「……ちゃん、」
遠い。
水の中みたいに、くぐもった声。
「翼ちゃん!!」
はっきりと名前を呼ばれた瞬間――意識が、引き上げられる。
「……っ!」
ガバッと上体を起こす。
息が、うまく吸えない。
「は、……っ」
胸が上下する。
けれど、空気が“入ってこない”感覚。
「…………」
周囲を見ようとして――違和感に、気づく。
(……ここ、)
どこか分からない。
翼は目に入る全てに見覚えがなかった。
少しメルヘンな、ピンクのレースの壁紙。
どこからか漂う、甘い花の香り。
身体が沈み込むほど柔らかいベッド。
「翼ちゃん!!」
「…っ!?」
次の瞬間、誰かに抱きつかれた。
「良かった!良かった!やっと助けることが出来た!」
忘れるはずがない、この香り。
「り、凜々?」
翼の肩口から、彼女が顔を上げる。
「うん!凜々だよ」
丸い大きな瞳で目に涙を浮かべてにっこりと笑う。
その顔に、思わず息を飲む。
「……凜々、ここ――」
凜々は、翼の言葉を遮るように声を重ねた。
「迎えに行くって言ったでしょ!だから来たよ!」
「凜々、あの」
「もうこれで安心だよ!もう怖くないよ!」
ぎゅ、と。
抱きしめる腕に、力がこもる。
「大丈夫、大丈夫」
繰り返す声は、優しいはずなのに。
どこか、ずれていた。
「……凜々」
呼びかけても、返事はない。
ただ――
「もう大丈夫だからね」
同じ言葉だけが、何度も繰り返される。
背中に回された手が、わずかに強くなる。
逃がさないように。
そんな風に――
「ねえ、翼ちゃん」
耳元で、囁く声。
「ここなら、誰も来ないよ」
ぞくり、と。
背筋に冷たいものが走った。
凜々に抱きしめられながら、ふと視線が落ちる。
首元。
白い肌に――ぽっかりと空いた、ふたつの穴。
「……凜々、それ……」
言葉が、うまく出ない。
「どうしたの」
凜々は、きょとんとした顔で首を傾げる。
まるで、本当に“分からない”みたいに。
「え?」
その仕草に、違和感が走る。
「なにが?」
にこり、と笑う。
その笑顔は、さっきと同じはずなのに――
どこか、噛み合っていない。
「……」
翼は、言葉を失う。
(……気づいてない?)
さっきとは違う冷たさが、背筋を撫でた。
その時。
凜々の指が、そっと翼の頬に触れる。
ひやり、とした感触。
「……ねえ」
優しい声。
けれど――
「ちゃんと、ここにいてね」
ふ、と笑う。
「どこにも行かないで」
ぎゅ、と。
さっきより強く、抱きしめられる。
逃げ場を、奪うみたいに。
何かがおかしい。
凜々だけど翼の知っている凜々じゃない。
そんな気がした。
その時、コンコン…とドアを控えめにノックする音が聞こえた。
「はーい!」
凜々は翼の首に腕を回しながら当たり前のように返事をする。
その返事と共にドアがスっと開いた。
「………」
そこに立っていたのは、白い襟付きの黒いワンピースに身を包んだ少女だった。
手にはサービストレイ。
ティーカップが、ふたつ。
かちゃり、と。
静かに足を踏み入れる。
その動きは、やけに整いすぎていた。
「お茶を、持ってきた」
抑揚のない声。
翼と、目が合う。
「夜々ちゃん!ありがとう」
凜々は戸惑いなく当然のようにお礼を言う。
夜々はティーカップを机の上にそっと置く。
「夜々ちゃん!夜々ちゃん!この子が翼ちゃんだよ!綺麗な人でしょー?夜々ちゃんも翼ちゃんときっとすぐ仲良くなれるよ!」
凜々の弾んだ声。
夜々は――
何も言わない。
ただ、翼を見ている。
じ、と。
瞬きもせずに。
「……」
時間が、わずかに伸びた気がした。
一拍。
――遅れて。
「……うん」
小さく、頷く。
けれどその声は、どこか空っぽで。
その瞬間、夜々は翼の耳元に唇を近づけ小さな声で言葉を発しすぐに翼と距離をとった。
