目の前に、赤が広がった。
飛び散ったのか、流れているのかも分からない。
ただ“赤い”ということだけが、頭に焼きついて離れなかった。
スクリーンの向こうで起きているはずなのに、
それはどこか、自分のすぐ隣で起きているみたいで。
息が、うまく吸えない。
気づけば、強く抱き締められていた。
刻の腕が、痛いくらいに回されていてその身体が、震えていた。
……それだけは、はっきり覚えている。
ギィ、と。
控えめに扉の開く音がした。
その音だけが、やけに大きく響く。
「……夜々」
布団越しに、刻の声が届く。
聞こえているのに、返事をする気にはなれなかった。
顔まで潜り込んだまま、息が少しだけ苦しくなる。
それでも――出たくなかった。
「……夜々、大丈夫か」
さっきよりも低い声。
押さえているのに、滲むような戸惑いが混じっている。
返事をしない夜々に、沈黙が落ちる。
「……ごめんな」
小さな声。
「……俺が……」
言葉が、途切れる。
「……俺がもっとちゃんとしてれば」
震える声だった。
布団の中で、指先がぎゅっと握られる。
(……違う)
そう思ったのに、声にならない。
後悔の言葉が、すぐ近くで落ちてくる。
夜々は、ゆっくりと布団を捲った。
そこにはベットの端に控えめに腰をかける刻の小さな背中があった。
夜々はゆっくり手を伸ばす。
「…でも」
ぴくり、と伸ばす手が止まる。
「……どうしたら、よかったかなあ」
刻が弱音を吐いたのは、この日だけだった。
それから。
珀は、ずっとあの屋敷にいる。
“鬼ごっこ”という名の、吸血行為。
夜々は、その言葉の意味を理解したくなかった。
あの屋敷が何なのか。
どこから人間種を連れてきているのか。
刻は何度も両親に詰め寄った。
けれどふたりの口は、一度も開かなかった。
そして。
気づけば、二年が過ぎていた。
その時間の重さを、夜々は数えないようにしていた。
――ある日。
夕食を、刻とふたりで食べていた時だった。
ブーッ、ブーッ。
テーブルの上で、携帯が震える。
表示された名前に、手が止まる。
「……母さん」
刻は通話ボタンをタップした。
「……はい」
『――――』
返事はない。
「……もしもし?」
沈黙。
その奥で、かすかに ザッ……ザッ……と何かを引きずるような音がした。
「母さん?」
『――――』
ブツッ。
通話が、切れた。
「………」
耳に残る、さっきのノイズ。
胸の奥が、ざわつく。
理由は分からないのに、落ち着かない。
「……夜々、ちょっと屋敷に行ってくる」
刻が立ち上がる。
迷いのない動きだった。
「……私も行く」
即答だった。
「駄目だ」
間髪入れずに返ってくる。
「何かあったかもしれない」
低い声。
それは拒否というより――遮断だった。
「でも」
一歩、踏み出す。
「夜々」
名前だけで、止められる。
その一言に、刻の焦りが滲んでいた。
「……私の能力なら」
目を逸らさずに言う。
「すぐに屋敷に飛べる…何かあったなら、尚更」
沈黙。
刻の視線が、揺れる。
守りたい。でも、止めきれない。
その間で、ほんの一瞬だけ迷って――
「……分かった」
刻は小さく、息を吐いた。
夜々は両手を目の前に掲げる。
ゆっくりと、円を描くように片手を動かした。
その軌跡をなぞるように…空間が、わずかに歪む。
やがて、そこに“円”が浮かび上がった。
鏡みたいに滑らかなはずなのに、どこか揺れている。
その向こうに映っているのは、屋敷の一角。
刻に合図をして夜々が、一歩踏み出す。
境界に触れた瞬間、水面に沈むみたいに、身体が“抜けた”。
「……っ」
一瞬だけ、感覚が消える。
そのまま――向こう側へ。
刻も続く。
ふたりの姿は、音もなく消えた。
屋敷に入った瞬間
「……」
空気が、違った。
物音が、ない。
いつもならどこかで響いているはずの足音も、悲鳴も、気配も――何もない。
静かすぎる。
耳が、痛くなるほどに。
「……今の時間なら」
刻が小さく呟く。
「やってるはずだろ」
鬼ごっこが…。
夜々は何も答えられないでいた。
ただ、嫌な予感だけが膨らんでいく。
ふたりは顔を見合わせることなく、ゆっくりと歩き出した。
向かう先は――スクリーンの部屋。
足音が、やけに響く。
何も起きないまま、扉の前に立ち扉を開けた。
軋む音だけが、やけに大きく響いた。
部屋の中。
スクリーンが、ついていた。
――なのに。
「……あれ?」
夜々の声が、やけに軽く響いた。
刻も、言葉を失う。
スクリーンには何も映っていなかった。
ただ誰もいない部屋が映し出されている。
スクリーンが壊れているわけでもない。
ただ、“そこにあるはずのものだけが無い”。
