六花専用室は、いつもと変わらない放課後の匂いがしていた。
窓から差し込む夕方の光。
少し冷めかけた紅茶の香り。
椅子を引く音と、紙をめくる音が、静かに混じり合っている。
「今日は人多いねー」
真理愛は、ソファに腰を下ろしながらそう言った。
御影、翼、愁、壱夜。
それに今日は珍しく、庵とかぐやまでいる。
放課後に、これだけ揃うのは久しぶりだった。
「たまにはこういう日もいいでしょ」
壱夜が、いつも通りの軽い調子で答える。
真理愛は頷きながら、ぐるりと室内を見回した。
――なのに。
胸の奥に、ほんの小さな引っかかりが残る。
(……あれ?)
御影は、手元の本を読んでいるはずなのに、ページをめくる手が止まりがちだ。
視線も、文字ではなく、どこか遠くを見ているように見える。
翼は窓際に座って、外を眺めている。
ぼんやりと、まるで庭の薔薇越しに、別の何かを見ているみたいに。
愁は、会話に加わりながらも、全体を静かに見渡していた。
壱夜と真理愛、御影と翼。
その視線が、時折、忙しなく行き交う。
庵は、いつもより口数が少ない。
かぐやの隣に座っているのに、視線を合わせようとしない。
かぐやは、穏やかな微笑みを浮かべている。
でも、その笑顔はどこか張り付いたようで、少しだけ硬い。
(……変、だよね)
真理愛は首を傾げた。
「ねえ壱夜」
小声で囁くと、壱夜が顔を向ける。
「んー?」
「今日さ……なんか、みんな変じゃない?」
壱夜は一瞬きょとんとしたあと、室内を見回して肩をすくめた。
「そう? いつも通りじゃない?」
その答えに、真理愛は小さく息を吐いた。
(……そっか。私だけ、なのかな)
違和感の正体が分からないまま、会話はまた他愛のない話題へ戻っていく。
その時だった。
翼が、ふいに立ち上がった。
「……ちょっと、外行ってくる」
その声は静かで、理由も添えられていない。
「ん? 散歩?」
壱夜が軽く聞くが、翼は小さく頷くだけだった。
「すぐ戻るから」
そう言って、扉へ向かう。
真理愛は、なぜか目で追ってしまった。
――いつもなら、気にも留めないはずなのに。
翼の背中が、扉の向こうへ消える直前。
ほんの一瞬だけ、立ち止まったように見えた。
(……気のせい、だよね)
扉が閉まる。
ぱたん、と小さな音。
その瞬間、六花専用室の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。
理由は、分からない。
けれど真理愛の胸に、説明できないざわめきだけが、静かに残っていた。
◇
翼は気づけば、学園の中を当てもなく歩いていた。
どこへ向かうつもりだったのか、自分でも分からない。
回廊を抜け、石畳を踏みしめ、風に揺れる薔薇の垣根を横目に通り過ぎる。
見慣れたはずの景色が、なぜか今日はやけに広く、遠く感じられた。
(……おかしい)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
おかしいのは、今日の放課後だけじゃない。
御影の様子も、ここ最近ずっと変だった。
視線の向け方、言葉を選ぶ間。
ふと生まれる、不自然な沈黙。
理由なんて、はっきりしない。
それでも、翼の中の何かが確かに訴えていた。
――違う、と。
――薔薇摘みの儀式。
ふいに、あの古い本の一節が脳裏をよぎる。
赤い装丁。掠れた文字。
“その一方は、影へと堕ちる。”
あの一文。
(……考えすぎ、だよね)
自分に言い聞かせるように、翼は足を止めた。
御影に聞けばいい。
そうすればきっと「お祖父様が作った、ただの空想の物語だよ」そう言って、笑ってくれるはずだ。
