◇
前期試験が近いせいか、大学の学食はいつもより少しざわついていた。
トレイの横にノートを広げているやつが何人もいて、ページをめくる音や蛍光ペンのキャップを外す音があちこちから聞こえる。
「過去問あと一回分だけ貸して」
「単位やばいって……」
そんな会話が飛び交い、普段は空いているカウンター席まで埋まっていた。
スマホで資料を確認しているやつもいれば、食事そっちのけで教科書にかじりついているやつもいる。
このテーブルも例外じゃない。
俺の隣では戸塚がノートにシャーペンを走らせ、斜め前では相模と金沢が同じ教科書を開いて「ここ出る?」「いや知らん」と唸っている。相模と金沢は学科が同じだが、他のメンバーはバラバラだ。
葉山は今ちょうど講義中で、彼が揃い次第、学内のスタジオで練習する予定になっている。だから俺たちはここで軽食を食べつつ、自然と“待機”の空気になっていた。
「だー! 心理概論、マジで範囲広すぎ」
教科書に伏せていた戸塚が、ガバリと上半身を起こし、頭を掻きむしる。
「暗記項目多すぎだよな。誰か去年の過去問とか持ってねぇの?」
正面で金沢と相模が同時に首を振る。
俺はテーブルのポテトをつまんで、戸塚の口に突っ込みながら、「持ってなーい」と頬杖をついた。
戸塚はむしゃむしゃと抵抗もなく飲み込み、「マジかー」と嘆きつつ、スマホに目を落とす。友達リストから、めぼしい相手を探しているらしい。
俺も誰かいたかな、と記憶を辿るが──自分が取ってない授業を誰が取っているかなんて把握していない。特に顔は浮かばなかった。
「んあっ」
ポテトを頬張ったまま、戸塚がぴくりと顔を上げた。
「ふいしゃわくん!」
手を上げて、誰かに呼びかけている。視線をやると、藤沢がペットボトル飲料を手にして立っていた。
戸塚の滑舌が悪かったことと、混み合った学食内の喧騒に紛れたせいか、藤沢はこちらに気が付かず、きょろきょろ席を探している。
「藤沢!」
戸塚に代わって呼びかける。そこまで張ったわけでもないのに、俺の声は何故か聞こえたのか、藤沢がぴくりと肩を揺らす。手を上げるとコチラに気がついたようだ。
幻覚かな。なんか三角の耳とぶんぶん振り回したしっぽが見える。
「鶴見」
「――と、戸塚な!」
すぐに歩み寄ってきた藤沢は、一瞬完全に俺しか見ていなかったようだ。けれど、戸塚のアピールを受けてすぐに切り替えると、「こんにちは」と丁寧にみんなへ挨拶をする。
「藤沢くんってさ、心理概論とってる?」
「あ、うん、去年とってたよ」
「マジか!」
戸塚が即座に立ち上がり、自分の席へ藤沢を誘導する。
そして当然のように藤沢の隣に着席し、藤沢はよく事情のわからないまま、俺と戸塚の真ん中に座って「え?」と戸惑っていた。
「去年の過去問貸して欲しい!」
戸塚は顔の前で両手を合わせ、藤沢にぺこりと頭を下げた。
藤沢は「なんだそんなことか」と拍子抜けしたように肩の力を抜く。
「もちろん、いいよ。PDFあるから、後で送ろうか」
「藤沢さま! 助かる! ささ、どうぞどうぞ、ポテトでも食べて」
と言って、戸塚は勝手にテーブルの上のポテトの残りの皿を、謝礼がわりに差し出している。
「あ、てかさ。藤沢くん、このあと時間あるなら、一緒に練習室こない?」
「大学の?」
「そうそう。ほら、ギター教えるって約束したじゃん? 葉山くるまで時間あるからさ、三十分くらいなら」
あの時けっこう酔っ払ってたくせに、戸塚はしっかり覚えていたらしい。
藤沢は「あっ」と少し躊躇って、チラリと俺を見る。
何を確認したいのかわからなくて、俺はただ肩をすくめてみせた。
「あの、そのことなんだけど……」
もじもじと俯く藤沢。
戸塚相手にそこまで恐縮しなくていいのに。
「先に、自分で少しコード抑えられるようになってからの方がいいかなって」
確かに、超初心者なら YouTube でまず主なコードを覚えてからの方が、人から教わる効率は格段に上がると思う。
「まあ、確かにそうだな」
と戸塚も同意していた。
「でもさ、藤沢くん、ギターもってんの?」
「あ……いや、持ってないんだけど……」
また、チラチラこちらを見ている。なんだ。何か言いたいことがあるんだろうけど。
もしかして、俺のギターを借りたいのかな。ていうか、部屋に来たいってことか――?!
