間、会場にいっせいに拍手が広がった。
熱の残る弦の振動が手のひらでほどけていくのと同時に、その音の波が胸に落ちてくる。

 
俺がなんで、この曲を選んだか――
 
それは、藤沢を、喜ばせたかったからだ。