海偉と陸玖が飛び降りた窓を、翼は思わず覗き込む。
軽やかに飛んで着地し、何事もなかったかのように行ってしまった。
「……」
「ははっ、翼、驚いてるな」
「そりゃ驚くよ~。二人、人間なのにあんなことできるなんて…」
真理愛がねっと頷き、同意を求めてくる。
翼も小さく「うん」と頷いた。
「…真理愛」
御影が静かに真理愛の名前を呼ぶ。
その瞬間、専用室の空気が少し変わったように感じた。
「うん」
返事をした真理愛は立ち上がり、御影の後を追って奥の部屋へ入っていく。
愁も庵も、静かにその様子を見守っていた。
「つーばさっ」
突然、愁に声をかけられ、身体がビクッと反応する。
「ははっ、ごめん、ごめん。今さらだけど【学園】案内してやろーか?」
予想外の言葉に翼は驚いた。
【学園】に通い始めてから、教室とこの専用室以外はほとんど行ったことがなかったのだ。
しかも自分はダンピール。まだ匂いが残っているから、校内を自由に歩けないと思っていた。
あの日みたいに襲われるかもしれない…という不安もよぎる。
「…いいの?」
「あぁ、匂い? 俺の上げた香水、付けてるだろ?」
翼は小さく頷く。
「…もう匂いもだいぶ薄れてる。大丈夫だ」
庵がぶっきらぼうに言った。
こんなことを言ってくれるなんて思っていなかった翼は、少し驚きと安心を感じる。
「どうする? 行く?」
愁がもう一度聞いてくれる。
翼の胸は少しワクワクして、自然と笑みがこぼれた。
「うん!」
少しだけ、いつもより大きい声で返事をした。
◇
専用室と繋がる、もう一つの部屋。
そこは暗く、冷たい空気が肌に刺さるようで、息をするたび胸の奥がひりついた。
前を歩く御影の背中は、闇に溶け込むように遠い。
「御――」
声を出しかけて、喉で止める。
違う。今は、六花次期頭首。
その名を呼ぶことすら、ためらわれた。
真理愛は静かに片膝を床につき、頭を深く下げる。
「真理愛……ちゃんと覚えてる?」
低く、感情を削ぎ落とした声。
「えぇ、もちろんです」
即座に返答する。迷いは許されない。
「頼んだよ、真理愛」
「……はい」
鋳薔薇 御影。
【リデルガ】次期頭首。
始まりの純血種の血を引く者。
私たちの関係は、所詮、王と下僕。
対等などという幻想は、最初から存在しない。
逆らうことは、決して許されない。
◇
「ここが図書室っ!」
通された先には、天井近くまで届く大きな本棚がずらりと並び、思わず息を呑むほど広い空間が広がっていた。
棚に収められた本の数は、ひと目見ただけで“尋常じゃない”と分かる。
「……凄い」
「だろ?【学園】の図書室は【リデルガ】で一番の書庫だからな」
古い装丁のものから新しいものまで、年代も分野もさまざまな本が隙間なく並ぶ。
読書用のふかふかのソファや、自習用の机と椅子も整然と配置され、長時間いても飽きなさそうだった。
そのとき、奥の出窓に見慣れた後ろ姿が目に入る。
背が高く、少し長めの薄いグレーの髪を後ろで結んだ人物。
あれは……
気づいた瞬間、庵がその人物を目がけて、タッタと足早に歩き出した。
「ぁ、琉伽か。庵があんなに嬉しそうに駆けていくから、誰かと思った」
庵は、翼には決して見せないような、柔らかな表情で琉伽と話している。
「……仲、いいの?」
「庵は琉伽だけに懐いてるからな~。言うなら、ご主人様と犬だな、あれは」
「…………」
あんな顔、できるんだ。
いつも眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうで、不機嫌そうな印象しかなかったのに。
翼と愁がその様子を眺めていると、視線に気づいた庵が、バツの悪そうに顔を逸らした。
同時に、それに気づいた琉伽が、こちらを見て柔らかな笑顔で手を振る。
それを合図に、愁が二人のもとへ歩き出す。
翼も、その後を追った。
「愁、翼ちゃんも。3人で何してるの?」
「翼に【学園】を案内してるんだ」
「へぇ~。よかったね、翼ちゃん。どこ行ったの?」
「まだ…ここがひとつめ」
「そっか!じゃあ、僕からのおすすめはあそこかな」
琉伽は笑いながら言った。
翼が「?」と首をかしげると…
