六花の薔薇 ―refrain―



「琉伽。今すぐ、記憶を返してくれ」

御影は感情を押し殺し、静かに告げた。
その瞬間、琉伽の瞳がわずかに揺れる。

――動揺している。はっきりと、そう分かった。

「……御影、どうしたんだ? その話は、この間――」

弦里が言いかけた言葉を、御影は静かに遮る。

「状況が変わった」

「……え?」
琉伽の声が、かすかに震えた。

「だから今だ。返してほしい」

琉伽は唇を噛みしめる。
視線が揺れ、けれど言葉は出てこない。

「……全部を返すことは、できない」

御影は小さく息を吐いた。
琉伽もまた視線を落とし、同じように息を吐く。

「前にも言った通りだ。御影が壊れる……」

その言葉に、御影はすぐさま被せる。

「琉伽、そんなことを言ってる場合じゃ――」

「だから……」

今度は琉伽が、御影の言葉を遮った。

「……一部だけ、返す」

琉伽は真っ直ぐに、御影の瞳を見据える。

「幼少期の記憶を……一部だけ」

そっと、琉伽は御影の手を取った。
瞼を閉じ、深く息を吐いた瞬間、握られた手を通して、暖かく柔らかな何かが御影の身体へ流れ込んでいく。

淡く白い光が、御影を包み込んだ。
暖かく、安らぐ感覚――だが同時に、頭の奥に小さな衝撃が走る。

ガラスの欠片のように鋭い記憶の断片が、次々と脳裏に突き刺さった。

その瞬間、身体がぐらりと傾き、
御影は意識を手放した。





白い光が、御影の身体を包み込み、脈打つように揺れている。

暖かい。
けれどそれは、安心とは少し違う――胸の奥を、静かに締めつける温度だった。

砕けたガラスのような記憶の断片が、次々と流れ込んでくる。
笑い声。
誰かの泣き顔。
名前を呼ぶ声と、届かなかった手。

「……っ」

言葉になる前に、視界が歪む。
足元が崩れ、世界がゆっくりと遠ざかっていく。

誰かの声が、胸の奥に触れるように囁いた気がした。

次の瞬間、御影の意識は闇に沈み――
代わりに、ひどく懐かしい光景が目の前に広がった。





「御影! 御影!」

呼びかける声に、酷く重い瞼を開ける。

「起きた! 朝食の時間よ。ほら、早く起きて!」

目の前には、御影とよく似た、少し年上の千影の姿があった。

「もう、御影のせいでお腹ペコペコだよ〜。早く行こう」

そう不満をこぼす黎影の声が続く。

御影はまだ働かない頭のままベッドを抜け出し、千影に手を引かれるまま部屋を出ていった。

――その光景を、部屋の隅で立ち尽くしながら見つめる者がひとりいる。

「……っ」

声にならない息を漏らしたのは、御影だった。

幼い御影は、千影と黎影に連れられて部屋を後にする。
そして――

今の御影は、部屋の隅に取り残されたまま、状況を理解できずに立ち尽くしていた。

なぜ自分は、ここにいる?
なぜ、過去の中に――。

──これも、琉伽の能力のひとつなのか。

そう考えながら、御影はとりあえず幼少期の自分を追いかけた。

廊下に出ると、仲良く並んで歩く三人の姿が目に入る。
千影が何かを話し、黎影が声を上げて笑う。
御影はまだ眠そうで、話をあまり聞いていない。

――まるで、ごく普通の姉弟のようだった。

記憶にない姉の姿。
御影はただ、その背中を黙って見つめていた。




朝食の席は、驚くほど穏やかだった。

焼きたてのパンの匂い。
湯気を立てるスープ。
黎影が好き嫌いを言って、千影がそれをたしなめる。

「ちゃんと食べなさい。残したらおやつ抜きよ」

「えーっ、それはひどい!」

そんなやり取りを、幼い御影はぼんやりと眺めながら、黙々と口を動かしている。

未来の御影は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。

声は届かない。
椅子に腰掛けることも、食器に触れることもできない。

それでも確かに、そこには「家族」があった。

食事を終えると、三人は外へ出た。
庭先で鬼ごっこをしたり、理由もなく走り回ったりする。

黎影がつまずき、転ぶ。
千影はすぐに駆け寄った。

「ほら、泣かないの」

「だって痛かったんだもん……」

「大丈夫。ほら、血も出てない」

そう言って、千影は黎影の頭を優しく撫でる。
