六花の薔薇 ―refrain―



物静かな部屋に、琉伽と陸玖は向かい合って座っていた。
先ほどの廊下での会話を、陸玖は頭の中で何度も反芻する。弦里は陸玖と入れ替わるように部屋を出て行った。

琉伽も、話を聞かれていたことに気づき、気まずそうに目を伏せる。沈黙がしばらく部屋を支配した。

陸玖はその妙な空気に耐えられず、軽く息をついて口を開く。

「……体調は? 大丈夫?」

その言葉で、張りつめていた緊張が少しだけ和らぐ。琉伽は小さく口を開いた。

「…大丈夫」

控えめに笑う琉伽の顔は、少し赤く火照っていた。
――『大丈夫』なんて嘘だと、陸玖にはすぐに分かった。まだきっと熱は高い。

その瞬間、廊下が急に騒がしくなった。

「…御影、御影!待て!御影!」

弦里の声が廊下に響き渡る。
次の瞬間、バンッ――琉伽の部屋の扉が勢いよく開かれた。

そこには、肩で荒く息をしながら立つ御影の姿があった。

「…御影」

琉伽は思わず、震える声でその名を呟いた。

「……琉伽」

御影は迷うことなく琉伽のベッドへと歩み寄り、傍まで来て一言放った。

「…俺の記憶、どうした?」

その瞬間、琉伽の表情がピクリと強ばった。
―― 一番知られたくなかった人物に、知られてしまった。
墓場まで持って行こうと思っていた秘密を、今、目の前の御影に知られてしまったのだ。

「……御、影。何、何のこと?」

琉伽は動揺したように、言葉を途切れ途切れに紡ぐ。

「…記憶? 俺、何も…」
「もういい」

冷たく言い放つ御影。
その瞬間、扉の外から弦里の顔が覗いた。

「…御影…?」
「俺の記憶、消したんだな」

冷たく笑う御影の視線に、琉伽は身体を強張らせる。

「……あいつの命令?」
「…あいつ…?」

御影の問いに琉伽は戸惑い、言葉を濁す。

「…あいつだよ、現当主だよ」
「……」

沈黙の答え。それだけで御影はすべてを理解した。

「…俺の記憶、何で消した?」
「…御影、俺は…」
「何か不都合があったんだろう、そう…だから、消した…?」

震える御影の声。
動揺で言葉に詰まる琉伽。

「…違…俺は」
「何も、思い出せないんだ」

悲痛な声に、胸を締め付けられる。

「…何も、写真を見ても、何も思い出せない!」

「…写真…?」

陸玖の声に呼応するように、弦里が御影の傍まで駆け寄り、肩を掴む。

「何の写真だ!? 御影!」

唐突な問いかけに、御影は息をつきながら答えた。

「俺と、俺に似た誰かと、少女の三人が写っていた」
「……それって、」

弦里の言葉に、御影はふと気づく。

「知ってるのか?」
「その写真は、どこにある!?」

必死の形相で問いかける弦里に、御影はズボンのポケットに手を滑り込ませた。
そして、そっと写真を取り出す。

弦里の目の前に、三人が写るその写真が差し出された。
弦里は震える手で写真を受け取り、目を見開く。

「……っ」

手に取った写真を見つめ、弦里が小さく呟いた。

「…千影(ちかげ)黎影(りかげ)

その名前を、息を詰めるように呼んだ。







もう、思い出すことはない――
小さな幸せの一時。
あの日が、全てを変えた。
俺たちの未来を――
変えた。
変えてしまったあの日。




【10年前】

「弦里!」

【学園】の廊下を歩いていると、甲高く澄んだ声が呼びかける。
弦里は振り返った。そこには、金髪の長い髪をふわりと揺らし、にこやかに笑いかける少女が立っていた。

「千影!」

彼女の名前を呼ぶと、少女はさらに笑顔を輝かせる。弦里は思わず見惚れてしまった。

「今日はうちに来る?」

いつも通りの言葉に、弦里は頷く。

「うん、行くよ。どうせ父さんが付き添わなきゃだし」
「本当!? 嬉しい! 御影も黎影も喜ぶわ! あなたと遊ぶの楽しいみたいなの!」
「それは良かった」
「待ってるわね!」

