六花の薔薇 ―refrain―

「……落ち着いた?」

トイレの個室。
その言葉を聞いた時には、もう身体の熱はすっかり引いていた。

翼は、先ほどまでの発作と“血を飲んだ”という行為の反動で、強い疲労感に襲われていた。
頭がぼんやりして、心ここにあらずといった様子で、一点を見つめている。

そんな翼を見て、御影は少しだけ意地悪をしたくなった。

「…………」

何かを思いついたように、御影は口元を歪める。
そして次の瞬間、ぼうっとしている翼の口の端を、ぺろりと舐めた。

「っ……!?」

驚きすぎて声も出ない翼をよそに、御影は舌に残る味を確かめるように言う。

「んー……やっぱり自分の血の味って、よく分からないね」

そう言いながら制服のボタンを留め、何気ない調子で尋ねた。

「僕の血、美味しかった?」

「……え……」

大きな瞳が、逃がさないように翼を捉える。

「……分からない……」

何年も飲んでいなかった血。
翼の身体は細く、モデルのように華奢だった。
知らない人が見れば、思わず心配するほどに。

「……今まで、母の血しか飲んだことがなくて……。それも、子どもの頃以来……」

その言葉に、御影は目を見開いた。

「母……? 子どもの時……?」

翼は小さく頷く。

「最後に飲んだのは、いつ?」
「……八歳」
「それ以降は?」
「……誰の血も、飲んでない……」

御影は言葉を失った。

吸血種の身体は、吸血行為によってしか本来の栄養を得られない。
食事で補える部分もあるが、血を絶たれれば、いずれ身体は壊れる。

ダンピールだとしても、そんなことが可能なのか?

「……吸血衝動は、どうやって抑えてたの?」

「……吸血衝動?」

「さっきの君の状態だよ」

血を欲し、身体が熱を帯び、胸が苦しくなる。
人によっては自我を失い、見境なく人を襲うこともあるそれが吸血衝動。

「……言いたくない……」

翼は目を伏せた。

言えなかった。
吸血衝動を抑えるために、自分を傷つけていたこと。
痛みで意識を散らし、どうしようもない夜をやり過ごしてきたこと。
耐えられない夜には、流れる自分の血を啜ったことさえ…。
御影は、黙り込む翼の制服の袖から覗く、細い手首に目を向けた。
そこに走る、いくつもの古い切り傷。

