六花の薔薇 ―refrain―



『母様!母様!僕ね!』

屋敷の廊下。
窓の外では雨が降り、肌寒く、暗かった。
廊下の先には、御影に背を向けて歩く母親の背中。

『僕、テストで一番になったよ!』

足を止め、母親が振り返る。
その顔は暗く、はっきりとは見えなかった。
褒めてくれると思った…だから、御影は嬉しそうに答案用紙を母親に見せた。

『ねえ、母様!』

伸ばした手に、

バチンッ

振り払われる痛み。

『汚らわしい』

ごみを見るような目で僕を見ないで……

ねえ、母様、どうして……?

暗い廊下に、ヒールの音だけが冷たく響いた。








「…………」

大きな窓から、朝の光が差し込む。
御影は目を覚ました瞬間、自分の身体が汗でびっしょり濡れていることに気づいた。

嫌な夢を見た。
内容は思い出せない。ただ、胸の奥に重たい感覚だけが残っている。
目覚めが悪い時は、決まってそうだった。

コンコン、コンコン。

「御影様! 失礼いたします!」

扉を叩く使用人の声は、明らかに切迫していた。
御影は嫌な予感を覚えながら、すぐに扉を開ける。

「おはようございます。あの……翼様が……」

その名を聞いた瞬間、御影は言葉を待たずに部屋を飛び出した。
廊下を小走りで抜け、翼の部屋へ向かう。

「翼!」

扉を開けた先には、数人の使用人に囲まれた翼の姿があった。
背中をさすられ、声をかけられているが、当の本人はひどく苦しそうで、呼吸がうまくできていない。

荒く上下する胸。
震える指先。

そして自分の手首に、必死に爪を立て、傷つけている姿。
その瞬間、御影の脳裏に、あの言葉がよぎる。

『……言いたくない……』

やっぱり、そうだったか。
御影はベッドへ近づき、使用人たちに静かに告げる。

「もう大丈夫。ありがとう、下がっていいよ」

使用人たちが部屋を出ていき、扉が閉まる。
二人きりになった空間で、御影は翼に声をかけた。

「翼……もういい。俺が来た。もう、我慢しなくていいよ」

その声に反応して、翼がゆっくりと顔を上げる。
焦点の合わない、揺らいだ瞳。

彼女は、御影に向かって手を伸ばした。

次の瞬間

ガブッ。

勢いよく、御影の首元に噛みつく。
衝撃で、二人はベッドの上へ倒れ込んだ。

御影は抵抗せず、血を求める翼の頭をそっと撫でる。
指先が、長い黒髪をゆっくりとすべる。

大丈夫だ。

そう言うように、何度も、何度も。

綺麗な髪……。

なんて、くだらないことを思う。

まるで、血の味を覚えた子どもだな……。

御影は翼の頭を撫でながら、されるがままじっとしていた。
今日の朝食は何を食べようか。パンにするか、それとも米にするか。そんなことを考えていると

「…御影…? 嘘、私…」

ある程度血を飲み、我に返った様子の翼が、かすれた声を漏らす。

「おはよう」

御影はいつも通りに笑いながら挨拶する。
でも、彼女は笑い返さなかった。

「…どうして」
「ん?」
「どうして、私……また御影の血を吸ってるの?」
「………」
「…だって、昨日飲んだばかりなのに…やだ、私…」
「そういうもんなんだよ。覚えたては」
「…覚えたて?」
「血の味を覚えたばかりの頃は、吸血衝動が頻繁に出る。そのうち身体が順応していく」
「…おかしく…ない?」

ぽつりと呟く翼。

「…普通だよ。誰もが通る道。そうやって血の味を覚える」

御影は身体を起こし、隣に座る彼女の頭をそっと撫でた。
戸惑いを隠せない翼は、【リアゾン】では血を我慢していた。
学校で御影の血を飲んだことで、張り詰めていた何かが外れ、無意識に血を求めるようになっていた。
だが、それも一時的なもの。定期的に血を飲めば、衝動はやがて落ち着く。

