誰もいなくなった長い廊下。
人目につきづらい、その廊下のいちばん奥にある部屋。
大きな人影が、ゆらりと揺れた。
弦里はゆっくりと扉に近づき、ドアノブに手をかける。
回した瞬間、
ギィィ……と、不気味な音が静寂を裂いた。
この部屋だけ、まるで時間の流れが止まっているかのようだった。
淡いベージュの細いストライプの壁紙。
白を基調とした家具が、昔のまま変わらず並んでいる。
机。
ソファー。
ベッド。
ベッドの上には、無数のぬいぐるみ。
机の上には、一枚の写真立て。
そこには――幼い頃の自分が写っていた。
弦里は写真立てを手に取り、じっと見つめる。
『弦里!』
不意に、あの声が蘇る。
『弦里と私は、大きくなったら結婚するのよ!』
――君と俺では結婚できない。
そんなこと、君自身がいちばん分かっていたはずなのに。
『ずっと一緒にいましょうね』
屈託のない、無邪気な笑顔。
『弦里ー!』
いつも君は、僕の名前を呼んだ。
いつも、いつも……。
俺を見つけるのは、決まって君だった。
『弦里』
そして、最後に残された言葉。
『御影をお願いね』
その声が、今も耳から離れない。
弦里は小さく息を吐き、名前を零す。
「……千影」
胸の奥に沈んだままの想いを抱えて。
◇
「あー!翼ちゃん!帰ってきた!」
リビングに戻ると、真理愛が待ってましたと言わんばかりに両手に線香花火を持っていた。
「今花火し始めたとこなんですよ、ほら」
かぐやから花火をひとつ受け取り、翼はリビングから繋がる大きなルーフバルコニーへ向かう。
そこではもう、皆がわちゃわちゃと花火を楽しんでいた。
「お!翼来た!」
愁の声に反応して振り向くと、その隣には御影の姿があった。
――琉伽の言葉が頭をよぎる。
『…ダメなんだ、御影が思い出す!』
琉伽と弦里は、一体何を隠しているのだろう。
「…翼?」
ぼんやり御影の顔を見つめていると、御影が不思議そうに翼の名前を呼んだ。
「…ううん」
咄嗟に首を振る翼。
かぐやに渡された線香花火に火をつけてもらい、じっと小さな火を見つめる。
考えなくていいこと、知らなくていいこともある――
あの出来事は、きっとその類だ。
考えなくていい、知らなくていい…。
目の前には、同じ目線で線香花火を眺める御影。
その瞳に、小さな火が映る。
この花火のように、いつかは消える小さな光。
誰にも触れられず、ただ静かに消えていく。
それで、いいのだと教えてくれるように。
ポトッ…
「俺の負け」
御影がつぶやく。
「翼の勝ち」
「勝ち?」
「線香花火、先に火が落ちた方が負けだって、聞いたことない?」
「…初めて花火したから」
「「「「………」」」」
翼の一言に、その場が一瞬凍る。
「御影〜、墓穴掘るなよ〜」
愁の言葉に少しイラッとする御影。
「墓穴って…なんだよ」
愁は御影の肩を軽くつかみ、コソッと耳打ちした。
「翼は海も初めて、花火も初めて。何もかも初めてなんだよ!もうなんか、見てて不憫だわ」
「逆に、何が初めてじゃないのか気になるな〜」
そこへ壱夜も加わる。
「もしかして……娯楽って娯楽、マジで一切したことねーのか?」
さらに海偉まで混ざり、四人は揃って振り返り、翼を見た。
「……もう、なんでもいいでしょ。
お兄まで変なノリに乗らないで」
陸玖の一言に、御影以外の三人は「つまんねーの」とでも言いたげに散っていった。
一方その頃、真理愛はかぐやと庵と一緒に線香花火を囲んでいる。
「わあー!真理愛の勝ちー!」
「……ちっ」
「さすが真理愛ちゃんです」
「庵、今舌打ちしたわね」
あちらはあちらで、相変わらず騒がしい。
「……ところで、琉伽様と弦里様は……?」
ふと、かぐやが首を傾げる。
その言葉に、皆も「そういえば」と二人の姿が見えないことに気づいた。
「……あ、琉伽が熱出しちゃって。弦里が付き添ってる」
翼の答えに、庵の表情が一変する。
「本当か!?」
翼が頷くと、庵は何も言わずに立ち上がり、足早にバルコニーを後にした。
「本当、あいつは琉伽のことになるとああなんだよな」
庵の背中を見送りながら、愁がぽつりと呟く。
「庵、琉伽大好きだからなー」
壱夜の言葉に、かぐやがぷぅっと頬を膨らませた。
「……ちょっと、焼きますわ」
「大丈夫だよ、かぐや。
庵が愛してるのはかぐやだけだから!