「………っ」
その言葉に翼は喉の奥がきゅっと閉まるのが分かった。
「翼ちゃん?」
少しの動揺に気づき凜々がムッとする。
「ねえ、夜々ちゃん!翼ちゃんに何を言ったのー?ねええー!」
凜々は夜々のスカートを引っ張りパタパタする。
そんな凜々にはお構いなしに平然な態度をする夜々。
「…ねえ、もう時間じゃない?」
夜々のその一言でピタっと凜々の動きが止まる。
「……」
俯く。
さっきまでの明るさが、嘘みたいに消える。
(……なに)
翼の胸が、ざわつく。
「……行かなきゃ、だめ?」
小さな声。
どこか、縋るような響き。
「さあ」
夜々は、淡々と返す。
「遅れたら――どうなっても知らないよ?」
その一言。
凜々の肩が、びくりと震えた。
「……っ」
ぎゅ、と唇を噛む。
やがて、諦めたように手を離した。
「……分かった」
顔を上げる。
そして――さっきと同じ、笑顔。
「翼ちゃん!用事が出来たから行くね!すぐ戻るからねえ〜」
何事もなかったみたいに手を振りドアへ向かう。
夜々の横を通り過ぎる、その瞬間。
「……あとで」
小さく、落とす。
「ちゃんと、直してきてね」
その声は。
さっきまでの凜々と、どこか違っていた。
カチャと凜々が出て行った音が部屋に響いた。
「……」
ふたりの間に沈黙が流れる。
夜々は本棚に身体を預けると、何事もなかったかのようにティーカップを手に取った。
一口。
ゆっくりと口をつける。
かすかに、カップの触れる音だけが響く。
「……ごめんなさい」
ぽつり。
小さな声が響いた。
「……え」
翼の喉が、乾く。
「それ、どういう――」
言い終わる前に。
「こうするしかなくて…」
夜々が、視線も向けずに言う。
「…逆らえない、から」
その一言で。
空気が、わずかに冷えた気がした。
『…ここは、安全じゃない』
さっき、夜々が翼にしか聞こえない声で言った言葉。
その言葉が脳裏に浮かぶ。
その時嫌な声が聞こえた。
「あぁぁあ!!」
聞き慣れた声。この声は…。
「…凜々…?」
翼は咄嗟にベットを降り、部屋から出ようとドアノブに手をかけるが、夜々に手首を抑えられ阻止される。
「離して!凜々が!」
夜々は首を横に振った。
「…止めちゃだめ」
「…え?」
「…止めちゃって、何されてるか知ってるの?」
静かに頷く夜々。
そしてゆっくり唇を動かした。
「…吸血行為」
「…吸、血…」
翼は御影との吸血行為を思い出していた。
こんな悲鳴をあげるような行為だったか?
御影は翼に噛まれてもこんな苦しそうにしない…ましてや悲鳴なんて…。
違和感が翼を襲った。
「相性の悪い者同士の吸血行為は苦痛を伴う、ただの拷問。」
夜々の言葉に翼の息が乱れるのが分かる。
その間もずっと凜々の悲鳴は止まない。
翼は少し息を整え夜々に聞く。
「…誰に、噛まれてるの…」
夜々は俯いたまま、答えない。
指先が、わずかに震えている。
「……ねえ」
翼の声が、少しだけ強くなる。
「誰なの」
沈黙。
その奥で、また悲鳴が響く。
夜々の唇が、ゆっくりと開いた。
「……黎影」
その名前が、頭の奥で反響する。
次の瞬間。
「っ、離して!」
夜々の手を振り払う。
自分でも驚くくらい強く。
そしてドアノブを掴み、乱暴に開け放ち廊下へ飛び出した。
「――っ」
空気が、違う。
さっきまでの甘い香りは消えて、
代わりに、鉄の匂いが微かに混じっていた。
遠くから、響く声。
「あぁぁあ!!」
「……っ、凜々…」
迷う暇もなく、駆け出す。
足音が、やけに響く。
廊下は長く、同じ景色がどこまでも続いている。
走っているのに、距離が縮まらないような感覚。
「…っ」
息が切れる。
こんな全力疾走をしたのは久しぶりだ。
「…凜々」
悲鳴は聞こえるのに、部屋が見つからない。