なるほど。

「……誰も、教えてくれなかったんだね」

その言葉に、翼は顔を上げる。

見つめ返してきた御影の瞳は、あまりにも暗かった。
光を映さない、底の見えない闇。
翼を見ているはずなのに、彼女自身を見ていないような視線。

その暗闇に、吸い込まれてしまいそうだった。

―キーン、コーン、カーン、コーン。

学校中に響き渡るチャイムの音。
それを聞いた瞬間、翼ははっとして、ドアの前に立つ御影を押しのけた。

「早く、出て!」

突然の行動に、御影は「何だ?」と言いたげに首を傾げる。
だが翼は構わず、彼の手首を掴んで女子トイレから引きずり出した。

チャイムが鳴った。
次は昼休みだ。

昼休みの女子トイレは、人で溢れ返る。
そこで男が見つかれば大騒ぎになる。
しかも相手は【リデルガ】の吸血種で、目立つほど整った容姿をしている。

大混乱どころじゃない。

そこまで考えた翼は、御影の手を引いたまま、人気のない屋上へ続く階段の踊り場へと、無我夢中で走った。

「そんなに走って……大丈夫?」

背後から、どこか余裕のある声が聞こえる。
だが翼は返事もせず、ただ前だけを見て走った。

その瞬間。
視界が、ぐらりと歪む。

「……ぁ……」

脚がもつれ、体勢を崩した翼の身体が前に倒れかける。
だが、次の瞬間…ぐいっと、後ろに引き戻された。
耳元で、すぐ近くから声がする。

「……だから、言ったのに」

気づけば、御影の腕が翼の腰に回され、身体を支えていた。

その時。
階下から、複数の生徒たちの声が聞こえ始める。
廊下に人が溢れ出したのが、はっきりと分かった。

まずい。

そう思った瞬間、翼の視界が突然、闇に覆われた。

「……え? ちょっ……」

御影の手が、そっと翼の目を覆っていた。

「……また後で、説明するよ」

その囁きと同時に、翼の意識は、静かに闇へと沈んでいった。








『分かる!?知られちゃいけないの!絶対によ!』


いつもそうだ。
私の記憶の中の母は、いつも怒った顔。
高い金切り声で怒鳴り散らしては、私を殴る。

『お母さん…』

泣いて謝ってもいつも彼女は許してくれない。

『どうしてわからないの!?』

いつもどうして?って聞く。
私にだって分からないのに…。

『痛い!痛いよ…お母さん…』

お願い殴らないで…
怒らないで…

『…可哀想な子、どうして産まれてきたの…』


どうして?
それは私が1番知りたいよ…





どうして…私を産んだの?










頭がボーッとする。瞼が重い。
何か夢を見ていたような気がするけど、内容は思い出せない。

身体が一定のリズムで揺れる。
まるで、何かの乗り物に乗っているみたい……。

その瞬間、翼は意識を取り戻し、ガバッと上半身を起こした。

「お目覚めですか?」

振り返ると、【リデルガ】の住人である御影が、にこりと笑ってこちらを見ていた。
どうやら翼は、知らぬ間に御影の膝の上で眠っていたらしい。

周囲を見渡すと、車の中だった。
窓の外に目をやると、見覚えのある景色が流れていく。

「…家……?」

つぶやいた声に、御影は淡々と答えた。

「君の家に向かっています」
「……なんで?」
「記憶を消すため」
「……記憶、誰の?」
「君の母親の……」
「どうして……?」
「君はこれから【リデルガ】で生活することになるからかな」

サラッと言い放たれた衝撃的な事実に、翼の体が小さく震えた。
ダンピールだとバレれば、【リアゾン】の国のトップに消されるかもしれない。
でも、まさか自分が【リデルガ】に行くなんて…そんな想像は一度もしていなかった。

「なんで、私が【リデルガ】に行かなきゃならないの……」
「このまま【リアゾン】にいる方が、危険だから」

御影の言葉は、確かに理にかなっている。
いつ自分が暴走して誰かを傷つけるかわからない存在を、人間の傍に置くわけにはいかない。

「……記憶……? 記憶って、何の記憶を消すの?」

母親の記憶を消す? 自分が違う世界で暮らす?
頭がぐるぐると混乱し、理解が追いつかない。

御影の言う“母親の記憶”それは一体、何を意味するのか。
翼の心臓は、今までにない速さで脈を打ち始めた。

「母親の中にある、君の記憶を全て消す」

その言葉を聞いて、翼は咄嗟に返す言葉を失った。
御影の表情は真剣で、冗談や嘘を言っているようには見えない。

吸血種は、そんなことまで出来るの?

記憶をどうやって消すのか。
そんな疑問よりも先に、翼の頭に溢れてきたのは母との記憶だった。

翼にとっての母親は、いつも怒っているか、泣いているか、そのどちらかだった。
そして、その原因はいつだって翼自身だった。

自分を産んでしまったせいで、母は苦しみ、悩み続けてきた。
終わりの見えない、たった二人だけの世界で。
それは今も、昔も、何一つ変わっていない。

もし、母の中から私の記憶を全部消したら?

何かが、変わるのだろうか。

私が消えれば、お母さんは楽になれる?

