隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き


ダストボックス下の蓋を開け、ゴミの溜まった箱を取り出す。
中身をこぼさないように注意しながら袋の口を縛り、新しいものに取り替えた。
チラリと時計を見ると、あと十分ほどでシフトが終わる。
混み具合からして残業もなさそうだ。
ここを片付けたら、退勤前のルーティーンをこなして、ちょうど時間といったところ。

ふと、座席近くの床に落ちたストローの袋が目に入る。
ついでだし拾っておくか、と床を見たまま歩み寄った。

そのとき、視界の端に、近くの席に座る誰かの足元が映った。
それが、必要以上にびくっと動いたものだから、俺は思わず顔を上げる。

壁際の柱の影になっていて、注文カウンターからは死角になっていた席だ。
分厚いハードカバー本を、やや不自然な角度で顔の前に持ち上げている。
けれど、さすがにこの距離なら気づいてしまう。

「あれ? 藤沢じゃん、いたんだ?」

気さくに声をかけると、藤沢は肩をびくりと揺らした。
その後、ゆっくりとハードカバーから顔を覗かせ、「え、えー、鶴見、グウゼン!」と、いつもの下手くそな演技を披露する。
思わず笑ってしまった。
 
「なに、もしかして俺目当てできてたとか?」

冗談めかしてからかってみる。

「いや、今回は、違う」

「今回は?」

「あ、そうじゃなくて……そ、そう、これ。好きな作家の新刊が出たから、カフェでゆっくり読もうかなって」

「へぇ」

藤沢が手にしている本の表紙を覗き込むと、なんとなく聞いたことのある著者名が目に入る。
本を読まない俺からすると、カフェで読書なんて気取ったことをしてるなぁと思うけど。
読み進めたらしい厚みを見る限り、本当に好きで読んでいるのだろう。

俺目当てじゃなくて、たまたま来ただけか――そう思うと、なんだか面白くない。

「鶴見……ここで、バイトしてたんだ。この店、最近できたよね」

「ああ、そうそう。オープニングスタッフで三月からやってるよ」

「へぇ、そうなんだ」

あまり動かない藤沢の表情筋が、何か嬉しい発見でもしたかのように、心なしか緩んだ気がした。

ここはマンションからもまあまあ近いし……今後、藤沢は通うのだろうか。
――俺目当てで。

「なあ、藤沢、この後なんか予定ある?」

「……な、ないけど」

「んじゃ、一緒に帰ろうぜ。俺もうすぐバイト終わるんだよ」

「えっ?!」

「……? なに、もう少しここいる?」

「い、いや……俺も、そろそろ帰ろうかと思ってた」

「んじゃ決まり。ちょっとだけ待ってて」

今日はファンサということで、ウィンクなどをくれてやる。すると藤沢は針金を通したみたいにピンと背筋を伸ばし、ぱちぱちと瞬いた。

やっぱ可愛いよ。
俺の一挙手一投足で、こんなデカい男が一喜一憂してるんだぞ。
なんか尊いと思う俺は変なのかな。それとも性格悪い?

ゴミ袋をぶら下げて裏口に向かう途中、ちらりと振り返る。

藤沢は本を逆さに持ったまま、一点をただ見つめていた。おもろい。
俺は思わず緩んでしまった口元を、きゅっと結び直し、残りの作業に勤しんだ。






そういえば、少し前まで雨が降っていたな――と、濡れた石畳を見て思い出す。

俺が着替えて退勤すると、なぜか藤沢は店の外で待っていた。
足元を見たり、閉じた傘を何度も持ち替えたりして、落ち着かない様子だ。

歩み寄ると、俺の気配に気づいた藤沢が顔を上げる。
その表情が、ほんのわずかに嬉しそうに見えたのは、きっと気のせいじゃない。

「店の中で待ってればよかったのに」

「少し混んできたし、悪いなって」

そう言われてガラス張りの店内を振り返ると、確かにさっきより席が埋まっている。
でも、藤沢だって客なのだから、気にしなくてもいいのに――と思いつつ。

「行こうぜ」と家路へ促した。

横並びになり、足裏で地面を擦るようにゆっくりと歩く。
梅雨の終わりに差し掛かり、ずいぶん日は長くなったように思うが、十八時を過ぎる今はもう薄暗い。
駅前にどんと広がる歩行者専用の空中通路には、仕事帰りや学校帰りらしき人たちが一定の間隔で歩いていて、スーツの擦れる音やスニーカーの足音が、ぽつぽつと途切れながら流れていった。
 
