六花の薔薇 ―refrain―


あの日から数日

「……っ、」

浅く息を吐いて、翼はそっと指先を握り込んだ。
まだ、痛みが残っている。

――薔薇の棘で切ったはずの傷。

けれど思い出すのは、それよりも――

『昔さ、僕もやったんだ』
『どっちを選ぶか、決めるやつ』
『誰ひとり、僕を選んでくれなかった』

低く落ち着いた声が、耳の奥で何度も反響する。

「……っ」

思い出すだけで、胸の奥がざわついた。

御影と同じ顔。
同じ声。

それなのに――まるで別人だった。

あの瞳。
あの笑い方。
あの、触れ方。

(……御影じゃ、ない)

分かっているのに、どうしても頭から離れない。
あのとき――自分の名前を、呼ばれたことも。

「……なんで、」

ぽつりと零れた声は、誰に届くこともなく消えていく。

あのあと、御影に連れられて六花専用室へ戻り、真理愛たちと他愛のない会話をして、そのまま解散した。

いつもと変わらないはずの時間。

なのに――

(……全然、普通じゃない)

胸の奥に残る違和感だけが、どうしても消えてくれなかった。
翼は御影の屋敷の庭園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと薔薇を眺めていた。

「………」

風もないのに、薔薇の枝が、かすかに揺れた。

――さわり、と。

「……っ」

視線が、自然とそちらへ向く。

ガサ……。

葉が擦れる音。
小さな音なのに、やけに大きく耳に残る。

(……誰か、いる?)

次の瞬間、

ガサガサッ――!

明らかに“何か”が動いた。

「……っ!?」

反射的に立ち上がろうとして、足がもつれそうになる。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

(やだ……また――)

脳裏に、さっきの光景がよぎる。
黒いモヤ。あの男の笑顔。

息が、浅くなる。

「っっ……!」

翼は思わず頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

その瞬間――

「ばぁぁあ!!」

「っっ!!?」

驚いて顔を上げる。

視線の先。

揺れる薔薇の向こうに立っていたのは――

「久しぶりやなあ、翼ちゃん」

聞き覚えのある声。

「……」

一拍、遅れて理解する。

「は、鳩さん……?」

翼の声がわずかに震える。
鳩はそんな様子を見て、くすりと小さく笑った。

「……えらい顔してるやん」

軽い口調。
けれどその目は――
翼の奥を覗き込むように細められていた。

「……会うたんやろ?」

「……え?」

「あいつに」

その瞬間、空気が一段だけ冷えた気がした。

翼の脳裏に、あの男の顔がよぎる。
御影と同じ顔。
同じ声。
それなのに、まったく別の存在。

黎影。

「……」

言葉が喉の奥で止まる。
沈黙が、薔薇の庭に沈んだ。

鳩はそれを急かさない。
ただ、当然のことのように待っている。
その余裕が、逆に気味が悪かった。

「「あばばば」」

不意に、間の抜けた声が割り込んだ。

「……は?」

鳩は小さく舌打ちすると、薔薇の茂みに手を突っ込んだ。

「何溺れとん」

ずる、と引き上げられるようにして現れたのは、小さな影だった。

両脇を鳩に抱えられた子どもが二人。
片方は男の子、もう片方は女の子。

年齢は幼い。
だが、その目だけが妙に落ち着いている。

感情が、抜け落ちているように。

二人は翼を見ている。
瞬きひとつしないまま。

「……」

その視線に、翼の背筋がわずかに強張る。
鳩は気にする様子もなく、二人の頭を軽く小突いた。

「紹介するわ」

そして、翼に視線を戻す。

遊磨(ゆま)遊爾(ゆに)。この前、館に来た時ちらっと会うたやろ?」

その言葉に、翼の記憶がわずかに引き戻される。

──鳩様、情報が届きました。

(あの時の……子ども)