「……何も言わないんだね。君との思い出も、全部消えるんだよ」

「……うん」

「君は、母親の中で、そもそも“いなかった”ことになる」

「……それが、一番いいのかもしれない」

消え入りそうな翼の声に、御影はわずかに眉をひそめた。
けれど、それ以上、何も言わなかった。

それから家に着くまで、車内は張りつめた静けさに包まれていた。
誰も、何も、口にしない。
ただ、エンジン音だけが淡々と響いている。

これで、やっと母を解放してあげられる。

私から、逃がしてあげられる。

もともと、学校を卒業したら、翼に“自由”なんてなかった。
年々強くなる吸血衝動。
もう、自分ひとりの力では抑えきれなかった。

きっと、母も同じくらい、ずっと前から限界だった。

いつ終わるかも分からない衝動に苦しみ、暴れる娘を押さえつけ、泣きじゃくる翼に向かって「我慢しなさい!」と叫ぶしかない日々。

そんな地獄のような時間の中で、
いっそ、どちらかが死んだ方が楽なのではないか。
そう思ってしまった夜は、一度や二度じゃなかった。

高校を卒業したら、母は翼を部屋に閉じ込めるつもりだった。
そして翼自身もこの世界から消えるつもりでいた。

もう、疲れきっていた。

【リデルガ】に行った先で、何をされるかは分からない。
けれど、いつ人を襲うか分からない“化け物”の娘なんて、いない方がいいに決まっている。

それだけは、はっきりしていた。






見慣れた、小さな一軒家。
周りには他の家など見当たらず、自然の中にぽつんと佇んでいる。

車から降りると、翼の家の前に背の高い青年の姿が目に入った。
ブルーに近いグレーの髪を後ろで一つにまとめている。
御影と一緒に【リアゾン】に来ていた琉伽だった。

琉伽は翼たちに気づくと、軽く会釈をする。

「琉伽……どうだった?」
「問題ないよ」

その返事に御影は頷く。
翼には、ふたりが何の話をしているのか全く理解できなかった。

「じゃあ、行こうか」

御影は、翼の家の中へ足を進める。
その後ろを琉伽が静かに続いた。

しかし翼は、その場からまったく動けなかった。
母は、どんな顔をするのだろうか
何を言うのだろうか

化け物の娘が消えて、安堵するだろうか。
それとも……怒るだろうか。

頭の中は、そんな不安でいっぱいだった。

その様子を見て、御影が声をかける。

「何してんの……翼」

突然名前を呼ばれ、翼の身体がビクッと反応する。

名前……いつ、教えたんだっけ?

三人が翼の家に足を踏み入れた頃には、もう辺りは薄暗くなり始めていた。
靴を脱ぎ、廊下をまっすぐ進む。
リビングのすりガラスの扉から、暖かな光が漏れている。

-カチャ

翼がそっと開けたリビングの扉。
そこでは、翼の母親と思しき女性が夕食の支度を始めていた。

「…あら、お友達……じゃないわね」

三人に気づいた女性は、薄く笑みを浮かべる。
年の頃は四十前後。料理の手を止め、三人の前に歩み出た。

「…お母さん」

不安げに声を震わせて母を呼ぶ翼。
母は交互に御影と琉伽の姿を見つめ、静かに一言漏らした。

「…【リデルガ】の方よね」
「…はい。今からあなたの記憶を消させていただきます」

御影の言葉に、母は一瞬驚いた様子を見せたものの、すぐに淡々と「…そう」と呟く。
突然の訪問と奇妙な状況にも、特別な動揺は見せなかった。

母は御影と琉伽の間に立ち、どちらが記憶を消すのかとでも問うように、二人に視線を向ける。
すると、琉伽がそっと母の額に手をかざした。
母は静かに目を閉じ、その動作を受け入れる。

「ちょっと、待って!」

その空気を切り裂くように、翼は思わず声を上げた。
「…ぁ」
自分の声に、自分で驚く。
どうして止めてしまったのだろう。

記憶を消されようとする母の姿に、咄嗟に口が動いてしまった。
母にとっては、翼という“邪魔な娘”が消える、絶好の機会なのに。
分かっている……分かっているのに……

その様子を見ていた母は、ゆっくりと翼の目の前に歩み寄り、そっと頬に手を添えた。

「…お母さん」
「…ごめんね、翼」

母の口から、初めての謝罪の言葉がこぼれた。
悲しそうな瞳で、翼の頭を撫でる。

どうして、そんな目をするの……?