そう言って、千影はどこかへ去っていった。

千影――鋳薔薇 千影 現当主の愛娘である。
弦里は、父の仕事の都合で学園が終わると、父に連れられ鋳薔薇家の屋敷へ通っていた。
そこでいつも、千影とその双子の弟、御影と黎影と遊んで時間を過ごしていたのだ。

今日もまた、屋敷へ向かう。

「弦里来たー!」
「弦里! 弦里! 今日は何して遊ぶ?」

屋敷に着くと、御影と黎影が弦里に駆け寄ってくる。笑顔を弾ませるふたりを、千影は嬉しそうに見つめていた。

「本当に、ふたりは弦里のことが好きなのね」
「そう、なのかな?」
「そうよ、大好きよ、きっと! ふたりは学園では一緒に過ごせないから、こうして三人で遊べるのが嬉しいのよ」

千影の寂しげな笑みに、弦里は目を逸らす。
鋳薔薇家には長子はいても次子はいない。この双子は、この世には正式に存在していない――。
この【リデルガ】での最重要機密だった。

両手を引っ張られながら庭へ向かい、双子の相手をする弦里。
この瓜二つの双子が、後に悲劇を生む存在になるとは――この時は誰も、夢にも思っていなかった。






双子が10歳になった頃、少しずつ何かが壊れていった。

「最近、黎影を見ないね」

鋳薔薇家に通う日課の中で、弦里はふと千影に問いかけた。
双子が10歳の誕生日を迎え、弦里が14歳、千影が13歳になった頃、弦里は黎影の姿をほとんど見かけなくなっていた。御影もあまり部屋から出てこず、元気が取り柄の千影でさえ、最近はどこか元気がない。

「…黎影」

千影は小さく、震える声で弟の名前を呼んだ。

「ねぇ、弦里…聞いてくれる?」

千影の覚悟を決めたような顔に、弦里は息を呑んだ。
そして千影が話し始めたのは、鋳薔薇家のしきたりについてだった。

鋳薔薇家では、双子は確実に生まれる。双子はひとりの人間として育てられ、最終的にある儀式を経て次期当主が決まる。そのため、現当主は黎影に、次期当主としての習わしや作法を朝から晩まで叩き込んでいるという。
黎影はその間、特定の部屋に軟禁され、部屋から出られない。泣き声が聞こえることもあるが、使用人も、母である紫檀様でさえ、出入りが許されないのだと――。

「…そんなこと…でも、どうして黎影だけが? 次期当主候補は御影も同じじゃない?」
「父様が、黎影は長子だからって…」
「長子って、双子でしょ? 長子も何も…」
「黎影の方が数分先に生まれたのよ。だから父様は黎影を長子と位置づけ、過度な教育をしているの」
「…そんな…」

弦里の頭に、黎影の幼い頃の姿が浮かぶ。
やんちゃで物怖じせず、いつも元気に走り回る黎影。小さな怪我で大泣きすることもあり、御影がそっと慰める――そんな黎影が、この過酷な教育に耐えられるのか。

「…次、黎影に会えた時、話を聞いてみるよ」
「本当? 助かるわ。最近、黎影の様子がおかしくて」
「…心配だな…御影は?」
「御影は部屋にいるわ。あまり最近出てこなくて…」
「んー…ちょっと様子を見てくるよ」

そう言って弦里は御影の部屋へ向かう。
コンコンと数回ノックすると、扉が遠慮がちに開き、金髪がちらりと見えた。

「御影、僕だよ」
「…弦里」

弦里が尋ねる。

「調子はどう? 千影が最近、御影が部屋から出てこないって心配してたよ」
「お姉様が?」
「うん。部屋に入ってもいい?」
「…うん」

御影の許可を得て部屋に入る。
いつもより少し散らかった室内。

「御影…」
「うん?」
「何か困ったことはない?」
「………」

黙り込む御影に、弦里は直球すぎたかと少し後悔する。

「…あのね、黎影がおかしくて…」
「おかしい? どういう風に?」
「…いつも何かに怯えてるんだ」
「怯えてる? 現当主様に?」
「違う! 分かんない…分かんないけど…何かに…」
「…何か」

弦里は考え込む。
現当主に怯えているなら理解できる。しかし御影は違うと言う。
じゃあ一体、黎影は何に怯えているのか――?

廊下を歩きながら千影の部屋へ戻ろうとする弦里は、数メートル先に小さな背中を見つけた。

(…黎影?)

