「では、報告を」
低い声が、静かに場に落ちた。
一人の男が立ち上がる。
「蘭寿家に関する件ですが――依然として、明確な動向は掴めておりません」
わずかなざわめき。
「ただし、先日の“件”以降、周辺地域で見回りを強化しておりますが――」
一拍。
「“何も起きていない”状況が続いています」
「……それが問題だな」
別の声が、静かに割り込む。
「痕跡すら残さない。……いや、“残っていないように見せている”のか」
「何処に身を潜めているのか、正直見当もつきません」
さらに別の男が続ける。
「彼らの能力により、身を隠せる領域が存在するのか……未だ不明です」
沈黙。
それが何を意味するのか、全員が理解していた。
「……」
誰かが低く呟く。
「彼らは最初から“存在しない”ものですから、動向を探るのは極めて困難でしょう」
「学園への影響は?」
別の男が口を開く。
「現時点では顕在化していません。しかし――」
「“していない”では遅い」
即座に切り捨てる声。
「侵入を許してからでは、対処は後手に回る」
「では、警戒レベルを引き上げるべきだと?」
「当然だ」
短い応酬。
だが、決定打は出ない。
御影は、視線を上げないまま、それらを聞いていた。
「……」
(……形だけ、か)
誰もが状況を把握している。
それでも、“決定的な一手”は出ない。
――出せない。
(……結論は、もう決まってる)
だからこそ、この場はただの確認に過ぎない。
「結論を」
その一言で、全ての声が止まった。
影臣だった。
「現状維持とする」
誰も反論しない。
「ただし」
わずかに、視線が動く。
「“見えないもの”を見落とすな」
一拍。
「監視は強化する」
それだけで十分だった。
そして会議は終わった。
形だけの会議に過ぎない、いつも通りの会議。
席を立つ音が重なり、ひとり、またひとりと部屋を出ていく。
御影は、その様子を横目で確認しながら、静かに立ち上がった。
こんな場所に、一分一秒たりとも留まりたくはない。
踵を返し、扉へ向かう。
――その時。
「御影」
低い声が、背後から落ちた。
足が、止まる。
「……」
振り返らない。
それでも、その視線だけは、はっきりと背中に感じていた。
「お前は出来が悪い」
淡々とした声。
感情は、ない。
「だからこそ――見落とすな」
一拍。
「“見えていないもの”ほど、牙を剥く」
空気が、わずかに張り詰める。
「異変を見逃すんじゃないぞ」
そのまま、足音が遠ざかった。
シン、と静まり返った部屋。
残されたのは、御影と琉伽だけだった。
「……」
御影は、しばらくその場から動かなかった。
いつもそうだ。
顔を合わせれば、「出来が悪い」と言われる。
何かと、誰かと――比べられる。
(……今更だな)
感情は、ほとんど動かない。
けれど。
黎影との記憶を、ほんの一部だけ返されたあの時。
――ああ、そういうことか。
と。
どこかで、納得してしまった自分がいた。
「……」
視線を、わずかに落とす。
(……なら)
小さく、息を吐く。
「別に、いい」
誰に聞かせるでもない、低い声。
「出来が悪いままで」
その言葉は、諦めではなく――
ただ、静かに定まった意思だった。
「……行くぞ」
短く、それだけ告げる。
琉伽がわずかに頷く気配。
御影は、そのまま歩き出した。
重厚な扉が、音もなく開く。
外へ。
何も変わらない顔のまま。
ただ一つだけ――
帰る場所を、知っているように。
◇
御影と琉伽が部屋を出て行く。
その様子を向かいの建物の屋根の縁に座り窓からふたりの背中を眺めていた。
「…黎影、もう行くぞ。見つかったら厄介だ」
後ろから刻の声がする。
「…うん、そーだね」なんて間の抜けた黎影の声。
「………」
刻は未だ動く気配のない黎影の背中を見てため息をついた。
「…久々に見たよ、あの人の顔」
「あの人…?」
「現当主…あんな顔だったんだね。本当に僕らにそっくり」
刻は心の中で当然だろうと思った。
現当主は黎影の父親なのだから。
「……帰るぞ」
短く言って、刻は踵を返す。
だが――
「ねえ、刻」
背後から、軽い声が落ちた。
「……なんだよ」
振り返らずに答える。
少しの間。
風が、屋根の上を撫でる。
「さっきさ」
黎影の声は、ひどく穏やかだった。
「御影、気づいてたと思う?」
その問いに、刻の足が止まる。
「……何に」
「僕のこと」
あまりにもあっさりとした言い方。
刻は、ゆっくりと振り返った。
黎影は、先ほどと同じように縁に座ったまま、頬杖をついて、楽しそうに下を見ている。
その視線の先には――もう誰もいない。
それでも。
「……気づくわけねーだろ」
「だよね〜」
興味なさそうな相槌。
けれど、その口元はわずかに歪んでいた。
「でもさあ」
黎影は、ひょいと立ち上がる。
その動作は軽く、まるで重さがないみたいだった。
「もし、気づいてたら――」
一歩、踏み出す。
「ちょっと、面白いよね」
その瞬間。