俯いたままの彼女の顔を、御影は両手で包み込み、そっと持ち上げる。

「翼、これだけは約束」
「…約束?」
「俺以外の血は飲んではいけない」
「…………」
「分かった?」
「…分かった」

不安で揺れる翼の瞳。
彼女にとって吸血は、自分が化け物であることを嫌でも自覚させる行為だ。
無意識にしてしまう自分が信じられないほど嫌で、顔に浮かぶ不安が御影にはたまらなかった。

ああ、なんて言い眺めなんだろう。

御影は、にやりと笑った。



もう、離さないよ。
やっと見つけたんだから。

あの日から、
俺は君を忘れたことは一度もない。

あの日から。








「わああ~! 可愛い! すっごく似合う!!」

朝、【学園】へ向かう前。
真理愛は御影の屋敷を訪れていた。
御影に頼まれ、翼の【学園】へ行く準備を手伝うためだ。

「…………」

当の本人よりもはるかにテンションが高いのは、
ツインテールを揺らして跳ね回る真理愛のほうだった。

翼は大きな全身鏡の前に立ち、
【学園】の制服に身を包んだ自分の姿をじっと見つめている。

黒地に細い赤のラインが入ったスカート。
胸元には、【学園】の大きな刺繍入りエンブレム。
【リアゾン】ではまず目にすることのない、洗練されたデザインだった。

「やっぱり、“こっち側”の血が入ってるだけあるよねぇ」

そう言って、真理愛は翼の背後から鏡をのぞき込む。

「……“こっち”?」
「うん。吸血種の血ってこと。昔から吸血種は美形が多いんだよ」
「…………」
「人間を惑わすほどの容姿で、狩りをしてた――なんて言われてるくらいだしね」
「……惑わす。それ、聞いたことある」
「でしょ? 今じゃ有名な話だもん」

そう言って、彼女はにっこり笑う。

「だから翼ちゃんもすっごく綺麗。透き通るみたいに白い肌に、大きな瞳、さらさらの髪! スタイルもいいし……羨ましいなあ」

そんなことを言う真理愛自身も、十分すぎるほど整った容姿をしている。
落ち着いた色合いの髪に、くりくりとした二重の瞳。
ほんのりピンク色の頬は、いかにも“女の子”という印象で、
思わず守りたくなるような雰囲気があった。