「大丈夫だよ」
「何もない」
その言葉が、容易に想像できてしまうからこそ、翼は声をかけられなかった。
もし、自分の感じている違和感が本当だったら。
もし、その一言で、御影の何かを揺らしてしまったら
そんなこと、できない。
分からない。
どうすればいいのか。
心配しているのに、踏み込めない。
信じたいのに、目を逸らせない。
学園を抜ける風が、薔薇の香りを運んでくる。
甘さの奥に、ほんのわずか混じる鉄の匂い。
その気配に、翼は無意識のうちに指先を握りしめた。
(……ねえ、御影)
問いかけは、声になることなく、胸の奥へと静かに沈んでいった。
――その時。
ふわりと、濃い花の香りが鼻先を掠める。
翼は思わず顔を上げた。
そこには、薔薇が咲き誇る中庭が広がっていた。
蔦に絡むように伸びる枝。
赤、白、深い黒に近い紫――
いくつもの色が折り重なり、視界を埋め尽くしている。
(……こんな場所、あったっけ)
学園の中にあるはずなのに、記憶のどこを探っても思い当たらない。
それでも、翼の足は自然と前へ進んでいた。
薔薇の垣根に、そっと近づく。
「……本物……」
思わず零れた声は、ひどく小さかった。
触れれば確かにそこにあると分かる、瑞々しい花弁と、鋭い棘。
――作り物ではない。
本物の薔薇が、一面に咲き誇っている。
辺りを見渡す。
静かすぎる。
人の気配が、まるでない。
(……学園に、こんな場所……)
見覚えは、やはりなかった。
それなのに。
胸の奥が、ざわりと揺れる。
怖いはずなのに、目を離せない。
翼は、息をするのも忘れて、ただその美しい薔薇の群れに見惚れていた。
――ぼうっと、何も考えずに。
伸ばした指先が、花弁に触れた、その瞬間。
チクッ、と。
鋭い痛みが、走る。
「……っ、痛……」
はっとして手を引き、指先を見る。
つう、と。
赤い雫が、白い肌を伝って落ちた。
薔薇の棘で、指を切ってしまったのだ。
鮮やかな血の色が、薔薇の赤と、不気味なほどよく似ていた。
赤い雫が、ぽたりと石畳に落ちる。
「……あ」
思わず息を詰めた、その瞬間だった。
「――動かないで」
低く、落ち着いた声。
聞き慣れた声色に、翼の肩が小さく跳ねる。
「……御影?」
振り返ろうとした刹那、そっと手首を取られた。
「血が出てる」
その言葉と同時に、清潔なハンカチが指先に当てられる。
優しく、けれど迷いのない手つき。
「薔薇の棘だね。……油断すると、深く切っちゃうから」
「ご、ごめん……ぼーっとしてて……」
「いいよ。誰でもやるから」
御影らしい、少し素っ気ない言い方。
それなのに、指先を包む動作はひどく丁寧だった。
ぎゅ、と軽く圧がかかる。
「……少し、痛む?」
「ううん……大丈夫」
そう答えながら、翼は胸の奥で小さく息をついた。
――良かった。
御影だ。
いつもの、御影。
そう思った、はずなのに。
(……あれ?)
違和感が、ほんのわずか、引っかかる。
距離が、近い。
近すぎる気がした。
御影は、こんなふうに無言で長く触れ続けただろうか。
視線を落とすと、彼はじっと、翼の指先を見つめている。
まるで――血の色を、確かめるように。
「……御影?」
呼びかけると、一瞬だけ、彼の手が止まった。
「どうしたの」
返ってきた声は、確かに御影のもの。
けれど、その前にわずかな“間”があった。
(……今の、間……)
いつもなら、もっと即座に返ってくる。
「……その、ありがとう。手当て」
「当然」
短く、言い切る。
けれど、その直後――ふっと、視線が逸れた。
(……こんな仕草、する?)