琉伽へのあれは“執着”、執着!」
そんなやり取りが続く中、翼はふと御影に視線を向けた。
御影もまた、庵が去っていった方向を、じっと見つめていた。
◇
「琉伽!大丈夫か!」
庵は勢いよく琉伽の部屋の扉を開けた。
「…庵」
ベッドに横たわる琉伽と、ベッド横の椅子に座る弦里の姿が目に入る。
「庵、どうしたの?慌てて」
横になっていた琉伽は上体を少し起こしながら声をかける。
「琉伽が熱出したって聞いて…熱は? 高いのか?」
「あぁ、大丈夫だよ。そんな高くない」
「本当か…? 何か欲しいものとかあるか?」
そのとき、横からくすくすと笑う声が聞こえ、ふたりは顔をそちらへ向ける。弦里が微笑んで見ていた。
「…なんだその笑いは」
庵は怪訝そうに弦里を見つめる。
「いや、ごめんごめん。庵は本当に、琉伽のことになるといつもの冷静さを失くすなって思って。ははっ」
「…そうか?」
「そうだよ。自覚ないの?」
「………」
弦里の言葉に、庵は言葉を詰まらせる。
庵にとって、琉伽は初めて心を許せる理解者であり、本音を打ち明けられる相手でもあった。
「ないのか。本当に、お前ってやつは」
弦里はニコッと笑い、庵の頭に手を置いてくしゃっと撫でる。
「兄面するな」
庵はその手を振りほどき、琉伽に視線を戻した。
「琉伽…」
「ん?」
「最近、おかしくないか?」
「…最近?」
不安そうな庵に、琉伽は首を傾げた。
「なんか、以前より痩せたように思うし……体調も、ずっと良くないだろう。何か隠している事があるんじゃないか?」
「……ないよ」
「……琉伽。本当の事を」
「俺が庵に隠し事なんてする訳ないでしょ」
「…………」
「本当に、ただの風邪だよ」
「……分かった」
庵は、何かを諦めたように小さく頷いた。
だが内心では、納得など欠片もしていない。
――隠している。
それは、あまりにも分かりやすかった。
庵はちらりと弦里の顔を見る。
弦里は何も言わず、ただ静かに琉伽を見つめていた。
……やっぱりだ。
その視線だけで、弦里が“何か”を知っているのだと確信する。
庵はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出た。
来た時と同じ、長い廊下。
その廊下を歩きながら、庵の意識は自然と過去へ引き戻されていった。
――能力が出現し始めた頃。
制御など出来るはずもなく、庵の頭の中には常に人の心の声が溢れていた。
どこにいても、何をしていても、声、声、声。
頭が、壊れそうだった。
その日も、吐き気を堪えながら、庵は床に丸くなっていた。
そんな時――
『君が、庵くん?』
母が連れてきたのは、六花を継ぐ者のひとり。
桃李家の琉伽だった。
その間も、頭の中ではガンガンと声が響き続ける。
気持ち悪い。
今にも吐きそうだ。
庵は、吐き気を抑えるように身体を抱きしめた。
『……うっ』
『大丈夫!?』
次の瞬間、躊躇もなく背中に触れられた。
琉伽が、優しくさするように撫でていた。
ドクン――
心臓が大きく跳ねる。
それと同時に、琉伽の心の声が流れ込んできた。
『庵くん……大丈夫かな……』
『気持ち悪い? 吐く?』
『どうしよう……誰か呼んだ方がいい?』
『しんどそう……何が出来る?』
『庵くん……』
――全部、庵を案ずる声だった。
今まで出会った人間とは、まるで違う。
触れると心の声が聞こえると勘違いした大人たちは、
『気持ちが悪い』
『こいつが例の……』
『南雲家の……』
『どう利用しようか』
聞きたくもない声ばかりを、容赦なく投げつけてきた。
触れなくても、距離があれば聞こえてしまう。
拒絶、嫌悪、欲望――そんな声に、庵はずっと晒されてきた。
なのに。
琉伽は一度も、庵を気味悪がることなく、
ただ、心配だけをしていた。
『……気持ち、悪くないの……?』
そう尋ねると、
『え? 何が?』
『……』
『あ! 吐く? いいよ! んーと、受け皿ないから……手の上に吐く? 吐いていいよ!』
そう言って、琉伽は両手を受け皿のように重ね、庵の前に差し出した。
『……いや、それはさすがに……』
『だよねー。あはは』
屈託なく笑う琉伽。
――それが、琉伽との出会いだった。
そこから親しくなるまで、時間はかからなかった。
琉伽は、庵の恩人だ。
