隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き



設定温度三十九度のシャワーを浴びたはずなのに、ドライヤーで髪を乾かし終える頃には、またじんわりと汗が滲んでいた。
洗面室を出てエアコンの設定温度を下げ、ベッドの上にリモコンを放り投げる。

「はぁ……」

思わず漏れたため息は、冷えきらない空気に溶けていく。
ベッド脇のデジタル時計に目をやると、時刻は夜の八時を少し回ったところだった。腹は減っているはずなのに、どうにも食欲が湧かない。俺はそのまま、ソファに崩れるように腰を下ろした。

(なんで、あんな言い方しちゃったんだろ)

――『帰れよ』

口に出してしまった瞬間よりも、そのあとに見た藤沢の表情のほうが、時間差で胸に刺さる。思い出すだけで、胃の奥に苦いものが込み上げた。

視線をずらすと、テーブルの上に重ねてあった楽譜が目に入る。
コード進行はシンプルで、指もそこまで忙しくならない。それでいて、弾いていて楽しい。初心者にはちょうどいい曲だと思って選んだ――藤沢のために。

いつ渡すかなんて、ちゃんと決めていたわけじゃない。
――『鶴見、ギター教えてくれない?』
もし向こうからそう言ってきたら、そのときに渡せばいい。そんなふうに考えていただけだ。

……俺だって、準備してたのに。

そう思った瞬間、自分で自分に呆れる。
頼まれてもいないのに、勝手に期待して、勝手に用意して、勝手にイラついてる。そんな自分が、急にひどく恥ずかしくなった。

目を閉じて、頭をぐしゃっと掻きむしる。

「あー……」

声にならない声を吐き出しながら、俺はソファの背に深く体を預けた。

……謝ったほうがいいんだろうか。
いや、藤沢はそこまで気にしていない?
いやいや、あの顔はどう見ても傷ついてた。
じゃあ、「きつい言い方になってごめん」って言う? でもそれ、余計に蒸し返すことにならないか。
もし本当に気にしてなかったら、俺だけが大げさに気まずくしてるみたいじゃないか。

考えは同じところをぐるぐる回って、結論に辿り着かない。

ふと、壁の向こうから、かすかな音が聞こえてきた。
ポロ……ポロ、と、乾いた弦の音。
はっきりしたメロディでも、勢いのあるストロークでもない。指でそっと確かめるみたいな、途切れ途切れの音。

(……あ)

この壁一枚、向こう側が藤沢の部屋だ。
俺は反射的にソファに足を持ち上げ、背もたれ側の壁に耳を押し当てた。

聞こえてくるのは、アンプを通していないエレキの生音だ。たぶん、ストラトをそのまま抱えて、ヘッドホンアンプも繋がずに弾いている。音を出さないように、左手でコードを押さえて、右手はほとんど撫でるだけ。鳴らしているというより、指の位置を確かめている感じだ。

ポロ……
キュッ、と指が弦を擦る音。
一瞬だけ、押さえそこねた弦がびびって、すぐに止まる。

昼に戸塚から教わったことを、そのまま復習しているんだろう。
音を大きく出せない時間帯だから、ミュートしながら、フォームだけを反復している。

ポロ……ポロ……
少しずつ、同じコードが形になっていくのがわかる。

壁に耳を当てたまま、俺はソファの上に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。
一瞬だけ迷ってから、LINEを開く。

藤沢とのトーク画面は、一週間前の待ち合わせ時間のやり取りで止まっている。

『なんの曲、練習してんの』

少し迷って、スタンプも、余計な言葉もつけずにそれだけを送信した。

直後、壁の向こうの音がぴたりと止まった。
 
思わず小さく笑ってしまう。
ほぼ同時に、画面に既読がついた。

一枚壁の向こうで、藤沢がスマホを手に固まっている様子が、手に取るように想像できる。
たぶん、どう返すか考えてる。

俺は指の背で、コンコンッと軽く壁を叩いた。

少し間があって、スマホが震える。

『ごめん、うるさかった?』

絵文字もなにもない、そっけない文面。
でも、藤沢とのやり取りはだいたいいつもこんな調子だ。冷たいわけでも、拗ねているわけでもない。

『うるさくないよ』

それだけ送る。
質問でも、続きでもないから、どう返すか迷うだろうな、と思った。

案の定、数秒……いや、十秒くらいだろうか。
その「考えてる時間」が、妙にわかってしまう間を置いて、また通知が来る。

『Fコード、なかなか綺麗な音でなくて、練習してる』

画面を見た瞬間、喉の奥が少し緩んだ。

『ああ。最初はだいたいそこ引っかかるよな。バレーコードの圧が足りなくて、どこかが必ず死ぬ』

すぐに既読がつく。

『うん』

『手首使って、指を少し曲げて側面で押さえて。力抜いて、指しっかり立ててフレットのギリギリを押さえる感じ』

『うん、戸塚くんにもそう教わったんだけど、なかなか咄嗟にそれやるのが難しくて』

戸塚、の文字を見た瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
ほんの一瞬なのに、確かにモヤっとした。
 
『あーそ』

そっけなく返して、送信した直後に(また、やったな)と思った。
でももう遅い。既読はすぐについた。

LINEしなきゃよかった。後悔して、スマホを放り投げる直前に、また藤沢からのメッセージが滑り込む。

『鶴見きょうごてん』

――ん?

『今日、ごめん』

どうやら、うち間違えたまま焦って送信したらしく、訂正版が送られてきた。
やっぱり、俺が機嫌悪かったの気づいてたし、気にしてた。
そして俺は自分の性格の悪さに改めて気づく。藤沢が、俺の様子を気にしていたことを、嬉しいだなんて思ってしまった。
ほんの少し、もう少しだけ意地悪して、俺のことを気にさせてやりたいという気持ちをぐっと抑えて、『いや、俺も言い方キツかった。ごめん』と送る。
またしばらく間が空いた。壁の向こうからは何も聞こえないけれど、俺は勝手に藤沢がスマホを画面を凝視しながら、必死に俺への返信を考えている姿を想像した。
ようやく、スマホがブブッと震える。
 
『今度のライブも楽しみにしてる』

考え抜いて、それだけかよ。このままこれにありがとうと返したらこのやりとり終わるのか。
物足りない。もうちょっとやり取りを続けたいし、なんなら少し、この壁一枚がもどかしい。

俺は親指を止めたまま、ほんの一拍だけ迷ってから、文字を打った。

『また、チケ用意しとくから。俺の名前で入って』

送信してすぐ、スマホの画面を伏せる。
自分から会話の糸を投げたくせに、返事を待つのが落ち着かない。

じわじわと胸に湧き上がる、この気持ちの正体を――たぶん俺はもう気づいている。
けれど、言葉にするには思い切りがつかなくて、ひとり、小さく息を吐いた。