「この前、ごめんね」

藤沢は足元を確かめるように俯き加減で歩いている。
そんなんだから、猫背に見えるんだよなと思いながら、俺は自分の姿勢を正すように背筋を伸ばし、「なにが」と尋ねた。

「鶴見の部屋で宅飲みしてる時、邪魔しちゃって……感じ悪かったかなって」

「え? いや、騒いでたの俺らだし」

そもそも藤沢は俺の悲鳴らしきものを聞きつけて心配してきてくれたわけだ。

「あとさ。変な話になったでしょ? あの後」

「変な?」

俺はちらりと横を向いて藤沢の様子を確かめる。
相変わらず視線は下を向いていた。

「推しとか、熱い視線とか」

藤沢の言葉を聞いて記憶を辿ると、たしかに葉山や戸塚にそんなことを言われていた気がする。

「いや、あんなのふざけてるだけだって。気にすんなよ」

ひらひらと手を振って笑うと、「そっか」とつられるように藤沢も苦笑した。

誤魔化したものの、多分葉山も戸塚も、あれは半分以上本気で言っていたのだろう。
藤沢のことをよく知らない二人ですらそう見えるのだから、俺の自意識過剰というわけではない。

「あれ?」

俺が声を上げると、となりでぴくりと藤沢の体が揺れた。

「てかさ、なんで?」

「え?」

「なんで、その話知ってんの? あの時、もう藤沢部屋に戻ってたよな」

「あっ」

顔を上げた藤沢とはからずしも目が合う。
いつも無表情がテンプレだが、顔色の変化は分かりやすい。
藤沢はみるみるうちに顔を赤くしていった。

「まって、もしかしてさ。俺の部屋の声、結構聞こえてんの?」

確かにマンションとはいえ学生用の賃貸だし、壁が薄いのかもしれない。

「いや、そ、そうじゃなくて!」

なぜか必要以上に焦る様子の藤沢。
脳裏に、壁に耳を押し付ける藤沢の映像が浮かび上がる。
もしくは盗聴?
まさか――

「窓、空いてると、けっこう声聞こえちゃうんだよ。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」

「ああ……」

俺は密かに胸を撫で下ろした。

「ごめん、勝手に聞いて」

「いや、まじでこっちこそごめん。うるさいの我慢してくれてたりする? てか、練習の音とかも聞こえてんの?」

「え? ギターの音は聞こえないけど……?」

「んっと、カチャカチャいうやつは?」

俺が体の前で架空のギターをかき鳴らすと、「ああ、うん」と何故か藤沢の方が気まずそうに頷いた。

「まじか、ごめんな」

「えっ? ううん! ぜんぜん! うるさいとかじゃないよ。ただ、何してるのかなぁとは思ってたけど」

この頃は窓を開ける季節だし、角部屋だからと油断していたが、今後は時間帯を考えた方が良さそうだ。

「機材とヘッドホン繋いでさ、練習してんの。だから、カチャカチャって」

「なるほど」

藤沢は俺に調子を合わせるように相槌を返す。

そういえば、藤沢は音楽自体は好きなんだろうか。
俺目当てでライブに来ているのは確定として、楽器や音楽に興味がないのなら、ギターの練習の話なんてつまらないだろうな。

ふと視線を下ろすと、藤沢が向こう側の手に下げた本屋の袋が目に入る。
 
「その作家さぁ、なんだっけ、有名な人だよな?」

「え?」

急に話を変えたせいで、藤沢は一瞬戸惑ったように瞬いた。
けれどすぐ、自分の持っている本のことだと気づいたらしい。

「ああ、折坂幸太郎?」

「そうそう。分厚いし、なんか難しそう」

「そんなことないよ? エンタメ小説だし。読みやすいと思う。映画化した作品とかもあるし」

「映画?」

「うん、ゴールデンスライダーとか、知らない?」

「ええ! 知ってるよ! あれその人が原作なんだ! めっちゃ面白かった気がする!」

子どもの頃だから記憶はあやふやだけど、殺し屋とか出てくる派手な映画だった気がする。
俺が知っていたのが嬉しかったのか、藤沢の表情が少し緩んだ。

「今度俺も読んでみようかなぁ」

と俺が続けて言った瞬間、藤沢の目がクワッと開く。

「え、興味ある?!」

正直、読むことはないだろうなと思いつつ、場繋ぎ的に口にしただけなのだが。歩きながらも半身こちらに振り返る藤沢の勢いに、とりあえず「う、うん」と調子を合わせてみる。

「俺、折坂幸太郎の作品なら、ほぼ家にあるよ!」

「ほう」

「あと、同じ系統でおすすめの作家のも」

「へえ」

「あと、西山圭吾もおすすめだよ」

「うぅん」

「読むなら貸そうか?」
 
「い、いや、俺読むの遅いから悪いし」
 
「俺はもう読んだから、返すのはいつでもいいよ」

しまったな。読まない本を借りるってのもなんかなぁ。
それにしても、いつもビクビクしたでっかい小動物みたいな藤沢が、なんだかハキハキと話している。

「よっぽど好きなんだな」
「え?」
「本」

どうしてか、俺がそういうと、気まずいことを指摘されたみたいに、藤沢は恥ずかしそうに萎んでいった。
大型小動物、無表情の百面相、藤沢は属性破綻に溢れている。

「好きは好きなんだけど……なんていうか、鶴見が俺の話に興味持ってくれたのが嬉しくて」
 
「ああ」
 
可愛い。
俺はからかい半分、そんな言葉を頭に浮かべる。
発言と行動だけを文字起こししたら、きゅるんとした感じの気弱な美少年が思い浮かびそうだが、実際の藤沢は声が低くて無愛想なまあまあデカいイケメンだ。
こいつが俺を好きなのは確かとして。その好きってなんなんだろ。
憧れとかそういうのなのか、それとも恋人になりたいとか?

