◇
夏の午後の光が反射して、外の様子が少しだけ滲んで見える。
バイト終わりにバックルームから出ると、店のガラス張りの壁越しに、水色のシャツに黒のワイドパンツ姿の藤沢が立っているのが見えた。
内側に座るお姉様方にクスクス笑われてることも気が付かずに、必死にガラスに向かって前髪を引っ張ったり分けたりしている。
店を出た俺に気がつくと、パッと藤沢の表情が僅かに綻んだ。
「鶴見、おつかれさま」
「おっす。暑いから中で待ってればよかったのに」
シャツの背中まで汗が滲んでいる。
俺は肩にかけていたキャンバス地のトートから汗拭きシートを取り出し、「ほれ」と藤沢に押しつけた。
無事に前期試験を終え、大学は夏休みに入ったばかり。
間もなく八月の東京は、連日猛暑が続いている。
実家にはいつ帰る予定だとか、バイトはどれくらい入れただとか、インターンどうするだとか──
そんな他愛ない話を続けながら、御茶ノ水駅へ向かう。
楽器を買うなら、東京でいちばん自然なのはここだ。
ギターを抱えた学生がわんさか歩いていて、楽器屋が何軒も連なっている。
藤沢でも気後れせず入りやすいだろうし、俺も慣れた街だ。駅からのビル大通り沿いにある中古ギター専門店に迷わず向かった。
一歩足を踏み入れた瞬間、エアコンの冷気と、木材と金属の混じった楽器屋特有の匂いがくる。
「わ……すご……」
藤沢が小声でつぶやいた。天井まで並んだギターを前に、完全に圧倒されている様子で、ぽかんと口が開いている。
「藤沢、楽器屋初めて?」
「うん、なんか緊張する。全く弾けない俺がきていいのかなって」
そう言って胸元に手を当てた藤沢の表情は相変わらず動きは少ない。だけど、すこし視線が落ち着かないので言葉は本当のようだ。
「別に店員に試される場所じゃないって」
そう言って俺が笑うと、藤沢は「だよね」と僅かに口元を緩めた。だけど歩き方がややぎこちない。
並べられた楽器にぶつからないようにずいぶん気を使っている。
一通り店内を見渡すと、壁際に、初心者向けの中古のストラト系が揃っていた。
「重いのより軽いほうが絶対いい。最初の一本って、扱いやすさが命だから」
「軽い方が……練習しやすいの?」
「あと、ネック細めのほうがいいと思う。最初はそのほうが指、楽だから」
そう言って、店員に声をかけてから、一本を軽く外して藤沢に手渡した。
藤沢はおそるおそる抱えてみて、すぐに俺を見る。
「これ……は、軽め?」
「まあ平均。ほら、こっち肩に乗せてみろよ。ストラップはこんな感じで」
身を寄せて、ストラップの長さを調整してやる。
肩越しに腕を伸ばしたら、藤沢が微妙に固まったのがわかった。
その反応に気づかないふりをする。
「鏡見てみ。似合ってんじゃん」
俺がいうと、藤沢は鏡に向かって顔を上げた。
ギターを持つと、ちょっとだけ肩が開く。なかなか様になっていた。本人もそれを自覚したのか、まんざらでもない様子だ。
「こういう色って……派手なのかな? へん?」
「そんなことねぇよ。まあ、地味目なのが良ければ、黒とか白が安全牌だけど……そっちにする?」
「いや、変じゃないなら、この色……好きだな」
そう言って、藤沢は濃紺のストラトを胸の前に抱える。
「だよな。藤沢が好きそうな色だと思った」
「えっ」
藤沢が眉を上げている。
「だって、着てる服が青系が多いからさ、好きなんだろうなって」
「うん」
俺の言葉に静かに頷くと、藤沢はそのまま視線を落とした。
「試奏してもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
声をかけると、カウンターの奥から店員が出てくる。
二十代後半くらいだろうか、黒いTシャツにエプロン姿で、手慣れた様子だ。床に置くにはちょうどいいサイズのアンプを引きずるように運んでくる。
「ボリューム小さめでお願いしますね」
そう言って、ケーブルを繋ぎ、軽く音を出してから一歩下がった。
俺が顎で示すと、藤沢は小さく息を吸って、恐る恐る右手で弦を弾く。