羨ましいのは、私のほうなのに。

翼は心の中でそう思う。
自分は昔から、クールだとか、怖そうだとか、
そんな印象ばかりを他人に与えてきたのだから。

「どう? 着心地は?」
「……うん、大丈夫」
「よかった! じゃあ外で御影も待ってるし、行こっか!」

真理愛の後ろについて、カバンを手に部屋を出ようとした、そのとき。

くるりと、彼女が振り返った。

「翼ちゃん。ひとつだけ、約束」

少しだけ真剣な表情。

「……約束?」
「ダンピールだってこと、【学園】では内緒ね」
「…………」
「絶対に、だよ?」
「……わかった」


屋敷を出ると、御影はぼんやりと空を見上げていた。
その姿はどこか絵になるようで、雑誌に載っていてもおかしくないほどだった。

「翼ちゃん、着替えたよ~」

真理愛の声に反応し、御影は視線を空から二人に移す。
翼の姿を見て、ふっと微笑んだ。

「似合ってるね」
「おお~よかったね! 翼ちゃん」
「…ぁ、うん」
「御影は滅多に人を褒めないからね~」
「そう、なの?」

翼が聞くと、御影はにこりと笑い、向かいに止めてある大きな車へ歩き出す。

「あの容姿で、家も“六花”のひとつだもん。
私たち吸血種の頂点にいるような人だから、褒めるっていう概念がないんだよ」

真理愛が小声で教えてくれる。

「ろっかって…」

言おうとした瞬間、御影の車の中から急かす声が響き、翼の疑問はかき消された。

“ろっか”って、なんだろう…

黒いスーツに身を包んだ御影の屋敷の使用人と思われる人物が運転する大きな車で、【学園】へ向かう。
車窓に映るのは、美しい緑の木々。

御影の屋敷は、まるでおとぎ話に出てくるような森の中に忽然と現れるような存在で、湖に囲まれていた。
そんな場所から、翼はこれからどんな世界へ足を踏み入れるのだろう――少しだけ緊張が胸をよぎる。