ただただ長い廊下がそこにあるだけ。
「…はぁ、はぁ…」
翼は立ち止まって振り返る。
そこには長く暗い廊下が続いていた。
何かおかしい。
『…ここは、安全じゃない』
夜々の言葉が、頭の中で反響する。
「……っ」
その瞬間。
廊下の先が、わずかに歪んだ気がした。
翼は目を凝らし廊下の暗闇を見つめる。
「たくっ、もうめんどくせーことすんなよ」
低い男の声。
見慣れない男だった。
「…お前が翼?」
男の目はジッと翼を見つめる。
「……」
翼は何も答えず、ただ男を睨み返す。
その視線を受けて――
男は、つまらなさそうに目を細めた。
「……はぁ」
深く、ため息をつく。
「ほんと、めんどくせぇな」
ぽつりと零して――パチン、と。
軽く、指を鳴らした。
その瞬間。
「――っ!?」
足元の感覚が、消える。
浮いた。
落ちる。
どっちでもない、“抜ける”ような感覚。
視界が、ぐにゃりと歪む。
廊下も、壁も、男の姿も――全部が一度、バラバラに砕けて。
「っ……!」
息をする間もなく、
次の瞬間。
「……え」
気づけば――さっきまでいた部屋。
甘い香り。
柔らかすぎるベッド。
何もかも、“元通り”。
「……は、」
呼吸が、遅れて戻る。
(……今の、なに)
現実感が、追いつかない。
まるで――
“さっきの出来事そのものを、なかったことにされた”みたいな。
「……夜々?」
視線を上げる。
そこにいたのは――さっきと同じ場所に立つ、夜々の姿。
「お前、ちゃんと見張っとけ」
ドアの前。
――さっきの男が、いつの間にか立っていた。
「……っ」
気配なんて、なかった。
夜々の肩が、わずかに揺れる。
「……うん、ごめん刻」
小さな声。
「機嫌損ねると面倒なんだから」
刻は、淡々と言う。
まるで、物の扱い方でも教えるみたいに。
「……うん、分かってる」
視線を落としたまま、夜々が頷く。
「はあ……」
男はつまらなさそうに息を吐くと、翼を一瞥した。
「……余計なことさせんなよ」
それだけ言って、くるりと背を向ける。
そしてドアが、静かに閉まった。
――音もなく。
「……」
残されたのは、重たい沈黙。
さっきまでと同じ部屋のはずなのに、空気が、まるで違う。
「……夜々」
翼の声が、わずかにかすれる。
さっき見た光景。
あの男。
この空間。
全部が繋がっていく。
「……今の人、誰」
夜々は、すぐには答えなかった。
ただ、じっと床を見つめたまま。
「……ねえ」
翼が、一歩近づく。
「ここ、何」
沈黙。
そして――
「……“逃げられない場所”」
ぽつり、と。
落ちたその言葉は、説明でも答えでもなくて。
ただの、事実みたいに響いた。
「…ここは刻の能力で生み出している場所」
「…能力…?」
夜々は翼の目を真っ直ぐに見た。
「…この間の舞踏会、あなた居たでしょ?」
「…舞踏会」
翼は思い出す。愁と壱夜と陸玖が潜入した舞踏会。
そして海偉がヴァンプ化されたあの事件。
「あの舞踏会を主催していたのは私たち、蘭寿家の子孫」
「…あなた達が…蘭寿、家」
かすれた声で、翼が繰り返す。
夜々は、ほんの一瞬だけ目を伏せそして夜々はゆっくりソファーに座る。
「…うん、あの日珀がヴァンプにした子…無事?」
翼はゆっくりと頷いた。
その頷きに夜々は少し胸を撫で下ろした。
「…良かった、」
嘘を着いているような気はしなかった。
夜々は一度、視線を落とす。
言葉を選ぶみたいに、わずかに唇が動いた。
「……私たちは、密かに繁栄してきた一族」
静かに、続ける。
「だから今でも――能力が残ってる」
ソファに腰を下ろす。
その仕草は落ち着いているのに、どこか逃げ場を探しているみたいだった。
「私は、“運ぶ”役目。あなたを…翼を、ここに連れてくるための能力……刻は」