ぎこちないけれど、音はちゃんと鳴った。
「まだ、ぜんぜんコードとかみてなくて」
「おけおけ、まずはGだな」
そう言って、自分の指で形を作って見せる。
藤沢が同じように指を置こうとして、少し迷った。
「人差し指、そこじゃなくて……ここ」
「こ、ここ?」
距離が近い。
俺は一瞬だけ躊躇ってから、藤沢の手首にそっと触れて位置を直した。
「力いらない。押さえすぎると逆に鳴んないから」
藤沢は小さく「……うん」と頷いて、言われた通りに指を置き直す。
もう一度弾くと、さっきよりも音が揃った。
「あ」
「な、ちゃんと鳴っただろ」
藤沢は驚いたように目を瞬かせて、それから少しだけ口元を緩めた。
ギターを抱える腕に、さっきよりも力が入っている。
「じゃ、藤沢、そのままGならしてて、短く弾く感じで」
「え? こう?」
「そそ、このリズム」
膝を軽く叩いてテンポを示すと、藤沢はぎこちないながらも、一定のリズムで音を鳴らし始めた。
少し遅れ気味だけど、ちゃんと続いている。
「そのまま、な」
そう言って、壁際に立てかけてあった白いテレを肩にかけた。藤沢の音に被せないように、軽くDを押さえて、隙間を埋める。
拙いGの響きを支えるように音を足すと、急に、立体的な音楽が立ち上がった。
「おお……」
藤沢が、わかりやすく目を輝かせる。
俺は、そのまま軽く抑えた声で歌詞を口に乗せた。
♪ Love, love me do――
すると、藤沢がハッとしたようにこちらを見る。
「……あ、LOVE ME DOだ」
正解、と言う代わりに、俺は歌詞の合間で軽く頷いてやる。
わざと溜めのところで歌うのをやめると、藤沢が一瞬だけタイミングを迷って、それでもリズムは止めなかった。
少し遅れて、またGの音が戻る。
それが可笑しくて、俺はふざけるみたいにもう一度だけ声を乗せる。
今度は藤沢も迷わず合わせてきた。
ぎこちないはずの音が、いつの間にかちゃんと“曲”になっている。
藤沢は照れたように笑いながら、指先だけは真剣なまま弦を鳴らし続けていた。
◇
「ありがとう、鶴見。高い買い物で不安だったから、ついてきてくれて助かったよ」
楽器屋を出ると、藤沢は肩に担いだナイロンのギターケースを背負い直し、振り返ってそう言った。
「いえいえ。俺も久々に来たから楽しかったわ」
用事はもう済んでしまったな、と思う。
自然と足は駅のほうへ向かうけれど、名残惜しさのせいか、歩く速度はどこか鈍い。
電車に乗ってわざわざ来たのに、このまま帰るのもなぁ。
なんとなくスマホを取り出して時間を確認すると、まだ夕方の五時。
夏の日は長く、空はまだ明るかった。
「あー、藤沢」
「ん?」
呼びかけると、藤沢は歩いたままでもきちんとこちらを向く。
「俺さ、ちょっと行きたい店あるんだけど、いい?」
「え? もちろん。なんの店?」
「中古のレコード屋」
「レコード? 鶴見んち、レコードプレイヤーあるの?」
「いや、ないんだけどさ。ジャケットがいい感じのやつとか、インテリア代わりに飾れそうなのあるかなって」
「なるほど。いいね。それ。俺も行ってみたい」
よし、釣れた。
藤沢は俺に気を使っているわけでもなく、素直に興味を持った顔をしている。
七十年代の英国ロックが好きなら、こういう話には食いつくはずだと思っていた。
俺はスマホを取り出し、東京に来たばかりの頃に一度だけ行った記憶のある中古ショップを探す。
ちょっと裏に入ったところだったはずだ。
店のサイトから地図にピンを落とすと、思っていたよりずっと近い。
「藤沢――」
こっち、と声をかけようとして顔を上げたところで、隣を歩いていたはずの藤沢がいないことに気づいた。
あれ?
振り返ると、数メートル後ろの歩道の端で、藤沢が立ち止まっている。
目線の先には、同じくらいの年代に見える女の子が二人。
誰アンド誰?
道を聞かれている、という雰囲気でもない。
何より、藤沢が変に硬くなっていない。
むしろ、少しだけ肩の力が抜けていて、会話も途切れていないように見える。知り合いだろうか。
一体どういう関係だ?
