隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き

――笑えるはずなのに、そんな余裕は、どこにもない。
最悪だろ。俺は先に藤沢を拒絶することで"拒絶された側"になるのを回避している。
これ以上ここにいたら、もっと取り返しのつかないことを言ってしまいそうだ。
 
「じゃあ、俺いくわ」

冷えた声のまま、俺は藤沢に背を向ける。
けれど、立ち去ろうとした瞬間、また腕をがしっと掴まれた。

「ちょ、離せって言っ――」
 
「嫌だ!」

振り返った瞬間、藤沢の声が俺の言葉を遮った。
ぐっと眉を歪め、いつもはあまり動かない藤沢の表情がワナワナと唇を震わせている。
 
「……い、嫌だ……俺、嫌だよ……鶴見……」

肩を震わせる藤沢がきつく目を閉じた。その瞬間にはらり、と、堪えきれなかったみたいに、涙がこぼれ落ちる。

――え。

頭の中が、一瞬、真っ白になる。

「ちょ、藤沢……泣くなって」

泣かせたのは自分だ。だからこそ、焦る。
大の男が泣き始めたことに、動揺するなと言う方が無理な話だ。
俺はあわあわしながら、藤沢の肩に手を置いた。
藤沢は治るどころか、ますますズビズビと鼻を啜っている。

「落ち着けよ、藤沢。悪かった。言いすぎたから」

ふと視線を上げると、練習室の扉から頭を覗かせ、こちらの様子を伺うメンバーが見える。
別に誰も何も言っていないし、表情もはっきり見える距離ではないけど、「何泣かしてんだ」と責められているような気分になり、俺は藤沢の腕を引いた。
とりあえず、廊下を折れた場所にある、自販機前の休憩スペースに入り込む。

「ほ、ほら、藤沢……なんか買ってやるから、コーラがいいか? ん?」

自販機に行こうとする俺の腕を、藤沢はぎゅっと掴んだまま離さない。まだ俯いて泣いてるみたいだけど、マジでどうしたらいいんだこれ。

「か、関わるな、なんて……言わないでよ」

グシグシと目元を拭いながら、藤沢が声を震わせる。

「わかった、わかったよ」

これが子供とか、女の子なら、正解はすぐに出るんだけど。相手が藤沢の場合でも、『抱きしめる』であってるのか?

俺はとりあえず、宥めるように自分よりも広い藤沢の肩を両手で抱き寄せ、ポンポンと背中を叩いてやる。
そうしたら、なんでか知らんが、逆に藤沢が縋るように俺の体を抱きしめてきた。

「うぉっ」

驚いて声が出るけど、とりあえず泣き止んでくれるならそれでいいか。藤沢の頭をなでつつ、エアコンの効いた場所でよかった。と、なぜか現実的なことが頭をよぎる。

「俺だって、行きたかった。鶴見のライブ……楽しみにしてたんだ……」
「へいへい。わかったわかった」

わしわしと頭を撫でる。なんか、大型犬をあやしている気分になってきた。
藤沢が泣くから、張り詰めてた俺の気持ちも、本質は何も解決しないのに、よくわからないまま緩んでいく。

「本当に、本当なんだ。でも……」

ずずッと言葉の途中で藤沢が鼻を啜る。
俺のTシャツに鼻水つけてないだろうな、と揶揄おうかと思ったけど、今はやめておく。

「わかってるよ。美羽ちゃん、だろ……?」

俺とのことがあったけど、結局藤沢は美羽ちゃんとの再会で、女の子の方がいいんだと、気がついたんだろう。だけど、きっと、俺のことを思って言い出しにくかったんだ。
そんな陳腐なストーリーの当て馬キャラになった自分がカッコ悪くて腹が立っていたけど、でもなんだかもう諦めというか、これ以上拗ねてる方がダセェなって気持ちにだんだんなってきた。

「……美羽……ちゃん?」

俺の肩から藤沢が顔を上げた。
目が真っ赤だ。鼻水は、ギリギリ垂れてなかった。

「なんで、美羽ちゃん?」

藤沢が、僅かに首を傾げる。

「なんでって、あの日、来てただろ。おまえがライブ来なかった日」
 
一瞬、藤沢の動きが止まって、それから、あ、というように眉が上がった。

「うん、来てた」

誤魔化そうとしたというよりは、本当に気に留めていなかったかのような態度に俺は僅かに違和感を覚える。

「おばあちゃんに頼まれたらしくて、ゼリーとかお粥パックとか色々持ってきてくれて」
 
「……? へ、へぇ?」

手土産にしてはラインナップが不思議だが、とにかくあの日藤沢は部屋で美羽ちゃんとよろしくやっていたわけだ。

「でも、移しちゃ悪いから、美羽ちゃんもすぐに帰ってもらったよ」
 
「うん……え、移しちゃ悪いって、なに?」
 
「だから、風邪、移しちゃ悪いから、玄関先で受け取って、そこで帰ってもらった」

その言葉で、数日前の光景が一気に巻き戻る。
俺が美羽ちゃんらしき女の子とすれ違ったのは、確かにエレベーターホールだった。
部屋から出てきたところを見たわけじゃない。