そして、窓の外の世界はゆっくりと姿を変えていく。
深い森を抜けると、石畳の都市が視界に広がった。

西洋の町並みを思わせる景観。
けれど、その合間にそびえるのは近未来的な建造物。
古さと新しさが不思議な調和を保つその街は、【リアゾン】とはまったく違っていた。

ここが、【リデルガ】。

独自に発展した文明を、翼は初めて自分の目で見る。
あまりにも現実離れした光景に、思わず息をのむ。

「翼ちゃん、【リデルガ】に釘付けだ~」

窓の外に食い入るように視線を向けていると、真理愛がにこにこと笑いながら言った。

「そりゃそうだろう」

足を組み、肘掛けに肘を置いたまま、御影が淡々と口を開く。

「そんなに違うの?」
「行ってみたら分かるよ」
「ふーん」

二人の会話が耳に入っていても、翼の意識は映り変わる景色から離れなかった。
まさか自分が【リデルガ】に来る日が来るなんて――
過去の自分は、夢にすら思わなかった。

やがて、少し離れた丘の上に、ひときわ大きな建物が姿を現す。
まるで城のようにそびえ立つその姿に、翼は思わず声を漏らした。

「あれは?」
「あ! あれは」
「【学園】」

御影は視線を向けることなく、そう言った。

「もう! 私が言おうとしたのに!」
「…あれが、【学園】…?」
「そうだよ! あれが私たちが通う【学園】!」

昔、読んだおとぎ話に出てきた城みたいだ――。
翼は窓越しに【学園】を見つめる。

これから、自分はあそこに通う。
そう思っているはずなのに、どこか他人事のように感じてしまう。

この感覚は、いったい何なのだろう。






【学園】に着くなり、御影はひとりでどこかに行ってしまった。

「ごめんね~、翼ちゃん」

翼は思わずふるふると顔を横に揺らす。
そんな様子を見て、真理愛は優しく微笑んだ。

「じゃあ、まずは職員室に行こう!」

案内されて通されたのは、広くて活気のある部屋。
教師たちが忙しそうに動き回っている。

「先生ー! 藤堂《とうどう》先生ー!」

真理愛が扉からひょっこり顔を出して叫ぶと、藤堂はビクッと身体を震わせてこちらを振り返った。
翼と真理愛に気づくと、スタスタとこちらに歩み寄ってくる。

「明星《みょうじょう》…お前か」
「おはようございます!先生! 翼ちゃんを連れて来たよ!」

藤堂は翼をじっと見つめる。

「お前が、噂の…今日からお前の担任の藤堂(とうどう)(あずさ)だ。よろしくな」
伊崎(いさき)翼です、よろしくお願いします」

藤堂先生は長めの前髪と長い後ろ髪をひとつに結んでいた。

「翼ちゃんの苗字、初めて聞いたな〜」

翼も真理愛の苗字を初めて知ったと思ったが、口には出さず心の中で呟いた。

「さて、さっそくだが、俺は困っている」

両腕を胸の前で組み、藤堂先生はあからさまに困った顔をする。

「何々~? 何に困ってるの?」
「どっちに入れるか迷ってるんだ」
「あぁ~、一般科(いっぱんか)特化(とっか)ってこと?」
「そうそう、どうしようかな~ってね」

一般科? 特化科?
翼は少し戸惑う。

「この【学園】では、一般科と特化科の二つの科に分かれてるんだぁ〜。
一般科は普通の家柄の吸血種、特化科は貴族階級の家柄の吸血種が入る!」

「真理愛、よくできました! ぐっ〜!」

真理愛は満面の笑みで親指を立てる。

「わあ〜い!」

「というわけで、翼、どうする?」

さっそく呼び捨て…

「え、それ私に聞くんですか?」
「だって〜、もう俺わかんないし〜」

なんとも適当な教師だ。
藤堂という男は、どこか気だるげで、教師らしい堅苦しさもない。
その適当さが、少し緊張していた翼の心をほぐした。





翼の目の前には、大きな扉。横には藤堂が立っていた。

「じゃあ、行きますか」
「は、はい」

藤堂は翼の頭をポンっと撫でてニコッと笑い、扉を開ける。

「お~い、お前ら座れ~! 今日からお友達が増えるぞ~」

恐る恐る教室に足を踏み入れると、階段状に高くなった席が後ろまでずらりと並んでいる。
翼は思わず息を呑んだ。

「…ここが教室」

席には見覚えのある顔がちらほら。
その中には真理愛の姿もあった。
ニコッと笑い、手を振る真理愛。
予想通り、彼女も貴族階級の生徒だ。

予想的中。

「じゃあ、自己紹介どうぞ」
「伊崎翼です。よろしくお願いします」

藤堂が笑顔で言う。

「ということで、特化に仲間が増えました。皆仲良くするんだぞ~。席は特に決まってないから、真理愛の隣でも座ってろ」

「はい」

翼は真理愛に視線を移すと、彼女が『おいでおいで』と手招きしてくれる。
サッと真理愛の隣に座る。

「ふふっ、よかったね、翼ちゃん。これからいっぱい思い出作ろうね」

その笑顔を見て、翼の胸に懐かしい感覚が広がった。
どこか凜々に似ている、あの子の面影を思い出す。

元気にしているかな、凜々。

「うん」

小さく頷くと、隣からひょっこり顔を出したのは、真っ黒なストレートヘアを横でまとめ、三つ編みにした綺麗な女の子だった。

「こ…こんにちは」
「ぁ、えっと、こんにちは」
「あはは、かぐやったら緊張してるね~」

真理愛は笑いながら、黒髪の彼女を紹介する。

「この子は皐月(さつき)かぐや。特化クラスの数少ない女子のひとりだよ」

そう、この特化クラスは女子が圧倒的に少ない。そもそもクラスの人数自体も少ないのだ。

「人見知りするだけで、本当はお喋りさんなんだ。仲良くしてあげてね」
「うん。よろしくね、かぐやちゃん」
「っ…よろしくお願いしま…す」

かぐやは真っ赤になり、目をそらす。

「なに照れてるの~?かぐや~」
「だってぇ…真理愛ちゃん、翼さん、凄く綺麗だから…」

その言葉を聞いた真理愛は翼を見つめて、にっこり笑う。

「だよね~、羨ましい~」

そして教室中を見渡しながら、真理愛は少し真面目な口調になる。

「朝も言ったけど、吸血種は、容姿に恵まれてるほど純血に近いんだ。ほら、御影なんて純血だから、特に整った顔立ちでしょ?
だから、翼ちゃんのお父さんも、もしかしたら純血に近い人だったのかもね…」

確かに、御影は整った顔立ちをしている。というか…

「…純血?」

教室内で小声で呟いた翼に、藤堂が注意する。

「おおい、こら~!そこ、コソコソうるさいぞ~、俺の話を聞け~」
「ごめんなさ~い、翼ちゃんに教えてたの~」
「はいはい、もうちょっと静かにしなさいっ!」
「はあい!」

藤堂は再び黒板に向き、授業を始める。

こうして、翼の【リデルガ】での新しい生活が始まった。