六花の薔薇 ―refrain―


「翼を攫ったのは俺の双子の兄だ」

六花専用室に御影の声が響いた。
愁の眉がピクリと動く。

「…は、」

一瞬。
本当に、一瞬だけ。
誰も理解できなかった。

「……は?」

最初に声を漏らしたのは愁だった。
けれど、それすらも“理解”ではなく、“音”に近い。

「ちょっと待て」

庵の声が低く落ちる。

「今、なんて言った?」

御影は視線を上げないまま、同じ速度で繰り返す。

「俺の双子の兄が、翼を攫った」

「……御影」

琉伽の声が震える。
それは制止というより、確認に近かった。

「…御影が双子で……その兄が……?」

壱夜の声がかすかに揺れる。

「……なんで、翼を?」

問いは御影に向けられたまま落ちる。
だが返る言葉はない。

誰も動かない。
誰も目を合わせない。

ただ、空気だけが重く沈んでいく。
その沈黙の中で…

「……ダンピールだから」

陸玖の声が、静かに落ちた。
何処か全員が“理解してしまった気がした”。
翼はダンピール、類い稀ない唯一の存在。
だからこそ――狙われる理由にはなり得る、と。

「……っ」

愁が眉をひそめる。
陸玖は視線を動かさないまま続ける。

「それ以外に理由ある?」

それ以外に理由なんてなかった。

「……ふー……」

全員が押し黙る中、御影が俯いたままゆっくりと息を吐く。
まるで、自分の中の何かを必死に押さえ込んでいるように。

「……御影の兄なんだよな。双子の……」

愁の声は恐る恐るだった。
その言葉すら、どこか現実から浮いている。

「何で、今まで俺らは見たことがないんだ?存在だって知らない。何で……」

「消されたから」

御影は即答した。

「……消された?」

壱夜が眉をひそめる。

「それってどういう――」

御影はその瞬間、静かに立ち上がった。
椅子が小さく軋む音だけが、やけに大きく響く。

そして――

「……琉伽」

「……御影」

視線が交わる。

御影は琉伽だけを見ていた。
他の誰も映していないような、真っ直ぐすぎる視線。

愁も壱夜も、庵も言葉を失う。
海偉と陸玖は、その場の“空気の重さ”にただ黙っていた。

弦里が慌てて立ち上がる。

「……御影、待て、まだ――」

言葉が届く前に。
すぅ、と御影の瞳が赤く光った。

「……御、影?」

琉伽の呼吸が止まる。

その赤は、理性ではない。
“何かを開けてはいけない場所”が開いた色だった。

御影はゆっくりと琉伽に手を伸ばす。
頬に触れた瞬間、空気が一段冷える。

そして、誰にも聞こえないほどの声で――

「……返せ」

「……っ、う」

その瞬間だった。
琉伽の身体が大きく揺れる。

「……っ、あ……!」

頭を押さえ、膝が折れる。
まるで“何かを引き剥がされる”ような感覚。

「……はぁ……っ、くっ……!」

視界が揺れる。
思考が崩れる。
奥に積み上げていた“何か”が、一気に引き抜かれていく。

琉伽は理解した。

――奪われている。

御影に、強制的に“記憶そのもの”を引き抜かれている。

「……御……影……」

苦しみの中で顔を上げる。
その視線の先で、御影はほんの一瞬だけ目を細めた。

そして――

ふっと、笑った。

次の瞬間。

御影の身体が、糸が切れたように崩れ落ちた。

「――御影!!!!」

弦里の声が割れる。

床に倒れた御影は、動かない。
呼吸の気配すら、薄い。

「……御、影?」

琉伽の手が震える。

さっきまで確かに“誰かを引き剥がしていた側”の存在が、今は逆に何もないように倒れている。

「……おい、マジかよ……」

愁の声も掠れる。

誰も近づけない。
近づいていいのかも分からない。

ただ、そこにあるのは――

「動かない御影」だけだった。







鳥の声が聞こえる。
風が頬をかすめる。

ただ暖かくて、このまま眠っていたいくらい心地がいい。

「御影ー!!!!」

その声で、一気に意識が引き戻された。

御影はガバッと上体を起こす。

「……っ」

呼吸が荒い。
心臓がまだ現実に追いついていない。

そこは野原だった。
見覚えのある場所、現当主の屋敷の裏庭。

(……ここは……)

会議で何度か来たことがある場所だ。

「御影ー!」

再び名前が呼ばれる。
反射的に振り返る。

そこにいたのは、金髪の幼い自分だった。

「……」

違う。
御影と似ているが、明らかに“別の存在”。

(黎影……)