わずかに、声が低くなる。
「閉じ込めるための“場所”を作る」
「……」
翼は、何も言えない。
理解が追いつかないのに、言葉だけが、現実を形にしていく。
夜々の指先が、ぎゅっと握られる。
「……私も」
小さく、零れる。
「刻も――」
顔を上げる。
逃げないように。
それでも、どこか苦しそうに。
「黎影に、利用された」
空気が、止まる。
「……」
そして、はっきりと。
「次期当主をおびき寄せるまで」
そして静かに
「あなたは…帰れない」
ほんのわずかに、声が震える。
「……ごめんね」
◇
同時刻
「翼が攫われたって本当かよ!?」
六花専用室に愁の声が響く。
「………」
御影は答えない。
机に肘をついたまま、視線だけが落ちている。
指先は動いていないのに、どこか“止まっていない”。
その背後に、琉伽が静かに立つ。
ソファには壱夜、愁、弦里、庵。
そしてドア付近に、海偉と陸玖。
誰もが、空気を読んでいた。
正確には――御影の“沈黙”を崩さないようにしていた。
「……御影」
壱夜が低く呼ぶ。
それでも、返事はない。
愁が舌打ちする。
「黙ってねぇでなんか言えよ。ただ事じゃねぇだろ」
愁の声が、空気を割る。
その言葉に、ようやく御影の指がわずかに動いた。
机の上。
何もない空間を、なぞるように。
「……検討はついてる。その前に、聞くことがある」
「は?」
愁が眉をひそめる。
御影は視線を上げないまま、静かに言った。
「……お前たちは」
一度、間が落ちる。
「俺の“双子”の存在、覚えてるか?」
――その瞬間。
空気が、止まった。
「御影!!」
後ろにいた琉伽が、声を上げる。
普段ほとんど感情を出さないその声が、鋭く響く。
その場にいた全員が、一瞬だけ息を飲んだ。
愁が固まる。
「……は?」
壱夜の目が細くなる。
弦里が小さく息を吸う。
庵は言葉を失ったまま御影を見ている。
海偉と陸玖も、視線を交わすことなく固まった。
琉伽だけが、御影を見ていた。
「……それ、今言う話じゃない」
低く、押し殺した声。
御影は初めて、琉伽を見る。
「今だから言ってる」
短く。
そして――
「翼が消えた理由、それに繋がる」
御影の言葉に、空気がわずかに重くなる。
愁は眉をひそめたまま、言葉を拾うように口を開いた。
「……ちょ、待て。御影が双子?は?」
「愁は知らないのか」
御影の静かな声。
「いやいや、は?双子?なにそれ、俺だけ知らない感じ?」
愁が一気にまくしたてる。
視線が御影に向かう。
けれど、御影はもう愁を見ていない。
ただ、机の上に落ちた影を見ている。
その“反応の薄さ”が、逆に現実味を奪っていく。
「……い、壱夜は?」
愁は壱夜に視線を投げる。
壱夜は一瞬だけ間を置き――首を振った。
「知らない」
その隣で庵も、同じように小さく首を横に振る。
「……は?」
愁の声が詰まる。
「おい待て、じゃあ何だよこれ」
焦りが、形にならないまま溢れていく。
「……知っているのは」
弦里が、静かに口を開く。
「琉伽と、俺だけ」
「はぁ……?」
愁の視線が宙を泳ぐ。
「なんでそんな重要情報が分断されてんだよ」
誰も答えない。
沈黙だけが、部屋の重さを増やしていく。
「おい、御影」
愁の声が少しだけ強くなる。
それでも御影は動かない。
その沈黙に、愁の焦りだけが浮いていく。
「……マジで今それ言うタイミングかよ」
言葉は怒っているのに、どこか揺れていた。
「翼が消えてんだぞ」
その瞬間。
御影の指先が、ほんのわずかに動いた。
机を叩くでもなく、握るでもなく。
ただ――止まっていた時間が、少しだけ戻る。
「だから」
低く、静かに。
「消えた理由がそこに繋がる」
「……」
「翼を攫ったのは」
空気が一段、冷える。
「俺の双子の兄だ」



