琉伽の部屋を出て、長い廊下を歩く。
御影は視線を床に落としたまま、足早に進んでいた。
怒っているわけじゃない。
ただ、琉伽の返答に――どうしようもなく戸惑っていただけだ。
『……御影が……壊れ……る』
その言葉が、何度も頭の中で反響する。
琉伽が、あそこまで言うということは。
自分の過去は、それほどまでに悲惨なものなのか。
記憶を取り戻したとして、
自分は正気でいられるのだろうか。
――分からない。
御影は歩きながら、自分自身に問いかけ続けていた。
その時だった。
目の前に、どこかへ出かけていた真理愛とかぐや、そして翼の姿が現れる。
三人は袋を提げ、何か楽しそうに笑い合っていた。
御影の姿に気づいた真理愛が、ぱっと表情を明るくする。
「あ! 御影! 今ね、二人とお菓子たくさん買ってきて――夜みんなで食べ……」
言葉の途中だった。
真理愛の声を遮るように、御影は一直線に翼のもとへ歩み寄る。
そして何も言わぬまま、翼の手首を掴んだ。
「……え?」
戸惑う翼の声も意に介さず、御影はそのまま彼女を引いて歩き出す。
突然の行動に置き去りにされた二人は、ただその背中を見送るしかなかった。
「……御影様……?」
かぐやが小さく呟く。
真理愛も、何が起きたのか分からないまま、困惑した表情で首を傾げた。
「……どうしたんだろうね」
その言葉に、かぐやも同意するように静かに頷いた。
御影は真っ直ぐ、自分の部屋へと向かった。
背後で戸惑う翼の気配を感じながらも、足を止めることはない。
扉を乱暴に開け、続けざまに叩きつけるように閉める。
「っ……!」
翼が何か言いかけるより先に、御影は翼をベッドへと押しやった。
勢いに押され、翼は仰向けに倒れ込む。
「……みか――」
名を呼ぼうとした、その瞬間だった。
御影は逃がすまいとするように、翼の上へと覆いかぶさる。
距離は、息がかかるほど近い。
翼の言葉は喉で途切れ、代わりに息を呑む音だけが部屋に落ちた。
御影の表情は険しく、けれどその瞳の奥には、怒りとは違う揺らぎが滲んでいた。
その視線を真正面から受け止め、翼は「どうしたの?」と問いかける代わりに、ただ静かに名を呼ぶ。
「……御影?」
その声を聞いた瞬間、御影の顔がわずかに歪んだ。
次の瞬間、張りつめていた糸が切れたように、御影はそのまま翼の胸へと倒れ込む。
「……っ」
翼の胸元に顔を埋めたまま、御影は動かなくなった。
やっぱり――昨日の出来事が、まだ御影の心に深く刺さったままなのだ。
翼はそっと、御影の頭に手を伸ばす。
静かに撫でてみても、返ってくる反応はない。拒絶も、戸惑いも感じられなかった。
そのまま、何度か優しく撫で続ける。
すると突然、その手首をぱっと掴まれた。
「……子供扱い?」
少しだけむすっとした表情で睨み上げる御影に、翼は思わず目を細める。
――その顔が、少し可愛いなんて思ってしまった。
翼は掴まれた手首を引かれるまま、そっと力を抜いた。
そして、その珍しい表情を浮かべる御影を見て、控えめに微笑む。
「……やっぱり、子供扱いしてる」
そう言われて、翼はふるふると首を横に振った。
御影はごろんと翼の上から横に寝返る。
そのまま天井を、ぼんやりと見つめた。
横顔には、何かを決めたような強さと、同時に拭いきれない不安の揺らぎが滲んでいる。
――昨日の出来事で、何かが動いたのだろうか。
翼は、その横顔を見つめながらも、何も言えなかった。
昨日の写真が誰だったのか。
今日、何があったのか。
踏み込む勇気が、まだ翼にはなかった。
「……御影」
名を呼ぶと、御影は天井からゆっくりと翼へ視線を移す。
「さっき、お菓子買ってきたの」
「……お菓子?」
「そう。真理愛ちゃんが、御影が好きだって言ってた」
「「ダコワーズ」」
声が、重なった。
一瞬の沈黙のあと、ふたりは顔を見合わせ、思わずくすっと笑う。
「ありがとう。後で、いただこうかな」
そう言って御影は微笑んだ。
その笑顔に、少しでも心が軽くなってくれていたら――
翼は、ただそう願った。
◇
夕暮れの庭には、炭のはぜる音と香ばしい匂いが広がっていた。
大きな鉄板の上では、肉や野菜が所狭しと並び、ジュウジュウと音を立てている。
「陸玖ちゃん、それ私のウインナー!」
「え、名前書いてなかった方が悪くない?」
「書けるわけないじゃーん!? 食材に!!」
「はいはい。じゃあ俺のウインナーあげる〜」
壱夜の言葉に、真理愛は「ありがとう〜」と満面の笑みを浮かべた。
そんな言い合いをよそに、かぐやは真剣な表情でトングを構えている。