幼い黎影は御影の横をすり抜けるように走り去っていく。

「御影!見つけた!」

声の先へ視線を向けると――
幼い御影が、しゃがみ込んで何かを見ていた。
その姿はあまりにも自然で、あまりにも“昔の自分”だった。

「……過去」

御影の口から、かすれた声が漏れる。
過去に来ている。
そう理解した瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

(琉伽から……記憶を……)

だが、その思考は途中で途切れる。
記憶は“見せる”ものではない。
これは“戻ってきてしまったもの”だった。

幼いふたりは楽しそうに何か話していた。
ただふたり、笑顔で…。

あんな笑顔、今の御影にはなかった。

「……あんな風に、笑えてたのか」

独り言だった。

胸の奥が、妙にざわつく。
羨ましいのか、懐かしいのか、それすら分からない。

御影はただ、その光景を見つめていた。

その時だった。

「……誰?」

背後から声がした。
御影ははっとして振り返る。

そこにいたのは――

金髪の長い髪。緩やかなウェーブ。
柔らかい雰囲気の少女だった。

「……」

その顔に、御影は見覚えがあった。

(……琉伽から、少しだけ記憶を返された時……)

確かに、一瞬だけ“目が合った”少女。

「……あ」

声が出ない。

これは過去のはずだ。
この場所に“今の自分”がいるはずがない。

なのに少女は、まっすぐ御影を見ていた。
まるで、“そこにいることが当然”のように。

御影の呼吸が浅くなる。

(見えている……?)

いや、それよりも。

(あの時も……本当に、見えていたのか?)

記憶の中の違和感が、今になって輪郭を持ち始める。
過去の世界のはずなのにどこかが、決定的におかしい。

「……っ」

声が出ない。
何を話せばいいのか分からない。
そもそも、ここに“喋っていい存在”としていていいのかすら曖昧だった。

「……喋れない?」

大きな丸い瞳が、まっすぐ御影を捉える。
疑うでもなく、怖がるでもなく、ただ自然に。

御影は喉の奥が詰まるのを感じた。

(……なんで)

ここは過去のはずだ。
なのにこの少女は、あまりにも“今”を見ている。

「私はねー」

少女は少しだけ首をかしげて、ふわりと笑った。

「千影だよ」

その言葉は、軽い。
あまりにも軽くて逆に、胸の奥に沈んだ。

ただ純粋に、御影へ笑いかける。
何の影もない笑顔。
それが、妙に眩しかった。

すると、目の前が白く歪んだ。
眩しくて、御影は咄嗟に目を細める。
光は一瞬で膨張し、視界を飲み込んだ。
耐えられないほどの白さ。

(……っ)

思わず目を閉じる。
その瞬間…身体が、ふわりと浮いた。

落下でも浮遊でもない。
“境界が外れる”ような感覚だった。

そして。
再び目を開けた時。

「……」

御影は、そこに立っていた。
さっきまでの場所とは、明らかに違う“どこか”。

空気の質が違う。
音の距離が違う。
時間の流れさえ、微妙に歪んでいる。

(……ここは)

言葉にしようとした瞬間、喉の奥が引っかかる。

――記憶の中のはずなのに。
――記憶じゃない“場所”の匂いがする。

目の前には、ベッドと机が置かれていた。
誰かの部屋のようだった。

御影がそう思った瞬間ドタドタッ、と廊下から足音が響いた。

バンッ!!

勢いよく扉が開く。
そこに飛び込んできたのは、小さな影だった。
そしてそのまま、部屋に入るなり扉を乱暴に閉める。
バンッ、と鈍い音が響き、扉の前でそのまま崩れ落ちた。

「うぅぅ……ひっく……う〜……」

泣いていた。
必死に堪えようとしているのに、堪えきれていない泣き方だった。

(……誰だ)

御影は息を飲む。
なのに、視線を逸らせない。
この空間は“記憶”のはずなのに、目の前の光景だけが妙に“今”の温度を持っている。

そして涙を拭おうと少し顔を上げた。

「……」

(俺だ)

そこにいたのは、幼い自分だった。
初等部くらいの、まだ幼い“御影”。

「……なんで、なんで……黎影の、バカ……うぅ〜」

何があったのか分からない。
ただ、胸の奥がざわつく。
御影は思わず声をかけそうになる。

その時だった。

コンコン……

控えめなノック音。

「……御影」

扉の向こうから、黎影の声がした。

「……ごめん、御影。出てきて」

「やだぁ〜! 黎影なんて知らない!」

「御影、ごめん…ってぇ」

「僕っ、知らなかった! 聞いてない!」

「うん、ごめんね。伝え忘れてた」

「伝え忘れてたじゃない! 僕たちふたりでひとりなのに……!」

その言葉が落ちた瞬間。
御影の胸の奥が、わずかに冷えた。

(……ふたりで、ひとり)

意味は分かる。
言葉としては知っている。

なのに――

その言葉だけが、異様に“引っかかる”。
まるで、触れてはいけないものに触れたような感覚。
御影は無意識に息を止めていた。

(これは……ただの喧嘩じゃない)

言葉の奥に、何か別の“前提”がある。
そしてそれがひどく、嫌な予感を連れてくる。

「僕たちふたりで御影を演じてるのに…ひっく」

その瞬間。
御影の呼吸が、止まった。

(……演じてる?)

