暗闇だった。
暗く湿ったような空気。
窓からは月明かりが密かに部屋を照らす。
白い光に包まれて目を開けた御影の目線に飛び込んできたのは暗い部屋の奥から聞こえる鈍い音。
「……」
なんの音かは分からない。
バチンッバチンッ
硬い何かを柔らかい何かに叩きつけるような音。
そして
「…ひっ」
声が聞こえた。
何かを我慢するような音。
暗闇に目が慣れて来た御影は目を疑った。
そこには身体に鞭を何度も何度も叩きつけられている子どもの姿。
月明かりに金髪の髪が揺れる。
(…俺、か?)
「…お前は選ばれたのだろう」
低い声が部屋に響く。
その時御影の身体に力が入った。
手が震える…身体がこの声を覚えている。
月明かりが声の主を照らした。
(この声を、俺は知ってる…)
「お前は…次期当主だろう 黎影」
現当主 棘薔薇 影臣。
そして鞭で叩かれているのは黎影だった。
バチンッ……バチンッ……
鞭が振り下ろされるたび、空気が裂ける音がする。
回数を重ねるごとに、その音は容赦なく鋭さを増していった。
黎影の身体が跳ねる。
白い肌に赤が滲み、遅れて鈍い痛みの気配が部屋を満たしていく。
「……ごめ、んなさい……っ」
バチンッ!
「謝罪は不要だ。なぜ、こんな簡単なことも出来ない」
バチンッ!
「……っ、次は、必ず……」
バチンッ!
「“次”など要らぬ。結果だけだ」
バチンッ!
「……はっ、はい。父様」
バチンッ!
その痛々しい光景に、御影は思わず顔を背けた。
そして最後に一番大きな音がした。
バチンッッッッ!!
「…うぐっ!」
一瞬、空気が止まる。
御影は反射的にそちらを見た。
そこには、頬を打たれ床に崩れ落ちる黎影の姿があった。痛々しい姿に心が痛い。
すると扉の隙間から、金髪の頭が見えた。
幼い御影だった。
「次はない。忘れるな」
そう言葉を残して、現当主は去っていく。
慌てて幼い御影も廊下の物陰へと隠れ、影臣の気配が完全に消えたのを確認してから部屋へ入った。
「……黎影、大丈夫?」
「………」
返事はない。
「……黎影?」
その時、黎影がゆっくりと上体を起こした。
「……ははっ」
小さな笑いだった。
そして次の瞬間。
「はははっ……はは、ははははは」
空気を切り裂くように、笑い声が膨れ上がる。
「……え?」
御影の声は震えていた。
「どうしたの、黎影!黎影!」
何度呼んでも、その声は届かない。
黎影は笑いながら、ふらりと立ち上がると、そのまま部屋を出ていった。
残された御影は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
理解もできず、止めることもできず、ただ“何かが壊れた音”だけが胸に残っていた。
(……苦しい)
壊れていく双子の兄を、ただ近くで見ていた“過去の自分”。
そのときの不安も恐怖も、本来なら自分のもののはずなのになぜか遠い場所の出来事みたいに感じてしまう。
そして、再び光が御影を包む。
目を開けると、そこには少し成長した双子の姿があった。
黎影は、明らかに変わっていた。
独り言のように何かを呟き続ける日が増え、時折、部屋の中で突然叫ぶ。
その声に意味はなかった。
ただ、何かに追い立てられているような…そんな音だった。
御影が名前を呼んでも、黎影は振り向かない。
目が合っても、その奥には“御影”は映っていなかった。
もうその頃には、御影の声は黎影に届かなくなっていた。
学園では御影が日常を過ごし、一方で黎影は次期当主として、より閉ざされた教育の中へと押し込まれていた。
そして、現当主による教育は、次第に過酷さを増していった。
御影は、いつの間にか黎影に近づくことすら避けるようになっていた。
そんなある日。
黎影は、ひとりで何かの本を必死に読んでいた。
その表紙には――『薔薇詰みの儀式』。
御影の胸に、理由の分からない不安が走る。
「ねえ!」
背後から声を掛けられ、御影は振り向いた。
「また会ったわね。何年振りかしら?」
そこに立っていたのは千影だった。
月明かりの中、柔らかく笑っている。
けれどその視線は、確かに“御影”を捉えていた。
(……見えている?)