あの、苦しくて、辛くて、どうしようもなかった子ども時代を救ってくれた存在。
(だから、俺は……)
庵は思考を振り切るように、足を進める。
そして、リビングへと戻った。
◇
広い部屋の真ん中に、大きなベッドがどん、と置かれている。
翼は【リデルガ】に来た日のように、物珍しそうに部屋中を見渡していた。
花火を終え、そろそろお開きにしようという流れになり、各自用意された部屋へ向かって解散した、その後だ。
「どうしたの?」
部屋の中央で立ち尽くしたままの翼に、御影が声をかける。
「本当に……豪華というか。広い部屋だね」
「まあ、ここがこの屋敷で一番広い部屋だからね」
翼は心の中で「へえ」と相槌を打ちながら、天井のシャンデリア、本棚、机、そして整然と並ぶ家具を一つひとつ眺める。
部屋の奥にはトイレとシャワー室まで完備されていた。
――お金持ちって、すごい。
素直な感想が胸に浮かぶ。
そして、翼はずっと気になっていたことを口にした。
「えっと……私が今日泊まる部屋は、ここじゃないよね?」
「ここだよ」
「?」
一番広い部屋だと言ったのは御影だ。
てっきりここは御影の部屋で、自分は別の部屋に案内されるものだと思っていた。
「御影は?」
「俺もここ」
「……はい?」
御影は得意げにそう言うと、ソファの上にどかっと腰を下ろした。
「実は、部屋が一部屋足りなくてさ」
「一部屋……」
今日泊まる人数は、全部で十一人。
この屋敷の部屋数は十。
つまり、誰かは誰かと同室になる。
――だからといって、御影と同じ部屋、というのは。
翼は言葉にならない違和感を胸の中で転がす。
「……嫌だった?」
御影はそう言いながら、翼の手を引いた。
嫌、というわけではない。
ただ……男女が一晩、同じ部屋で過ごすという事実に、どう向き合えばいいのか分からなかっただけだ。
「嫌という訳では……」
「それは良かった! もう何回も一緒に寝た仲だもんね」
「なっ……寝たって……言い方……」
「よーし。じゃあ俺、先にシャワー浴びてくるよ。翼はゆっくりしてて」
そう言って御影は、シャワー室の扉の向こうへと消えた。
「……ゆっくりして、って言われても……」
今までも、御影の部屋で添い寝をしたことはある。
気づいたら自分の部屋で、隣に御影が眠っていたこともあった。
けれど、あの時はいつも正気じゃなかった。
吸血衝動に襲われたり、妙な夢を見てパニックになっていたり……記憶も曖昧だ。
でも、今日は違う。
意識ははっきりしている。
記憶も、ちゃんと残る。
だから――
なんだか、少しだけ。
気恥ずかしかった。
翼はすることもなく、本棚に目をやった。
いくつもの本の背表紙には、聞いたことのないタイトルが並ぶ。
『イグドールの森』『遥かなる蒼』『結晶の少女』――
タイトルだけでは、その物語の内容すら想像がつかない。
翼はその中から一冊の本を手に取った。
パラパラとページをめくると、数ページごとに挿絵が挟まれていた。
その時、カタン、と小さな音が響く。
翼は音のした方向に視線を向けた。
手に取った本が並ぶ場所の奥、本と本の間に挟まれていた一冊が、倒れた音だった。
翼はそっとその本を手に取る。
「『薔薇摘みの儀式』……」
表紙にそう書かれていた。
興味半分、そして少しの不安を胸に、翼は本を開く。
私たちは、大いなる過ちを犯した。
二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、
全てをここに記す。
あの忌まわしき――
薔薇摘みの儀式。
いや、正確には――
薔薇罪の儀式について――。
「…罪」
1ページ目にはそう書かれていた。
殴り書きのような文字に、翼の背筋が凍る。
次のページをめくろうとする手が、思わず震えた。
翼は震える手でページに触れる。
「翼?」
背後から声がかかり、翼は咄嗟に振り返る。
手に持っていた本を背中に隠した。
「…御影」
そこには、シャワーを浴び終えた御影の姿があった。
濡れた髪、少し火照った頬、首にかけたタオル。
慌てる翼の様子に、御影は首を傾げる。
「あ、…」
いつもより少し色っぽい御影に、翼の心臓はドキドキと早鐘を打つのが分かった。
「どうかした?」
「ぁ、いや…」
「?」
「ほ、本!」