胸の奥が、ざわりと波立つ。
御影は、翼の目を見る時、いつもほんの少しだけ視線を下げる。
なのに今は――合わない。
避けるように、逸らされている。
「……」
沈黙が落ちる。
風が吹き、薔薇の香りが濃くなる。
その甘さの奥に、先ほどよりも強い、鉄の匂い。
「……もう、血は止まった」
そう言って、彼はゆっくりとハンカチを離した。
その指先が、ほんの一瞬、名残惜しそうに翼の手を撫でる。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
(……御影、そんな触り方……)
しない。
翼は、はっきりそう思った。
顔を上げる。
「……ねえ」
その呼びかけに、彼は一拍置いてから、翼を見る。
その瞳。
同じ色のはずなのに――どこか、底が見えない。
「……何?」
御影の顔をした“誰か”が、静かに、意味ありげに微笑んでいた。
翼は言葉を失ったまま、ただその視線を受け止めていた。
すると――
「……そんなに不安そうな顔、するんだ」
一拍置いて、
「可愛いね」
その瞬間、翼の中で、何かがはっきりと音を立てて崩れた。
(……違う)
御影は、こんなことを言わない。
優しくても、ぶっきらぼうでも、どんな時でも――
人の不安を、こんなふうに“可愛い”なんて言葉で包んだりしない。
胸の奥が、ひやりと冷える。
目の前にいるのは、御影の顔をした、別の誰かだ。
そう思った途端、薔薇の香りが、急に濃くなった気がした。
翼は距離を取るように、そっと一歩、後ずさる。
「……どうしたの? 翼」
御影によく似たその人物は、翼が“気づいている”ことを察しているはずなのに、まるでそれすら楽しむように、微笑んでいる。
その不気味さに、翼の手は、抑えきれず震えた。
「……誰、」
掠れた声で、ただ一言。
「誰って。御影だよ」
まだ、シラを切るつもりらしい。
「……違う」
翼がそう告げた瞬間、男の微笑みが、すっと消えた。
無表情。
一瞬の沈黙のあと――
「えー、もう終わり?」
間延びした声。
冗談のような口調。
翼は、意味が理解できず、言葉を失う。
「もっと御影のふり、したかったのに」
次の瞬間、男は翼の手首を掴み、強く引き寄せた。
「ねえ、僕――御影のふり、上手だった?」
距離が、近い。
「ねえ? どうだった?」
覗き込んでくるその瞳は、無邪気で、幼くて――
だからこそ、底知れない。
まるで、遊びの途中で種明かしをする子供。
その得体の知れなさに、翼の内側は、静かな恐怖で満たされていった。
「……」
無意識に、呼吸が浅くなる。
「聞いてるんだけど〜。君、耳聞こえてないの〜?」
軽い調子でそう言うと、男はくるりと背を向け、薔薇の方へと歩き出した。
ためらいもなく、手を伸ばす。
ばき、と嫌な音を立てて枝が折れ、鋭い棘が、男の掌に深く食い込んだ。
ぽたり、ぽたり。
赤い血が、石畳へと落ちていく。
それでも男は顔色ひとつ変えず、ただ摘み取った薔薇を、愛おしそうに眺めていた。
「御影ってさ〜」
くすり、と小さく笑う。
「小さい頃から、すっごい泣き虫で」
指先から血を垂らしたまま、花弁をなぞる。
「俺がいないとダメでさ。すぐ袖掴んで、離れなくて」
まるで、懐かしい遊びを思い出すみたいに。
「……笑っちゃうよね」
男は楽しそうに、心から可笑しそうに言った。
「本当に、可愛かったんだ」
その言葉が落ちた瞬間、翼の背筋を、冷たいものが一気に駆け上がった。
――それは、御影を知っている“語り口”だった。
でも、御影を懐かしむ人間の目じゃない。
過去を“所有物”のように扱う、目。
翼は、息を飲んだまま、一歩も動けずに立ち尽くしていた。
「今の御影は、俺のこと覚えてないから」
男はそう言って、翼の瞳を真っ直ぐに見た。
「寂しいよね。兄弟に、忘れられるのは」
にこり、と笑う。
