「かぐや様、申し訳ございません。庵様は本日、お屋敷にはいらっしゃいません」
玄関先でそう告げられ、かぐやは思わず瞬きをした。
「……外出されているのですか?」
使用人は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まったように視線を伏せる。
「……はい。ただ、行き先はお知らせにならずに」
そのわずかな間が、かぐやの胸に小さな違和感を残した。
「……そう、ですか」
それ以上は尋ねなかった。
問いを重ねれば、返ってくる沈黙が長くなることを、かぐやは知っている。
静かに頭を下げ、踵を返す。
屋敷を離れながらも、胸の奥に残った引っかかりは消えなかった。
――庵様が、行き先を告げずに出るなど、これまであっただろうか。
答えは、浮かばない。
不意に吹いた風がスカートを揺らし、かぐやは無意識に足を止めた。
『琉伽へのあれは“執着”、執着!」』
ふと、壱夜の声が脳裏に蘇る。
皆で御影の別荘を訪れたあの日。
琉伽が体調を崩したと知るや否や、庵が真っ先に琉伽の部屋へ向かった、その背を見て漏らした言葉だった。
執着。
その響きが、胸の奥で静かに反芻される。
かぐやは、ゆっくりと息を整えた。
そして―― 一歩、踏み出す。
行き先は、もう決まっていた。
「庵? 来てないよ」
迷いのない声が響く。
かぐやは胸の奥で、ひそかな違和感がざわつくのを感じた。
――庵様は、琉伽様を心配して桃李家の屋敷に来ているはずだと思っていたのに。
「……そう、ですか」
かぐやの声は静かだが、どこか硬さを帯びていた。
「庵、いないの?」
琉伽は目を伏せ、短く息を吐く。
「何処かに出かけたみたいで……」
かぐやはわずかに唇を噛み、視線をそらした。
胸の奥で芽生えた不安が、じわりと確かなものになっていく。
「………」
琉伽もまた、庵の行き先について見当がつかない様子だった。
――ただの外出。なのに、どうしてこんなに引っかかるのだろう。
かぐやは小さく息を整え、軽く頭を下げる。
そして、静かに桃李家を後にした。
桃李家を後にして、かぐやは南雲家へと足を向けた。
もしかしたら、もう入れ違いになって帰っているかもしれない――
そんな淡い希望を胸に、歩みを進める。
そのとき。
視界の先に、見慣れた黒髪が映った。
「……庵、様」
南雲家の屋敷の前に立つ、その後ろ姿。
どこかから戻ってきたばかりのようだった。
――良かった。
胸の奥に溜まっていた緊張が、わずかにほどける。
「庵様!」
呼びかけると、庵は振り返った。
「かぐや……どうかしたか?」
その問いに、かぐやは一瞬だけ言葉を探す。
「クッキーを焼いたので、おすそ分けに」
そう告げると、庵の表情がほんのわずかに緩んだ。
安堵の色――それを、かぐやは見逃さなかった。
「ああ、そうか。ありがとう」
差し出された袋を受け取りながら、かぐやは迷いを飲み込む。
聞くべきではない。
そう思いながらも、胸に残る違和感が、口を開かせた。
「……庵様は、どちらへ?」
不躾だと分かっている。
けれど、どうしても確かめずにはいられなかった。
「……琉伽のところに。様子を見に行っていた」
その瞬間、全身の血の気が引く。
――今、桃李家にいたのは、かぐや自身だ。
本当に庵が琉伽のもとを訪れていたのなら、どこかですれ違っているはずだった。
では。
琉伽が嘘をついたのか。
それとも――庵が。
答えに辿り着く前に、かぐやは思考を断ち切った。
悟られてはいけない。
「……そうだったのですね」
微笑みを浮かべ、静かに頷く。
その仮面の下で、胸の奥に冷たい不安が、静かに積もっていた。
◇
御影の屋敷は、夕方になると静けさが増す。
廊下を歩くたび、足音がやけに響く気がして、
翼は気分転換に厨房へ向かった。
使用人が、いつもおやつを用意してくれている。
最初は遠慮していた。
けれど「御影様の分も用意しているから」と言われ、
それからは、自然と足が向くようになった。
――密かに、この時間を楽しみにしている自分がいる。
甘い香りの焼き菓子を手に、部屋へ戻る。
扉を開けた、その瞬間。
違和感が、肌を撫でた。
――机の上に、本がある。
さっきまで、確かに何もなかった。
置き忘れでもなければ、
誰かが片付けた形跡もない。
翼は、無意識に歩みを緩め、
ゆっくりと机へ近づいた。
表紙に描かれているのは、絡み合う薔薇の意匠。
そして、そこに刻まれた文字。
『薔薇摘みの儀式』
喉の奥が、ひくりと鳴る。
御影の別荘で見た本だ。
あの時、いつの間にか姿を消していた――
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「……なんで、ここに……?」
呟きは、部屋に落ちて消える。
翼は手にしていたサービングトレイをそっと机の端に置き、本を持ち上げた。
――あの日。
御影の祖父の部屋から、忽然と消えたはずの本。
指先が、わずかに震える。
それでも、翼はページをめくった。
私たちは、大いなる過ちを犯した。
二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、
すべてを、ここに記す。
あの忌まわしき――
薔薇摘みの儀式。
いや、正確には――
薔薇罪の儀式について――。
見覚えのある文章が、目に飛び込んでくる。
――以前、確かに読んだ。
翼は、息を詰めたまま、
二ページ目に手をかける。
我らは、
それが罪であると理解していながら、目を背けた。
薔薇が赤く染まる理由を、
血の匂いが消えぬ理由を、
「必要な犠牲」という言葉で覆い隠した。
だが、儀式の後に残ったものは、救済ではなかった。
後悔と、取り戻せぬ時間と、
そして――消せぬ呪いだった。
――消せぬ、呪い……?