何故か、薔薇摘みの儀式について書かれた本だけは御影に知られてはいけない――
そう思った翼は、本棚を指差した。
「本?」
御影は指差された本棚に視線を向ける。
「あぁ、あの本たちはお爺様の趣味だよ」
「…お爺様?」
「うん、俺の祖父だ。お爺様は本が好きで、童話をよく読み聞かせしてくれたんだ」
「この部屋はお爺様の?」
「元はね。亡くなるまでの数年、お爺様はここで過ごしていた」
御影が本を眺めながら話す瞳は、どこか懐かしさを帯び、柔らかく暖かかった。
「…お爺様とは仲が良かったの?」
「え?」
翼の問いに、御影は目を見開く。
「ぁ…ごめん。御影がお爺様の話をする声がいつもと違ったから」
「いつもと?」
「うん…お母様の話をする時は苦しそうだけど、今は…」
「あぁ…そうだね。お爺様は本当に優しい人だった」
「……」
「お爺様は優しすぎた。本当に心優しい人だった」
翼は、優しく悲しそうに語る御影の横顔をじっと眺める。
その姿は、恐ろしいほどに美しく見えた。
それ以上、お爺様の話を聞く勇気は出なかった。
「さっ、翼もシャワー浴びてきなよ。疲れてるでしょ」
翼は少し戸惑いながらも頷き、用意されたシャワー室へ向かう。
扉を閉めると、水の音が静かに響き、温かい湯気が体を包む。
シャワーの水流が肩や背中に触れるたび、今日一日の出来事や胸の中で渦巻く感情が少しずつ流れ落ちていくようだった。
手に触れる感覚、熱いお湯の感触、そして香るシャンプーの匂い。
翼はいつもより深く息を吐き、肩の力を抜く。
今日の出来事――琉伽のこと、御影と同じ部屋に泊まること、花火の夜のこと――すべてが頭をよぎる。
だけど、湯気とお湯に包まれている間は、何も考えなくてもいい。安心できる、ほんのひとときの時間だった。
シャワーを終え、タオルで体を拭きながら翼は鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。
胸にわずかな違和感が引っかかったまま、扉を開ける。
ベッドに座り、静かに本をめくる御影の姿が目に入った。
「おかえり、翼」
そのひと言に、翼は少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
「何読んでるの?」
「俺が小さい頃、好きだった童話」
翼は御影の隣に腰を下ろす。
御影は本の表紙を翼に見せるように傾けた。そこには『少年と少女』というタイトル。
翼は本を手に取り、ページをめくる。
そこには、少年と少女が仲睦まじく過ごす姿が描かれていた。
「この物語はね――吸血種の少年と人間種の少女が、種族の垣根を越えて共に暮らす姿を描いているんだ」
翼は、ページに描かれた少年と少女が手を繋ぐ姿に目を落とす。
静かに、だけど確かに、心の奥に温かいものが流れ込むようだった。
「小さい頃、何故かこの物語が好きで。よくお爺様が読み聞かせてくれたんだ」
御影の瞳は、遠くを見つめるようにわずかに憂いを帯びていた。
その目には、懐かしさと少しの切なさが混じっている。
翼は御影の切なさとも似た何かを感じ、気づいたらそっと御影の頬に手を添えていた。
指の腹で、そっと頬を撫でる。
御影は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに何も言わず、翼の手の上に自分の手を重ねて包み込む。
その温もりに、翼の胸の奥がじんわりと熱くなる。
二人の視線が自然に交わる。
言葉はなくても、互いの想いが静かに伝わる瞬間。
翼は小さく息をつき、御影もまた、ゆっくりと目を閉じて安堵のような微笑みを浮かべた。
「ふふ」
御影が笑う。その表情に、翼はつい頭を傾ける。
「…何か心配させちゃった?」
御影の言葉に、翼はふるふると首を横に振る。
言葉にできない想いが、ただ胸に溢れていた。
この童話の少女のように、互いの正体や事情が何であろうと、そばにいたい。支えたい。信じたい。
--御影が私をここに連れてきた意味がわかっても…私は…
翼はその感情を、ただ手のひらに込めた。
「……寝ようか」
落ち着いた声で、言葉にできない翼の想いを受け取った御影は、静かにそう呟いた。
夜はただ穏やかに流れていた。夏の静かな夜だった。