幼い御影も少し遅れて覗き込み、真似をするように手を伸ばした。

――当たり前の光景。
記憶に刻まれることもないほど、ありふれた日常。

未来の御影は、その“普通”をただ見つめていた。

笑っている。
誰も疑っていない。
誰も、これが失われるものだとは知らない。

三人の笑顔を前に、御影はただ、立ち尽くしていた。

そして、黎影の姿を見つめながら、御影はふと思った。

――もし今、黎影が生きていたなら。

きっと、自分と瓜二つの顔をしていたはずだ。

幼い御影と黎影は、背丈も、体格も、仕草さえもよく似ている。
並んで立つ二人を見て、御影は静かに理解した。

双子だったのだろう、と。

自分に姉がいたこと。
そして、双子の兄弟がいたこと。

あの写真を見たときから、薄々と気づいてはいた。
それでも確信には至らなかったのは――

琉伽の「記憶を削ぐ」能力が、あまりにも正確だったからだ。

感情も、痛みも、名前さえも。
綺麗に、何ひとつ残さず消されている。

覚えていない。
思い出せない。

それが、何より確かな証拠だった。

――自分は、確かに失っているのだと。

その瞬間、ふわりと風が吹いた。
思いがけない突風に、御影は反射的に目を閉じる。

――そして、開いた時。

視線が、交わった。

千影は、確かにこちらを見ていた。
未来の御影を、まっすぐに。

「……」

言葉はない。
けれど、その凛とした静かな瞳は、迷いなく御影を捉えていた。

時が、止まったように思えた。

次の瞬間、背中をぐい、と引き寄せられる感覚が走る。
足元が崩れ、世界が引き剥がされていく。

過去の光景が遠ざかり、
御影は暗い暗い闇の中へと、強制的に引き戻された。

「……影! 御影!」

誰かの声がする。
水底から浮かび上がるように、意識が少しずつ現実へ戻ってくる。

重たい瞼をかろうじて開くと、そこには弦里の情けないほど必死な顔があった。

「……弦、里?」

「大丈夫か? 急に倒れるから、ほんとに焦った……」

弦里の腕に支えられたまま、御影はまだ定まらない意識の中で、ぽつりと呟く。

「……どれくらい、意識失ってた?」

「せいぜい十分くらいだ」

十分――。
そう聞いて、御影は小さく息を吐いた。

たった十分。
けれど胸の奥には、削り取られていた人生の一部が元に戻ったような重たい感覚が残っている。

ほんの小さな欠片のような記憶。
それでも確かに――失われていたはずの“過去”だった。

「……み、御影」

震える声に、御影はゆっくりと視線を向ける。

そこに立っていたのは、今にも崩れ落ちそうなほど顔色を失った琉伽だった。
唇は強く噛みしめられ、瞳には隠しきれない不安が滲んでいる。

――たとえ欠片とはいえ、
記憶が戻った御影がどうなるのか。
それが、何より怖いのだろう。

御影は、そんな琉伽を見て、皮肉めいた笑みを浮かべた。

「……本当に、ひと握りの記憶だな」

軽く肩をすくめるようにして、控えめに笑う。

その表情を見た瞬間、琉伽の張り詰めていた顔から、わずかに力が抜けた。

「……大丈夫」

短く、けれどはっきりと告げる。

琉伽はその言葉に、ようやく息をついたように、静かに頷いた。

御影は弦里に支えられながら立ち上がると、そのまま部屋を出ようとした。
足取りはまだおぼつかず、わずかによろめく。

それを見て、弦里と琉伽が同時に不安げな視線を向ける。

「御影、どこへ行くんだ? 少し休んだ方が――」

弦里の言葉に、御影は振り返らずに答えた。

「……調べたいことがあって」

それだけ告げて、御影は桃李家の屋敷を後にした。



鋳薔薇家の屋敷。
その佇まいは、過去の記憶にあるものと何ひとつ変わらない。

足音だけが、静かな廊下に響く。

御影は歩きながら、胸の奥に沈んでいた感覚を確かめるように、ゆっくりと息を吸った。

もう、疑いはなかった。

陸玖が見たという人物。

その正体は――

──黎影だ。







やがて、夜空に星が瞬き始める頃。

世界から切り離されたかのように、
ただ静かに“時”を待ち続ける者がいた。

まだ名も、姿も、語られないまま。
しかし確かに、そこに在る存在。

そして――
止まっていた歯車が、音もなく回り始める。