喉の奥が、ひくりと引きつる。
「……やっぱり話せないのね」
千影は少し眉を下げると、ぐい、と距離を詰めた。
逃げ場を塞ぐように、まっすぐ覗き込んでくる。
「……変ね」
じっと見つめたまま、小さく呟く。
「あなた、全然変わってないわ」
間を置いて、ふっと笑う。
「……あの時のまま」
(……まずい)
御影は直感的にそう思った。
距離を取ろうと、半歩だけ下がる。
「……ふふ、まあいいわ」
千影は気にした様子もなく、くすりと笑った。
「あなたが何者でもどうでもいいの」
軽い声。
「少しだけ、弟たちの話を聞いてくれないかしら?」
逃げ道は、なかった。
御影は何も言えないまま、その場に立つ。
千影は嬉しそうに話し始めた。
「黎影はね、すごく頭がいいの」
「御影もね、本当に可愛くて――」
次から次へと、言葉が溢れる。
誇らしげで、どこまでも優しい声だった。
「……大切なのよ、あの子たち」
その一言だけが、少しだけ深く落ちる。
御影は、わずかに視線を逸らした。
――居心地が悪い。
目の前で語られているのは、確かに“自分たち”なのに。
どこか、他人の話を聞かされているような感覚だった。
ほんの少しだけ、頬が熱くなる。
「……だからね」
千影が、ふっと笑った。
「私が終わらせるわ」
――その瞬間。
白い光が、視界を塗り潰した。
次に目を開けたとき。
そこには、赤があった。
ビチャッ。
遅れて、音が追いつく。
足元。
床。
飛び散った、赤。
鉄の匂いが、喉に絡みつく。
「……っ」
暗い部屋の中、ふたり分の金色が揺れていた。
ひとつは、刃物を握る手。
もうひとつは――
「……あぁぁぁああ」
掠れた悲鳴。
肩口から、血が溢れている。
「御影……!」
自分の名前が、やけに遠い。
「黎影!」
バンッ、と扉が開く。
千影の声だった。
ポタ、ポタ、と。
刃先から血が滴り落ちる。
「……なに、してるの? 黎影」
静かな声。
その温度のなさが、逆に冷たかった。
「……はぁ、……はぁ」
荒い呼吸だけが、部屋に残る。
「…僕が、次期当主だ…」
「そうよ、何言って――」
言葉を遮るように、黎影は刃を持ち上げた。
その切っ先が、千影へ向く。
「このままじゃ……僕は当主になれない!!」
「……黎影」
荒い呼吸。
焦点の合わない瞳。
「御影を殺さないと……」
揺らいだ身体。
「僕は、“ひとり”になれない!!」
「……は?」
千影の声が、わずかに揺れる。
「何言ってるの、黎影……そんなことしなくても、あなたは」
「違う!!」
叫びが、空気を裂いた。
「姉様は知らないの!?」
その目が、見開かれる。
「この家の仕来り……!」
「……仕来り?」
「ずっとそうしてきたんだよ!!」
震える声。
けれど、止まらない。
「なんで……棘薔薇家に“必ず双子が生まれる”と思う?」
その答えに、誰も言葉を返せなかった。
空気が、張り詰める。
そして黎影が、口を開いた。
「選ぶためだよ」
「選ぶため……?」
「より良い血を選ぶ。そしてやっと“ひとり”になれる」
御影の喉から、かすれた痛みの声が漏れる。
「そうしないと当主にはなれない……能力は発現しない!」
黎影の瞳に、涙が滲んでいた。
「そうしないと……ダメなんだ……だから……」
ゆっくりと、振り返る。
刃先の向こう。
血に濡れ、痛みに歪む御影。
次の瞬間。
「……え」
間の抜けた声が、静かに落ちた。
刃は、振り下ろされていた。
けれど刺さっていたのは、御影ではなかった。
「……っ」
千影の身体が、わずかに揺れる。
腹部から、ゆっくりと赤が、溢れた。
ぽた、ぽた、と。
音を立てて床へ落ちていく。
時間が、止まったみたいだった。
「……なに、して……」
黎影の声は、かすれていた。
視線は、千影へ向いたまま。
理解が追いつかないまま、それでも“現実”だけがそこにある。
「……あ、ね……さま……?」
黎影の手が、震える。
握っている刃物が、かすかに音を立てる。
「……ちが……」
息が乱れる。
目の前の光景を、自分でも理解できていない顔。
「……違う、僕は……」
言葉が崩れる。
その間にも、血は止まらない。
千影の足元に、ゆっくりと広がっていく。
鉄の匂いが、濃くなる。
御影は、ただそれを見ていた。
身体が、動かない。
声も、出ない。
「はぁ……はぁ……ぁああああ!!!」
叫び声を上げたのは、御影だった。
肩から血を流しながら、それでも倒れた千影の元へと這い寄る。
血に濡れた床に手をつき、その背中を揺さぶる。
「姉様……!姉様ぁあああ!!」
声が裂ける。
涙で視界が滲む。
震える手で、千影の身体を抱き寄せる。
その温もりが、急速に失われていくのが分かった。
「……なんで……なんで……」
言葉にならない声が、喉の奥で崩れる。
そのすぐ後ろで
「……あぁ……でも、殺さなきゃ……」
ぽつり、と。
現実とは切り離されたような声が落ちる。
