あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
目の前から、大切な人が消えた日。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通り登校して、いつも通りクラスメイトに挨拶をし、席につく。
そして、いつも通り隣の席に声をかけた。
「おはよう、翼ちゃ――」
言葉が、途中で止まった。
隣の席が、なかった。
昨日まで確かにそこにあったはずの机と椅子が、綺麗さっぱり消えている。
凛々は咄嗟に、前の席のクラスメイトに声をかけた。
「ねえ……隣の席……翼ちゃんの席が……」
「隣?」
「ほら、翼ちゃんの……」
「翼ちゃん? 誰それ」
その瞬間、血の気が引いた。
「誰って……」
「隣の席って、そこ最初から席ないよね?」
「……え?」
視界が暗くなる。
心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
訳が分からないまま、凛々は教卓に置かれた名簿を掴み、ページを開く。
指でクラスメイトの名前をなぞっていく。
――ない。
あるはずの場所に、翼の名前がない。
手が震えた。
どういうこと……?
なんで……?
なんで、翼ちゃんが……。
その日、凛々は必死に翼の痕跡を探した。
担任、教科担当の先生、クラスメイト――
誰に聞いても、返ってくる答えは同じだった。
「知らない」
「そんな子、いない」
誰の記憶にも、翼はいなかった。
もしかして――
最初から翼なんて存在しなくて、
凛々が作り出した幻だったのか。
そんな考えが頭をよぎり、凛々は途方に暮れた。
翼は、凛々にとって唯一の光だった。
暗い人生に、突然現れた光。
翼は多くを語らなかったけれど、すぐに分かった。
きっと、凛々と似た家庭環境だということが。
人を信じず、友達を作らず、
教室の隅でひとり静かに本を読む翼。
凛々は、そんな翼に惹かれた。
凛々は心の底では誰も信じていないのに、ひとりでいるのは怖かった。
だから周囲に合わせ、求められる人物を演じていた。
家にも、学校にも居場所がない現実に耐えられなかったのだ。
翼は、そんな凛々とは違って見えた。
ひとりでも平気で、自分の足で立っているように見えた。
憧れさえ抱いた。
たまたま隣の席になった日、凛々は見てしまった。
翼の腕に残る、打たれたような青痣を。
その瞬間、分かった。
――同じだ。
凛々は、その痣がどうやってできるかを知っていた。
自分にとっては、日常茶飯事だったから。
遠い存在だと思っていた翼に、強い親近感を覚えた。
そして、その時初めて声をかけたのだ。
そこから二人の距離は、一気に縮まった。
翼の前では、演じなくてよかった。
ありのままの凛々を、翼は受け入れてくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
翼がいないと生きていけない――
本気で、そう思った。
そんな翼が、消えた。
みんなの記憶から、消えてしまった。
頭がおかしくなったのかもしれない。
最初から翼なんて存在しなかったのかもしれない。
その日は、何も考えられなかった。
気づけば夕方。
凛々は家へと続く道を、重い足取りで歩いていた。
その時――
「君、覚えてるよね」
声がして、凛々は振り返った。
夕日に照らされた、金髪の男が立っていた。
「……誰」
「翼って子、探してるんでしょ」
「――っ!!」
凛々は衝動的に男の胸倉を掴んだ。
「知ってるの!?翼ちゃんのこと!!