「……なんだ、これ」
ベチャ……ベチャ……
その時湿った音が、廊下の奥から近づいてくる。
「……」
ふたりの視線が、扉へ向く。
音が、止まる。
――目の前で。
ギィィ……
ゆっくりと、扉が開いた。
隙間の向こうに、何かが立っている。
暗くて、よく見えない。
けれど ぽたり、と。
赤いものが、床に落ちた。
「……っ」
その一滴が、やけに鮮明に見えた。
扉が、さらに開く。
そして姿が、露わになった。
「……珀……」
刻の声が、掠れる。
「……珀、お兄ちゃん」
そこにいたのは…血まみれの、珀だった。
「あはっ……はは」
軽い笑い声。
けれどその足取りは、重い。
ズル……
何かを、引きずる音。
ズル、ズル……
床を擦る、湿った音。
「……」
夜々の視線が、ゆっくりと足元へ落ちる。
何かが、床に触れている。
布のような。
けれど…色が、違う。
「……っ」
赤い。
「……まさか」
刻の声が、低くなる。
珀が一歩、前に出る。
引きずられていた“それ”が、完全に部屋へ入る。
――顔が、見えた。
「……母、さん?」
言葉が、遅れて出る。
理解が、追いつかないまま。
「……っ!」
夜々の喉が詰まる。
「……何してんだよ、珀」
刻の声は低い。
けれど、震えていた。
その問いに珀は、ケラケラと笑い出した。
「…ふふ、はっ…美味しかったよ」
珀は一言呟いて刻と夜々に向けて笑った。
その姿に背筋が粟立った。
空気が、止まる。
何を言われたのか理解が、一瞬遅れる。
「……っ」
夜々の喉が引き攣る。
刻の目が、母の方へ落ちる。
血。
動かない身体。
そして珀の言葉。
「……珀」
低い声。
「……お前」
言葉が、続かない。
その瞬間…珀の口元が、ぐにゃりと歪んだ。
完全に能力に飲まれている。
そして珀は地面を蹴ってふたりに飛びかかる。
刻は夜々を抱き抱え珀を避ける。
次の瞬間。
――視界から、消えた。
「っ!?」
気づいた時には、目の前にいた。
そして珀は大きな牙をふたりに向けた。
「はーい、ストップ」
その声が落ちた瞬間、珀の動きがぴたりと止まった。
牙が、あと数センチの位置で止まる。
「……誰、だ」
その声が落ちた瞬間。
――もう、そこにいた。
珀の隣。
さっきまで、何もなかったはずの場所に。
「兄妹まで殺るのー?珀くーん」
軽い声でぽん、と肩に手が置かれる。
それだけでさっきまで凶暴だった珀が、嘘みたいに静かになった。
金髪の髪に整った容姿。
彼がにやりと笑う。
「こんにちは、会いたかったよ」
その言葉が、やけに近くで響いた。
逃げなきゃいけないのに身体が、動かない。
息が、浅くなる。
視線を逸らしたら、終わる気がした。
――それが、黎影だった。
「ねえ、知ってる?」
軽い声。
「君たちの家」
くす、と笑う。
「人間、売ってるんだよ」
「……は?」
理解が、追いつかない。
何を言ってる?
「“人間種”ってやつ」
楽しそうに続ける。
「育てて、選んで、売るの」
まるで、当たり前みたいに。
「上の人たち、好きなんだよねえ」
「……やめろ」
刻の声が低くなる。
「“狩りごっこ”とか」
そしてまたにやりと笑う。
「鬼ごっこ、とかさ」
夜々の呼吸が止まる。
「……っ」
「珀くんのやつも、僕の案」
にこり、と笑う。
「いいでしょ?」
「ふざ、けんな!お前!」
刻は黎影の首元を掴んだ。
夜々は口元を手で被った。
大好きだった家族の正体は人を家畜のように扱う道理のない人だった。
ボタボタと涙が止まらない。
あれだけ問いただしても一言も話さない訳だ。
「泣かないでいーよ」
くす、と笑う。
「これからは、君たちがやるんだから」
「……は?」
刻の手に力がこもる。
「え?」
夜々の声が、震える。
黎影は、楽しそうに首を傾げた。
「だってさ」
軽い声。
「もういないでしょ?」
「………」
「君たちの“親”」
空気が、凍る。
「……っ」
言葉の意味が、遅れて刺さる。
「だから」
にこり、と笑う。
「次は、君たち」
「出、来る訳ねーだろ!!!こんな事!」
「出来るよ」
黎影は即答した。
一切、迷いがない。
「だって――」
くす、と笑う。
「もう半分、やってたじゃん」
「…半、分?」
「うん、鬼ごっこの事見て見ぬフリをしてそのままにしてた」
「…それは…」
「それも立派な犯罪だよ?この状態の珀くん外に出したらどうなる?それに地下に匿ってる人間種を解放したらそれこそ罪が暴かれて重罪人だよ?」
「…地下?何のことだよ…」
黎影は少し首を傾げる。
「え、知らないの?」
まるで“常識”みたいに言う。
「ここ、地下あるよ?人間種、いっぱい」
――息が止まる。