「買おうかなって思ってて」
勝手に跳ね上がった心臓が、藤沢の言葉で、柔らかくしぼむ。
表情を装うのが上手い方で良かったと安堵する。多分、直前の勘違いによる動揺は、誰にも、藤沢にも悟られてないだろう。
「え、買うの?」
「うん、手頃なやつ、中古とかで探してみようかなって」
「ほぉーん」
戸塚はよくわからない顔で口を尖らせながら、さっき藤沢に差し出したはずのポテトを自分でつまんで食べている。
「そ、それで。どんなのがいいのか、アドバイス……欲しくて」
また、ちらちらと視線がくる。
「あ、じゃあさ、俺が選ぶの付き合っ――ってぇ!」
――ガタンッ!
跳ね上がった戸塚の膝がテーブルに当たり、空のペットボトルがころりと転がった。
正面で、金沢が咳払いをしている。
「鶴見、選ぶの手伝ってあげたら?」
「えっ、俺?」
「うん」
金沢は、微笑ましげな表情で頬杖をつき、その視線を藤沢へ送っている。
藤沢はやや気まずそうに肩をすぼめつつも、否定はしなかった。
なるほど。さっきからチラチラ俺を見るのは、それか。
「あー、まあ、いいけど」
「ほ、ほんと?」
ようやく藤沢が顔を上げる。相変わらず頬が赤い。
「ああ、うん。予算とか、だいたい決まってる?」
「なんとなく……でも、相場もあんまりわかんなくて」
「まあ、初心者だから、気張ってあんまりいいの買わない方がいいな」
と答えつつ、俺の頭の中では、自然と“必要なもの”がリストみたいに浮かんでいた。
マンション暮らしならアンプは小さめで十分だし、いまどきはヘッドホン直挿しできるやつもある。
シールドと、チューナーと、ストラップ。
家で練習するならスタンドもあったほうがいい。
どれも中古で揃えれば、学生でも手が届く。
無駄に高いモデルを買うより、まずは続けられる環境の方が大事だ。
はた、と視線を上げた拍子に、金沢と目が合う。
何故かまだ微笑ましげ……というより、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「な、なんだよ」
「デートじゃん」
金沢が変な抑揚をつけてくるから、俺は思わず咳払いをした。
口元を撫でて、初めて自分が緩んだ顔をしていたことに気がつく。
隣の藤沢は、「デート……」と、ほんの小さく噛みしめるように呟いていた。
前期試験が近いせいか、大学の学食はいつもより少しざわついていた。
トレイの横にノートを広げているやつが何人もいて、ページをめくる音や蛍光ペンのキャップを外す音があちこちから聞こえる。
「過去問あと一回分だけ貸して」
「単位やばいって……」
そんな会話が飛び交い、普段は空いているカウンター席まで埋まっていた。
スマホで資料を確認しているやつもいれば、食事そっちのけで教科書にかじりついているやつもいる。
このテーブルも例外じゃない。
俺の隣では戸塚がノートにシャーペンを走らせ、斜め前では相模と金沢が同じ教科書を開いて「ここ出る?」「いや知らん」と唸っている。相模と金沢は学科が同じだが、他のメンバーはバラバラだ。
葉山は今ちょうど講義中で、彼が揃い次第、学内のスタジオで練習する予定になっている。だから俺たちはここで軽食を食べつつ、自然と“待機”の空気になっていた。
「だー! 心理概論、マジで範囲広すぎ」
教科書に伏せていた戸塚が、ガバリと上半身を起こし、頭を掻きむしる。
「暗記項目多すぎだよな。誰か去年の過去問とか持ってねぇの?」
正面で金沢と相模が同時に首を振る。
俺はテーブルのポテトをつまんで、戸塚の口に突っ込みながら、「持ってなーい」と頬杖をついた。
戸塚はむしゃむしゃと抵抗もなく飲み込み、「マジかー」と嘆きつつ、スマホに目を落とす。友達リストから、めぼしい相手を探しているらしい。
俺も誰かいたかな、と記憶を辿るが──自分が取ってない授業を誰が取っているかなんて把握していない。特に顔は浮かばなかった。
「んあっ」
ポテトを頬張ったまま、戸塚がぴくりと顔を上げた。
「ふいしゃわくん!」
手を上げて、誰かに呼びかけている。視線をやると、藤沢がペットボトル飲料を手にして立っていた。
戸塚の滑舌が悪かったことと、混み合った学食内の喧騒に紛れたせいか、藤沢はこちらに気が付かず、きょろきょろ席を探している。
「藤沢!」
戸塚に代わって呼びかける。そこまで張ったわけでもないのに、俺の声は何故か聞こえたのか、藤沢がぴくりと肩を揺らす。手を上げるとコチラに気がついたようだ。