その笑顔は、どこまでも穏やかで、だからこそ、ひどく残酷だった。
「ねえ、翼」
名前を呼ばれただけで、胸の奥を、ぎゅっと掴まれた気がした。
「薔薇摘みの儀式って、知ってる?」
翼の喉が、ひくりと鳴る。
「……」
答えない。
答えられない。
男はそれを否定とも肯定とも取らず、楽しげに言葉を続けた。
「大切なものを摘む儀式。血を流して、選ぶやつ」
手にした薔薇を、くるりと弄ぶ。
滴る血が、花弁を濡らしていく。
「昔さ、僕もやったんだよ」
さらりと。
まるで、無邪気な思い出話みたいに。
「どっちを選ぶか、決めるやつ」
その瞬間、翼の脳裏に、古い本の一節が閃いた。
――その一方は、影へと堕ちる。
「御影はさ」
男は、翼から目を逸らさずに言う。
「僕を選んでくれると思ってた」
一拍。
「けど、違ったんだ〜」
その声音は、軽い。
あまりにも軽い。
「そしてね」
男は、一歩、翼に近づいた。
「みんな、御影を選んだ」
薔薇の香りが、急激に濃くなる。
「誰ひとり、僕を選んでくれなかった」
その言葉が、翼の胸の奥に、深く、冷たく突き刺さる。
「ねえ、翼」
男は、秘密を打ち明けるように、声を落とした。
「君は、どっちを選ぶ?」
逃げ場のない問い。
中庭の薔薇が、ざわり、と一斉に揺れた。
「………」
答えられずにいる翼を見て、男は軽く肩をすくめる。
「はい、時間切れ」
そう言うと、手にしていた薔薇をふわりと放り投げた。
「こういう時は、素早く答えなきゃね」
その無邪気さと不気味さの混じった態度に、翼は背筋がぞくりとした。
すると、何もない空間から、黒いモヤのようなものがふわりと立ち上る。
翼が目を見開き、思わず後ずさると、男はにっこりと笑って言った。
「また、遊ぼうね、翼」
その言葉と同時に、男は黒いモヤの中に吸い込まれるように消えた。
その瞬間、世界がグラッと揺れ、視界が歪んだ気がした。
咄嗟に翼は目を瞑り、ゆっくりと開く。
目に映ったのは――見慣れた【学園】の中庭だった。
翼は、薔薇の間に立ち尽くし、必死に息を整えようとしていた。
しかし、胸の奥のざわつきは一向に収まらない。
そのとき――
「翼、どこにいるんだ?」
低く、少し焦った声。
振り返ると、御影が歩いてきていた。
その視線が翼を捉えた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……御影」
かすれた声は震え、自然に出るはずの言葉も、思わず揺れた。
普段なら柔らかく微笑む御影の表情が、今は眉を寄せ、心配の色を帯びている。
そして、その視線が翼の指先に止まった。
「……その手、どうしたの?」
翼は咄嗟に手を引っ込める。
見せるべきか、隠すべきか――迷いの中で、胸の奥がきゅうっと痛む。
「……ちょっと、切っただけ」
小さな声。
でも翼自身、その言葉の軽さが無意味であることを、痛いほど理解していた。
嘘でも、事実を言う勇気も、まだ出ない。
御影の表情が微かに変わる。
眉間にしわが寄り、胸の奥に静かな不安が滲む。
「……切っただけ、か」
言葉の端々に、心配と違和感が混じる。
翼はその視線に耐えながら、言葉を飲み込む。
答えれば、御影をさらに不安にさせるかもしれない――
黙っていたほうが、まだ安全な気がした。
「……御影」
御影が一歩、翼に近づく。
その距離に、翼は思わず息を呑む。
「……大丈夫、」
御影の声は優しく、でもどこか切なげで――
翼の胸の奥に、さらに冷たい緊張が流れ込む。
答えない翼の手に、御影の手がそっと触れる。
暖かさが伝わる一方で、胸の奥には底知れぬ恐怖が残る。
言葉にしたら、御影を巻き込む――
黙れば、翼自身が苦しい――
その狭間で、翼はただ、小さくうなずくしかできなかった。
静かな中庭に、二人の呼吸だけがかすかに重なる。
薔薇の香りは甘く、しかしわずかに鉄を含んだように濃く漂っていた。



