六花の薔薇 ―refrain―



「海だー!!!」
「いえいー!!!!」

砂浜に向かって駆け出す愁と壱夜。
その後ろではしゃぐ姿を、他の御一行がじっと見守る。

「本当に元気ですわね」
「そりゃ愁と壱夜だもん。元気が取り柄のふたりだからね〜」

かぐやと真理愛は呆れたように笑いながらも、はしゃぐふたりを眺める。

「パラソル、どこに立てる?」
「ここでいいんじゃない?」

弦里と琉伽は日陰を探し、庵は木陰で身を潜め、御影はただじっと暑い太陽を見つめていた。

「…大丈夫?」
翼が咄嗟に声をかける。

「うん、大丈夫だよ」

その言葉に頷き、翼は目の前に広がる青い海を眺める。
こんな光景を目にする日が来るとは――その広大さに胸がいっぱいになった。

「もしかして、翼、海は初めて?」
「…うん」

その答えに、その場にいた全員が翼を見つめる。

「嘘嘘嘘!本当に!?翼ちゃん!」
「本当ですか?翼さん!」

真理愛とかぐやは慌てて翼に駆け寄った。
【リデルガ】も【リアゾン】も海に囲まれた島国で、海自体は珍しくないはずだが、それでも翼にとっては初めての体験だった。

「…はは、本当に、なんて言ったらいいか…」
「……」

項垂れる弦里と言葉を失った琉伽をよそに、愁と壱夜は駆け足で戻ってくる。

「翼!行くぞ!」
「へっ?」
「ほら、真理愛も!」

愁は翼の手を、壱夜は真理愛の手を引っ張り、4人は海に向かって走っていく。

そう、御影たち一行は別荘に来ていたのだ。
季節は夏。舞踏会事件の解決に追われていた春から、気が付けば夏へと移り変わっていた。

【学園】も長期休みに入り、皆それぞれ自由な時間を楽しもうとしていた。
そんな中、愁の一言がきっかけで、今回の海でのひとときが始まったのだ。

ことは、数週間前に遡る。





「皆で別荘行こうぜ!」
「「別荘?」」

御影と琉伽の声がハモる。

「別荘だよ!昔よく行ってたでしょ、御影の別荘!」

壱夜の言葉に、御影の脳裏に微かな記憶が蘇る。
時期六花として顔合わせをした頃、六花の六人は夏に御影の別荘で過ごしていたのだ。
企画者は愁の父親。将来この国を支える六花だから親睦を深めた方がいいと言われ、夏は子ども六人で楽しんでいた。
しかし年齢を重ねると、そんな行事もいつの間にかなくなっていた。

「行ってたね、覚えてる?御影」
「…なんとなく」

琉伽の問いに、御影は曖昧に答える。
覚えてはいるのだが、記憶は少しモヤがかかっているようで、鮮明には思い出せない。

「だからー!今年は皆でぱーっと遊んで、楽しい思い出作ろうぜ!」

御影は少し考える。
あの場所は海も山もあり、自然豊かで夏には避暑地として人気のあるエリアだ。
翼もいることだし、皆で行くのも悪くないかもしれない、と心の中で思う。

「…そうだね」
「おお!御影からお許しが出た!」

愁と壱夜の目がパッと明るくなり、喜びを爆発させる。

「いいの?御影」
「まあ、たまにはいいんじゃない?」
「…そう」

琉伽は御影の横顔を眺め、心の中であの日のことを思い出す。

何も起こらないといいけど…

その時、専用室の扉が開き、海偉と陸玖が現れる。
海偉は御影と視線を合わせると、気まずそうに目を逸らす。
先ほどの翼との出来事を思い出していたのだ。
御影はその様子を不思議に思う。

「?」
「お!海偉!陸玖!いい所に来た!」
「なに?」
「お前らも行こうぜ!別荘!」
「「別荘?」」





ということで、彼らは別荘にやって来ていた。

避暑地ということもあり、中心街よりも気温は低く、過ごしやすい。
海が初めてな翼は物珍しそうに、愁や壱夜、真理愛に見守られながら波を警戒している。その様子を見て、愁と壱夜はゲラゲラと笑った。

