隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き

正直、どこを探せばいいのかわからなかった。
考えてみれば当然で、俺は藤沢のことを、思っていたほど知らない。

部屋は隣。同じ大学の法学部。
小説は読むけど、難解なやつじゃなくてエンタメ寄り。
音楽は父親の影響で七十年代の英国ロックが好きで、でも最近は、俺の影響でJロックも聴くようになった。

――それだけだ。

家族構成も、昔からの友達もわからない。
共通の知り合いといえば、バンドのメンバーくらいで、藤沢が今どこで何をしているのか、訊ねられる相手を俺は知らなかった。

だから結局、戻ってくる場所はひとつしかない。

俺たちの住んでいるマンションだ。

早足でエントランスを抜け、相変わらず既読のつかないスマホを確かめながらエレベーターのボタンを何度も押す。


(大丈夫、葉山の言う通りだ。きっと、ただの思い過ごし)

そう言い聞かせても、胸の奥のざわつきが消えない。
駅からここまで走ってきたせいか、それともライブの高揚がまだ残っているのか。

――ポーン。

音を立てて扉が開き、目的のフロアに到着する。
ちょうど、同世代くらいの女の子が立っていて、俺と入れ替わるようにエレベーターへ乗り込んだ。

同じフロアに、こんな子住んでたっけ。

そう思いながらも、俺は足を止めない。
藤沢の部屋へ向かって、また早足になる。

……でも。

さっきの子。
どこかで見たことがある気がする。

肩あたりまでのボブヘアで、細身で、色白。
特別目立つわけじゃないけど、なんとなく記憶に引っかかる。

――ピンポーン。

インターホンを押した直後、唐突に思い出した。

御茶ノ水。ギターを買いに行ったあの日、偶然会った――あの子は、たしかあんな感じの雰囲気じゃなかっただろうか。

――ガチャッ。

インターホン越しではなく、ドアノブが下がり、扉がほんのわずかに開く。

「美羽ちゃん? どうしたの、忘れ物?」

細い隙間越しに、藤沢と目が合った。

「つ、鶴見!」

藤沢はひどく驚いたように眉を跳ね上げ、そのまま反射的にドアを閉めようとする。

「お、ちょ、待て!」

俺も咄嗟にドアノブを掴んでいた。
一瞬、力が拮抗する。

俺が隙間に足を差し込んだのを見て、危ないと思ったのか、藤沢はそれ以上強く引くのをやめた。

その隙に、体を捩じ込むようにして隙間に滑り込み、ちょうど自分一人分のスペースを作る。
ドアの縁に肘を置いて、息を整えながら藤沢を見た。

藤沢は、真っ赤な顔に腕を押し当てるようにして、表情を隠していた。
口元が見えない。
……なんで隠す。
ていうか、なんでそんなに焦ってる。
 
「あの、つ、鶴見……ごめん」

藤沢の謙虚なところは長所だと思う。
だけど、開口一番に謝られたら、途端に言葉の行き場がなくなる。
 
なんで謝った。
俺のライブに来ないで、美羽ちゃんと……何してた。

言葉を探して口を開きかけたけれど、喉の奥で引っかかった。
そもそも、よくわからない。

俺は、藤沢に怒っていい立場なのか。
 
だって俺たちは別になんでもないわけだし。

そのことに気づいた瞬間、視線が定まらなくなる。
藤沢を前にして、俺の目はゆらゆらと彷徨った。
 
「鶴見……ごめん、今日は、ダメなんだ」
 
「……は? 何が」
 
「帰って」

藤沢の声も動揺している。
だからこそ、勘ぐってしまう。変な想像をしてしまう。

「帰って、鶴見」

ああ。
なるほど。

あれは、やっぱり事故だったんだ。

藤沢と俺は、友達としては越えちゃいけない一線を越えてしまった。
藤沢は俺のことを好きだったけど、それは恋愛とかじゃなくて。
単に、憧れとか、距離感の問題で。

それで、変なことになってしまって。
藤沢の性格からして、言い出せなくて。

そこへきての、美羽ちゃんってわけだ。

ドアを押さえていた手から、ゆっくりと力が抜けていく。その速度に合わせるように、俺は扉の隙間から身を引いた。

藤沢との間の距離が、扉一枚分、閉じていく。

完全に閉まる、その直前。

「……ごめんね」

そんな声が聞こえた気がして、俺は思わず、閉まった扉を蹴り飛ばしてやろうかと床を踏み締めた。
でも、結局、それはしなかった。

そのまま、大人しく、たった数歩先の自分の部屋に戻る。
鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。

夏の夜の、熱を含んだ空気。
エアコンもつけないまま、俺は玄関にずるずるとしゃがみ込む。

なんだったんだ、俺と藤沢は。

全部、俺が勝手に決めつけていただけで。
勝手に意味を見つけて、勝手に確信して、まるで答えが出ているみたいな顔をしていただけだ。

今日だって、心配して、探して、焦って。
なのに蓋を開けてみれば、女の子と一緒にいて、「今日はダメだ」「帰って」なんて言われて。

むかつく。
ほんとに、むかつく。

期待してた?
……違う。

別にそんなんじゃない。

俺はただ、「そういうもんだ」って思い込んでただけだ。
藤沢は俺のことを特別に見ていて、俺たちは、もう一線を越えてしまっていて、あとは俺がどう受け入れるか決められる。そんな段階にいるんだと、勝手に。

額に手のひらを押し当てて、前髪をぐしゃっと掻き混ぜた。
 
それでも俺は、この期に及んで、藤沢の仕草をひとつひとつ拾い集めてしまう。
俺と話すときの、あの無駄に緊張した様子。
帰り道で、名残惜しそうに歩幅を合わせてきたこと。
壁一枚越しに聞こえた、拙いギターの音。

――全部、俺の勘違いだったのか?

そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
顔が熱くなるのは、夏のせいでも、恥ずかしさのせいでもない。
 
それが全部、俺の勘違いだったとしたら――じゃあ、俺は何に舞い上がって、何を失った気になっている?

その答えが、遅れて、はっきりしてくる。

俺は、ただ、自分が決められる側にいると、知らないうちに思い上がっていた。
そして、藤沢が俺を好きじゃなかったって事実に、こんなにショックを受けている自分に、一番戸惑っている。
 
「ああ……俺――」

喉の奥から、掠れた声が漏れた。
 
――俺、めちゃくちゃ、藤沢のこと好きじゃん。