隣の部屋の藤沢くんは、たぶん俺のことが好き

状況を整理しよう。

季節は、春を終えて梅雨が来る前。
大学入学を機に上京して借りた八畳の1Kに暮らして、二年と少し。
その、一人暮らし用の狭い部屋で――俺、鶴見清春(つるみきよはる)は今、男に押し倒されている。

お気に入りのロックバンドの最新アルバムがBGMで流れ、天井には暖色の灯り。
その手前に見える、酔いで顔を真っ赤にした男の面構えは……うん、正直、景色がいいとは言い難い。

「鶴見……おまえさ……やっぱり綺麗な顔してるよな」

てろん、とした声でそう言いながら、奴の指先が俺のセンターパートの前髪をさらりと撫でる。
せっかくマッシュウルフに整えたのに、床に押しつけられたら台無しだ。
明るいベージュに染めた毛先を、へらへら笑った手つきでいじられる光景が視界に映る。

「鼻筋も通ってるし、顎のラインも……薄目で見たら、俺……行けそうな気がする」

ずずいっ、と顔が近づいてくる。
俺は笑いをこらえるのに必死だ。
危うく唇が触れそうになった瞬間、すんでのところで相手の顎を押さえて止める。

「薄目で見てまで来なくていいっての」

それを合図にしたように、耐えていた一同が一気に吹き出した。

「やべー! 戸塚の王子様モードきつっ!」

「平成どころか昭和感出てたよ、今の!」

「全然萌えなかった〜!」

言いたい放題だが、当の戸塚はというと、酔っ払ってるせいで場の空気に合わせてヘラヘラ笑っているだけだ。
こいつがこういう“酒乱キス魔”モードに入るのは、もはや仲間内の風物詩になっている。

一年生の頃から所属している大学の軽音サークルは大所帯で、イベントのたびにバンドを組み替えているうちに、自然と“このメンツが落ち着くよな”っていう小さなグループができていく。

今日は、今度の定期イベントに向けてそのメンバーで練習したあと、そのままの流れで俺の家に集まって宅飲みが始まった。

ドラムの葉山。
紅一点でキーボード兼コーラスの金沢。
ベースの相模。
キス魔の戸塚はサイドギターで、そして当然ながら俺がリードギター兼ボーカル。
まあ、なんというか。
昔から、気づけば“主人公ポジション”に置かれることが多い。
周りが自然と持ち上げてくることもあるし、俺自身もそれを嫌ってはいない。
誰かを押しのけてまで真ん中に立つほどの野心はないけど、望まれるなら応えるくらいの余裕はある。

それに、やっぱり音楽が好きだというのに加えて、ステージで注目を浴びるのは、単純に気持ちがいい。
女の子からキャーキャー言われるのも、まあ悪くない。
髪をライトベージュに染めたのも、ステージ映えを考えた結果だし、見た目に気を遣うのもその延長線だ。

前に、一部の先輩に「チャラチャラしやがって」と陰口を叩かれたこともある。
けれど、まずその“チャラチャラした見た目”が目を引いて、入り口になって、ライブに足を運んでくれるなら、それは惜しみなく使うべきだと俺は思う。
 
「どうせ俺は王子様にはなれませんよっ」

わざとらしく拗ねる戸塚が、床の上でふてくされた子どもみたいな顔をする。
ちょっと可哀想になり、俺は上体を起こして戸塚の肩に手を置いた。

「まあ、確かにビジュ担は俺だけどさ?」

「ほら出たよ、自覚してるやつ〜!」

すかさず周囲がヤジを飛ばしてくる。
このへんのノリの良さは、長い付き合いの賜物だ。

「でも、戸塚は技術担当だろ。おまえのバッキングが安定してるから、俺がどれだけ跳ねても曲が崩れねぇんだよ」

「鶴見……おまえ……!」

戸塚が顔を上げる。酔っているせいで動きが無駄に大袈裟だ。
胸の前で祈るみたいに手を合わせて、表情はよく見る“きゅるん”の絵文字そのもの。

「愛してるぞ鶴見! キスしよう!」

「ギャッ! コラ、やめろって!」

また押し倒そうとしてくる戸塚の肩を必死で押し返す。
周囲はケラケラ笑っていて、これがまあ、いつもの流れだ。
ちなみに俺と女の子の金沢を除くメンバーは、全員一度は戸塚に唇を奪われている。
酔っても“女の子には手を出さない”という最低限の理性だけは残っているらしい。
とはいえ、俺は男の子なのでいよいよ危ない。
押し倒してくる戸塚の力がだんだん本気になってきて、笑っていられる余裕がなくなる。