それに今さら、藤沢が嘘をつく理由もないだろう。

頭の中で、噛み合わなかったパーツが、カチ、と小さく音を立ててはまる。
 
「え、藤沢……風邪、引いてたの?」
 
「う、うん。でも、もう治ったよ」
 
「え、まって……だからあの時、俺に帰れって?」
 
「……? うん、酷い風邪だから、帰ってって、俺言わなかったっけ?」

言ってねぇよ。
ただ、帰れってそれだけ言われた。
だから、俺は拒絶されたと思ったんだ。
でも、え、風邪? だからライブにも来れなかったし、移しちゃいけないから、帰れって。

「な、なんだよ……、はぁ、なんだ……」

肩の力が抜けていく。
俺は、明らかにほっとしたのだと自分でも気がついた。

「ごめんね。鶴見のライブに向けて、体調万全にしておくべきだった……。夏風邪なんて、ほんと俺バカだよ……」

またしょぼんと藤沢が肩を落とす。
垂れ下がった三角耳が頭に見える気がした。
俺は単純にも、さっきまであんなに腹が立っていた相手を可愛いだなんて思ってしまう。頬を両手で包んで、視線を下げた藤沢の顔を持ち上げ、真っ直ぐに視線を合わせる。

「俺……さ、藤沢は美羽ちゃんとなんかそういうことになったんだと思った」
 
「そういうこと?」
 
「付き合うとか……男女の仲に、なったのかなって」
 
「え、ええっ?! ないよ、ないない!」

頬を包んだ俺の手を、藤沢がぎゅっと握り返した。

「でも、すげぇ、ムカついたんだ。ライブにもこねぇし、俺事故かなんかあったんじゃないかって心配したってのに、家に行ったら帰れって言われて」
 
「……ほんと、ごめん」
 
「隣なんだから、風邪ならそう言えよ! わざわざ美羽ちゃんに持って来させなくても、俺だって、ゼリーとかお粥とか? 差し入れできたし!」
 
だんだん論点がずれてるのは、自分でもわかっている。
でも、なんだか言葉が止まらない。

「それにさ、それに……」

少し躊躇う。でも、藤沢が促すように「うん?」と小さく首を傾げたので、俺は言葉を続けた。

「ギターなら、俺が教えられるのに……なんで、他のやつに教わるの」
 
「……え」

「練習室くるのも、なんで、俺は知らないのに他のメンバーは知ってんだよ」
 
「鶴見……」
 
「あのギターは、俺と一緒に買ったんだろ? おまえ、俺に憧れてギターやりたいと思ってんだろ? こっちは、教え方とかいろいろ調べて、楽譜とかも、用意してたってのに」
 
「あの……」
 
「まじで、すげぇ、腹たった……」

ぎゅっと口元を引き結ぶ。藤沢の視線が何か言いたげに揺れているので、思わず俺は目を逸らした。

「鶴見……あの、それって……」
 
「……ん」

わざとらしく少し不機嫌に相槌を返す。
藤沢は頬の上で握っていた手を、そのまま二人の間にゆっくり降ろしていく。手を握って向かい合っているのが気恥ずかしいけど、藤沢はそのまま離してくれない。

「やきもち……?」

藤沢の言葉にカッと熱が込み上げてくる。怒りではなくて恥ずかしさだ。藤沢の指摘で俺自身も自覚してしまった。

「――バッ、カ……そんな……」

否定しようと息を吸い込む。だけど、藤沢と視線を合わせると、必死なその表情に、段々と語尾が弱くなっていく。

「そ、そうだよ……」

頷きながら、俺は恥ずかしくて、ぎゅっと眉を寄せた。

「鶴見……」

藤沢が、また泣き出しそうな雰囲気で瞳を揺らした。その瞳を見ていたら、それがゆっくりとこちらに近づいてくる。

――ペチンッ!