「……」

遊磨と遊爾は、まだ翼を見ていた。

「なあ」

鳩が、軽く言葉を落とす。
その声だけが、妙に静かだった。

「さっきの続きやけどな」

薔薇の葉が、わずかに揺れる。

風はない。

それでも、音だけが生まれる。

「ほんで、あいつに会うてどうやった?」

鳩が笑う。

軽い調子のまま。
けれど、その目だけは笑っていなかった。

逃げ道のない聞き方だった。

「……」

翼の喉が、ひくりと鳴る。

(なんで……)

頭の中で言葉が引っかかる。

(なんで、そのことを……)

鳩の言う「あいつ」。

それは、あの男…黎影のことだ。

誰にも話していない、御影にも。
それなのに…

「……なんで」

ぽつりと、声が漏れる。

「そのこと……」

鳩はすぐには答えない。
ただ、翼の反応を見ている。

観察するように…。
値踏みするように…。

その沈黙が、余計に怖い。

(やっぱり……知ってる)

翼の身体が、じわりと強ばる。
心臓の音だけが、やけに大きい。

「……鳩さん」

声が震える。

「それ、どういう意味……?」

その瞬間だった。
鳩の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
軽さが、ひとつ落ちる。

「どういう意味も何も」

淡々とした声。

「見たんやろ? あれ」

薔薇の間に、沈黙が落ちる。
遊磨と遊爾は、まだ翼を見ていた。

まるで――
最初からそこに答えがあると知っているみたいに。

「……」

翼の背中に、冷たいものが走る。

(違う…この人、“知ってる”んじゃない。“確認してる”)

