記憶の燃料 — そのおにぎりは、少しだけ塩辛かった

記憶の燃料 — そのおにぎりは、少しだけ塩辛かった

 そのおにぎりは、いつも少しだけ塩辛かった。  まるで、誰かの涙が隠し味に紛れ込んでいるみたいに。

 放課後の誰もいない教室。窓から差し込む夕日は、僕の机の上に積もった白いチョークの粉を、残酷なほど鮮やかに照らし出していた。いじめっ子たちの、いつもの「挨拶」の跡だ。  僕は指先で粉を払い、アルミホイルの包みを開く。中には、少し形の歪な、けれどまだ温かいおにぎりがあった。

「もう。ユウタもちゃんと反撃しなさいって言ってるでしょ?」

 聞き慣れた声に顔を上げると、サキが苦笑いしながら立っていた。  彼女は僕の「抑制剤」だった。僕の内に眠る、触れるものすべてを破壊しかねない「超反射」の異能。彼女がこうして笑いかけてくれる限り、僕はこの力を封じ込め、ただの「弱虫なユウタ」でいられる。

「……サキさんがいてくれるから、大丈夫です」

 僕はそう言って、おにぎりを口に運ぶ。  米粒の弾力、海苔の磯の香り、そして喉の奥に広がる、あの独特の塩辛さ。  それが僕にとって、唯一の日常の味だった。

     *

 翌日の昼休み。屋上の冷たいコンクリートの上で、日常は音を立てて崩れた。  ケンタたちが、僕の手からサキの弁当箱を奪い取ったのだ。

「おい、陰キャ。サキがテメエみたいなゴミの世話焼いてるのが、反吐が出るんだよ」

 ケンタの目が、醜い嫉妬に濁る。彼は嘲笑しながら、弁当箱を逆さまにした。  地面に転がる、白い塊。サキが今朝、僕のために握ってくれたおにぎり。

「やめろ……」

 声が震える。僕への暴力なら耐えられた。けれど、これは僕の魂そのものだ。  ケンタは僕を見せつけるように、ゆっくりと靴底を上げた。そして、無造作にそれを踏みにじった。

 ぐしゃり、という鈍い音が、僕の心臓を直接握りつぶした気がした。

「あ……」

 その時、屋上の扉が開いた。駆け込んできたサキが、足元に散らばった無残な光景を目にする。  彼女は怒鳴ることも、ケンタを責めることもしなかった。ただ、溢れ出す涙を止められず、その場に崩れ落ちた。

「ごめんね、ユウタ……。私、あなたの居場所さえ、守ってあげられなくて……」

 彼女の絶望。その涙が、僕の中の「最後の一線」を焼き切った。

「僕の……僕たちの愛を、汚すなあああああ!!」

 視界が白く染まる。脳が、心臓が、熱い。  僕の異能「超反射」を最大出力で解放するための燃料――それは、僕の深層意識にある『記憶』そのものだった。

(あ、消えていく)

 初めてサキがおにぎりをくれた、雨上がりの午後。  図書室の隅で、こっそり手を繋いだ感触。  僕を呼ぶ、彼女の柔らかい声の響き。

 それらが一つ、また一つと、剥がれ落ちる鱗のように光の粒子となって溶けていく。  大切な思い出を代償に、目に見えない衝撃波が螺旋を描いて爆発した。ケンタたちは悲鳴を上げる暇もなく吹き飛び、コンクリートの壁へと叩きつけられた。

 力が止まる。同時に、僕の心の中にあったはずの「サキ」という名の色彩が、すべて真っ白に塗りつぶされた。

 僕は、糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。

     *

 数日後。病院の白い天井を見上げて目覚めた僕の隣には、一人の少女がいた。  泣き腫らしたような目で、けれど必死に笑顔を作っている。

「……あなたは、誰ですか?」

 僕の問いに、彼女は一瞬だけ表情を歪め、それから優しく僕の手を握った。

「私は、サキ。あなたのクラスメイト。そして――今日から、あなたを一生守る人よ」

 彼女は震える手で、リュックからアルミホイルの包みを取り出した。  差し出されたのは、少し形が歪な、温かいおにぎりだった。

「さあ、食べて。美味しいんだから」

 僕は不思議に思いながらも、それを受け取り、一口かじった。  知らないはずの味。会ったこともないはずの少女。

 なのに。

 舌に触れた瞬間の「塩辛さ」が、僕の胸を締め付けた。  忘れてしまったはずの何かが、涙となって勝手に頬を伝い落ちる。

(おかしいな。どうしてだろう)

 この味は、ひどく悲しくて。  そして、どうしようもないくらい、温かい。

「大丈夫。あなたの失った記憶は、全部私が持っているから。もう一度、作り直せばいいの」

 サキは僕を強く抱きしめた。  記憶という代償を払った空っぽの心に、新しい物語の最初の一ページが、静かに、けれど確かに刻まれていった。

 おにぎりの塩辛さは、きっといつか、純粋な愛の味に変わる。  僕の手を握る、彼女の温もりを感じながら、僕はそう確信していた。