ねえ、翼ちゃんはどこに消えたの!?」
男は、にやりと笑った。
「知ってるよ。どこに消えたのか」
「どこ!? どこに……!」
「――全部、捨てる勇気はある?」
「……全部……?」
意味の分からない言葉だった。
それでも、凛々は頷いた。
光を取り戻すためなら、何でもする。
「……捨てる。捨てるから……翼ちゃんに、会わせて!!」
その言葉を聞いて、男は笑った。
ただ――楽しそうに、笑った。
気づけば、私は【リデルガ】にいた。
「どーしたの〜、凛々。怖い顔しちゃって」
背後から、ふわりと腕が回される。
ソファに座る凛々を、彼は後ろから抱き締めた。
「……黎影」
名前を呼ぶと、彼は優しく微笑む。
「なあに?」
その笑顔は穏やかで、柔らかい。
けれど、その奥に何を隠しているのか――凛々には分からなかった。
「……翼ちゃんに、会いたい」
その言葉に、背中に回されていた腕がすっと離れる。
黎影は凛々の前に回り込み、視線を合わせた。
「会えるよ。もう、いい頃合いだ」
「……黎影」
「これからは、あの子とずっと一緒にいられる」
「本当?」
「僕が嘘をつくとでも?」
凛々は、唇を噛む。
「……だって、まだ一度しか会えてないもの」
あの一瞬。
ほんの、刹那のような再会。
「もう。凛々は本当にせっかちなんだから」
「……」
「こういうのはね、慎重に動かなきゃいけないんだよ」
「……だって」
「だって?」
その瞬間、空気が変わった。
黎影の瞳が、鋭く細められる。
「……」
「僕の言うことは、絶対だ。勝手な行動は許さないよ」
凛々は、黙って頷いた。
普段は柔らかな雰囲気を纏い、いつも笑顔の黎影。
けれど時折、こうして得体の知れない影を覗かせる。
――それが、怖かった。
凛々は黎影の目を直視できず、視線を逸らす。
すると、肩にそっと手が置かれた。
「凛々〜、僕お腹空いたんだよね〜」
「……え」
「いいよね? ね?」
逃げ場のない圧に、凛々は言葉を失う。
黎影の「お腹空いた」という言葉は、
凛々にとって“恐怖の合図”だった。
黎影は凛々の髪を後ろへ流し、
そのままソファに押し倒す。
「……っ」
「ははっ」
楽しそうな笑い声。
「……黎影」
「何?」
「……や、優しく――」
言葉の続きを待つことなく、
黎影は躊躇なく凛々の首元に牙を立てた。
「――っっ!!!」
声にならない悲鳴が、部屋に満ちる。
「はぁ……はぁ……いた……っ」
鼓動が跳ね上がり、身体の奥から熱が込み上げる。
痛い。
苦しい。
逃げられない。
全身を貫く痛みと息苦しさに、涙が溢れる。
それでも、黎影は血を吸うのをやめない。
凛々にとって、この時間はどうしようもなく苦痛だった。
誰も助けてくれない。
――でも。
自分で選んだ。
翼に会うために、この世界を選んだ。
だから……耐えるしかない。
◇
「っっ……!!」
隣の部屋から、声にならない悲鳴が漏れ聞こえた。
夜々は、読んでいた本からそっと視線を外す。
「……」
胸の奥で、かすかに「可哀想だ」と呟いた。
黎影が突如【リアゾン】から連れてきた人間種――凛々。
誰かを探しているという彼女は、すべてを捨ててこちら側へ来た。そして今では、毎夜、黎影の“餌”としての役目を果たしている。
この声にならない悲鳴を聞くのは、もう何度目だろう。
相性の合わない相手との吸血行為が、どれほど苦痛で不快なものか。耐え難いそれは、もはや拷問に等しい。
「……気持ち悪い」
夜々は、吐き捨てるように呟いた。
「……うるさい」
薄暗い部屋の中。
ベッドで眠っていた彼が、ゆっくりと目を覚ます。
「刻、大丈夫?」
珀が亡くなってから、刻は体調を崩すことが増えていた。
「……まあな。つーか、隣がうるせぇ」
「……あぁ、うん……そうだね」
「……よく飽きねぇよな」
「……だ、ね」
「寝れるもんも寝れねぇ」
刻はベッドから起き上がり、乱暴に頭をかきむしる。
その背中を、夜々はただ黙って見つめることしかできなかった。
「はぁ……なぁ、夜々」
「ん?」
「あいつ、何なんだと思う?」
「あいつ?」
「黎影だよ」
刻は低く呟き、言葉を続ける。
「なんであいつ、次期当主と姿が瓜二つなんだよ」
