仲のいい、素敵な家族だと思っていた。
両親は忙しそうだったけど、朝から晩まで働く姿は、どこか誇らしくて。
兄ふたりは優しくて、いつも私の頭を撫でてくれた。
だから――私は、この家族が大好きだった。
そう。
あの“真実”を知るまでは。
「夜々ー!そっち行ったぞー!」
青空に浮かんだフリスビーに向かって、夜々は両手を伸ばす。
掴める――そう思った瞬間。
指先をかすめて、フリスビーはふわりと軌道を外れた。
「夜々の下手くそ〜!」
刻がすかさず笑う。
「ちーがう!今の取れたもん!」
頬を膨らませて、夜々は草むらへと駆け込んだ。
さっきまで見えていたはずのフリスビーは、どこにも見当たらない。
ガサガサと草をかき分ける音だけが響く。
「……あれ?」
ほんの少しだけ、胸がざわついた。
そのとき――トン、と肩を叩かれる。
振り向くと、そこにいたのはフリスビーを持った珀だった。
「……珀お兄ちゃん」
「見つけたよ。行こう」
差し出されたフリスビーを、夜々は受け取る。
「ありがとう」
指先が、ほんの少しだけ冷たかった気がした。
けれど気にせず、夜々は広場へと駆け出す。
「えいっ!」
大きく振りかぶって、フリスビーを空へ放った。
ただただ、楽しい日々だった。
刻が笑って、珀も、穏やかに笑っていて。
あの青空も、
あの時の風も、
手のひらの感触も――
きっと、忘れることなんてできない。
その日の夕方。
いつも通り家に帰ると、両親の姿はなかった。
「まだ仕事か」
刻が肩をすくめる。
珍しいことじゃない。いつものことだ。
週末になると帰りが遅くなるのも――
帰ってきたふたりが、どこかよそよそしいのも。
それが、この家の日常だった。
珀は何も言わず、冷蔵庫を開ける。
中を一度見てから、静かに手を伸ばした。
「……今日はカレーだ」
ぽつり、と。
その一言で、刻も夜々もぱっと顔を上げる。
「やった!」
さっきまでの静けさが嘘みたいに、空気が明るくなる。
多忙な母だったけれど、必ず作り置きを残していく。
その味は、変わらない。
だから――寂しくない、とは言えないけど。
それでも。
(ちゃんと、私たちのこと考えてくれてる)
そう思えた。
三人で囲む食卓は、楽しかった。
長男の刻はいつも場を明るくしてくれるし、
次男の珀は優しくて、さりげなく気遣ってくれる。
末っ子の自分が寂しくならないように――
ふたりは、いつもそうしてくれていた。
カチャン……
カラン、と。
不意に、スプーンが床に落ちた。
「……」
音だけが、やけに大きく響く。
珀の手が、止まっていた。
「……珀?」
刻が声をかける。
返事はない。
「……珀お兄ちゃん?」
夜々も覗き込む。
その瞬間――
「……っ」
珀の喉が、わずかに動いた。
そして、遅れて。
「あ……ごめん」
ふっと、息を吐く。
「ちょっと、詰まりかけただけ」
そう言って、笑う。
けれど―その笑い方は、いつもと少しだけ違っていた。
「な、なんだよ!ビビったじゃねーか!気をつけろよ」
「うん、ごめんね。兄さん」
そう言って笑う珀の姿に、なぜか夜々は目を逸らした。
――いつもと同じはずなのに。
胸の奥が、ざわつく。
言葉にできない、何か。
小さな違和感が、喉の奥に引っかかるみたいに残る。
それでも――誰も、それを口にはしなかった。
「夜々、珀知らねー?」
部屋で絵を書いていた時、刻がドアから顔を出した。
「知らないよ、部屋にいるんじゃないの?」
「……それが、いねーんだよな」
刻は頭を掻きながら、少しだけ視線を逸らす。
珀はあまり外に出たがらない。
いつも部屋で本を読んでいることが多く珀と夜々が外に連れ出していた。
そんな珀が部屋にいないのは少しおかしかった。
「…探してみる」
夜々は何処か胸騒ぎがして部屋を飛び出した。
刻も夜々と別れて珀を探しに行く。
本を読むのが好きな珀がどこに行くかなんて検討もつかなかった。
それでも夜々は思い当たる場所を探した。
「珀お兄ちゃんー!」
大きな声を出して。
兄の名前を呼んだ。
するとガサッと森の方から音が聞こえた。
その森は家からさほど遠くはないが、何故か森が深いため両親に入るなと言われていた場所だった。
「…珀、お兄ちゃん…?」
夜々は恐る恐る森へ入った。