「何あれ、何してんの?」
「あ、陸玖ちゃん。海偉、来てくれたんだ」

ふたりの存在に気づく琉伽。
陸玖は波を怖がる翼を見て、眉間に皺を寄せる。

「海、初めてなんだって」

弦里の言葉に、海偉と陸玖は言葉にならない声を上げた。

「…嘘だろ。リアゾンにも海はあるぞ」
「てか、海に囲まれてるんだから、行ったことないとかあるの?」

ふたりは困惑の表情を見せる。

「それだけ、軟禁状態だったってことだろう」

日陰に避難していた庵が、準備されたパラソルの下に入り一言発した。
庵のその言葉に、そこにいた全員の気持ちは少し沈んだ。

陸玖は羽織っていたパーカーを海偉に投げ渡し、ササッと海の方へ走っていく。
そして、怖がる翼の手を取り、海の中へと進んで行った。

「陸玖さん、優しいですよね」

かぐやの言葉に、海偉はふっと笑う。

「そうなんだよな〜。あぁ見えて、うちの妹優しいのよ」

海ではしゃぐ五人を、海偉は微笑ましく眺めた。

「海偉、ほら」
「お、さんきゅ」

弦里は持ってきていた炭酸ジュースを海偉に渡す。さらに御影や庵、かぐや、琉伽にも手渡した。
海偉は炭酸ジュースの蓋を開け、ごくっと喉を潤す。

弦里と琉伽が用意したパラソルの下にシートを敷き、それぞれ日陰でリラックスした。

「海偉、よく来れたね」

弦里が海偉に話しかける。

「あ〜まあ?」

曖昧な返事に、琉伽が続ける。

「親父さんの許可、出たんだ?」
「いや、出てない」
「「え」」

弦里と琉伽は顔を見合わせた。

引きつった笑顔の海偉に、弦里も琉伽も頭を抱えるしかなかった。
交流が再開されたとはいえ、【リアゾン】と【リデルガ】を行き来できるのは六花とハンターの一族のみ。公の場での許可がある場合を除き、私用での行動は以ての外だ。これがバレたら、何を言われるか分からない。

「本当、無茶な事をする」
ボソッと呟く御影。

「お前らが誘って来たんだろー!特にあいつ等!」

海偉は海ではしゃぐ愁と壱夜を指差す。

「まあまあ、せっかくなんだから楽しもうよ」
琉伽の言葉に、海偉は頷く。

「庵様、暑いですか?うちわで仰ぎますわよ?」
「いや、いい、大丈夫だ」
「でも暑い所は苦手ですわよね?遠慮なさらず」
「…ぁ、あぁ」

海偉の隣でいちゃいちゃする庵とかぐや。

「お前らは本当に人目もはばからず…」
見ているだけでこっちが暑くなる、と海偉は吐き捨てる。

「庵だからね〜」
「かぐやだからね〜」

弦里と琉伽はその光景を楽しみ、顔を見合わせてくすくす笑う。

「べ、別に!いちゃいちゃしているわけでは!」
慌てて弁解する庵。

「そうですわよ!庵様は特に暑いのが苦手ですから、体調が悪くなっては元も子もありません!」
「吸血種は皆、暑さに弱いだろ」
海偉の呆れた言葉に、かぐやはぷくっと頬を膨らませる。