「戸塚、ちょ、マジでやめろって!」

場の空気を壊したくないから笑い混じりで言うものの、内心ではまあまあ本気で焦っている。
ジタバタと抵抗していると、不意に――

――ピンポーン。

玄関ベルが鳴り、その場にいた全員が、一斉にぴたりと固まった。
笑い声も動きも止まり、キッチンの緩んだ蛇口からピチャリと水滴が一つ落ちる。

助かった、と胸を撫で下ろした瞬間、次に来た感情が、ほぼ反射で口から漏れる。

「あ、やべ」
 
クレームだろうか。
騒ぎすぎた。時計を見ると、すでに夜の十一時を回っている。
角部屋とはいえ、三方向は別の住人だ。
防音でもなんでもない、ごく普通の学生マンションで、この騒ぎは確かにアウトだ。

固唾を飲んで見守る一同に、「大丈夫、大丈夫」と手で合図して玄関へ向かう。
足元の酒の匂いと、部屋の熱気が妙に意識される。

「はーい」

返事をしてから扉を開けると、そこに立つ男の姿が目に入って、俺はほんのわずかだけ胸を撫で下ろした。

「……藤沢」

彼はこの部屋の隣の住人、藤沢颯真(ふじさわそうま)。
俺はその百八十センチは軽く超えていそうな長身を見上げながら、誤魔化すように、精いっぱいの愛想笑いを浮かべてみせる。

「悪い、うるさかったよな?」

藤沢は、ぱっと見は真面目で整った顔立ちのイケメンだ。短めの黒髪を軽くセットした髪型がよく似合っていて、清潔感がある。
切れ長の目元でまっすぐ相手を見ると、妙な迫力が出て、近寄りがたい印象を与えるタイプ。

――だけど、俺は知っている。
この“怒ってるように見える無表情”は、こいつのデフォルトだ。
だから、今もたぶん怒っているわけじゃない。

「いや、悲鳴聞こえたから……」

「悲鳴?」

「大丈夫かなって」

戸塚に迫られて騒いでいた俺の声が、どうやら隣まで聞こえていたらしい。
無表情のまま、藤沢はチラッと俺の背後の室内に視線を向けて、すぐに"しまった"というように視線を落とした。

「ああ、ふざけてただけ。大丈夫」

「なら、いいけど」

藤沢はクレームを言いに来たわけではなく、俺を“心配”して、わざわざ出てきたのだ。
とはいえ、そろそろいい時間だという現実も頭をよぎる。
このまま騒ぎ続ければ上下の部屋にも確実に迷惑だ。
いったん仕切り直すべきか。
終電も怪しい時間帯だから、泊める判断も視野に入れつつ、俺は状況の整理に意識を切り替えた。

――と、そのとき。

「あれ? もしかして、皆勤くんじゃね?」

背後から声が飛んでくる。
振り返ると、こちらの様子が気になったのか、みんながずらりと玄関のほうを覗き込んでいた。
声を上げたのは戸塚だが、その声に釣られてメンバー全員が玄関の方へずいっと顔を出してくる。

「ほんとだ! 皆勤くんだ!」
「え、なんで? どゆこと?」

酔いが回っているせいで、興味本位の視線がまったく隠せていない。
金沢なんか、缶チューハイ片手に首を伸ばし、相模は壁に手をついて、半分笑いながら覗き込んでいる。
葉山も、いつもより目がとろんとしていて、完全に酔っ払いのテンションだ。
もう一度、藤沢のほうを振り返ると、彼は明らかにたじろいでいた。
――いや、実際には表情筋はほとんど動いていない。
けれど俺にはわかる。
ぴくっとわずかに眉が揺れて、クロックスをつっかけた足元が数ミリだけ後ろに下がっていた。
これは、みんなの無遠慮な態度に腹を立てているわけでも何でもない。
単純に、藤沢はものすごく人見知りなのだ。
 