ゾワっとした。
こな足の下に沢山の人間種がいる。
夜々はその事実に吐きそうになる。
「顧客も沢山いるんだ〜、今さら辞められないよ」
その声が耳にクリアに聞こえた。
時が止まったようだった。
これから自分たちはどうなるのか…この家の…赤羽家の罪は誰のものなのか…そんな考えても出てこない答えを探した。
黎影は、楽しそうでも悲しそうでもない顔をしていた。
ただ、当然のことを並べ終えた人間の顔だった。
「で?どうする?」
「…どうするって… そんなの……今さら言われて、はいそうですかってなるわけねぇだろ」
黎影は、ほんの少しだけ目を細めた。
「だよね〜」
否定しない。
その態度が余計に腹立たしい。
黎影は刻の手首を軽く指で叩いた。
「まず、この人」
聞き覚えのある名前が落ちる。
刻の眉がぴくりと動く。
「次、この人」
また一つ。
「あと、この人も」
軽い声。
まるで買い物リストみたいに。
それはどれも聞いたことがある有名な名前ばかりだった。
「この人達、みーんな顧客だよ」
それでもお前はやらないのか…というような顔で笑った。
刻が低く吐き捨てる。
「……ふざけてんのか」
黎影は笑った。
「ふざけてないよ。ねっ?どうする?」
有名人ばかりの顧客。
代々引き継いでる赤羽家のしきたり。
それをやらないと突き返すのは刻も夜々も今後どうなるか分からない。
生きていられるのか…。
刻は思った。自分だけなら何とか逃げることも出来るかもしれない。でも夜々は…?
こんなまだ幼い彼女は…。
刻は、息を吐いた。
長く。
一度だけ、夜々を見た。
その目が揺れる。
「……刻お兄ちゃん…」
夜々の声が刺さる。
それでも、刻は視線を外さない。
そして黎影を見る。
「……わかった」
掠れた声だった。
「やる」
黎影が笑った。
空気が冷えた気がした。
「…や、だ」
「…夜々?」
「やだ!!そんな事したくない!!」
夜々はボタボタと大粒の涙を流した。
耳を両手で抑えて首を横に振る。
「…ひ、と…人を売るの…?子どもを…珀お兄ちゃんに差し出す子どもを育てるの…?」
「…夜々」
「…やだ、やだよお…そんなこと…人がやる事じゃないよお!!!」
刻は泣き叫ぶ夜々を抱きしめた。
背中を指すって落ち着かせる。
「何言ってんの?」
黎影は首を傾げた。
本当に不思議そうに。
「吸血種だよ?人間は、そういうものでしょ」
夜々の嗚咽が途切れる。
刻の腕の中で、震えだけが残る。
黎影は続ける。
「食べるものと、食べられるもの。それだけだよ」
黎影の瞳は暗くて底なし沼のようにどこまでも続いているようだった。
「……っ」
刻は黎影から目を離し夜々の頭を撫でた。
「まあ、いいや。明日からよろしくね」
そう言って黎影は珀をドアまだ引っ張って振り返った。
「今日は珀くん檻に入れてあげるけど、明日からは刻がしてね」
無邪気に笑った。
「じゃっ、ばいばーい」
軽い声と一緒に、ドアが閉まる。
――カチリ。
音だけが、やけに響いた。
黎影の気配が消えた瞬間、部屋の空気が一段重くなる。
刻は、しばらく動かなかった。
夜々の頭に置いた手だけが、わずかに震えていた。
そうして刻たちは、鬼ごっこと呼ばれるそれに手を染めた。
最初は、名前を呼ぶだけで手が止まった。
けれど、それもすぐに慣れていった。
黎影の提案で、観客が付いた。
悲鳴は“演出”になり、沈黙は“成功”になった。
夜々は管理を担当し、刻は運営を担当した。
その日から、世界は変わった。
変わったことに気づく時間すら、もうなかった。
ただひとつだけ分かっている。
――あの陽だまりは、もうどこにもないということを。
◇
暗い部屋で、ひとりソファーにもたれかかっていた。
目を閉じても、眠りは訪れない。
刻は間接照明の明かりを頼りに手を伸ばす。
サイドテーブルの上。
乱雑に入れられた錠剤の瓶。
無造作に数粒を取り出し、そのまま口に放り込む。
「……っ」
水で無理やり流し込む。
そうでもしないと、眠れない。
横になり、ぼんやりと天井を見つめる。
「……ごめん」
掠れた声。
「……ごめん、ごめん……珀……」
返ってくるものは、何もない。
涙だけが、静かに落ちた。
流れる涙も後悔ばかり募る過去も今さら変えられない。
優しかった弟…大切な弟…。
そんな弟を手放した…最後は邪魔だと突き放した。
胸の奥に残るのは、後悔だけ。
それでも…刻は、ゆっくりと目を閉じた。
「……夜々だけは」
小さく、息のように零れる。
その言葉を、誰も聞かない。
たったひとつそれだけ…それだけは守らなければならなかった。
そんな覚悟を誰もいない暗い部屋でひとり誓った。



