隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き

「ごめん、お待たせ」

少しして、藤沢が小走りで戻ってくる。
女の子たちはそのまま、どこかへ行ってしまっていた。

「お店、ここから近い?」
「ああ、うん」

で、誰だったんだよ。
気にしてないふりをして、俺はスマホの画面に目を落とす。

「このすぐ裏の道。近いよ」
 
「そっか、じゃ行こう」

そう言って、藤沢は俺が示した裏通りのほうへ体を向けて歩き出した。
俺も並んでついていく。

……だからさ。
説明、なし?

「レコードって買ったことないけど、高いのかな」
 
「まあ、ピンキリじゃね。意外と掘り出し物もあるし」

会話は、何事もなかったみたいに進んでいく。
どうやら藤沢は、さっきのことを特に気にしていないらしい。
隠すつもりも、誤魔化すつもりもなくて、俺が気にしているかどうかを、気にしていない。
 
だったら俺から聞くのか? 
「さっきの女の子、誰?」って。

……いや、普通だろ。
相手が藤沢じゃなくて戸塚だったら、何も考えずに聞いてる。
ただの雑談だ。変な意味なんてない。

そう、自分に言い聞かせて、口を開く。

「藤沢、さっきの――」
 
「ん?」

隣を歩く藤沢と目が合う。
並んでいるときの藤沢は、俺が何か話すたびに、必ずこちらを見る。
今回は俺の方が、何故かどぎまぎしてしまう。
今更さっきのシーンに立ち戻って「誰?」とか聞けない。完全に話題が移り変わってしまっている。

「なんでもない……えっと、今日、暑いな」
 
「? うん、暑いね」

それきり、話題は流れていった。
どのバンドのレコードがあればいいとか、あの曲のジャケットはかっこいいとか。
取り留めのない会話を続けながら、歩く。

それでも、頭の隅には、さっきの光景が引っかかったままだった。
女の子たちと話していた藤沢の姿が、ちらり、ちらりと浮かんでは消える。

俺は何でもない顔をして、藤沢の隣を歩き続けた。





ファミレスで軽く夕飯を済ませてからマンションのある駅に戻る頃には、すっかり日が落ちていた。
昼間の熱を少しだけ残したアスファルトの上を、夜風がなぞるように抜けていく。
駅前の喧騒から離れるにつれて、空気が静かになっていき、汗ばんでいた首元がゆっくりと冷えていく。

藤沢と俺の共通点。
高校が一緒、大学が一緒、音楽が好き。
だけど、高校時代はほとんど接点がなかったし、大学でも学部は違う。もともと好みの音楽ジャンルだって、少しずれている。それでも、藤沢との会話は不思議と途切れなかった。

最近は、最初の頃みたいに、藤沢が過度に硬くなることもなくなった。
慣れた、というより、打ち解けてくれたのだろう。そう思うと素直に嬉しい。
――そのくせ、どういうわけか。
また俺の言動で、藤沢を少し困らせてみたくなる自分がいる。

俺が藤沢のことで戸惑うのではなく、藤沢が俺のことで困っていてほしいんだ。

こんなわけのわからない思考のせいで、俺はいまだに、あの女の子たちが誰なのかを聞けずにいる。
 
そうこうしているうちに、部屋の前まであと数歩でたどり着いてしまう。
ふたりの靴裏が、のろのろとコンクリートの廊下を擦る。
たぶん、俺も藤沢も同じことを思っている。
今日が、名残惜しい。

楽器屋に行きたいと言い出したのは藤沢で、そのあとレコード店に行こうと言ったのは俺。
「よかったら夕飯、食べていかない?」と真っ赤な顔で誘ってきたのは藤沢だから、じゃあ今度は、俺の番なのか?