「……御影を、殺さなきゃ……」
黎影だった。
焦点の合わない目で、何かに縛られるように呟き続けている。
その手が、ゆっくりと持ち上がる。
刃物が、御影へと向けられる。
「……っ」
振り下ろされる。
その瞬間。
――カラン。
乾いた音が、床に落ちた。
「……え」
御影の呼吸が、止まる。
視線の先 刃は、黎影の腹部に深く突き刺さっていた。
「……なん、で……」
掠れた声が、落ちる。
次の瞬間。
力が抜けたように、黎影の身体が崩れた。
ドサリ、と。
重い音だけが、やけに鮮明に響く。
思考が、追いつかない。
理解が、できない。
ただ気づいたときには、そうなっていた。
その現実だけが、目の前にある。
――ぬるり。
指先に、何かが触れた。
「……っ」
反射的に、息が荒くなる。
生暖かい。
粘つく感触。
視線を落とすと血だった。
広がっていく赤。
倒れている、姉と兄。
「……なんで……」
もう一度、同じ言葉が零れる。
答えは、どこにもない。
何が起きたのかも。
なぜこうなったのかも。
何ひとつ、分からないまま視界が、ぐらりと揺れた。
音が遠のく。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
そして御影は、その場に崩れ落ちた。
月明かりが、三人を静かに照らしていた。
赤黒い血が床に広がり、鉄の匂いが部屋を満たしていく。
音は、もうない。
ただそこに“終わり”だけが残っていた。
未来の御影は、動けなかった。
ただ、その光景の中に立ち尽くしている。
(……これが)
胸の奥で、何かが沈む。
(……俺の、失った記憶)
悲惨な夜。
黎影が起こしたこと。
いや…この家が、起こさせたこと。
追い詰められていった兄。
そのすべてが、今ようやく繋がる。
やがて廊下の奥から、足音が近づいてきた。
ざわめき。
戸惑い。
遅れて、誰かの叫び声。
扉が開き入ってきたのは使用人たちだった。
血に濡れた光景を見た瞬間、空気が凍りつく。
「……っ!」
誰かが息を呑む。
次々と人がなだれ込み、場は一気に騒然となった。
その中に
「御影!」
幼い声が響く。
琉伽だった。
そして少し遅れて弦里も姿を表した。
混乱の中で、御影の身体が持ち上げられる。
かすかに残っている呼吸。
まだ、終わっていない命。
その瞬間琉伽の瞳が、揺れた。
現当主も駆けつけ琉伽に記憶を消すように命令した。
「……ごめん」
誰にも聞こえないほどの声。
御影の額に、そっと触れた。
次の瞬間…記憶が、途切れた。
◇
「……影!御影!」
誰かの声が、暗闇を引き裂いた。
息を吸う。
鉄の匂いは…もう、ない。
意識が、ゆっくりと現実へ引き戻されていく。
ゆっくりと瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは、眉間に皺を寄せた六花の面々。
その全員が、御影を見下ろしていた。
「御影!」
切羽詰まった声。
視線を向けると、そこには今にも崩れそうな顔をした琉伽がいた。
ぼんやりとする頭を押さえ、御影はゆっくりと上体を起こす。
「……っ」
ズキン、と。
頭の奥を鈍い痛みが貫いた。
「大丈夫か……?」
弦里の声が、静かに落ちる。
御影は小さく頷いた。
けれど、まだ思考はうまくまとまらない。
「……思い出した」
ぽつり、と零れる。
その一言で、空気が変わった。
御影はすべてを、思い出していた。
「……御、御影……記憶……」
琉伽が、恐る恐る言葉を探す。
だが、その声に応えることなく。
御影はベッドから静かに降りた。
「おい、御影 まだ身体が……」
愁の制止も、届かない。
乱れた服を整え、そのまま扉へ向かう。
足取りに迷いはなかった。
「……どこに行く?」
庵の低い声が、部屋に落ちる。
「…………」
御影は答えない。
振り返ることもなく、ただドアノブに手をかけた。
「蹴りをつけてくる」
それだけを残して。
扉が、静かに閉まる。
取り残された空間に、誰も言葉を落とさなかった。
ただ先ほどまでそこにいたはずの御影が、まるで別人のように思えた。
◇
ゴクンッ。
喉を鳴らす音が、やけに大きく響いた。
暗い部屋の中。
黎影は凜々の首元からゆっくりと唇を離す。
口元に残った血を、手の甲で拭う。
ぐったりと力の抜けた凜々は、そのまま動かない。
黎影はソファの下へと腰を落とし、窓の向こうに浮かぶ月を見上げた。
あの夜も。
こんな月だった。
腹の奥が、鈍く疼く。
「……」
あのときの感触が、蘇る。
手の中の刃。
振り下ろしたはずの軌道。
そして自分の中に、沈み込んだ冷たい感触。
「……なんで」
誰に向けたのかも分からない声が、零れる。
月を見たまま、呟いた。
「……御影」
わずかに、息が揺れる。
「……君は、最初から……」
言葉が、途切れる。
「……僕じゃ、なかったのか」
かすれた声だけが、部屋に残った。