「イタッ!」

俺は藤沢の額を手のひらで抑えた。

「こんなところでキスしようとすんじゃねぇよ」
 
「……だ、だって……」

危うく受け入れるところだったから、俺もバツが悪くて手のひらで顔を覆う。

「鶴見……なんか、俺のこと好きって言ってるみたいで、可愛くて……」
 
「言ってねぇよ、バカ。アホ。好きなのは、お前だろ、お前が俺のこと好きなんだろ」

なんとも自惚れた発言だと自覚しつつも、俺は羞恥心を誤魔化すために、ゲシゲシと足元で軽く藤沢を蹴る。

「イテテ」

そう言いながらも、藤沢は一歩も引かない。
それどころか、俺の手首を掴んで、ぐっと引き寄せた。

「……っ」

逃げ場を失って、覆っていた手の隙間から視線が合う。
隠していた表情を真正面から暴かれて、心臓がまた一段とうるさくなった。
藤沢は真剣で真っ赤な顔をしながら、ゴクリと唾を飲み込んだ後に意を決したように口を開く。

「そうだよ。俺……鶴見のこと、好き」
 
「くっ……」

あまりにもはっきりと言われて、俺は喉を詰まらせた。

「好きだよ鶴見。高校の時からずっと好きだった」
 
「わ、わかった……」
 
「憧れだけじゃなくて、キスしたいとか、触りたいとか、ずっと一緒にいたいとか、そういう好き」
 
「わかったて!」
 
「鶴見、大好き」
 
「わかったから、ちょ、一回離れて、くそ恥ずい」

反射的に、掴まれていた手を振りほどこうとする。
でも、藤沢は離さない。

「来て」

短く、それだけ言って、今度は俺の手を引いた。

「ちょ、どこ――」

言い終わる前に、体が動く。
藤沢は迷う様子もなく歩き出していて、俺は半歩遅れてそれに引っ張られる形になった。

廊下を戻り、防音扉の前まで来て、藤沢はようやく足を止める。
さっき俺が飛び出してきた、練習室だ。

扉を開けると、BlueMugのメンバーが、それぞれ楽器の前で顔を上げた。
なんだかどいつもこいつも、多分真っ赤になった俺の表情を見て何かを察したらしい。

「仲直りできたぁ?」

金沢がキーボの前で体をくねらせながら、手のひらを口元に当てて言う。

相模はベースを抱えたまま、一瞬だけ俺と藤沢を見比べてから、何も言わずにチューニングに戻った。
葉山はスティックを片手でくるっと回しながら、軽く肩をすくめる。

「よっしゃ、藤沢くん、こっちは準備万端よ!」

ギターを肩にかけた戸塚が、ぐっと親指を立てた。

藤沢は、練習室の端にあったパイプ椅子を一脚、メンバーの前に置いて、俺に座るようにうながす。
それから、「よろしくお願いします」とだけ言って、まるで道場入り前みたいに深々と頭を下げた。そして濃紺のストラトを肩にかけ、いつもは俺が立っている中央の位置に立つ。

何をしようとしているのか、流石に察してしまう。それこそ、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。逃げ出したいくらい。
でも、俺は藤沢の、不器用でダサくて、でも可愛くて愛おしいような、そんな気持ちをちゃんと受け止めなきゃいけない。そうしないと絶対に後悔するって確信している。 

金沢のキーボードが、ためらいもなく音を出す。
軽く跳ねるようなフレーズ。
間を置かずに、藤沢の声が重なった。

原曲どおりの入りだ。
少しテンポを探るみたいに、音が一拍、間を置いて並ぶ。

藤沢は一瞬だけ指板を見てから、俺のほうをちらっと確認する。
そのまま、ぎこちなくピックを当てた。

音は少し硬い。

コードを押さえる指がわずかに遅れて、次の小節に食い込む。
その隙間を、戸塚のギターが自然に埋めた。前に出るでもなく、被せるでもなく、ただ横に添える。

――ラヴァーボーイだ。

前に藤沢が好きだと言ってて、俺が藤沢のためにライブで選んだその曲を、藤沢の辿々しい指が必死になぞっている。

何度も聞いたからなのか、歌詞はしっかり捉えていた。なんだったら、英語の発音は俺より上手い。
何気なく聞いていた曲だったけど、今となっては歌詞の意味とかなんとなくわかってるから、なおさらはずい。

俺は照れた表情を隠すために、口元に手を当てて肘を膝の上に置く。
藤沢も藤沢で、歌いながら俺を見るけど、でも、時々恥ずかしそうに視線を逸らす。
メンバーだけが、余裕そうにニヤニヤとこちらを見守っていた。