鳩はゆっくりと、一歩だけ近づいた。
薔薇の香りが、少しだけ濃くなる。
その奥に混じる、鉄の匂い。

「翼ちゃん」

呼び方は優しいのに。

「嘘はあかんで」

その一言で、空気が完全に変わった。
そして鳩の視線が、わずかに細くなる。

「なーんて」

くすり、と鳩が笑う。

張り詰めていた空気が、ふっと緩む。

けれど――完全には、戻らなかった。

翼は息を吐くタイミングを見失ったまま、わずかに肩の力だけを抜いた。
鳩はそんな様子を気にすることもなく、両脇に抱えていた二人をぽん、と地面に下ろす。

軽い音。

それでも遊磨と遊爾は衝撃を受けた様子もなく、ただ静かに立ったままだった。
鳩はそのまま、どかりと翼の隣に腰を下ろし口を開いた。

「ところでミカくんは?」

その言葉に今朝の御影の言葉を思い出す。
『会議があるから行ってくる、すぐ戻るよ』
その一言を残して早朝から出て行った。

「…会議?らしくて、不在です」

鳩は「ふーん」と短く相槌を打った。

「居らへんねんやろーなとは思とったけど……会議ねえ」

その言い方が、妙に引っかかった。

軽い。

けれど――どこか含みがある。

「……何か、あるんですか」

思わず、聞いてしまう。
鳩はすぐには答えなかった。

代わりに、足元の砂を靴先で軽くいじる。
ざり、と乾いた音。

「別にぃ?」

視線も向けないまま、肩をすくめる。

「ただ、まあ……」

一拍。

「“今のタイミングで会議”ってのは、よう出来とるなあ思て」

その言葉に、翼の背中を、じわりと冷たいものがなぞる。
鳩の言葉はひとつひとつ何か意味がある気がして心が落ち着かない。

「遊磨、遊爾。遊んどってええよ」

鳩が軽く手を振る。

二人は小さく頷くと、何も言わずに庭園の奥へ駆けていった。
薔薇の中へ、溶けるように消えていく。

「……」

その背を見送ってから、翼はゆっくりと視線を戻した。

――鳩へ。

これまで、遠目に見たことはあった。
けれど、こんなふうに距離が近いのは初めてだった。

思わず、息を呑む。
整いすぎている、と思った。

癖のない黒髪。
光を受けてわずかに揺れる睫毛。
すっと通った鼻筋と、緩く弧を描く唇。

どこを取っても隙がないのに――目だけが、妙に引っかかる。

笑っている。
形だけなら、柔らかく。

けれど、その奥にあるものが見えない。

底がないような、覗き込めば、そのまま引きずり込まれそうな――そんな、目。

「……そんな見つめられたら照れるわ」

ふいに、鳩が口元を緩めた。

軽い調子。
いつもの、飄々とした声音。

「……っ」

翼ははっとして、わずかに視線を逸らす。
自覚した瞬間、胸の奥が小さくざわついた。

鳩はそんな翼の反応を楽しむように、
くつくつと喉の奥で笑う。

「ええなあ、その顔」

「……え?」

「ちゃんと“怖がってる顔”してる」

さらりと告げられた言葉に、翼の心臓がどくん、と大きく跳ねた。

「隠そうとしてるのも、分かるで」

逃げ場を塞ぐみたいに、鳩の視線が、まっすぐ翼を捉える。

「けどな」

少しだけ、声が落ちる。

「そういうの、一番分かりやすいねん」

にこり、と笑う。
その笑顔はやっぱり柔らかいのに、背筋に走る寒気は消えなかった。

「今日はな、翼ちゃんに会いに来てん」

「…私に?」

思わず聞き返すと、鳩は軽く頷いた。

「ミカくん、落ち着いたら翼ちゃんに会わす言うててんけどな」

視線を少しだけ空に向ける。

「中々来うへんから、こっちから来てもうた」

さらりとした言い方。

けれど――

(……“会わす”?)

胸の奥に、小さな違和感が引っかかる。

まるで、最初から“そういう予定”があったみたいな言い方。

「……どういうことですか」

翼の声が、わずかに固くなる。
鳩はその反応を面白がるように、くすりと笑った。

「そんな難しい話やないよ」

軽く手を振る。

「ただな」

一拍、間を置いて――

「翼ちゃんが“どこまで見とるんか”知りたくてな」

その言葉が落ちた瞬間、空気がまた、静かに張り詰めた。

「……」

翼の指先が、無意識に強く握られる。

(やっぱり……)

試されている。

最初からずっと。

鳩は、翼の表情を逃さず見ていた。

「安心し」

ふっと声の調子を戻す。

「別に取って食おうってわけやない」

そう言って、わざとらしく肩をすくめる。

「ただ――」

ほんの少しだけ、声が低くなる。

「知らんままやと、危ないだけやからな」

その一言だけが、妙に現実味を帯びて、胸に残った。

「……危ない?」

思わず、聞き返す。
鳩はゆっくりと頷いた。

さっきまでの柔らかい空気が、すっと引く。
代わりに、張り詰めた糸みたいな緊張が、その場に残った。

鳩は、まっすぐ翼を見た。
逃がさないように。
測るように。

「――翼ちゃん」

名前を呼ばれるだけで、
胸の奥がひやりと冷える。

一拍。

「自分が、どこに立っとるか……分かっとる?」

「……え」

問いの意味が、すぐには理解できない。

けれど――嫌な予感だけが、先に膨らむ。
鳩は、わずかに首を傾けた。

「君な」

その声音は、どこまでも穏やかで。
だからこそ、逃げ場がなかった。

「両側に足かけとる状態やねん」

言葉が、静かに落ちる。

「どっちにも寄れるし、どっちにも落ちる」

翼の指先が、ぴくりと震えた。

(……なに、それ)

理解したくないのに、言葉だけが先に染み込んでくる。

鳩は続ける。

「せやから――」

ほんの少しだけ、目を細めた。

「一番、危うい」

その一言は、先ほどよりもずっと静かで、

――重かった。

「……」

喉の奥が、ひどく乾く。
何か言いたいのに、言葉が、出てこない。

(違う……)