“ふたりでひとり”ではない。
“ふたりで御影”を――演じている?
意味を理解しようとした瞬間、頭の奥がきしむように痛む。

(何だ、それ)

記憶のはずなのに、どこか“見てはいけない前提”に触れたような感覚だけが残る。
すると廊下がまた騒がしくなる。

「黎影そこどいて。もう!御影!出てきなさい!」

「千影お姉ちゃん」

黎影が扉の前で、控えめに千影の名を呼ぶ。

ドンドンッッ!!

「御影!!開けなさい!」

御影はびくりと肩を震わせると、ゆっくりと扉を開けた。

(……やばい)

現代の御影は反射的にそう思い、咄嗟に家具の影へ身を隠す。
扉の隙間から、千影と黎影が流れ込むように部屋へ入ってきた。

「また、御影泣いてるの?」

千影の声は軽い。

「だって、黎影が教えてくれなかったから! 今日発表があるなんて知らなくて!」

「……だから、ごめんって」

黎影の声は小さい。

「はいはい、もう分かったわ!」

パン、パン、と軽く手を叩く音。
千影は黎影に向き直る。

「黎影! あなたは二日おきに入れ替わって学園に通っているのだから、しっかり情報は共有しなさい!」

(……入れ替わる?)

御影の思考が一瞬だけ止まる。
そして千影は今度は御影へと視線を向けた。

「御影! 御影は将来、黎影とこの国を支えるのだから、臨機応変に立ち回れる力を身につけなさい!分かった!?」

その言葉は叱責というより、当然の“役割の確認”だった。
まるでそれが、この世界の前提であるかのように。

(ふたりでひとり…演じる…入れ替わる…)

御影はゾッとした。
分かってしまった。

(……そういうことか)

棘薔薇家の双子は、“ひとりの人間”として扱われている。
二日おきに入れ替わり、同じ名前を名乗り、同じ存在として学園に通う。

存在しているのは、最初から“御影”ひとりだけ。
棘薔薇家の次期後継者は表向き、双子ではない。

ひとりだ。

御影は家具に背を預けたまま、天井を仰いだ。

「……だから……」

喉の奥が乾く。

(……だから、愁も壱夜も庵も)

自分が双子だという“前提”を、知らなかった理由。
記憶を消されたのではない。

最初から“そういう存在として扱われていない”。

御影はようやく気づく。
愁も、壱夜も、庵も。
御影と同じように、黎影の記憶を「奪われた」のではない。
最初から、存在しないものとして認識していた。

(……最初から、ひとりだったことになってる)

胸の奥が冷える。
理解した瞬間、身体中の血の気が引いたのが分かった。

「はい! 仲直り!」

千影はそう言って、御影と黎影の手を強引に取ると、無理やり握らせた。

「もう終わり!」

その声は明るいのに、有無を言わせない。
御影はまだ涙の跡を残したまま。
黎影はどこか安堵したように息を吐いていた。
そして三人は、そのまま手を繋いで部屋を出ていく。
扉が閉まる。

ひとり残されたのは、現代の御影だけだった。

(……)

違和感は、ずっとあった。

少しだけ戻された記憶の中でも。
双子だと“思い出した”のに、黎影という存在を完全には切り離せなかった。

鏡写しのように似すぎたふたり。
「ふたりでひとり」を成立させるには、あまりにも自然だった。

「……あぁ、そっか」

御影は小さく呟く。

(俺たちは最初から)

将来のために、“ひとり”として扱われるよう設計されていた。
ふたりである必要はない。

むしろ邪魔になるのは、“もうひとりの方”だ。

(……最初から、決まってたんだ)

どちらを残し、どちらを切り捨てるか。
ただそれだけを、ずっと静かに進められてきた。

ドンッ!!

御影は感情任せに拳を床へ叩きつけた。
鈍い痛みが走る。

(……これが)

棘薔薇家の“秘密”。
行き場のない感情を、ただ拳に押し込める。

「……まだだ」

御影は低く呟いた。

終わったはずの思考が、まだ奥で脈打っている。
まだ何かがある。
まだ、“決まっていない何か”がある。

そう確信した瞬間、御影は再び白い光の中へと身を沈めた。