話したいことがあるってこれだったのか。
俺に隠れてコソコソ練習してたのは、このためだった。
サプライズ、ってやつは、そういえばこれが初めてかも。

俺は両手で顔を覆って俯いた。

鍵盤と歌が先に抜けて、残ったギターの音が一小節、空気に浮く。
藤沢のピックが最後のコードを押さえきれず、少しだけ音が揺れた。
それを合図みたいに、葉山が軽くシンバルを鳴らして締め、音が止まる。

練習室の空気が戻ってきて、アンプの残響だけが薄く残った。
誰も拍手はしない。
代わりに、戸塚が小さく息を吐いて、相模がベースのネックを持ち替える音がした。

金沢は鍵盤から手を離して、椅子の上で重心を変えた気配がする。

少しだけ、間があいた。

「……あの……鶴見……」

藤沢の声が、聞こえる。
みんなの空気でわかる。これ、俺が何かいう番だ。
だけど、責任重大すぎて、かなり言葉に迷う。
沈黙に耐えかねたように、先に言葉を発したのは藤沢だ。

「鶴見……好き、です……」

なんで自信なさげなんだよ。
思わず、ぷっと吹き出してしまう。

「さっき、聞いた」
 
「う、うん……」

と、頷く藤沢。

「ほんとうは、今、言う予定で……ずっと、練習してて……」
 
「そうみたいだな」

ふぅ。と息を吐いて、俺は顔を覆っていた手を下げる。やっぱりメンバーも藤沢も、俺の様子に注目してる。

「ど、どう……だった……?」
 
「……演奏? それとも、それじゃない方?」
 
「えっと、りょ、両方……」

もじもじと視線を伏せる藤沢。
俺は少々演技がかった仕草で立ち上がると、ちょいちょいと指先で藤沢を呼びつける。大物音楽プロデューサーさながら、ふむと腕を組んでみせた。
 
藤沢は一瞬きょとんとしてから、言われるまま数歩近づいた。
俺は腕を組み、わざとらしく顎に手を当てる。

「まず演奏な」

指先で藤沢のストラトを示す。

「コード、何回か走ってた。テンポも最初ちょい前のめり」
 
「……う、うん」
 
「あと、サビ前で一回、右手固くなってた」

藤沢は小さく頷きながら、指を握りしめる。

「でも」

そこで俺は一拍置いて、視線を上げる。

「歌は良かった」
 
「……え」

「音程も外してねぇし、英語もちゃんと聞こえた」
 
「……ほ、ほんと?」
 
「ああ、そんで、フォロー含めて全体な」

そう言ってから、ぱちん、と指を鳴らした。

「BlueMug featuring 藤沢、最高でしたー!」

俺はわざとテンション高めに親指を立てる。

戸塚がすかさず「よっしゃ」と言うみたいに、ピューッと軽い口笛を鳴らし、それに被せて、葉山がスネアを一発、コンと鳴らした。
相模と金沢も、流れに乗るみたいに手を叩く。

「……で、それじゃない方な」

俺は仕切り直すように肩をすくめて、藤沢を見る。
藤沢が、ごくりと喉を鳴らしたのがわかった。

さらにちょいちょいと藤沢を呼びつける。
戸惑いながらも、藤沢はまた数歩近づいて俺の正面に立っている。

「歌って告白……、んー、ベタだね。正直、めちゃくちゃ恥ずい」
 
「そ、そっか……」
 
「まあ、でも……」

俺は一度瞼を閉じた。
数秒あけて、目を開けて、それから、ぐっと藤沢の襟首を掴んで引き寄せる。
「えっ――」と戸惑ったように眉を上げた藤沢の表情が間近に近づく。
角度は想定済み。この位置なら、メンバーからはちょうど見えない。ただし、たぶん何したのかはバレバレだろうが。
俺は引き寄せた藤沢の唇に、少し雑な感じで唇を合わせた。

「俺的には、割と悪くないって、思ったかな」

ニッと、口角を上げると、目の前でポカンとしていた藤沢の顔が見る見る赤く染まっていく。

――フゥ〜、と揶揄うようなメンバーの声の後。
金沢がウェディングマーチなんて弾くもんだから、それに合わせて、相模がベースを鳴らし、葉山が適当にリズムを刻む。
戸塚までギターで合いの手を入れてきた。

「やめろ、バカ、恥ずい」

手を大きく振りながら、俺は照れ隠しでそう言って笑う。藤沢はまだ唇に手を当てたまま、少し置いてきぼりみたいな顔で立っていた。

夏休みの終わりの練習室に、笑い声が響く。
アンプの残り音が壁に反射して、張っていた空気がそのまま柔らかく緩んでいった。