夏の午後の光が反射して、外の様子が少しだけ滲んで見える。
バイト終わりにバックルームから出ると、店のガラス張りの壁越しに、水色のシャツに黒のワイドパンツ姿の藤沢が立っているのが見えた。
内側に座るお姉様方にクスクス笑われてることも気が付かずに、必死にガラスに向かって前髪を引っ張ったり分けたりしている。
店を出た俺に気がつくと、パッと藤沢の表情が僅かに綻んだ。
「鶴見、おつかれさま」
「おっす。暑いから中で待ってればよかったのに」
シャツの背中まで汗が滲んでいる。
俺は肩にかけていたキャンバス地のトートから汗拭きシートを取り出し、「ほれ」と藤沢に押しつけた。
無事に前期試験を終え、大学は夏休みに入ったばかり。
間もなく八月の東京は、連日猛暑が続いている。
実家にはいつ帰る予定だとか、バイトはどれくらい入れただとか、インターンどうするだとか──
そんな他愛ない話を続けながら、御茶ノ水駅へ向かう。
楽器を買うなら、東京でいちばん自然なのはここだ。
ギターを抱えた学生がわんさか歩いていて、楽器屋が何軒も連なっている。
藤沢でも気後れせず入りやすいだろうし、俺も慣れた街だ。駅からのビル大通り沿いにある中古ギター専門店に迷わず向かった。
一歩足を踏み入れた瞬間、エアコンの冷気と、木材と金属の混じった楽器屋特有の匂いがくる。
「わ……すご……」
藤沢が小声でつぶやいた。天井まで並んだギターを前に、完全に圧倒されている様子で、ぽかんと口が開いている。
「藤沢、楽器屋初めて?」
「うん、なんか緊張する。全く弾けない俺がきていいのかなって」
そう言って胸元に手を当てた藤沢の表情は相変わらず動きは少ない。だけど、すこし視線が落ち着かないので言葉は本当のようだ。
「別に店員に試される場所じゃないって」
そう言って俺が笑うと、藤沢は「だよね」と僅かに口元を緩めた。だけど歩き方がややぎこちない。
並べられた楽器にぶつからないようにずいぶん気を使っている。
一通り店内を見渡すと、壁際に、初心者向けの中古のストラト系が揃っていた。
「重いのより軽いほうが絶対いい。最初の一本って、扱いやすさが命だから」
「軽い方が……練習しやすいの?」
「あと、ネック細めのほうがいいと思う。最初はそのほうが指、楽だから」
そう言って、店員に声をかけてから、一本を軽く外して藤沢に手渡した。
藤沢はおそるおそる抱えてみて、すぐに俺を見る。
「これ……は、軽め?」
「まあ平均。ほら、こっち肩に乗せてみろよ。ストラップはこんな感じで」
身を寄せて、ストラップの長さを調整してやる。
肩越しに腕を伸ばしたら、藤沢が微妙に固まったのがわかった。
その反応に気づかないふりをする。
「鏡見てみ。似合ってんじゃん」
俺がいうと、藤沢は鏡に向かって顔を上げた。
ギターを持つと、ちょっとだけ肩が開く。なかなか様になっていた。本人もそれを自覚したのか、まんざらでもない様子だ。
「こういう色って……派手なのかな? へん?」
「そんなことねぇよ。まあ、地味目なのが良ければ、黒とか白が安全牌だけど……そっちにする?」
「いや、変じゃないなら、この色……好きだな」
そう言って、藤沢は濃紺のストラトを胸の前に抱える。
「だよな。藤沢が好きそうな色だと思った」
「えっ」
藤沢が眉を上げている。
「だって、着てる服が青系が多いからさ、好きなんだろうなって」
「うん」
俺の言葉に静かに頷くと、藤沢はそのまま視線を落とした。
「試奏してもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
声をかけると、カウンターの奥から店員が出てくる。
二十代後半くらいだろうか、黒いTシャツにエプロン姿で、手慣れた様子だ。床に置くにはちょうどいいサイズのアンプを引きずるように運んでくる。
「ボリューム小さめでお願いしますね」
そう言って、ケーブルを繋ぎ、軽く音を出してから一歩下がった。
俺が顎で示すと、藤沢は小さく息を吸って、恐る恐る右手で弦を弾く。
ぎこちないけれど、音はちゃんと鳴った。