「庵様は特に!ですわ!」
「あ〜そーですかー」

面倒くさくなった海偉は、海ではしゃぐ五人に目をやる。
楽しそうに笑う陸玖の姿を見て、来てよかったと素直に思った。

自分もせっかく海に来たのだから泳がないと損だと思い、着ていたパーカーを脱ぐ。

「お前ら、泳がねーの?」

パラソルの下から一向に動こうとしない五人に声をかける。

「「「「「行ってらっしゃい」」」」」
「…なんで来たんだよ」

そう言いながら、海偉は海へ向かった。








初めての海を満喫した翼は、夕食の準備に励んでいた。
思う存分海ではしゃぎ、今までの人生で一番笑った日になった。

海で遊んだ後、御影の別荘へ向かう翼達。
なんとなく御影の別荘を想像していたが、想像以上の大きさに戸惑う。
やはり御影は只者ではない、と再認識させられた。

そんなことを考えながら、広すぎる厨房で夕食の準備をする翼。

「庵が料理作れるなんて驚きだよー」

隣で手際よく料理をする庵を、真理愛は目を丸くして見つめる。

「料理だけじゃなく、庵様はスイーツも作れるのです!真理愛ちゃん!」

庵の姿に、かぐやも嬉しそうに笑う。

「え、嘘!知らなかった!」

真理愛とかぐやに挟まれ凝視される庵は、どこか落ち着きがない。

「あまり見られると、やりづらい」
「え〜だって手馴れすぎてて、見てて気持ちいいんだもん」

確かに庵の手際は抜群だ。
無駄のない動きで淡々とこなしていく様子は、普段からしていないと出せない要領の良さだ。

翼もその動きを見つつ、自身に任された仕事をこなしていく。

「翼ちゃんも手際いいよね」
「ありがとう、家で作ってたから」
「すごいなあ〜、私なんて厨房に立たせてもらえないんだよ〜」
「真理愛ちゃん達は仕方ないよ。使用人さんいるんでしょう?」
「うん、仕事奪っちゃうことになるしね〜ってそうだよ!普通やらせてもらえないんだよ!なんで庵できるの!?」

真理愛の疑問に、かぐやはにこにこ笑いながら答える。

「何故かと言うとですね…」
「家の方針だ」

かぐやが言いたげな顔をしていたにも関わらず、庵に言われたことで少しがっかりするかぐや。

「方針?」
「南雲家は誰でも家事ができるよう教育されてる。母上の方針だ」
「え?庵のお母様って、あのふわふわしておっとりした天鞠(てまり)様だよね…」
「…そうだが?」

真理愛はあの天鞠(てまり)様の優しい笑顔を思い出す。
一度だけ庵の屋敷にかぐやと行った時にたまたま対面したことがある。
六花の妻になる人物は、箱入り中の箱入り娘。昔から使用人が身の回りの世話をするのが当たり前の生活の中、家事ができるよう教育されていると知り、真理愛は驚く。
ましてや、あのおっとりした天鞠様が、そんな教育をするとは思わなかった。

「庵様はお部屋もご自分でお掃除するのです、ねっ?庵様」
「あぁ」
「えー!そんなことまでやるの!?でも、なんで?」
「…昔からそうだったから分からん。ただ母上は『自分のことは自分でできるようになりなさい』と言っていたな」
「へぇ〜、時期六花のお母様達の中では珍しい考え方ね」
「…そうだな」

翼はこの会話を聞き、頭に「?」が浮かぶ。
【リアゾン】では、ごく普通の考えだ。母親とは、子どもが困らないよう、自分の身の回りのことはできるよう躾けるのが一般的である。

「でも、私、天鞠様の考えは凄く素敵だと思いますわ」
「そうだね!私も好き!」

真理愛とかぐやはにこにこと笑い合う。

「………」

ふたりに挟まれた庵は、自分の母親が褒められているのが少しむず痒い。

「ねえねえ、翼ちゃん!」
「?」
「【リアゾン】ではやっぱり自分のことは自分でするの?」

真理愛の言葉に翼は頷いた。

「家庭それぞれだと思うけど、身の回りのことは自分でやるっていうのは一般的だと思うよ」
「やっぱりそうなんだ」
「まあ、俺たちは貴族の中でも位が上だ。下級の者たちは自分のことは自分でやるのが当たり前だろう。使用人に任せるのは上流階級の貴族だけだと思うが」
「確かに!庵、頭良い!」
「ふふふ」