「そのさ、本いっぱいあるって」

「え?」

「誘ってんの? 部屋に――」

「へっ――」 と裏返った声と同時に、藤沢の体が跳ね上がる。
 
「ち、ちがうよ! そういう意味ではない」
 
と、小刻みに首を振った。
試しにカマをかけてみたわけだが、なるほどこの動揺ぶりからして、藤沢の好きはやはりそういう「好き」らしい。

また足元ばかり見て歩く藤沢を横目で捉えた。
まくったシャツの袖から覗く前腕筋は、日常的にギターを触っている俺より明らかにしっかりしている。
 
――警戒した方がいいのか?

そう思った直後、藤沢が両手で胸に抱えた本屋の袋を見てため息をつくのが視界に入った。
その様子があまりにも拍子抜けで、警戒心はあっさりとどこかへ消えていく。

「そいやさ、来月のライブも来んの?」

しばらく黙って歩きながら話題を探した末に、俺はそう切り出した。
サークル主催のライブイベントは三ヶ月に一度くらいで、藤沢は今のところ皆勤賞。
イベント情報はLINEに流れるから、藤沢も把握しているはずだ。

案の定、藤沢は控えめに「うん」と頷き、「迷惑じゃなければ」と小さく付け足してきた。

「迷惑じゃねーよ」

できるだけ軽い調子で返す。
たぶん“推し”だとか“熱い視線”だとか、あの会話を気にしてる。
藤沢は控えめすぎるから、言い方を間違えると本当に来なくなりそうだ。

「普通に嬉しい。毎回来てくれるの」

「そ、そっか」
 
ああ、良かった。たぶん、これは藤沢的に笑っている。

「てか、もしかして藤沢っていつもチケ代払って入ってきてる?」

「え? う、うん」

「まじかっ」

何か怒られたのかというくらい、藤沢の肩がびくっと揺れた。

「あれ、出演者の招待なら無料なのよ。ほぼみんな友達とか家族とか無料で入ってる」

「へえ」

サークルのイベントは出演者が参加費で会場代を賄う形式だから、招待枠は自由なのだ。

「あ、じゃあ、次回は俺の名前で入れるようにしとくよ」

「え?!」

「受付で俺の友達って言えばただで入れるから」

「それは、悪いよ! お金払うって」

「いや、悪くない。みんなそうしてるし」

何ターンかやや面倒な押し問答になり、最終的に藤沢が「じゃあ、お言葉に甘えて」と遠慮がちに頷いた。
そのあと、ほとんど聞こえない声で「鶴見の、ともだち」と呟いたのが耳に残る。

道のりはすっかり住宅街に差し掛かり、もう間もなくマンションにつく。
エレベーターに乗り込んで、階数表示を見上げながら、あとは何を話そうかと考えていた。
読んでいた本のこと、ライブのこと、あとはどんな話題を出せば藤沢は喜ぶのだろう。

「藤沢って、音楽すきなの?」
 
「うん、前は詳しくなかったけど、最近聴くようになった」

なるほど、俺の影響だな。
「よしよし」と無意識に頷いていた。

「あれ、いいね。この前のライブで鶴見たちがやってた、ちょっとしっとり系の」
 
「あぁ、好きだった?」
 
「うん」

ああ、あと数メートル歩いたら、部屋に着いてしまうなぁ。

「今度のライブで同じバンドの別の曲やるよ」
 
「へえ! そうなんだ! 楽しみ」

勝手に歩幅が狭くなる。藤沢も同じだ。だけど、そんな小さな抵抗ほぼ無意味。部屋の前に到着すると、なんだか、名残惜しげに藤沢はドアノブを握ってもたついている。

「じゃあ、ライブ、頑張って」
 
「うん」

頷きつつも、俺はなんでか次の言葉を探していた。

「あのさ」
 
呼びとめてから、なんで呼び止めたんだっけ、と、その理由を探した。
ん?と藤沢のが顔を上げている。
少しだけ違和感のある間が空いて、咄嗟に息を吸い込んだ。

「ちょっと聴いてく? まだ練習中なんだけど」

気がついたら、俺は自分の部屋のドアを指差していた。