隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き



代官山の駅から少し歩いた先にある、そのライブハウスは、いかにもこの街らしい外観をしていた。
無機質なコンクリートに大きなガラス扉、入口脇には控えめなネオンと、今夜のイベント名が書かれた黒板。昼間ならカフェと間違えそうな雰囲気なのに、夜になるとちゃんと“箱”の顔になる。

今日は他大学も含めて、合計四バンドの対バンライブだ。
サークル内の発表会みたいな内輪ノリじゃなく、外のバンドも呼んだ、ちゃんとしたイベント。会場の規模も、いつもより一回り大きい。

その分、今回は集客にも気合いを入れた。

理由は単純で、夏休み最後の週末だから、というのが一つ。
それから、今回はオリジナル曲をしっかりセットリストに組み込んだこと。コピーだけで終わらせず、「ちゃんとバンドとしてやってる」ってところを見せたかった。加えて、他大学のバンドの中に、SNSでそこそこ名前が知られているところが一組いて、相手の客層も取り込めそうだ、という打算もある。

結果、入口前はいつもより人が多かった。
フライヤーを手にした学生、バンドTシャツの集団、ちょっと背伸びした服装のカップル。知ってる顔も、知らない顔も入り混じって、ざわざわとした熱気が漂っている。

受付では名前を告げるたびにチケットがもぎられていき、リストには思った以上にチェックが入っている。
正直、ここまで集まるとは思ってなかった。

「今日、結構来てるな」

誰かが言ったその一言に、メンバー全員がなんとなく頷く。
緊張というより、じわじわ実感が湧いてくる感じだ。今日は“いつものライブ”じゃない。

ステージ奥から、リハーサル中のバンドの音が途切れ途切れに漏れてくる。
低く唸るベースの音が床を伝い、スネアの乾いた一打が空気を切る。ギターはチェック用なのか、コードではなく単音をひとつずつ確かめるみたいに鳴らされていた。音が揃いきらないのが、逆に開演前らしくて落ち着かない。

俺たちはステージ脇、出演者用に区切られたスペースに控えている。楽器を抱えたまま立っているやつもいれば、アンプケースに腰を下ろして談笑しているやつもいる。いつもより人が多くて、視界がやけに狭い。

その合間を縫うように、俺は何度も客席のほうへ目を向けた。

フロアはすでにかなり埋まっていて、人の頭と肩が折り重なっている。いつもの箱みたいに、「だいたいあの辺にいるはず」という定位置も思い浮かばない。代官山の会場は作りも少し違って、段差も多く、視線が定まらなかった。

――あいつのことだから、背が高いのを気にして、たぶんまた後ろのほうにいる。

そう思って、意識的にフロアの奥を見る。青っぽいシャツの男が視界に入って、胸が一瞬だけ跳ねた。
……違う。

また別の青。
また違う。

何度か同じことを繰り返して、俺は自分が必要以上に藤沢を探していることに気づいて、わずかに眉をひそめた。

開演のアナウンスが入り、照明が落ちる。
ステージに上がってからも、曲の合間にちらりと客席を見渡すけれど、藤沢の姿は結局見つからなかった。

いない。
少なくとも、俺の目に入る場所には。

その事実が、ライブの高揚感とは別のところで、じわりと胸に引っかかっていた。

演奏自体は、正直言えば完璧とは言えない。
メンバーそれぞれ、ちょっとした走りやミスはあった。でも、それも含めてライブだ。取り返しのつかない事故はなく、全体としてはちゃんと噛み合っていたし、フロアの反応も悪くない。サークルの仲間も来てくれていたし、オリジナル曲も思った以上に手応えがあった。

総じて言えば今日のライブは、成功だ。

それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
この興奮を、いま一番に誰に伝えたいのか。仲間や対バン相手と分け合うのは、このあとの打ち上げでいくらでもできる。でも、その前に、どうしても聞きたい一言があった。

――『鶴見、かっこよかったよ』

きっと、どこかにいるはずだ。
そう思っても、藤沢は相変わらず黒子みたいに存在感を消すのが上手くて、全然見つからない。フロアの後方を何度見渡しても、それらしい姿は見当たらなかった。