もう周りは薄暗くて、森に入ると余計に辺りは暗かった。
「…ぅ、うぅ」
「…お兄…ちゃん?」
くぐもった声。
苦しそうな声。
夜々はゆっくりと歩を進める。
薄暗い辺りの中で暗闇に慣れた目がしゃがみ込む何かを捉えた。
「……」
そこには蹲る珀の姿があった。
「珀お兄ちゃん!!」
駆け寄る夜々。
夜々は苦しそうな珀の背中をゆっくり撫でる。
「珀お兄ちゃん!?どうしたの!?大丈夫!?」
「…う、ぁあ、はぁ…」
「…ねえ、お兄ちゃん…」
そっと顔を覗き込む。
その瞬間――
「……っ」
珀の目が、開いた。
焦点が、合っていない。
「……血……」
掠れた声。
けれどその視線は、夜々ではなく“喉元”に、向いていた。
その瞬間。
「――っ!」
地面を蹴る音。
珀の身体が、弾かれたみたいに跳ねる。
夜々の目には、その動きが、やけにゆっくり見えた。
(……あか、い……)
目が、赤く光っている。
さっきまでの優しい兄の顔じゃない。
“何か別のもの”に、変わっている。
「……っ」
息が詰まる。
逃げなきゃいけないのに、身体が動かない。
その時、ぐっと後ろに引かれた。
「っ、!」
強い力で引き寄せられる。
背中にぶつかる体温。
「……はぁ、はぁ……」
荒い呼吸。
「……刻、お兄ちゃん……」
振り向かなくても分かる。
刻が、夜々を抱き込むように庇っていた。
「……下がってろ」
低い声。
今まで聞いたことのない、張り詰めた声だった。
刻は夜々を背中に隠し珀と対峙する。
目の焦点が合わない明らかに様子のおかしい珀の姿に刻はゆっくり声をかける。
「…珀、どうした?何があった?」
「はぁ…あぁ、」
珀は喉元に手をかけながら苦しそうに首を掻きむしり始めた。
「珀…辞めろ!そんなことしたら!珀!」
刻は珀の行動を止めようと必死に掻きむしる手を掴む。
「珀!!!」
夜々はその光景を見て手が震える。
「…はぁ…はっ」
息が上がる。
「…血…」
「…は?何て」
刻と珀は揉み合う。
そして珀は刻の肩にガッと手をかけた。
珀は真っ直ぐ刻を見て言った。
「…血が欲しい!!兄さん!喉が乾いてしょうがない!!血が欲しいよ!!!兄さん!!!」
その声は、叫びなのに泣いているみたいだった。
心からの叫びに刻は圧倒された。
こんな必死な珀の姿を今まで見たことがなかった。
「…珀?」
そして珀は倒れた。
「…珀、お兄ちゃん…?」
返事はない。
その静けさの中で夜々は思い出した。
今日が珀の11歳の誕生日と言うことを…。
◇
「どうして珀なの!?」
「しょうがないだろ、蘭寿家の血が流れてるんだから」
低い父の声。
「だからって、何百年も発現してなかったじゃない!!」
母の大きな声が部屋に響いた。
倒れた珀を刻が背負い、後ろから夜々が支え家路に着いた。
刻が父に連絡をし両親にすぐに帰ってきてもらった。
珀はそれからずっと眠っている。
「…っ」
自身の部屋で眠る珀の喉はひくりと何かを飲み込むように動く。
夜々は立ちすくしたまま動けないでいた。
「……ヴァンプ化……」
隣で、刻がぽつりと呟く。
「……え?」
聞き取れなくて、夜々は顔を見上げる。
刻は、珀を見たまま――
「……珀が……」
一度、言葉が詰まる。
「……“ヴァンプ化”の能力、かもしれない」
その声は、落ち着いているのに。
どこか――震えていた。
「……なに、それ」
知らない言葉。
知らないはずなのに…夜々の心に嫌な思いが募る。
「…刻、お兄ちゃん…」
刻の横顔は信じられないと言うように不安の色が目に写っている。
夜々は咄嗟に刻の手を握った。
「……」
刻の手は少し震えていた。
いつも明るくよくふざける刻の深刻な顔に夜々は不安が募る。
「…大丈夫」
ぽつりと呟く刻は夜々の手を握り返した。
「…大丈夫だ、夜々」
それは夜々に向けてだったのか、それとも自分に言い聞かせたのか。
それからが、地獄だった。
「ぁぁああ!!」
喉を引き裂くような声が、部屋に響く。
「血!!血がほしい!!」
ベッドの上で暴れる珀を、刻が押さえつけていた。
「珀!!落ち着け!!」
「い、やだ……っ、足りない……!」
爪が、刻の腕に食い込む。
「っ……!」
「今、飲んだだろ!!吸血パック!!」
それでも――
「こんなの……水と同じだ……!!」