視線を床に落とし、背中を丸めながら歩く黎影の姿だった。

「黎影!」

弦里は声をかけ、肩をつかんで振り向かせる。

「…そうだ…そうなんだ…僕は…」
「…黎影?」
「…違う、そうじゃない…だから、そうだ! そうだよ、こうすれば」

黎影はぶつぶつと独り言を続け、視線は床から上がらない。弦里がそばにいるというのに、脈絡のない言葉を紡ぎ続けるその光景に、弦里は背筋がぞっとした。

「黎影! 黎影!」

両肩を掴み、名前を呼ぶ。それでも独り言は止まらず、黎影はひとり部屋へ戻っていった。

「…黎影…」

その背中を、弦里はただ見つめることしかできなかった。
それが、弦里が黎影を見た最後の姿だった。




それから三年が過ぎ、弦里は17歳、千影は16歳、御影と黎影は13歳になった。

あれから弦里は黎影をほとんど見かけることはなかった。たまに屋敷の外から窓に映る黎影の背中が見えるだけだった。
黎影がこの三年間、どんな目に遭い、何を考えて過ごしてきたのか――弦里には知る術もなかった。

姉である千影も、弟である御影も、黎影を気にかけながらも、絶対王である現当主に逆らうことは出来ず、ただ時間だけが静かに過ぎていった。

そして、あの日が訪れた。
忘れられない、あの日。
――ただ、何も出来なかったあの日。






ドンッ!

「弦里! 開けるぞ!」

夜更け――父の慌てふためいた声で、弦里は跳ね起きた。
いつも冷静な父とは明らかに違う声色に戸惑いながらも、まだ覚醒しきらない頭でベッドから身体を起こす。

「……父さん、何かあったの?」
「弦里、すぐ用意しろ」
「……え?」
「鋳薔薇家に行くぞ」
「……鋳薔薇家……?」

その言葉を聞いた瞬間、胸騒ぎが止まらなくなった。
なぜこんなにも慌てているのか。なぜこんなにも心がざわつくのか。
足元が浮くような感覚と、現実を実感できないままの緊張が絡みつく。

鋳薔薇家の屋敷に着くまで、弦里の心臓は大きく、不規則に鳴り続けていた。

屋敷に足を踏み入れた瞬間、そこは地獄絵図だった。
案内されたのは御影の部屋。壁一面に血が飛び散り、その一角に使用人たちが固まっていた。

弦里は無意識にその中心へ歩みを進める。
だが、父がそれを制止した。

「……父さん」
「…………」

その時だった。

使用人たちの輪の中心から、担架で人ひとりが運び出される。
担架は、弦里のすぐ真横を通った。

――ドクン。

心臓が大きく跳ねる。

担架に乗せられていたのは――

「……御、影……?」

そして、使用人たちの隙間から覗いたのは、見覚えのある右手。
そこには、あの指輪がはめられていた。

(……俺が、あげた指輪)