「あぁ~あそこか!おっけ~、行くぞお!庵」
「ぇ、ちょっ」
愁は翼の手首を軽く掴み、図書室を飛び出すように走り出した。
「はぁ……」
庵はうんざりしたようにため息をつきながら、少し遅れて後を追う。
「じゃあ、またね。翼ちゃん」
琉伽はいつものように笑った。
その“いつもの笑顔”が、翼にはどこか怖く感じられる。
本心が見えない。何を考えているのか分からない。
優しい笑顔の裏にある本心が、どこか怖いのだ。
「次に行く場所は、琉伽のお気に入りの場所なんだ」
「…お気に入りの場所?」
「そう、【学園】は初等部・中等部・高等部に分かれているけど、そこは琉伽が初等部の頃から好きな場所なんだ」
「そんな、前から?」
「なっ、庵」
「あぁ……」
愁は庵に話を振り、ケラケラと笑う。
庵は少し恥ずかしそうに顔を逸らした。
「くくっ、ははっ」
「愁」
庵は愁をキッと睨む。
「今から行く場所は、庵と琉伽が出会った場所で」
「おまっ、それ以上言ったら…」
「庵が琉伽を女だと勘違いした場所でもあるんだな~」
「…ぇ」
庵は顔を背け、恥ずかしそうに怒った。
「お前、覚えとけよ」
「おお~、怖い怖い」
確かに琉伽は、白く綺麗な肌に美しい髪、程よい大きさの瞳。幼い頃は女の子に間違えられるほど可愛かったのも想像に難くない。
「まっ、琉伽は本当に天使みたいに可愛かったからな~」
「………」
「あいつ、初恋泥棒なんだぜ?」
「初恋…泥棒?」
「【学園】内の同年代の奴らも、みーんな初恋は琉伽っていうぜ?」
「愁も?」
「お、初めて名前呼んでくれた!そう、俺も」
話の流れで、つい名前を呼んでしまった。
「んで、こいつも」
庵を指さす。相変わらず、庵は恥ずかしそうにそっぽを向いている。
「俺はすぐ男だって気づいたけど、庵はわりと長い間好きだったよな」
「…うる、せーな。しょうがないだろ、可愛かったんだから」
「ははっ、認めてやんのー。てな感じで、琉伽は初恋泥棒ってわけ」
「わりと長い間」そう聞くと、いつ気づいたのか気になってしまう。
「…いつ気づいたの?」
「………」
愁と庵は目を丸くして固まる。
あれ…聞かない方がよかった…?
「だはははっ、それは…くく、それはなっ!」
愁は涙が出るほど笑い、
「俺は言わないぞ、愁が言え!」
顔を赤くして言う庵に、やっぱり聞いてはいけなかったんだと少し後悔する翼。
「なんでお前、命令口調なんだよ! てか言っていいのかよ、だっは、ははっ」
でも…凄く気になる…。
「風呂っ」
「お風呂?」
「そう、ガキの時に六花の6人で大浴場行ってさ、そん時。ひひっ、あ~ダメだ。思い出すだけで笑える、腹いてーっ」
チラッと庵を見ると、相変わらずそっぽを向いている。
少し長めの黒髪の隙間から覗く耳は赤く染まっていた。
「琉伽も男湯に入ろうとするもんだから、庵が『琉伽ちゃん、あっちだよ』って言って、そこで男だって気づいたんだよな。可愛かったよな~」
「もういいだろ、このくらいで」
「その後、ショックで庵、知恵熱出して寝込んでさ」
「愁っ!」
愁は笑いながら、指の端で涙を拭った。
「ほんと、あん時は毎日が楽しかったよな」
そう言った愁の横顔は、少し寂しそうに見えた。
庵も、愁の言葉には何も返さない。
「着いた!あそこ!」
愁が指さすのは、丸い形の…
「温室庭園」
横にいた庵が、小さく呟いた。
「温室…」
キィ――と、大きな扉が開く。
ガラス張りの天井から、煌々と太陽の光が降り注ぐ。
暖かい…
綺麗な植物たちに陽の光が当たり、水滴に反射してキラキラと光る。
心地よい暖かさに、眠気がそっと襲う。ここはなんだか落ち着く。
「あれ、愁様、庵様?」
後ろから落ち着いた声がした。
振り返ると、柔らかい雰囲気の細身の男性が立っている。
「ゼっさん」
「ゼツさん」
「珍しいですね、お二人が来るなんて」
「ちょっとなあ~」
愁と庵に交互に挨拶をしたあと、ゼツは翼に視線を向ける。
「この可愛らしいお嬢様は?」
「翼!新しい仲間」
「……こん、にちは」
ゼツはぼんやりと翼を見つめている。
翼の視線を通して、まるで別の誰かを見ているような不思議な目。翼が首をかしげていると…