かぐやが微笑ましく笑う。

「私も天鞠様みたいなお母様が良かったなぁ〜」
「私もですわ」
「真理愛ちゃんとかぐやちゃんのお母様はどんな人なの?」

翼は気になって、思わず口を開いた。

「ん〜私のお母様は、あまり子どもに関心ないんだ〜。私を生んだのは六花に嫁ぐための条件だったからで、あまり部屋から出てこないし」
「…そう、なんだ」

明るい真理愛からは想像できない話に、翼は聞いてはいけないことを聞いた気がして少し後悔する。

「そんなもんだろ、時期六花の母親なんて」

翼の表情を見て、庵は口を開く。

「かぐやの母上も、真理愛と似たようなものだ」
「私《わたくし》のお母様も嫌々、私を生んで今はもうこの世にはおりません。時期六花に嫁ぐ子どもを生むのが分家の女に課せられた使命ですから。家に縛られ、自由のきかない人生を送る女性は少なくありません」
「……」

国のトップに君臨する一族には、それぞれ想像できないしがらみがあるのだと翼は実感する。
御影も母親とはあまり良い関係ではないようだった。大人の世界には色々あるのだと悟る。

「だからね、庵のお母様は特別だよ」
「そうですね、私を本当の娘のように可愛がってくれますから」
「ね〜天鞠様、本当に素敵だよね〜」
「…もう母上の話題はいい」

少し恥ずかしくなった庵は頬を赤らめながら話題を遮る。
そして庵は翼に視線を向ける。

「おい、そっちはできたんだろうな」
「…あ、うん、もうできる」
「も〜!庵!おいじゃない!翼ちゃん!名前があるのにおいとは何ー!」

真理愛はぽかぽかと庵の背中を叩く。
鬱陶しそうな表情をしながらも、庵は料理を皿に盛り付けていった。

「うわあ!美味しそう〜」

ぽかぽかと殴る手を止め、真理愛は料理に興味津々。

「ほら、持っていけ」
「はーい!」

庵は真理愛に料理を渡す。真理愛はリビングにある大きなダイニングテーブルに料理を運んでいく。作られた料理が次々とテーブルに並ぶ。人数が多い分、料理の数も多い。

「おお〜!美味しそう!」

いい匂いに誘われて、壱夜がリビングに顔を出す。

「ね!美味しそうだよね〜お腹空いちゃったよ〜」

壱夜の言葉に真理愛が答える。

「真理愛が作ったの、どれ?」
「え、私手伝いしかしてないから…」
「じゃあ、手伝ったのはどれ?」

優しく笑う壱夜。

「これ…ポテトサラダ…じゃがいもの皮剥いだ…」
「うん!美味しそう!一番に食べるわ!」

その笑顔に、真理愛は少しドキッとした。

「ほ、ほら!早く皆呼んできて!」
「はーい!」

皆を呼びに行った壱夜の背中を、真理愛はただ眺める。
脈打つ心臓に手を当て、落ち着かせようとする。

「…もう…」

高くなる体温が自然に落ち着くのを、ただただ待っていた。

「真理愛ちゃん?どうしたんです?顔赤いですよ?」
「か、かぐや!なんでもない、なんでもない!あはは」

誤魔化しきれない誤魔化し方で、まだ運ばれていない料理を受け取りに行った。
何かが変わった自分に気づかないふりをして…。






「あ〜!美味しかった!」
「「「「「「「「「「ご馳走様でした〜!」」」」」」」」」」

真理愛はテーブルに並べられた空の皿を見て呟く。
皆で囲み、何でもない会話をしながらの食事は、本当に楽しかった。

真理愛はサッと立ち上がり、空になった皿を重ねて台所の流し台へ運ぶ。すると、翼も一緒に片付けを始める。

「真理愛、翼。俺も片付けするから」

壱夜の声に、真理愛は
「ぇ、いいよ?片付けするから」
と答えると、翼も頷いた。

リビングでは、かぐやがナフキンでテーブルを拭いていた。女の子たちの機敏な動きが目立つ。

「俺もやるよ」

その声と共に、翼の持っていた皿が目の前から消える。顔を上げると、そこには御影がいた。
御影は翼の皿を持ち、流しに置いて洗い始める。

その姿に、他の十人はポカーン。

「いやいや!ちょっ、御影!」
愁は驚きの声を上げた。
次期当主である御影が家事をするなんて、想像もしていなかったのだ。

「み、御影…私たちでやるから、そんな事しなくていいよ!!」
真理愛が慌てて声を上げる。

「御影様!私がやりますわ!スポンジを置いて下さい!」
テーブルを拭いていたかぐやも慌てて御影からスポンジを取り上げる。

「次期当主であるあなたが、そんな事しなくていいのですよ?」

慌てたかぐやの言葉を聞き、御影はポツリと呟いた。

「…そっか」

少し寂しそうなその声に、全員が驚く。

(したかったの?)
(したかったのか?)