信じたくなかった。
今見ているものすべてが幻想であってほしかった。
嘘だと言ってほしかった。



『はい、千影にあげる』
『え! なになに!』
『開けていいよ』
『うわぁ……指輪だ! 綺麗』
『付けてあげるよ』
『うん……綺麗だね』



叶う恋ではなかった。
君と俺は、王と下僕。決して同じ場所には立てない。
将来なんて、最初からなかった。

それでもよかった。
君が幸せになる、その日まで――
俺は君を守りたかった。
ただ、それだけだった。

ゆっくり、ゆっくりと震える足で、弦里はその指輪へと近づく。

「弦里!」

背後で父が叫んでいた。
けれど、止まれなかった。止められなかった。

がくりと両膝が床につき、その手を強く握る。
弦里が来たことに気づいた使用人たちが、静かに道を開いた。

その隙間から見えたのは――
眠っているかのように横たわる、千影の姿だった。

「……ち、か……」

声が、出ない。

「……千影……っ」

ボロボロと涙が溢れ、視界が滲む。
千影の顔が歪んで、はっきりと見えない。

それでも――分かってしまった。
あの綺麗な顔に、もう“千影”はいない。

腹部には、大きな剣が深々と突き刺さっていた。

「……なんで……こんな……っ」

声は震え、喉が詰まる。

そして、その隣には黎影が横たわっていた。

「……黎影……」

千影とよく似た顔で。
まるで、二人で眠っているかのように――。

「早くどうにかしろ!!!!!!」

突如、廊下の奥から怒鳴り声が響いた。
弦里はその声に導かれるように、部屋を出て廊下へ向かう。

「……どうにかって……琉伽はまだ子どもよ!!」
「子どもだろうがなんだろうが、次期六花だろ!
 記憶を消すのはお前たちの仕事だろう!!」

そこには、現当主と一人の女性が激しく言い争っていた。

影裄(かげゆき)、これはあなたの失態でもあるの……あなたが――」
「その名で私を呼ぶなあ!!!!」
「……」

怒号に、空気が凍りつく。

「……いいよ、母さん。俺がやるよ」

そう言って前に出たのは、一人の少年だった。

「琉伽……でも、成長期のあなたには負担が大きすぎるわ」
「……大丈夫」

(……琉伽?)

