隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き



大学の講義室の前にあるコンビニ横の休憩スペースで、俺はひとりベンチに腰を下ろしていた。
スマホの画面をスクロールしながら、検索欄に打ち込んだ文字を自分でも少し馬鹿らしく思う。

『ギター 初心者 教え方』

あの夜のあと、藤沢とは、決定的に何かが壊れたわけでもなく、かといって何事もなかった顔で続けられるほど器用でもなくて、微妙に噛み合わないまま、普通に別れた。
その直後になって、妙な興奮がぶり返してきて、結局その日はほとんど眠れなかった。

次に藤沢に会ったら、どんな顔をすればいいんだろう。
そんなことを何度も考えたのに、学部が違えば、講義の時間帯もずれるし、隣に住んでいるわりには、案外顔を合わせないものだ。
夜、隣の部屋から物音がすると、それだけで無駄に意識してしまうくせに、俺のほうから連絡をするのもなんだか癪で、結局、何もしないまま一週間が過ぎていた。

もしかしたら藤沢も、どうしていいかわからないのかもしれない。

だって、あれは何だったんだ。
普通、友達ならキスなんてしないし、ましてやそれ以上のことなんてしない。
でも俺たちは、そこを越えてしまった。

じゃあ、関係の名前が変わるのか。
それとも、変えないのなら、なかったことにするべきなのか。

もし、俺が「なかったこと」にしたら、藤沢はきっと傷つく。それは、想像しなくてもわかる。

――そこで、ふと、思考が止まった。

待てよ。
そもそも、藤沢って……男が好きな男、なのか?

これまでのことは、俺に対する憧れが行きすぎただけで、距離感を見誤った結果だった可能性は?
あの夜のことで、急に「違うな」って冷静になって、目が覚めてしまったとか。

だから、何も連絡が来ない。

そう考えた途端、急に体の内側がカッと熱くなった。
誰かに見られたわけでもないのに、顔が火照る。恥ずかしさが、遅れて込み上げてくる。

だって、そうだろ。
全部俺の勘違いで、藤沢にそういう意味で求められてると思い込んでいただけだったとしたら――
考えただけで、いたたまれない。正直、死ねる。

俺は誤魔化すみたいにスマホを持ち直して、検索バーに指を伸ばした。

『同性から好かれる男』

表示されたのは、やけに前向きで軽い見出しだった。
 
『男にモテる男の特徴12選!同性から愛される魅力的な男性の共通点とは?』

……ちがうな。

求めている答えじゃない。
俺が知りたいのは、そんな自己肯定感を上げる話じゃない。

一度消して、もう少しだけ言葉を打ち直す。

『同性 男友達 距離が近い 好意』

AIによる概要――

同性の男友達との距離が近い行動が、恋愛感情によるものか、親密な友情によるものかは、いくつかのサインを総合して判断する必要があります。

「なるほど……」

小さく呟き、スマホの画面にぐっと顔を寄せる。
 
【好意(恋愛感情)の可能性があるサイン】
・二人きりで会う頻度が高い
・泊まりに来る、長時間一緒にいることが当たり前
・恋愛に関する話題を振られる
・外見の変化によく気づく
・用事がなくても連絡が続く
・別れ際に名残惜しそうな態度を見せる
・自分の弱みや悩みを打ち明けてくる


……あれ。

喉の奥で、息がひっかかる。
思った以上に、当てはまる項目が少ない。
 
たしかに、この前の別れ際は、妙に名残惜しそうだった。
でも、藤沢と恋愛の話なんてほとんどしたことがないし、そもそも連絡だって――続いてない。

【判断のポイント】
その行動が、『自分に対してだけ特別なのか』『誰に対しても同じなのか』が重要。

「いや……どうやって確かめりゃいいんだよ」

つい声に出してしまって、慌てて口を閉じる。
 
そもそも、確かめてどうしたいんだ。
藤沢が、あの夜のことを後悔してるんじゃないかって、不安だから?
違うって、確かめたいだけ?