ざわり、と。
何もないはずの空間が、わずかに歪んだ。
何もなかった空間に丸い円上の空間が現れた。
「黎影、刻。時間」
そこからひょいと夜々が顔を出す。
夜々の能力、空間移動のゲートだ。
「はあーい」
軽い返事をして黎影は刻より先にゲートを潜る。
その後から刻もゲートを潜った。
「早く御影に会いたいなあ」
黎影のボソッと呟いた言葉に刻は聞こえていないふりをした。
その黎影の横顔が恐ろしくも楽しそうで不気味だったから。
木々が揺れる。
「…御影?」
隣で歩く御影の足がふと止まった。
御影は振り返り屋敷の屋根の方へと視線を向ける。
琉伽も同じように視線を追った。
何の変哲もないただの屋敷の屋根。
「…御影?」
もう一度琉伽は控えめに名前を呼んだ。
「……」
ジッと屋根を見つめたまま、御影はわずかに目を細める。
風が吹く。
けれど――
(……今、)
一瞬だけ。
“何か”が、そこにいた気がした。
視線を外した途端、消えるような気配。
掴めない。
けれど、確かに――
「……御影?」
琉伽の声で、思考が切れる。
「……ごめん、なんでもない」
そう言って歩き出す。
けれどその足取りは、ほんの僅かにだけ、重かった。
(……誰かが、見ていた)
確信はない。
それでも――
胸の奥に、引っかかるものだけが残っていた。
◇
屋敷に戻った瞬間、空気が違った。
普段なら整然としているはずの使用人たちが、落ち着きを失ったように、廊下を行き交っていた。
「……どうした」
御影の低く落とした声。
その一言で、何人かがはっと振り返る。
だが、一人の使用人は気づかずに、誰かに言い募っていた。
「ですから、確かに庭園に――」
「おい」
御影が声をかける。
びくり、と肩が跳ねた。
「み、御影様……!」
「何があった」
一瞬、言葉に詰まる。
喉がひくりと動く。
そして――
「……翼様が、」
かすれた声。
「いなくなりました」
空気が、止まる。
「……何?」
「つい先ほどまで、庭園におられたはずなのですが……」
一拍。
「……“気づいたら”、姿が――」
その言い方に、わずかな違和感。
御影の視線が、鋭くなる。
「気づいたら?」
「……は、い……」
使用人は、困惑したまま続ける。
「誰も、離れたところを見ていなくて……」
「目を離した瞬間も、ないはずで……」
震える声。
「それなのに……」
言葉が、途切れる。
「……思い出せないんです」
「……何を」
御影の声が、低く沈む。
「……どの瞬間に、いなくなったのか……」
沈黙。
その場にいた全員が、息を詰めた。
「……」
御影は、ゆっくりと目を細める。
今朝の翼の顔を思い出す。
会議と伝えた時のあの少し不安そうに控えめに微笑んで頷く顔が。
胸の奥に、さっきの違和感が蘇る。
“何かが、いた”
「……琉伽」
静かに呼ぶ。
「庭園だ」
駆け足で庭園と向かい翼が座っていたであろうベンチへ向かう。
ベンチには一本の薔薇がぽつんと置いてあった。
――さっきまで、そこに人が座っていたはずなのに。
温もりも、気配も、何一つ残っていない。
「…ここにいた?」
追いかけてきた使用人に問う。
「…はい、確かにここに」
御影は周りを見渡すがなんの気配も感じなかった。
琉伽はジッとベンチを眺め、ベンチの記憶を読み取ろうと手を伸ばす。
御影のその琉伽の手首を握った。
そして琉伽の目を見て首を横に振った。
今の琉伽の状態で能力を使っては余計負担になる。
琉伽は御影の気持ちを察して手を下ろした。
「…何となく察しは着いてる」
御影は琉伽にしか聞こえない声で呟いた。
「…あいつだ」
◇
翼は、庭園のベンチに腰を下ろしたまま動けずにいた。
鳩の言葉が、頭の中で何度も反響する。
――どっちにも寄れる
――どっちにも落ちる
「……」
指先が、わずかに震える。
考えようとするほど、思考が絡まっていく。
(……私、は……)
その時だった。
さわり、と。
風もないのに、薔薇の葉が揺れた。
「……っ?」
視線を上げる。
誰もいない。
けれど――
(……いる)
根拠はない。
それでも、背筋をなぞるような気配があった。
「……誰、」
ドクンと心臓が脈を打つ。
この気配知ってる…。
とん、と。
すぐ後ろで、小さな音がした。
「っ……!」
振り返ろうとした、その瞬間。
視界が、ぶれた。
ぐにゃり、と。
空間が歪む。
「――え、」
声にならない。
肩に触れられた感触。
けれど、重さがない。
“触れているのに、触れていない”みたいな――
理解できない感覚。
「……っ、やめ……!」
手を振り払おうとする。
なのに、腕が動かない。
足元が、沈む。
まるで地面が、底のない水みたいに崩れていく。
「――っ!!」
声が、出ない。
引きずり込まれる。どこへか分からない、暗い奥へ。
その時――耳元で、くすりと笑う声。
「ねえ、翼」
聞き慣れた声。
でも、違う。
「ちゃんと選んでね」
次の瞬間、視界が完全に途切れた。