暗い廊下のせいで顔ははっきり見えない。
ただ、その少年が担架に横たわる御影の額に手を触れた瞬間――

眩しすぎる光が、一帯を覆った。

「……っ」

弦里は思わず目を閉じる。

「琉伽!!!」

母親の叫び声が廊下に響いた。

光が消え、弦里が目を開けると――
担架の横で、琉伽が四つん這いになり、荒く呼吸をしていた。

「……琉伽、大丈夫? ねえ……」
「……大丈夫……だから……ぅ……」

その様子を見て、現当主が低く言った。

「……消せたのか」

「……はぁ……はぁ……消し、ました」

苦しそうにそう答える琉伽に、現当主はただ一言。

「……そうか」

それだけ言い残し、踵を返して去っていった。
琉伽の母親は、その背中を強く睨みつけていた。

「……琉伽」

弦里は、ゆっくりと近づき声をかける。

琉伽は荒い息のまま顔を上げた。

「……弦、里……? なんで……」

数年前に一度会って以来、二人はほとんど顔を合わせていなかった。
琉伽は学園に通うことも少なく、再会はあまりにも突然だった。

「……大丈夫か?」
「……弦里こそ」

泣き腫らした弦里の赤い瞳を見て、琉伽はそう言った。
弦里はその言葉に答えず、意識を失った御影へ視線を向ける。

「……御影は……生きてる……?」

「……ええ。生きてるわ」

琉伽の母親が、静かに答えた。

「……良かっ……た」

その瞬間、張り詰めていた何かが、弦里の中で切れた。

弦里は崩れ落ちるように、御影の腹部に顔を埋める。
意識のない身体に縋りつき、ただ泣いた。

何がどうしてこうなったのか。
どうして千影は、あんな最期を迎えなければならなかったのか。

考える余裕なんて、なかった。

――御影が、生きている。

その事実だけが、今の弦里を支えていた。

そしてその日。
弦里の中の“光”は、静かに消えた。




過去の記憶が、一気に弦里の中に蘇った。
あの時の光景、あの時の鉄の匂い――全てが、鮮明に甦る。

弦里は震える手で写真から視線を離し、御影へと向けた。

──今しかない。

覚悟を決めた弦里は、静かに口を開く。

「御影の記憶を消したのは、琉伽だよ……でも、琉伽は全部覚えてる」

その言葉に、琉伽は小さく息を漏らした。
「…弦里……」

「……全部?」
御影の声は、怪訝さと混乱で震えていた。

「琉伽の能力は、人の記憶を消すこと……だけど、それだけじゃない。
 相手から抜き取った記憶を、自分の中に保管することもできるんだ」

「…保管…?」
御影の目が大きく見開かれる。

「通常は、相手の記憶を消すと同時に、自分もその記憶を消す。でも、琉伽はそれを自分の中に残すこともできる。ただし、それは並大抵の体力じゃできないんだ」

陸玖は思わず言葉を呑み込む。
そうか……
あの時みんなが気にしていた体調の変化。

『体調、大丈夫か?』
『熱あるぞ』

――そうか。琉伽は、御影の濃密な記憶をそのまま抱え込んでいたから、体が悲鳴を上げていたのだ。

「今の琉伽はもう限界だ。
記憶だけじゃない、御影の感情まで背負ってる」

弦里の言葉に、御影と陸玖は静かに頷いた。

「だから、時々自分が誰だか分からなくなる……そうだろ、琉伽?お前はもう、だいぶガタが来てるんだ」

弦里は静かに、しかし力強く琉伽を見つめた。
その瞳には、揺るがない覚悟と、深い優しさが宿っていた。

「…そうなのか、琉伽」

揺れる瞳。弱々しく光を宿す琉伽を、御影はじっと見つめる。

「俺の記憶、持ってるの?」

静かな問いに、琉伽は小さく頷いた。
その頷きに、御影は「…はぁ…」と、小さく息を吐く。

――なるほど。
最近の琉伽の体調不良の理由がすべて繋がった。
御影の濃密な数年分の記憶を、琉伽は保持し続けていたのだ。
並大抵の精神力と体力では成し得ないこと。
御影は、琉伽がそんな能力を持っていたことを知らなかった。

御影はゆっくりと琉伽のベッドに腰を下ろした。

「…何年?」
「…え…?」

琉伽にはその意味がすぐには理解できなかった。

「…俺の記憶、何年分持ってる?」
「…13年分、姉兄(きょうだい)に関する記憶を中心に…」

陸玖は思わず息を飲む。
13年……。
そんな膨大な記憶を、琉伽はずっと抱え続けていたのか。
それと同時に琉伽の『姉兄の記憶を中心に…』という言葉でこの写真の二人は御影の姉兄なのだと理解した。

御影はその答えに驚きも焦りも見せず、静かに頷いた。御影自身も気づいたのだろう、その写真の二人の正体が…。
そして、琉伽の目を見つめながら、小さく息を吐く。

「…ごめん」

その言葉に、琉伽は一瞬戸惑った。

「…今まで、断片的にしか思い出せない記憶はあった。でも、それは途切れ途切れで、虫食いのように穴が空いてはっきりと思い出せなかった…」

御影は深く息を吸った。

「重い荷物を背負わせて、ごめん」

その言葉に、琉伽の目頭が熱くなる。

「…もういいよ、俺に返して」

しかし琉伽は、首を横に振った。

「駄目だ…そんなことをしたら…御影が…」
「俺が?」
「…御影が…壊れ…る」

その悲痛な言葉に、御影も弦里も言葉を失った。

弦里の脳裏には、あの日の夜の光景が鮮明によみがえる。
血の匂い、叫び声、崩れ落ちる心――言葉にすることすらできない、あの惨状。

御影の身に起きたのは、確かにあの夜と同じ、いや――それ以上の悲劇だった。

そして琉伽は、それを知っている。

まるで自分が体験したかのように、その苦しみを記憶として抱え続けているからこそ。
琉伽は、御影の記憶を返そうとしないのだろう。
その悲惨さを、誰よりも深く理解しているからこそ、誰よりも必死に御影を守ろうとしている。

琉伽の決意は固かった。
ここまで話を聞いても、首を縦に振る気配はない。

その頑なな想いを感じ取り、御影は静かに頷いた。

「……分かった。今はいい」

その言葉に、琉伽は思わず小さく息を漏らす。

「……ぇ」

ここで引き下がるとは、思っていなかった。

「……いつか、返してもらうから」

そう言い残し、御影は踵を返した。
扉が閉まる音だけが、静かな部屋に重く響いた。



静まり返った部屋で、陸玖がようやく口を開いた。

「ねえ。この話……私、聞いてよかったの?」

その一言に、弦里も琉伽も返す言葉を失い、視線を落とす。

「……はぁ、もう」

陸玖は小さくため息をついた。

「ただのお見舞いに来ただけなのにさ。
とんでもない秘密、聞かされる身にもなってよ」

「……ごめん」

琉伽の小さな謝罪に、陸玖はもう一度息を吐きかけ――けれど、それ以上責めることはしなかった。

「……陸玖ちゃん、この話は……」
「口外しない」

被せるように、即答だった。
その声音には、迷いも揺らぎもない。

そして陸玖は立ち上がり、部屋を出ようとドアノブに手をかける。

「……あ、そうだ」

ふと思い出したように振り返る。

「今日の夜、BBQするって」

あまりにも場違いな言葉に、琉伽と弦里は一瞬、呆然とした。

「食べられそうだったら、庭に集合ね〜」

いつもと変わらない軽口を残して、陸玖は部屋を後にする。

扉が閉まったあと、残された二人は顔を見合わせ――

ふっと、小さく微笑んだ。