翼は、思わず唇を噛みしめる。
意味が、わからない。
この記録が本当に伝えようとしていることが、
何を指しているのか――掴めなかった。
そして、そこにはこう記されていた。
これは、私の罪だ。
新たな悲劇を生んでしまった。
そしてまた、双つに分かれしものが生まれ、
その一方は、影へと堕ちる。
──双つに、分かれしもの……。
翼は、心の中で繰り返す。
「……双子……?」
その瞬間、
御影の別荘で目にした、あの写真が脳裏に浮かんだ。
御影と、酷似した少年の姿。
──あの子は、御影の双子の兄弟……。
その一方は、影へと堕ちる。
「……影……」
──御影の兄弟は、どこへ行ったの……?
翼の手が、かすかに震えた。
この本が示す意味。
そして、御影の兄弟の行方。
翼は、
気づいてはいけない何かに、
触れてしまいそうな気がして――
ゆっくりと、本を閉じた。
◇
コツン、コツンと、廊下に靴音が響く。
御影の別荘から戻ってきてから、どうにも彼の様子がおかしい――
愁は、ずっとそう感じていた。
琉伽は体調を崩しがちで、
弦里は相変わらず過保護なくらい桃李家に顔を出している、という噂も耳に入る。
それでも、この胸に引っかかる違和感は消えなかった。
愁は鋳薔薇家の長い廊下を歩き、御影の部屋へ向かっていた。
真っ直ぐ進んでいた、その時。
ふと横目に、見覚えのある背中が映る。
足が、自然と止まった。
――書庫。
鋳薔薇家が誇る、広く、静かな大書庫。
高い棚に囲まれたその奥で、御影は一心に書物を漁っていた。
愁は小さく息を吐き、書庫の扉へと視線を向ける。
静かに中へ足を踏み入れる。
御影は、まだ気づいていない。
背後から驚かせてやろうか――
そんな悪戯心が一瞬よぎるが、すぐに押し殺す。
愁は、静かに口を開いた。
「御影」
大きくも、小さくもない声。
それでも――
「……っ」
御影ははっきりと肩を跳ねさせ、目を見開いて振り返った。
「……愁」
その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
その反応に、愁はわずかに眉を寄せる。
「……調べもの、か?」
御影は一拍置いて、「……あぁ」と短く頷いた。
最近、この【リデルガ】では色々なことが起きていた。
舞踏会の子どもたち。
密かに行われていた、貴族たちによる人間を使ったタチの悪い遊び。
それらに纏わる真相は、すべて上が処理し、
残されたのは断片的な噂と、憶測だけだった。
御影は次期当主だ。
表に出ない部分で、相当切羽詰まっているのかもしれない。
愁は、焦りを隠そうともしない御影の様子を見つめ、問いかけた。
「……大丈夫か?」
その言葉に、御影の瞳が一瞬揺れる。
だが返ってきたのは、冷えた声だった。
「……何が」
「何がって……」
愁は、御影が広げている書物に視線を落とす。
悲惨な事件の記録。
歪んだ歴史の断片。
そして――鋳薔薇家の家系図。
無意識のうちに、視線が釘付けになる。
沈黙する愁に、御影が低く言った。
「……用がないなら帰って。今、忙しい」
その言葉に、愁は顔を上げる。
「忙しいって、何を調べてるんだ? 御影」
御影の眉が、わずかに動いた。
答えない。
「ここ最近、お前ずっと変だぞ。
顔色も、言動も……何かに追われてるみたいで」
「気のせいだよ」
即答だった。
その速さが、逆に不自然だった。
「そうやって、すぐ切るところが変なんだよ」
その瞬間。
御影の手が、ぴたりと止まった。
◇
愁が、言葉を探すように御影を見つめている。
その視線が、痛い。
――言えるわけがない。
胸の奥で、押し込めていたものが、
愁の一言で、無遠慮に引きずり出される。
蘇るのは、忘れたはずの記憶。
幼い頃の姉の笑顔。
そして――
自分と同じ顔をした、もう一人の存在。
双子の兄弟。
なぜ、今ここにいないのか。
なぜ、誰もその行方を語ろうとしなかったのか。
問いは、何度も胸を刺す。
――そして。
陸玖が見たという、
“御影に酷似した人物”。
あれは、偶然などではない。
黎影。
その名が、喉の奥で絡みつく。
だが――
これまで、どこにいた?
何をしていた?
なぜ、今になって姿を現した?
答えは、一つも掴めていない。
それなのに、
確信だけが、冷たい重さを伴って沈んでいく。
――知ってしまった、もう戻れない。
御影は、ゆっくりと息を吐いた。
愁の前で、これ以上崩れるわけにはいかなかった。
「…ごめん」
絞り出せたのは、たったその一言だけ。
愁は一瞬、何か言いかけたようだったが、
やがてそれを飲み込んだ。
代わりに、御影の肩へと手を置き、ぽん、と軽く叩く。
それだけで、すべてを察したかのように、愁は書庫を後にした。
「……っ」
御影は、堪えるように小さく息を吐く。
胸騒ぎが、どうしても収まらない。
何かが――
確実に、近づいてきている。
根拠などない。
ただの、嫌な予感だ。
それでも、
逃れられない何かが、すぐそこまで迫っている。
そんな気配だけが、重く、静かに胸を締め付けていた。