誰もが心の中で思う。

「ねぇ、ちょっと拗ねてない?」
陸玖はリビングのソファでテレビを眺める御影の背中を見ながら、隣の琉伽に話しかける。

「…ぁ〜、うん。そうだね」

せっせと片付けをする三人の姿に視線を移す。
真理愛とかぐや、翼が片付けをしている。
先程の御影の行動に、全員が驚き制止した。
まさかあんな言葉が出るとは誰も思っていなかったのだ。
全員に制止された御影は、少し拗ねているようにも見えた。

「そんなに皿洗いしたかったのかな?」
陸玖が小さく呟く。

「ん〜、好奇心…かな?家では使用人が全てやるから…」

「…好奇心、ねぇ〜」

御影の背中を眺めながら、陸玖はさらに小さく呟いた。
御影の右隣には庵、左隣には海偉が座っている。海偉はふたりに一方的に話しかけ、何かをケラケラと笑っていた。

陸玖は視線を御影から海偉に移す。

(まあ、分からなくもないけど…)

そう心の中で呟き、昔のことを思い返した。
海偉も言わば御影と同じく、規模は違えど【リアゾン】を統治するハンターの一族の跡取りだ。

今はふたりで暮らしているが、昔は家に使用人がいた。身の回りのことは全て使用人が行い、ふたりはハンターの修行と学校以外のことは何もしていなかった。
楽と言えば楽だが、どこか窮屈さを感じていた。条件付きでふたりで暮らし始めたのは、その窮屈さからの自由を求めた結果でもあった。

陸玖は、御影や海偉の様子をぼんやり眺めていた。
海偉が庵に話しかけて笑っている。その笑顔に、思わず目を留める。

(…お兄、楽しそうだな)

心の奥が、ふわりと温かくなる。昔は窮屈で、自由なんてほとんどなかった日々――
でも今、こうして無邪気に笑っている海偉を見て、陸玖はなんだか安心した。

(やっぱり、お兄は笑ってるほうがいい…)

陸玖は、自分でも気づかぬうちに肩の力を抜いていた。
海偉のその笑顔が、あの鬼ごっこの夜の苦痛の表情と重なる。
あんな状況は二度と起こしてはいけない――今の笑顔に、陸玖はほっと胸を撫で下ろした。







「翼ちゃん、ここはもう大丈夫だから、せっかくだし屋敷見てきたら?」
「そうですよ!せっかくですし!」

真理愛とかぐやの言葉に、翼は首を振る。

「いいよ、まだ片付けあるし……」
「ふたりいるんだから大丈夫だよ〜!この屋敷、本当に広いの!あんまり来れないから見ておいでよ〜」

隣でうんうんと頷くかぐやの姿に、翼はふたりの好意に押されるように頷いた。

「分かった、行ってくる」
「うん!行ってらっしゃい!」

そう言われ、翼はリビングを出た。
出ると目の前には、左右に長く広がる大きな廊下が続いていた。

(見て回ると言っても、どこに行けばいいんだろう)

翼は左右を見回し、少し考えて、なんとなく右側が気になり歩き出した。
廊下は変わり映えのしない景色が続く。淡いベージュの細いストライプの壁紙、天井には控えめなシャンデリアが遠目に点々とぶら下がっていた。

(本当に大きな屋敷だ……)

やがて大きな広間に出た。
目の前には豪華な階段がそびえ、翼はその階段を上って二階へと足を進める。
一階とは違い、二階は薄暗く、使われている気配のない静かな空間だった。