幻覚かな。なんか三角の耳とぶんぶん振り回したしっぽが見える。
「鶴見」
「――と、戸塚な!」
すぐに歩み寄ってきた藤沢は、一瞬完全に俺しか見ていなかったようだ。けれど、戸塚のアピールを受けてすぐに切り替えると、「こんにちは」と丁寧にみんなへ挨拶をする。
「藤沢くんってさ、心理概論とってる?」
「あ、うん、去年とってたよ」
「マジか!」
戸塚が即座に立ち上がり、自分の席へ藤沢を誘導する。
そして当然のように藤沢の隣に着席し、藤沢はよく事情のわからないまま、俺と戸塚の真ん中に座って「え?」と戸惑っていた。
「去年の過去問貸して欲しい!」
戸塚は顔の前で両手を合わせ、藤沢にぺこりと頭を下げた。
藤沢は「なんだそんなことか」と拍子抜けしたように肩の力を抜く。
「もちろん、いいよ。PDFあるから、後で送ろうか」
「藤沢さま! 助かる! ささ、どうぞどうぞ、ポテトでも食べて」
と言って、戸塚は勝手にテーブルの上のポテトの残りの皿を、謝礼がわりに差し出している。
「あ、てかさ。藤沢くん、このあと時間あるなら、一緒に練習室こない?」
「大学の?」
「そうそう。ほら、ギター教えるって約束したじゃん? 葉山くるまで時間あるからさ、三十分くらいなら」
あの時けっこう酔っ払ってたくせに、戸塚はしっかり覚えていたらしい。
藤沢は「あっ」と少し躊躇って、チラリと俺を見る。
何を確認したいのかわからなくて、俺はただ肩をすくめてみせた。
「あの、そのことなんだけど……」
もじもじと俯く藤沢。
戸塚相手にそこまで恐縮しなくていいのに。
「先に、自分で少しコード抑えられるようになってからの方がいいかなって」
確かに、超初心者なら YouTube でまず主なコードを覚えてからの方が、人から教わる効率は格段に上がると思う。
「まあ、確かにそうだな」
と戸塚も同意していた。
「でもさ、藤沢くん、ギターもってんの?」
「あ……いや、持ってないんだけど……」
また、チラチラこちらを見ている。なんだ。何か言いたいことがあるんだろうけど。
もしかして、俺のギターを借りたいのかな。ていうか、部屋に来たいってことか――?!
「買おうかなって思ってて」
勝手に跳ね上がった心臓が、藤沢の言葉で、柔らかくしぼむ。
表情を装うのが上手い方で良かったと安堵する。多分、直前の勘違いによる動揺は、誰にも、藤沢にも悟られてないだろう。
「え、買うの?」
「うん、手頃なやつ、中古とかで探してみようかなって」
「ほぉーん」
戸塚はよくわからない顔で口を尖らせながら、さっき藤沢に差し出したはずのポテトを自分でつまんで食べている。
「そ、それで。どんなのがいいのか、アドバイス……欲しくて」
また、ちらちらと視線がくる。
「あ、じゃあさ、俺が選ぶの付き合っ――ってぇ!」
――ガタンッ!
跳ね上がった戸塚の膝がテーブルに当たり、空のペットボトルがころりと転がった。
正面で、金沢が咳払いをしている。
「鶴見、選ぶの手伝ってあげたら?」
「えっ、俺?」
「うん」
金沢は、微笑ましげな表情で頬杖をつき、その視線を藤沢へ送っている。
藤沢はやや気まずそうに肩をすぼめつつも、否定はしなかった。
なるほど。さっきからチラチラ俺を見るのは、それか。
「あー、まあ、いいけど」
「ほ、ほんと?」
ようやく藤沢が顔を上げる。相変わらず頬が赤い。
「ああ、うん。予算とか、だいたい決まってる?」
「なんとなく……でも、相場もあんまりわかんなくて」
「まあ、初心者だから、気張ってあんまりいいの買わない方がいいな」
と答えつつ、俺の頭の中では、自然と“必要なもの”がリストみたいに浮かんでいた。
マンション暮らしならアンプは小さめで十分だし、いまどきはヘッドホン直挿しできるやつもある。
シールドと、チューナーと、ストラップ。
家で練習するならスタンドもあったほうがいい。
どれも中古で揃えれば、学生でも手が届く。
無駄に高いモデルを買うより、まずは続けられる環境の方が大事だ。
はた、と視線を上げた拍子に、金沢と目が合う。
何故かまだ微笑ましげ……というより、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「な、なんだよ」
「デートじゃん」
金沢が変な抑揚をつけてくるから、俺は思わず咳払いをした。
口元を撫でて、初めて自分が緩んだ顔をしていたことに気がつく。
隣の藤沢は、「デート……」と、ほんの小さく噛みしめるように呟いていた。