藤沢の部屋のドアが手前にある。その奥の角部屋が、俺の部屋だ。
肩のギターケースをかけ直しながら、藤沢がぎこちなく足を止める。

何故か、無言だ。

「じゃあ、また」とどちらかが言えば、今日が終わる。
それは俺も藤沢もわかっているから、だから変な沈黙になる。

切り出したのは俺で、「じゃあ、また」と右手を挙げる。
 
「う、うん」
 
藤沢も、余白を残したまま頷いた。

別になんてことない、日常のたった一日の終わりなのに。
夏の夜のせいで、妙にドラマチックで、貴重な気がして、みぞおちがむずむずする。

「あのさ」

立ち去ろうとしたはずなのに、俺は足を止めて、体だけ藤沢のほうを振り返った。
視線はなんとなく気まずくて、不自然じゃない程度に、藤沢の胸元あたりに落とす。

声をかけたくせに、何を言うかは決めていない。

今日、楽しかった?
俺の部屋で、少しギター弾いていく?
今度、またどこか行こうぜ。

どれもわざとらしくて気持ち悪い。
それは、その内側に別の意味があるからだ。

要するに、もうちょっと一緒にいないか。
それを正直な言葉にせずに叶える方法が、わからない。

「えっと、楽器屋の前でさ――」
「え、楽器屋? う、うん」

俺の切り出しの続きを読めないのか、藤沢の返事には、少し戸惑いが混じっていた。

「声、かけられてたじゃん、女の子に」
 
「女の子……あ、ああ、美羽ちゃんたちのこと?」

な、名前……呼び……。

「その、あれ、誰なのかなって」

タイミングはおかしい。おかしいかもしれないけど、別に聞くこと自体は変じゃない、普通のことだ。そう言い聞かせてるのに、顔に熱が集まってくる。

「美羽ちゃんは、おばあちゃんの書道教室の生徒さん」
 
「書道……教室?」
 
「うん、俺もおばあちゃんに書道習ってたから、小学生の頃からの知り合い。同い年なんだ。大学こっちだったのはうっすら聞いてたけど、まさか偶然会うとは思ってなくて、びっくりしたよ」
 
「へ、へぇ……」

小学生の頃からの知り合いなら、親しげに見えても当然なのかな。

「もうひとりは?」
 
「ん、もうひとりの子は知らない子だった。美羽ちゃんの友達」
 
「そっか……」

聞きたいことは聞けた。
なのに、じゃあ俺は何を確認したかったんだ、という疑問が遅れて浮かぶ。

答えを聞けたからと言って、ほっとしたとかそういうことは特になく。やっぱり、自分以外の誰かと打ち解けている様子の藤沢が少し面白くない。
これはどういう感情だ。
そう自分に問いかけて、答えに行きつきそうになる。思考を抑え込むように、俺はゴクリと唾を飲み下した。

「鶴見……あの、もしかして」

はっ、と息を吐く。思わず顔を上げると、藤沢としっかり目が合ってしまった。
見透かされたのかと思うと、ますます恥ずかしくなってくる。取り繕う言葉を探して、視線が泳いだ。

「もしかして、鶴見……美羽ちゃんのこと、気にいった……とか……?」
 
「…………へ?」
 
「それとも友達のほう?」

自分で言いながら、言葉の途中で藤沢の眉がかすかにしょぼんと下がっていく。
 
「いや、そういうのじゃないって」

俺は反射的に否定して、胸の前で手を振った。

「藤沢、人見知りっぽいのにずいぶん親しげだったから、どういう関係なのか気になっただけ」
 
「そう、なの?」
 
「うん。気に入ったとかではない。てか、遠かったから顔とかもはっきりわかんなかったし」
 
「そっか……」

藤沢は小さく息を吐く。

「小学生の頃からの知り合いだからね。さすがに、人見知りはしないかな。なんか、ほとんど親戚みたいな感じで」

「なるほどな、幼なじみってやつか」
 
「もう十年以上ぶりだったから、幼なじみとは違うんじゃないかな」

幼なじみの定義はよくわからないけれど、藤沢の基準からは外れているらしい。
あの女の子が、藤沢にとって特別な名前の付く存在ではないことに、どこかで安堵している自分がいた。