そう思う。

思うのに――

否定するための根拠が、どこにも見つからない。
胸の奥で、小さく何かが軋む。

「……私は、」

かすれた声が、わずかに漏れる。
けれど、その先が続かない。
“普通”でいたい。
そう願っていたはずなのに。

――ここに来れば。
――こちら側にいれば。

きっと、普通でいられると、思っていた。

なのに。

その“普通”が、どこを指しているのかさえ、もう分からない。

「……っ」

視線を落とす。
握り込んだ指先が、わずかに震えていた。

否定したいのに、否定しきれない。

その曖昧さだけが、じわじわと、胸の奥に広がっていく。
何も言葉が出てこなかった。

「……」

短い沈黙。
やがて、鳩がふっと息を吐いた。

「――遊磨、遊爾。帰るで」

その声に応えるように、どこからかドタドタと足音が近づく。
薔薇の茂みをかき分けるようにして、ふたりが姿を現した。

「「帰る?」」

「帰る。もう用は終わった」

あっさりとした声。

遊磨と遊爾は顔を見合わせ、何も言わずに頷いた。
鳩は立ち上がる。
その動きに合わせて、薔薇がわずかに揺れた。

「翼ちゃん」

呼ばれて、翼ははっと顔を上げる。
鳩は、変わらない笑みを浮かべたまま――

「忠告はしたで」

一拍。

「自分の立ち位置、間違えたらあかんで」

その言葉だけを残して、くるりと背を向ける。
遊磨と遊爾が、その後を追う。
三人の姿は、薔薇の奥へ、静かに溶けていった。

「……」

気づけば、辺りはひどく静かだった。
さっきまでそこにあった気配が、嘘みたいに消えている。

残されたのは――

甘く、濃い薔薇の香りと、胸の奥に沈んだままの、答えのない問いだけ。

「……立ち位置、って……」

ぽつりと、呟く。
けれど、その言葉は自分にすら届かないまま、空気に溶けた。

視線を落とす。
握り込んだままの指先。
まだ、わずかに震えている。

――どっちにも、寄れる。
――どっちにも、落ちる。

鳩の声が、頭の奥で静かに響いた。

「……っ」

その意味を、まだ完全には理解できないまま――
翼は、その場から動けずにいた。





薔薇の庭を抜けた先。
鳩は、ふと足を止めた。

「……」

背後を振り返ることはない。

それでも、脳裏に焼き付いている。
俯いたまま、動けずにいた少女の姿。

その輪郭が、別の“誰か”と、重なる。

「……ああ、もう」

小さく、吐き捨てるように息を漏らす。

「ほんまに――」

一拍。

わずかに眉を寄せた。

「胸糞悪いわ」

低く落ちたその言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ、静かに宙へと溶けた。









太陽の光でキラキラ光るシャンデリア。
壁は赤く、金の細い線があしらわれている。

御影は、その大きなシャンデリアを、ひとりがけの椅子に座ったまま見上げていた。

ここに来るのはいつぶりか…。

御影の後ろには、少し顔色の悪い琉伽が黙って立っている。

御影の目の前には長い机。
その向こう側に並ぶのは、誰もが名を知る顔ばかりだった。

国の中枢に立つ者たち。

――その全員が、御影を見ている。

それでも御影は、視線を向けることなく、ただ揺れるシャンデリアを眺め続けていた。

――まるで、この場そのものに興味がないかのように。

その時。

ガチャリ――と、大きな扉が開いた。

場の空気が、わずかに変わる。

コツン、コツン、と規則正しい足音。

誰も声を発さない。
その人物は迷いなく、最奥の席へと向かい――
当然のように、腰を下ろした。

金髪の長い髪を、低い位置でひとつに束ねている。

御影とよく似た顔立ち。

――棘薔薇家現当主、影臣(かげおみ)

御影の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。

「会議を始める」

その声には、ほとんど感情が乗っていなかった。
その一言が、部屋を支配した。