「お願いします」

母のその言葉を合図に、琉伽は静かに額へ手をかざした。
次の瞬間、眩い光が室内を満たす。

反射的に翼は目を閉じる。
そして、再び目を開けた時。

そこには、焦点の合わない目で一点を見つめる母の姿があった。

……ああ、消えたんだ。

胸の奥で、はっきりと実感する。

「琉伽、翼。行こうか」

御影は、ぼんやり立ち尽くす母を一瞥し、翼の手を取って玄関へ向かう。

「……あら、翼。どこへ行くの?」

その一言で、三人の動きがぴたりと止まった。

「……琉伽、消したよね?」
「……もちろん」
「……翼……翼って……」

母は混乱している様子だった。
消されたはずの記憶と、それに抗おうとする無意識が、激しくせめぎ合っている。

「……愛して、るわ。翼」

濁った意識の底から、絞り出すように零れた言葉。
その場にいた全員が、確かに聞いた。

「……あの人の……宝物……」

それを最後に、女は力を失い、その場に崩れるように眠りについた。

翼の足が震え、ぺたりと床に座り込む。

「……愛してる? なに、それ……」

思い出されるのは、怒った顔ばかり。
叩かれて、殴られて、罵倒されて…怯えることしか知らなかった幼少期。

吸血衝動に苦しんだ時でさえ、

『我慢なさい』

その一言で切り捨てられた。
抱きしめられたことも、慰められたこともない。
向けられるのは、いつも冷たい視線だけ。

そんな日々の中で、母と娘の間に「愛」なんて育つはずがなかった。

「……私のこと、邪魔だったんじゃないの?
 産まなきゃよかったって……そう思ってたんでしょ? ねえ、お母さん!!」

愛してるなんて、そんな言葉。
取り乱す翼を、御影は黙って見つめていた。

やがて、眠っていた母がゆっくりと目を開ける。
そして、目の前の翼に視線を向けた。

「……あなた、誰?」

完全に失われた記憶。
そこに、翼の居場所はもうなかった。

ぽつり、と。
床に涙が落ちる。

「……あら、泣いてるの? 大丈夫?」

そう言って、母は優しく翼の頭を撫でた。

ずっと、ずっと夢見ていた。
こんなふうに優しくされることを。
良い子でいようと、必死に頑張ってきた。

けれどこんな形で叶っても、胸に広がるのは、喜びではなかった。
ただ、どうしようもない虚しさだけが残っていた。

「翼……行くよ」

御影が、そっと腕を引く。
けれど、力の入らない身体では立ち上がることすらできなかった。

「……」

その様子を見て、琉伽が軽々と翼を抱き上げる。

「その子、大丈夫?」
「ええ。問題ありません。では、失礼します」

御影は穏やかな笑みを浮かべて答える。
母もまた、同じように微笑み返した。

そんな顔、私は知らない。

翼は、琉伽の胸に顔を埋めた。
もう、何も見たくなかった。
何も、聞きたくなかった。

最後にずっと、ずっと願っていたことが叶ってしまった。

けれど、それは喜びではなく、
胸を締めつけるだけの、残酷な結末だった。

さようなら、お母さん。










車に戻り、後部座席に三人並んで座る。
翼は中央に座らされると、ほどなくしてうつらうつらと意識を手放した。
感情の起伏が激しく、心身ともに疲れ切っていたのだろう。

赤く腫れた目を見れば、どれほど泣いたかは一目で分かる。

「……寝た、か」

御影は、翼の顔を覗き込み、小さく呟いた。
そして運転手に目配せし、車を出すよう合図を送る。

車は静かに発進し、【リデルガ】へと向かって走り出す。

「……大丈夫?」

琉伽の問いに、御影は視線を向けた。

「何が」
「御影も、かなり動揺したんじゃないかと思って」

少しの沈黙のあと、御影は吐き捨てるように言った。

「……余計、母親という生き物が理解できなくなった」

琉伽の能力が一度で完全に効かなかったことも予想外だった。
だがそれ以上に、母親の最後の言葉を聞いた翼の反応が、あまりにも痛々しかった。

「愛してる」と告げられながら、
彼女は一度も愛されていると感じたことがなかったのだろう。

むしろ自分は嫌われている。
邪魔な存在で、いなくなったほうがいい子。

そう思いながら、生きてきた。

そんな人間に向かって、突然「愛してる」と告げれば、それは救いではなく、刃になる。

御影は、流れていく窓の外の景色を見つめ、それ以上考えるのをやめた。








「はあい! これが教科書ね! それからこれが制服!」

翼の目の前の机の上に、教科書や日用品が次々と積み上げられていく。
それを用意しているのは、サラサラの髪をツインテールにした吸血種の少女だった。