スマートフォンを確認する。
通知はない。

まあ、ライブ前に「今から行くね」なんてやり取りをしたことは、そもそもないんだけど。そう思っても、胸のざわつきは消えなかった。

「打ち上げ行こうぜー」

メンバーの声に、適当に相槌を打って、俺はフロアを抜ける。向かったのは受付だった。

「すみません」

カウンター越しに声をかけると、スタッフが顔を上げる。

「招待客の名簿、ちょっと見せてもらってもいいですか」

不審がられるかと思ったけれど、ライブ後のこの時間帯だからか、あっさりと名簿を開いてくれた。
ページをめくり、バンド名の欄を目で追う。

――Blue Mug。

その列の中に、確かに藤沢の名前はあった。
自分で書いた字だから、見間違えるはずがない。

けれど、名前の横にあるチェック欄は、空白のままだった。
つまり、藤沢はきていない。

「……は?」

思わず、声が漏れた。 

「な、なんで……あのっ!」

受付に声をかけかけて、途中で言葉を飲み込んだ。
この名簿に間違いはないですか?と聞いたところで意味がないからだ。
 
「ありがとうございました」

名簿を返すと、足元が少しふらついた。

「鶴見?」

通りかかった葉山が、俺の様子に気づいて足を止める。

はっと顔を上げると、俺の表情を見た葉山が、驚いたようにぱちぱちと瞬きをした。

「おまえ、なに? 真っ青な顔して」

言われて初めて、自分が思った以上に動揺していることに気づく。
ごくりと唾を飲み込み、ゆっくり息を吐いた。けれど、心拍はまったく落ち着かない。

「藤沢が……来てなかった」
 
「え? 藤沢くん? へぇ、来ないとか珍しいな」
 
「おかしい」

気づけば、俺は葉山に一歩、詰め寄っていた。

「おかしいだろ。来るって言ってたんだ」
 
「へ? あ、そうなん?」
 
「来てないのは、おかしい」

俺の剣幕に、葉山は少し引きつった笑みを浮かべる。

「まあ、急用とか、そういうのもあるだろ」
 
「連絡もなしに?」

俺は眉を寄せ、通知のないスマホ画面を意味もなく葉山に向けた。
詰め寄ったところでどうにもならないのはわかっている。それでも、この動揺をどう処理していいかわからなかった。

「なんかあったのかも」
 
「だから、急用できたんだろって」
 
「交通事故とか!」

思わず、葉山の肩を掴んでいた。

「おいおい、落ち着けって」

葉山が俺の腕を軽く叩く。

「確かにさ、鶴見大好き藤沢くんがライブ来ないのは珍しいけど、考えすぎだって。とりあえずLINEしてみろよ」
 
「LINE……そっか、LINE……」

スマホを見下ろす。
アプリを立ち上げたところで、数日前のやり取りが目に入って、指が止まった。

「な、なんて送ればいい?」
 
「は? 普通に、なんで今日来なかったの?って聞けばいいだろ」
 
「それだとさ。俺がめっちゃ気にして怒ってるみたいじゃね?」
 
「いや、そんなことないだろ」
 
「あるって! 俺、めんどくさい彼女みたいじゃん」
 
「いや、もうだいぶめんどくさいぞ、おまえ」

葉山が苦笑する。

「とにかく軽く聞けって。可愛いスタンプでも一緒に送っときゃ、怒ってる感じにはならねぇから」
 
「そ、そっか……スタンプ……」

スタンプ欄を開き、適当にスクロールする。
可愛い感じ……猫でいいか。

『どうした?』

そのあとに、きゅるんとした猫のスタンプを送信。

……既読が、つかない。

「既読がつかない!」
 
「いや、送ったばっかだろ」

また葉山が落ち着けと笑う。

「……そう、だけど」

この猫、ミスったか?
ていうか、「どうした?」って、何が?だよな。
ライブ来てなかったけど何かあった?って送るべきだったか?

いや、待て。
そもそも本当に、事故とか事件に巻き込まれてる可能性だってある。
藤沢の性格なら、来られないなら一言くらい連絡してくるはずだ。それがない時点で、普通じゃない。

「ま、とりあえず藤沢くんからの連絡待っとけって。打ち上げ行こうぜ!」

切り替えるように葉山が声を張り、肩を組んでくる。

打ち上げ?
それどころじゃない。藤沢が、事故にあったかもしれないのに。

「……ダメだ、俺」
 
「ん?」
 
「今日、パス」

するりと腕を抜け、俺はそのまま早足で出口へ向かった。

「え? は? 鶴見?」
 
「ごめん! みんなに謝っといて!」

気づけば、ギターも会場に置いたままだった。
でも、きっとメンバーの誰かが回収してくれる。

それよりも――藤沢だ。

駅へ向かいながら、スマホで検索をかける。
交通事故、二十代、男性。
思いつく限りのワードを打ち込むが、それらしい情報は見当たらない。