「こんにちは。私はこの温室庭園の世話をしている、十全《じゅうぜん》絶《ぜつ》といいます」
何事もなかったかのように挨拶をする絶。
「伊崎翼です」と翼も答える。
目が合うと絶はにっこりと笑う。
少し恥ずかしくなった翼は、そっと目を背けた。
「翼に【学園】内案内してんの!」
「そうなんですね。気に入る場所はありましたか?」
「……えーっと」
まだ図書室しか行っていない翼は、答えに迷う。
横にいた庵がサラリとフォローする。
「まだ、図書室しか行ってないんだ」
「図書室!といえば、琉伽様は元気ですか?」
「元気だよ、相変わらず本ばっか読んでるけど」
「それは良かった。初等部の頃はよくここで琉伽様と庵様が一緒に本を読んでいましたね。また機会があれば琉伽様もお顔を見せに来て頂けると嬉しいとお伝えください」
「伝えとくよ!ありがと、ゼツさん」
その後、絶の案内で庭園内をぐるっと回った。
絶は翼が興味を持った植物について詳しく説明してくれる。
四人で笑いながら歩き、翼は久しぶりに自然に笑えた気がした。
「笑ってる」
「ん?」
「翼だよ、ほら」
絶の説明を聞きながら笑う翼の姿。
【リデルガ】に来てから、あんな表情を愁は見たことがなかった。
知らない世界に連れてこられ、常に落ち着いていた翼。
目の前で何が起きても、表情はほとんど変わらない。
御影と琉伽が翼を連れて【リデルガ】に帰ってきたときも、琉伽の胸で眠る翼を見て、人形のようだと思った。
泣きも喚きもしない。その冷静さに、少し距離を感じたものだ。
【学園】で襲われた時も、怖い思いをしたのにも関わらず表情は変わらなかった。
それが、今は微笑んでいる。
まだ出会って間もないのに、その姿が愁には妙に嬉しかった。
その光景を眺めていると、庵がポツリと呟いた。
「頬、緩んでる」
「え」
自分の頬を片手で包む愁。
「まあ、良かった」
庵の声はさりげなく、柔らかい。
表情を変えない翼と同じく、庵もまた簡単には本音を出さない。
『俺達は将来、この【リデルガ】を任されるヴァンプだ。普通、お前みたいなダンピールが一緒にいていいはずのヴァンプじゃない』
口ではあんなことを言う庵だが、その横顔からは少し安心しているのが伝わる。
御影が海偉に言ったように、翼を【リデルガ】に連れてくるのは【リアゾン】にいるより危険だからだけではないはずだ。
あの御影だ。きっと何か、他に理由があるに違いない。
◇
ガチャッ。
「御影だけ……?」
専用室の扉を開けると、そこにいたのは御影一人だけだった。
真理愛はいると思ったんだけど……
「琉伽……珍しいね。ここに来るなんて」
「さっき翼ちゃんたちに会ってさ。今なら御影、一人かなーって思って」
「……ああ、そういうことか」
「真理愛もいるかなって思ったんだけど、外れた」
「さっきまで、いたよ」
「そっか」
琉伽はそっとソファに腰を下ろした。
「ねえ、御影。さっき海偉と陸玖ちゃん、来た?」
「うん」
「……やっぱり」
「そんな気がした?本当、感が鋭いね」
「んー、なんか当たるんだよね。昔からさ。で、海偉は何て?」
「【リアゾン】から、人が一人消えたって」
「……俺、記憶消したよ?」
その言葉に、御影は一瞬だけ書類から目を離し、琉伽を見る。
「分かってる」
「じゃあ、なんで分かったんだろ。俺、翼ちゃんに関わった周りの人間……全部、記憶消したのに」
翼を知っている人間。
学校の記録。
すべて、消した。
「あの母親の記憶も消した。行方不明届を出すとも思えない。全ての記憶から翼の存在は消えてる……だから、あいつの言う“消えた人”は翼じゃない」
「だよね……」
「……最近、色々起きすぎてさ。頭が疲れる」
その言葉に、琉伽は目を丸くした。
「……珍しいね。御影が弱音吐くなんて」
「……え?」
「あんまり俺たちに、そういうこと言わないじゃん」
「……あー、そうだった。今の、なし」
「なしって。御影はもっと周り頼りなよ」
琉伽はソファから立ち上がり、御影のそばへ歩み寄る。
「……昔みたいにさ」
御影は視線を落とし、かすかに息を吐く。
「……そうだね」
その声は、ひどく小さかった。
昔になんて、戻れないのに。