彼女は目をきらきらと輝かせ、身振り手振りを交えながら一生懸命に説明してくる。
そのあまりの勢いに、翼は圧倒されながらも、黙って話を聞いていた。

おかしい。

どう考えても、おかしい。

監禁される覚悟はしてきた。
下手をすれば人体実験だってあるかもしれない。
そんな最悪の想像を胸に抱いて【リデルガ】へ来たというのに。

目の前では、ルンルン気分で説明を続ける少女がいる。

拍子抜けするほど穏やかな時間。
しかも案内されたのは、目を疑うほど大きな屋敷の一室だった。
緊張で張りつめていた心が、行き場を失って宙ぶらりんになる。

「とりあえず……こんなところかなぁ。あとは追々って感じで!
欲しいものがあったら御影に言ってね! きっと用意してくれると思うし!」

そう言って、彼女はにこっと笑った。

その無邪気な笑顔に、翼は改めて思う。
やっぱり、この子も吸血種なんだ。
人間離れした整った顔立ちが、それを否応なく実感させる。

「あっ! 自己紹介まだだったね!
私、真理愛(まりあ)って言います! よろしくね、翼ちゃん」

「……よろしく……」

少し遅れて返事をすると、真理愛はさらに身を乗り出してくる。

「今日から、御影の家で生活するんだよね!」

「……そうなの……?」

その言葉に、翼自身が一番驚いていた。

真理愛はぱちりと目を見開き、大きなソファにどっしりと腰掛けている御影を、じっと睨みつける。

「ちょっとぉぉぉ! 何も説明してないわけ!?
説明くらいしなさいよ!!」

「……うるさ」

「なに言ったぁぁぁ!?」

御影はぷいっとそっぽを向き、真理愛の抗議をまともに聞こうともしない。
二人はそのまま、子どもの喧嘩のような言い合いを続け始めた。

その様子を眺めながら、翼はふと思う。
仲、いいんだな……。

言い合いが続くあいだ、翼はそっと部屋を見渡した。
壁紙には花の模様があしらわれ、天井からは大きなシャンデリアが下がっている。

金持ち、という言葉では足りない。
桁が、明らかに違う。

この人の家……というか、親って、一体何者なんだろう。

「ああ、もう。うるさい。行くよ、翼」

「……え?」

唐突に、御影が翼の手首を掴み、半ば強引に立たせる。

「ちょっと! 荷物は!?」

机の上には、さっき並べられたばかりの荷物がそのまま残っている。

「後で誰かに持ってこさせて。じゃ」

「もぉぉぉ!!」

扉が閉まる直前、真理愛の叫び声が部屋いっぱいに響いた。

御影は広く長い廊下を、翼の手首を掴んだまま、迷いなく歩いていく。
足取りは早く、目的地を知っている様子だった。

どこに、連れていかれるんだろう。
不安が胸に広がり、翼は思わず声をかけた。

「……あの」

「…………」

「……ねえ」

「…………」

ようやく足を止め、御影は振り返る。

「御影。名前。御影だから」

「……ああ、うん」

呼べ、と言わんばかりの視線を向けてくる。

「……御影」

「うん。なに? 翼」

名前を呼ばれて、胸が少しだけざわついた。

「……私、これからどうすればいいの?
なんで、ここに連れてこられたの……?」

ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問。
ようやく、口にすることができた。

「はぁ……」

御影は大きくため息をつく。

その反応に、翼の頭の中に小さな疑問符が浮かんだ。

「君はこれから、【学園】に通ってもらう」

御影は淡々と言った。

「まだ十八歳、未成年だしね。勉学は必要だ。
もちろん吸血種が通う学校だから、安心していいよ」

そう言い残すと、彼はまた歩き出す。

【リデルガ】の学校に通う。
それだけでも十分すぎるほど驚きだったが、翼の胸に残る疑問は消えなかった。

「……私、監禁されるんじゃないの……?」

「はぁ!? 誰がそんなこと言ったの?」

「……いや、別に誰も言ってないけど……」

「ここは【リデルガ】だ。【リアゾン】じゃない。吸血種しかいない世界だよ」

御影は振り返らずに続ける。

「監禁する意味も、必要もない」

じゃあ……。

「……普通に、生活していいの……?」

恐る恐る口にすると、御影は少しだけ間を置いて答えた。

「そのつもりで連れてきたんだけど?」

あまりにもあっさりとした言葉だった。
彼はそれ以上何も言わず、再び前を向いて廊下を歩いていく。

ずっと、ずっと憧れていた。

“普通”に。

当たり前のように学校へ行き、
当たり前のように誰かと笑って、
怯えずに夜を迎えること。

この世界なら【リデルガ】なら私は、“普通”になれるのだろうか。