珀の目は、完全に焦点を失っていた。
夜々は、動けないでいた。
助けなきゃいけないのに足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。
その日から…毎日、毎晩。
ドアの向こうから聞こえる珀と刻の声を、両手で耳を塞いで、しゃがみ込んでやり過ごすしかなかった。
「ぁ……あ……っ」
「珀!珀!」
それでも、声は聞こえてくる。
耳を塞いでも、消えてくれない。
胸の奥が、ずっとざわざわして息が、うまく吸えない。
そして夜々は思い出す。
あの日、両親に言われた言葉。
『――珀に絶対噛まれるな、同じようになるぞ』
意味なんて、分からない。
でも、分からなくてもそれが“良くないもの”だということだけは、身体が勝手に理解していた。
これは、蘭寿家の呪いだ。
珀の能力が発現してから両親は余計に仕事にのめり込むようになった。
何の仕事をしているのか詳しいことは知らなかった。
刻が16歳、珀が14歳、夜々が12歳になった時、母は笑顔で言った。
『準備が整ったわ、刻、夜々今まで珀のお世話ありがとうね』
母は、変わらない笑顔のまま。
ただその目だけが、少しも笑っていなかった。
そして連れられて来たのは大きな屋敷だった。
こんな大きな屋敷を買うのに何処からお金が出てきたのか疑問が募るばかりで、刻も夜々も何処か変なことだけは理解していた。
「…お母さん、ここ何処」
「ここではね、やっと珀が自由になるの」
「…自由…?」
珀が能力を発現してからもう三年も経っていた。
夜々の隣に立つ珀はもう目は虚ろでぼーっと立つことで精一杯の様子だ。
「さあ、珀。思う存分飲んでいいのよ」
そう言って笑った。
「…母さん…?」
刻の声が静かに落ちる。
すると母は珀の手を引いてひとつの部屋の中へと入るようトンっと珀の背中を押した。
バタンッ
大きな扉が珀を招いて閉まった。
「鬼ごっこの開始よ」
◇
目の前に、大きなスクリーンが現れる。
そこに映し出されたのは子ども達だった。
何人も、年齢も、ばらばらで。
「……人間種……」
刻の声が、かすれる。
狭い部屋。
窓はない。
子ども達は、互いの顔を見ながら落ち着かない様子で動き回っている。
誰かが扉を叩く小さな手で、何度も。
「……なに、これ……」
夜々の声が震える。
何かが、おかしい。
「……っ」
刻の身体が、わずかに揺れる。
視線が、スクリーンの一点に止まる。
そこに映っていたのは珀だった。
人間種の子ども達と珀。
理解が、追いつかない。
追いつきたくない。
「……母さん!!!」
刻は叫んでいた。
その瞬間。
スクリーンの向こうから悲鳴が、弾けた。
「ぎゃあああああ!!」
「いや、いやああ!!」
逃げ惑う足音。
何かが倒れる音。
小さな手が、床を叩く音。
「ああああぁぁあ!!!」
ぶつかる音。
引き裂かれるような、声。
「……っ!」
夜々は、反射的に目を閉じた。
見たくない。
見たら、戻れなくなる。
次の瞬間。
ぐっと、身体が引き寄せられる。
「……見るな」
低い声。
刻が、夜々を抱きしめていた。
視界は塞がれているのに。
音だけが、消えない。
「……っ、やだ……」
耳を塞いでも。
声は、内側に入り込んでくる。
刻はぎゅっと夜々を抱きしめながら視線は母へと向ける。
母は目を輝かせスクリーンを見ながら静かに笑っている。
「…母さん…母さん!」
返事はない。
「母さん!!!」
「…良かった」
ぽつりと言葉が零れた。
「…これで珀が我慢しなくていい」
「…は…?」
刻の声が歪む。
信じられないと言うように唇が震える。
「…ずっと苦しかったでしょ?」
母は、スクリーンから目を離さないまま続ける。
「これで、やっと“普通”に戻れるのよ」
「……普通……?」
その言葉に、空気が凍る。
「…何言ってんだよ…」
「これで、珀は助かる」
ようやく、こちらを見る。
その目は真っ直ぐで一切、迷いがなかった。
「……珀は、助かるの」
「……っ、何言ってんだよ……!」
刻の声が、震える。
怒りなのか、恐怖なのか、自身でも分からないまま。
もうこの家族は壊れていたのだと刻は悟った。
珀の能力が発現した時、壊れることは必然だったのだ。
そしてここから珀による鬼ごっこが始まったのだ。