刻の疑問は、夜々自身も抱いていたものだった。
刻を能力で迎えに行ったあの日。
倒れていた珀の傍に、もうひとり――黎影と瓜二つの姿をした次期当主がいた。
刻も夜々も、あの日初めて次期当主の姿を見た。
一瞬、黎影かと思った。しかし纏う雰囲気はまるで別人だった。
それでも、姿形は確かに同じで。
だからこそ、戸惑いは拭えなかった。
黎影が鋳薔薇家と何らかの繋がりを持っているのは確かだ。
だが、その詳細を彼自身が語ることはない。
「……黎影は、何も話さないから」
「……ちっ、ったくもう……」
「……」
「あいつ、一体何なんだ……」
黎影の正体も、凛々が探している人物も。
私たちは、何ひとつ知らないままだ。
◇
秒針の音だけが響く部屋で、どれほどの時間が過ぎただろう。
刻が「外に行く」と一言告げてから、数十分後――隣の部屋から、誰かが出ていく気配がした。
出ていったのは、おそらく黎影だ。
吸血行為が終わったのだろう。あれほど続いていた物音も、悲鳴も、すべて消えていた。
夜々は本から顔を上げ、静かに自室を出る。
足音を殺しながら隣の部屋の扉の前に立ち――
遠慮がちに、扉を開いた。
ギィィ……と、鈍い音が闇を裂く。
部屋の中は真っ暗だった。
その奥から、小さなすすり泣く声が聞こえてくる。
夜々は思わず、壁のスイッチを押した。
バチン、と乾いた音とともに明かりが灯る。
そこには――
ソファに身を沈め、泣き崩れる凜々の姿があった。
夜々は小さくため息を吐き、凜々へと歩み寄る。
黎影が連れてきた【リアゾン】の女子高生。
【リデルガ】に来てから、吸血行為の後はいつもこうだ。
泣いて、泣いて、泣き疲れて眠る。
そのたびに、夜々はこうして部屋に入る。
不憫に思って――手当をするために。
自分から黎影についてきた以上、同情する理由などないはずなのに。
それでも、こうしないと落ち着かなかった。
「……うぅ、う……痛い」
凜々は噛まれた首元を、両手で押さえている。
夜々は何も言わず、その手をそっと外し、傷口を覗き込んだ。
赤黒く変色し、穿たれたままの痕。
ほぼ毎日の吸血行為によって、首筋は無残な状態になっていた。
――普通は、噛む場所を変える。
ましてや、治りきっていない傷の上から噛むなど、常軌を逸している。
相当な苦痛だったはずだ。
夜々は持参した救急箱を開き、ガーゼに消毒液を染み込ませる。
それを傷口に、そっと、数度当てた。
「……っ」
消毒液が染みたのだろう。凜々の身体が一瞬、びくりと跳ねる。
それでも抵抗せず、黙って首元を差し出していた。
「……夜々ちゃん」
かすかな、小さな声。
「……ありがとう」
礼を言われ、夜々は一瞬だけ顔を歪める。
それでも、手を止めることはなかった。
こんな吸血行為は、虐待と変わらない。
夜々は、そう思っている。
初めて、黎影の吸血行為の“後”を見たとき――
悲鳴を上げそうになった。
乱雑に散らかった部屋の中央で、
首から血を流しながら泣き崩れる凜々の姿。
刻は「構うな」と言った。
それでも、夜々には無理だった。
自分より年上の女性が、苦痛に顔を歪めて泣いている。
そんな光景を前にして、見て見ぬふりなどできるはずがなかった。
「……ぅ、つ……翼ちゃんも、さ……」
凜々が嗚咽混じりに言葉を紡ぐ。
「……翼ちゃんも……こんな、辛い思い……してるの、かな……」
夜々は黙ったまま、手当を続ける。
「……早く……早く、助けてあげなくちゃ……」
凜々の声は、次第に弱くなっていった。
「……可哀想……」
そう呟いたきり、
凜々は静かに意識を失った。
夜々はその首元にガーゼを貼り、そっと整える。
涙の跡が残る頬。
浅い呼吸を繰り返す、無防備な寝顔。
それを見下ろしながら、夜々は思った。
――自分を犠牲にしてまで、助けたい人。
それは、一体どんな存在なのだろう。
「……馬鹿、みたい」
その瞬間、幼い頃の記憶が胸に蘇る。
まだ珀の能力が発現する前――
ただ皆が笑っていた、
暖かく、当たり前だった日々の欠片。
夜々は、静かに項垂れた。
自分を犠牲にするなんて、
そんなのは、馬鹿がすることだ。
──そんな馬鹿に、私はなりたくない。