「まだ、ぜんぜんコードとかみてなくて」
「おけおけ、まずはGだな」
そう言って、自分の指で形を作って見せる。
藤沢が同じように指を置こうとして、少し迷った。
「人差し指、そこじゃなくて……ここ」
「こ、ここ?」
距離が近い。
俺は一瞬だけ躊躇ってから、藤沢の手首にそっと触れて位置を直した。
「力いらない。押さえすぎると逆に鳴んないから」
藤沢は小さく「……うん」と頷いて、言われた通りに指を置き直す。
もう一度弾くと、さっきよりも音が揃った。
「あ」
「な、ちゃんと鳴っただろ」
藤沢は驚いたように目を瞬かせて、それから少しだけ口元を緩めた。
ギターを抱える腕に、さっきよりも力が入っている。
「じゃ、藤沢、そのままGならしてて、短く弾く感じで」
「え? こう?」
「そそ、このリズム」
膝を軽く叩いてテンポを示すと、藤沢はぎこちないながらも、一定のリズムで音を鳴らし始めた。
少し遅れ気味だけど、ちゃんと続いている。
「そのまま、な」
そう言って、壁際に立てかけてあった白いテレを肩にかけた。藤沢の音に被せないように、軽くDを押さえて、隙間を埋める。
拙いGの響きを支えるように音を足すと、急に、立体的な音楽が立ち上がった。
「おお……」
藤沢が、わかりやすく目を輝かせる。
俺は、そのまま軽く抑えた声で歌詞を口に乗せた。
♪ Love, love me do――
すると、藤沢がハッとしたようにこちらを見る。
「……あ、LOVE ME DOだ」
正解、と言う代わりに、俺は歌詞の合間で軽く頷いてやる。
わざと溜めのところで歌うのをやめると、藤沢が一瞬だけタイミングを迷って、それでもリズムは止めなかった。
少し遅れて、またGの音が戻る。
それが可笑しくて、俺はふざけるみたいにもう一度だけ声を乗せる。
今度は藤沢も迷わず合わせてきた。
ぎこちないはずの音が、いつの間にかちゃんと“曲”になっている。
藤沢は照れたように笑いながら、指先だけは真剣なまま弦を鳴らし続けていた。
◇
「ありがとう、鶴見。高い買い物で不安だったから、ついてきてくれて助かったよ」
楽器屋を出ると、藤沢は肩に担いだナイロンのギターケースを背負い直し、振り返ってそう言った。
「いえいえ。俺も久々に来たから楽しかったわ」
用事はもう済んでしまったな、と思う。
自然と足は駅のほうへ向かうけれど、名残惜しさのせいか、歩く速度はどこか鈍い。
電車に乗ってわざわざ来たのに、このまま帰るのもなぁ。
なんとなくスマホを取り出して時間を確認すると、まだ夕方の五時。
夏の日は長く、空はまだ明るかった。
「あー、藤沢」
「ん?」
呼びかけると、藤沢は歩いたままでもきちんとこちらを向く。
「俺さ、ちょっと行きたい店あるんだけど、いい?」
「え? もちろん。なんの店?」
「中古のレコード屋」
「レコード? 鶴見んち、レコードプレイヤーあるの?」
「いや、ないんだけどさ。ジャケットがいい感じのやつとか、インテリア代わりに飾れそうなのあるかなって」
「なるほど。いいね。それ。俺も行ってみたい」
よし、釣れた。
藤沢は俺に気を使っているわけでもなく、素直に興味を持った顔をしている。
七十年代の英国ロックが好きなら、こういう話には食いつくはずだと思っていた。
俺はスマホを取り出し、東京に来たばかりの頃に一度だけ行った記憶のある中古ショップを探す。
ちょっと裏に入ったところだったはずだ。
店のサイトから地図にピンを落とすと、思っていたよりずっと近い。
「藤沢――」
こっち、と声をかけようとして顔を上げたところで、隣を歩いていたはずの藤沢がいないことに気づいた。
あれ?
振り返ると、数メートル後ろの歩道の端で、藤沢が立ち止まっている。
目線の先には、同じくらいの年代に見える女の子が二人。
誰アンド誰?
道を聞かれている、という雰囲気でもない。
何より、藤沢が変に硬くなっていない。
むしろ、少しだけ肩の力が抜けていて、会話も途切れていないように見える。知り合いだろうか。
一体どういう関係だ?