――いや、待て。
 
なんで俺が、そんな不安を感じてるんだ。
別にあれは事故みたいなものとして処理した方が、俺だって気楽でいいはずなのに。

「鶴見」

突然、すぐ近くで名前を呼ばれて、思わず肩が跳ねた。
手元が狂って、スマホを取り落としそうになる。慌てて両手で掴み直したせいで、「わわっ」と変な声が漏れた。

「なにそんなびっくりしてんだよ」

声をかけてきたのは葉山だった。
Tシャツの袖を肩まで捲り上げ、首元には汗が浮いている。みるからに暑そうだ。

「すげぇ難しい顔してたけど、何見てたん?」
「いや、別に」

悪気なく覗き込もうとしてきた葉山の動きに合わせて、俺はさりげなくスマホの画面を胸元に押し当てた。

「他のメンバーは?」

話題を逸らすと、葉山はあっさりスマホへの興味を手放したらしい。

「わからん。バイト終わりで速攻来たけど、特に連絡取ってないな。もう来てるのかと思ってた」
 
「あ、そうなの?」

スマホの時計を確かめる。
相模が練習室を押さえたと言っていた時間まで、あと十分ほど。前が詰まっていなければ、たまに少し早く入れることもある。もしかしたら、もう向かっているのかもしれない。

そんなことを葉山と話しながら、俺はギターを肩にかけ、練習室のある課外活動棟のほうへと足を向けた。

今、俺たちのバンドは、夏休み最後の週末にやる他大学との対バンライブに向けて動いている。サークルの内輪イベントと違い、出演は四バンドほどで、持ち時間もいつもより長い。曲数も増えるし、今回はオリジナルも入れるから、自然と練習にも気合が入っていた。

「なあ、あの新曲さ、ドラムの入りヤバくね?」
 
葉山が歩きながら言う。
 
「一拍溜めてからドンってくるとこ。ゾクッとしたわ」

「わかる。あそこ決まると一気に空気持ってくよな」
 
俺も頷く。
 
「そのぶんミスれねぇけど、難易度高い曲ほど本番で成功したときの快感がでかいんだよ」
 
葉山は楽しそうに笑った。

「でもさ、それ――っ」

言いかけたところで、葉山の足が止まる。
手に持っていたスマホに視線を落としていて、画面を見たまま固まっている。

「どした?」

声をかけると、葉山は一瞬だけ俺を見て、なぜか歯切れの悪い表情になった。

「あー……えっと。トイレ、寄らね?」

「え?」
 
一瞬だけ考えてから、頷く。
 
「ああ、いいけど。でもギター、先に練習室に置いてからにするわ」

トイレは練習室を通り過ぎた先にあるし、もう建物は目の前だ。
俺は「行こうぜ」と顎で軽く促した。

「あー。うん」

葉山はそう返しながら、少しだけ間を空けて歩き出した。

課外活動棟の廊下は、いつも通りの雰囲気だった。
防音の扉が並び、床に反響する足音も聞き慣れている。
今日はどの部屋も使用中らしく、廊下はやけに騒がしい。
完全に閉まっているはずの扉の向こうから、かすかに音が滲み出ている。
歪んだギターのフレーズ、ベースの低音、カウントを取る声。
少し離れた場所からは、発声練習らしい張りのある声も聞こえてきて、演劇系か何かだろうな、とぼんやり思う。

その中に、ポロポロと単音を拾うような、少しぎこちないギターの音があった。

あれ。

無意識に足を緩める。
聞き覚えのある感じではないけど、音の方向が、俺たちの予約している練習室のあたりと重なっている気がした。

(戸塚たちもう来てるのか?)

俺たちが使う予定のD練習室の前まで来ると、その音がはっきりとここからだとわかった。
扉の中央にある細長いガラス越しに、人影が動いているのが見える。

――ガチャリ。

扉を開けた瞬間、室内の音が止んだ。
それと同時に、視線が一斉にこちらへ集まる。

「わっ、あ、鶴見!!」

両手を上げて、不自然なくらい勢いよく視界に飛び込んできたのは戸塚だった。
ギターを肩から下げたまま、どうやら俺の視界を塞ごうとしたらしい。
けど、そんなのはもう手遅れで、室内の様子はしっかり見えていた。

金沢と相模は、すでに来ている。
そして――その中に、なぜか藤沢がいた。

濃紺のストラト。
この前、一緒に買ったばかりのギターを肩から下げている。

俺と目が合った瞬間、藤沢はまさに“隠し事がばれた”みたいに眉を持ち上げ、それから、気まずそうに視線を逸らした。

「……なに、してんの?」

問いかけると、室内にいた全員が、揃って何でもない顔を作る。
誰が答えるんだ、という無言の押し付け合い。
変に整いすぎた沈黙が、かえって状況を物語っていた。

質問したものの、だいたいの察しはついている。

「戸塚に……ギター、教わってたんだ?」
 
「う、うん……そうなんだ」

あの夜以来、一週間ぶりに聞く藤沢の声は、やけに歯切れが悪い。
言葉を選んでいる感じが、余計に気まずさを際立たせる。

胃の奥に、じわっと嫌な感情が湧いた。

「へぇ、いいじゃん。コード、多少押さえられるようになった?」

何でもないふりをして、わざと声のトーンを上げる。
けれど視線の置き場が定まらない。俺は中途半端に床のあたりを見ながら、肩にかけていたギターケースを定位置に置いた。
落ち着かない。何かしていないと、表情まで崩れそうだった。