「……焼き加減は、これで適切でしょうか」
「かぐや、それもう完全に炭だ」
「……!? 失礼しました」
慌ててひっくり返すかぐやの様子に、庵は思わず笑みをこぼす。
「大丈夫だ。焦げても美味しい」
「そ、そうですか……?」
一方、鉄板の前では。
「……肉、焼けてる?」
「御影、それまだ生」
「……じゃあ、これは?」
「それはもう焼きすぎ」
弦里に逐一ダメ出しされながら、御影は難しい顔で鉄板を見つめる。
「……焼き加減、難しすぎない?」
普段は見せない困惑した表情に、愁と海偉が一斉に吹き出した。
「だはははっ! 御影が肉焼いてる!」
「この国の次期当主様が肉焼いてるとか、滑稽すぎるだろ〜! ははは!」
二人の遠慮のない笑い声に、御影は少しだけ眉をひそめる。
だがそんなことはお構いなしに、笑いはなかなか収まらない。
その騒がしさの中で、御影はふと顔を上げた。
笑い合う皆の姿。
楽しそうで――少し前までは、考えもしなかった光景。
――今は、これでいい。
御影は小さく息を吐き、焼けた肉を皿に取ると、
ひとり少し離れたベンチで夕暮れの空を見上げている琉伽のもとへ向かった。
「……ほら、食べる?」
「え、くれるの?」
「焼き加減、確認してほしいだけ」
「素直じゃないなぁ」
そう言いながらも、琉伽は少し戸惑った様子で、皿ごとそれを受け取った。
琉伽は一口だけ肉を口に運び、ゆっくりと噛みしめた。
「……うん。ちゃんと焼けてる」
「……本当?」
「本当。美味しいよ」
その言葉に、御影はほんの少しだけ肩の力を抜く。
「それは……よかった」
ふたりの間に、静かな沈黙が落ちた。
――御影の記憶。
今も琉伽の中に、大切にしまわれたままのもの。
しばらくして、琉伽が遠慮がちに口を開いた。
「……あの、写真はどこで?」
御影は思い出す。
あの夜。
夜中にふと目を覚まし、隣にいるはずの翼の姿がなくて、慌てて部屋を出たこと。
地下の部屋で翼を見つけた時、本の隙間から滑り落ちた一枚の写真を拾い上げたこと。
「……古い本に挟んであった」
翼が手にしていた本。
部屋を探しても見つからなかったそれは、きっと今も翼が持っているのだろう。
「……本……そっか」
琉伽は、ぎゅっと目を閉じる。
「ふたりの記憶だけを消してくれて、よかった」
その言葉に、琉伽ははっとして目を開き、御影を凝視した。
「そのおかげで、翼を探すことが出来た」
何の話だ――
琉伽は一瞬、理解が追いつかず戸惑う。
だが御影は、それ以上踏み込まず、ふっと話題を変えた。
「甘いもの食べたくなってきたな。ダコワーズでも食べようかな。琉伽もいる?」
「……あ、うん」
「じゃあ、持ってくるよ」
そう言って、御影は立ち上がった。
その背中を見送りながら、琉伽の胸に、古い記憶が静かに浮かび上がる。
――あの日。
現当主に命じられ、御影の記憶を消すことを強要された夜。
琉伽は、ひどく戸惑っていた。
消すべきは、あの夜の出来事だけなのか。
それとも、千影と黎影という存在そのものなのか。
今の琉伽なら、どちらか一方だけを選び、切り分けることも出来る。
だが、当時まだ未熟だった自分には、それはあまりにも高度すぎる技術だった。
迷い、選択しきれず――
琉伽は、すべてを消した。
千影と黎影という存在。
そして、あの夜に起きた出来事の記憶を、丸ごと。
「……消した……はず」
ぽつりと零れた独り言が、炭のはぜる音に溶けていく。
ダコワーズを取りに行く御影の背中を見つめながら、琉伽の胸に疑問が芽生えた。
生まれた時から傍にいた姉と兄の記憶を失えば、
幼少期の記憶は、空白だらけになるはずだ。
それなのに。
『そのおかげで、翼を探すことが出来た』
その言葉が、頭から離れない。
御影の記憶を消してから、琉伽はほとんどの時間を御影と共に過ごしてきた。
翼と出会う機会など、あるはずがない。
ましてや【リアゾン】に行くことなど、一度も。
――出会うはずがなかった。
楽しげに笑う、今の御影の姿。
──いったい、どこで……
──いつ、翼ちゃんと出会ったんだ、御影。
琉伽の胸に、言い知れぬ違和感が広がっていく。
──そして、翼ちゃんは……一体…。
誰もいない部屋の、机の上に一冊の本が置かれている。
窓から吹き込む風に、
本のページが、ぺらりと捲れた。
『鋳薔薇家に双子が生まれるのは、運命である。
それは、儀式を行うための――悲しき運命だ』
その一頁には、そう記されていた。
誰かに読まれることを待つように、
その頁は、静かに開かれていた。