これ以上話していたら、余計なところまで踏み込みそうだ。
頭を冷やした方がいい。今日は、藤沢と一緒にいる時間が少しだけ長すぎた気がする。
 
「じゃあ、な」

本日二度目の別れを告げて、俺はまた手を挙げる。

「あ、つ、鶴見」

どこで終わるんだ、このやり取り。
内心で苦笑しつつ振り返ると、藤沢が慌てたように俺の腕を掴んだ。

「へ、部屋まで……送る……」

その藤沢の言葉に、思わず吹き出してしまう。

「送るって、隣だけど」
 
「うん、でも……送る」

真っ赤な顔で視線を伏せる藤沢が、俺は可愛く思えて仕方なかった。

自己肯定感、優位性、独占欲に近い甘い感覚――その全部を、藤沢は無自覚に満たしてくる。

「わかった、サンキュ。じゃあ、玄関まで送って」
 
「うん……」

バカみたいだ。玄関までたった数歩の距離を、藤沢がぴったり後ろについてくる。
ドアを開けて、電気をつけて、狭い土間に二人して入ると、パタリと藤沢の後ろで扉が閉まる。
また変な沈黙。上がっていくかと言ってやるだけで多分今日はもう少し続くはずだ。
振り返ると、さっきよりも近い距離で藤沢が真っ赤な顔でこちらをみている。
もう一歩、踏み込んだところで揶揄ってやりたくなった。

「送ってくれたお礼に、ほっぺにチュウくらいしてやってもいいけど?」

目を細めて、いたずらにニヤリと笑ってやる。
ぐっと藤沢が喉を鳴らした。表情自体はあまり動かないのだけど、些細な仕草がわかりやすい。
なんてねっと、流してやろうと思ったのに、その前に、唐突に肩を掴まれた。

「し、して欲しい……」

照れまくると思っていたのに、藤沢は思ったより前のめりだ。前に部屋に泊まった時のことを思い出す。そうだ、こいつけっこうオスなんだった。
 
冗談のつもりだったけど、引き下がれなくなってしまった。
まあ、こんなもんが欲しいなら、藤沢にならいくらだってくれてやる。
背伸びは流石に恥ずかしいので、俺は藤沢のシャツの襟を掴んで、少し強引に引き寄せた。背の高い藤沢がぐっと身を屈め、その頬に俺が僅かに唇を添えてやる。
 
なにこれ、変なの。
 
そう思って、顔を離すと、もっと近くで藤沢と目が合ってしまう。息苦しいのは暑いせいだと思っていたけど、多分そうじゃないと気がついたのは、唇が重なり合ってから。

一回で終わっていればよかった。
軽い冗談の延長だと言い張れば、まだ曖昧なまま引き返せたのかもしれない。

でも、踏み込んでしまった。

何度も唇を重ねてしまったことを、俺は肩を掴んだまま引き寄せる藤沢のせいにすることにした。
相手が男だとか、そういうことよりも、藤沢だから。それが、俺にとってはやけに鮮烈だった。

やりすぎだ、と思う。
そう思いながらも、拒めずに受け入れてしまう。

委ねてもいいか、と思ってしまうのは――
藤沢が俺のことを好きで、無条件に肯定してくれる存在だからだ。

こいつは、俺を乗せるのが上手い。

ずるりと、藤沢の肩からナイロンのギターケースがずれ落ちる。
その一瞬、ふたり同時に唇を離した。

至近距離のまま、短い沈黙。

「……ギター、置けば」

それはもう、続けようという俺からの合図だった。

昼の熱を残したままの室内に、設定温度二十度のエアコンを入れると、空気が一気に冷えていく。

余計なことを言えば、何かが変わってしまいそうで、俺は何も口にしない。
ベッドはさすがに気恥ずかしくて、俺は藤沢を小さなソファのほうへ促した。