ケースを開け、ギターを取り出す。
ストラップを肩にかけ、チューニングペグに指を伸ばす。
意味もなく弦を軽く鳴らして、準備している“体”を作る。

「うん。基本的なのは覚えたんだ。まだ、うまくはできないけど」

「そ、そうそう! なんか、すっごい偶然たまたま? 藤沢くんと街でばったり会ってさ。俺がけっこう強引に聞かせろって言って、そしたら、たまたま相模と金沢も早く来てたから、な、なぁ?」

藤沢も嘘が上手いほうじゃないけど、戸塚も大概だ。
言い訳が重なるほど、変に輪郭がはっきりしてくる。

「へぇ」

できるだけ感情を乗せない声で返す。

別に、いい。
藤沢が戸塚にギターを教わるのは、もともと俺の前で出た話だ。
俺がどうこう言う筋合いでもない。

……ないはずなのに。

胸の奥が、気持ち悪い。

それは、藤沢が他の誰かに教わっていたからってだけではなく。
俺が気にするだろうと、勝手に判断されて、みんなで隠そうとしたこと。
その気遣いが、癪だった。

しかも――
俺には、何の連絡もしてこなかったくせに。

藤沢は藤沢で、俺の知らないところで楽しそうにやってて、俺だけが一週間、ぐるぐる考えていたみたいじゃないか。

「ごめん、もう、練習始まる時間だよね。戸塚くん、ありがとう! 金沢さんと相模くんも」

藤沢は丁寧に頭を下げると、いそいそとギターを片付け始めた。

「なんだよ、もう帰っちゃうの? 俺のドラム聴いてきゃいいのに」

冗談めかした葉山の声に、室内の空気が少しだけ緩む。
幸い、うまく取り繕えていたみたいで、誰も俺の腹に湧いているこの黒い感情に気づいていない。

「そうだよ、暇なら練習みてけばぁ?」
 
「えっ? い、いいの?」

金沢の誘いに、藤沢もまんざらでもなさそうな顔をする。

「おぉ、いいじゃん、聴いてけよ! なあ? 鶴見?」

戸塚に振られて、気のせいか、全員の視線が一斉に俺に集まった。
藤沢の、少し期待するような視線も混じっている。

俺は答えず、手元のギターに目を落とした。
ボリュームノブを親指で意味もなく回して、弦を一本だけ軽く鳴らす。
チューニングペグに指をかけて、もう合っている音をわざわざ確かめるふりをしながら、言葉を探した。

……いつもの俺なら。

"いいんじゃない? 聴いてけよ"って、何でもない顔で言えてたはずなのに。

「いや、帰れよ」

そう口にしたのが自分だと、一拍遅れて自覚した。
練習室の空気が一瞬だけ固まり、全員の視線が俺に集まったのがわかる。

――あ、しまった。

顔を上げると、ちょうど藤沢と目が合った。
藤沢の表情は大きく変わらない。でも、最近はわかる。驚きのあとに戸惑いが来て、その奥に、ほんの少しだけ傷ついた色が混じる。

何か言うべきだったのかもしれない。
けれど言葉が出てこなくて、俺はそのまま視線を逸らした。

「そうだね。練習の邪魔になるし、ライブまでの楽しみにしておくよ」

藤沢はそう言って、ギターを抱え直す。
他のみんなも「またな」「今度な」と声をかけて、藤沢は静かに練習室を出ていった。

扉が閉まる音がしてから、数秒。
誰も何も言わないまま、それぞれが楽器を構え直す。

「……じゃ、やるか」

葉山がそう言ってスティックを回す。
それを合図に、アンプのスイッチが入り、チューニングの音が重なっていく。

俺は何事もなかったみたいにギターを肩にかけた。
音を出せば、いつも通りだ。
そう自分に言い聞かせながら、指を弦に置いた。