「あ、あのっ……皆勤くんって……?」

藤沢が口元を引きつらせながら何か言おうとする。 
しかし、酔っ払いたちはその慎ましい声など一切聞く気のない様子だ。
「鶴見知り合いだったの?」「皆勤くんも入りなよ!」「一緒に飲もうぜ」などと遠慮がない。
助けを求めるような藤沢の視線を感じて、俺はみんなを振り返った。
 
「はいはい、飲み会は終わりねー! 片付けようぜ」
「えー、なんでよ」
「まだ眠くないもん」
「もん、とか言うなや、可愛くねぇから」
 
ケラケラと笑い合う声が、部屋の中に軽く弾ける。
その笑いに紛れて、俺は藤沢のほうへひらひらと手を振った。
 
――“もう戻っていいよ”という合図だ。

藤沢はまだ少し心配そうな表情を浮かべていたが、
控えめに顎を引いて、静かに扉を閉めた。



「いや、ここに来て皆勤くんの推しが鶴見だったという事実よ」

ローテーブルに残った空き缶や菓子の袋をまとめながら、葉山が妙にしみじみした声でつぶやく。
筋肉質で代謝が良すぎるせいか、ドラム担当の葉山は一年中ほぼ半袖だ。今もTシャツの袖を肩まで捲り上げていて、家の中なのに妙に体育会系の存在感がある。

「俺はね、なんとなくそうじゃないかなと思ってたよ。ステージ立ってると、皆勤くんの熱い視線がどこ向いてるから、もうわかりやすいわけ」

勝手知ったる感じで安物のソファベッドをぱたんと広げ、戸塚が早々に寝転がった。風呂ぐらい入れと言いたいが、このモードになった戸塚はまず動かない。

金沢はギリギリ終電があるので先に帰り、相模はその金沢を送って行った。
あの二人は付き合ってるのか、あるいは限りなくそれに近いところまで行っている。けど、身近すぎるせいで誰もあえて触れない。どうせそのうち向こうが言ってくるだろ、という空気だ。

「熱い視線とかやめろって」

俺は笑いながら、クローゼットから毛布を引っ張り出し、そこらに転がっていたクッションを戸塚に放った。

藤沢が“皆勤くん”と呼ばれている理由は、本当にそのまんま。俺たちのライブイベントに、ほぼ毎回顔を出すからだ。

「てかさ、何友達? 俺らと同じ大学だけど、鶴見とは学部違うよな? 隣の部屋だから仲良くなったん?」
 
葉山が、ソファベッドの真ん中で大の字になっている戸塚を足で転がしつつ言う。

「あー……同高なんだよね」

「えっ!? そうなの? じゃあさ、俺らが皆勤くんの正体について散々考察してた時、なんで黙ってたんだよ!」

「いや、なんとなく? 別に特別仲がいいわけでもないし」

「仲が良くもないのに、毎回おまえ目当てでライブに来るかね?」

「俺目当てとは限らないだろ?」

俺の言葉に、葉山はどうにも納得いかないらしく「そうかぁ?」と肩をすくめる。
横を見ると、戸塚はすでに目を閉じて完全に気絶していた。
 
実際、否定しつつも、藤沢の“目当て”は、葉山たちがいうように、たぶん俺なんだろうなと察している。

藤沢は極端に人見知りだ。
初対面の相手と話すのはもちろん、知らないコミュニティに一人で顔を出すタイプじゃない。
それなのに、俺たちのライブイベントにだけは、毎回欠かさず現れる。

それから、隣に越してきたタイミング。
大学が同じとはいえ、広い街で“たまたま”隣なんて話、偶然と呼ぶにはできすぎている。

そしてライブ中の視線。
照明の熱と音の渦の中でも、どの位置からどこを見ているかは、ステージ側の方が案外よくわかる。
 
藤沢はいつも俺を見ていた。

そういう小さな事実をひとつずつ拾っていけば、答えは自然と形になる。

――藤沢は、たぶん俺のことが好きなのだ。