廊下をゆっくり歩いていると、ひとつの部屋の扉が目に入る。
廊下の奥でひっそりと佇むその扉に、翼は自然と手をかけた。

その瞬間――後ろから翼の手を覆う誰かの手が重なった。

「っ!」

ふわりと漂う柑橘系の香り。
背中にじんわりと伝わる暖かい体温。
その圧が、翼にすぐ誰かだと気付かせた。

ゆっくり振り返る。

「…琉伽」

無表情の琉伽が真後ろに立っていた。瞳には薄く影が落ちている。

「…ダメだよ、ここは」

琉伽は翼の肩を掴み、身体を静かに反転させ、扉の前に押し付けた。

「…ぃっ」

突然の行動に、翼は咄嗟に目を逸らし、顔を手で覆う。
その反応に琉伽も動きを止めた。

「………」
「………」

動かないふたり。
琉伽は翼の肩から手を離し、代わりに翼の手首をぎゅっと掴んだまま、1階の自分の個室へと向かう。

ぎゅっと握られた手首が少し痛い。
翼は琉伽の大きな背中を見ながら、心の奥で少し怖さを覚える。
勝手に部屋に入ろうとしたのは自分の非だとわかっている。けれど、一言も話さない琉伽の異様な雰囲気に、喉の奥がキュッと締まった。

(声が出ない……)

やがて二人は琉伽の個室へ入る。
琉伽は翼をソファに少し乱暴に座らせた。

「…部屋、入った?」
「…入ってない…」

その答えに琉伽は何も言わず、ただじっと翼を見つめる。

「なんで目合わせないの?」
「………」

琉伽の問いに翼は肩をビクッとさせた。
記憶を消されるのではないかという恐怖に、目を合わせることができず、俯いてしまう。

「記憶消されると思った……?」

確かにさっきの琉伽の瞳は、ほんのわずか赤く光っていた。
あの赤は、能力を解放した時に瞬時に現れる色。
琉伽の考えていることは、翼には分からない。
普段の優しい琉伽ではなく、今はまるで知らない人のように冷たく、緊張が翼の体を包んでいく。
手のひらからじんわりと体温が失われていくのを感じた。

「おい、琉伽」

低く、けれど確かな声が扉の方から聞こえる。

(この声…弦里?)

翼は顔を上げ、ゆっくりと扉の方へ視線を向ける。
開かれた扉の先には、弦里が立っていた。

「…翼ちゃん?」

怯える翼の顔を見た弦里は眉間に皺を寄せ、視線を琉伽に移す。

「琉伽、お前、何して……」
「…思い出させちゃいけないんだ」

か細く呟く琉伽。

「思い出させちゃ……絶対に……」
「おい!琉伽!」

その瞬間、琉伽の身体がぐらりと揺れる。
弦里はとっさに琉伽を受け止めた。

「…ダメなんだ、御影が思い出す!あの部屋は絶対ダメなんだ!あの人の……」
「琉伽!!!」

琉伽の瞳がわずかに揺れるのが見えた。
心のない瞳、何かに怯えている。
目の前で今にも崩れそうな琉伽に、翼は目を離せなかった。

「琉伽!大丈夫だ!何も思い出してない!お前がそんな不安に思うことは、何一つ起きてない!だから落ち着け!」

弦里の言葉に、琉伽は一瞬我に返り、頭をぐちゃぐちゃとかきながら息を整える。

「…翼ちゃん、ごめん」

その一言に翼は首を振った。

「…琉伽、お前、顔赤くないか?」

弦里の言葉に、翼も琉伽の顔を覗き込む。

「え…?そう、かな……」
「ちょっとごめんな」

弦里は謝りながら琉伽の額に手を伸ばし、体温を確認する。

「うん、熱いよ。熱ある」
「え……」

その言葉に、翼も琉伽も驚きの色を浮かべる。

「琉伽、大丈夫?寝た方がいいんじゃない?」
「ぁ、うん……」

まだ心ここに在らずといった琉伽は、現実感がないのか、弦里に介抱されるがままベッドへと腰を下ろした。

「お前は本当に昔からギリギリまで我慢するんだから、明日も一日中寝てろよ」
「…うん」

完全に元気を失った琉伽は、ぼんやりとした表情を浮かべている。
熱のせいか、それとも精神面か、どちらも大丈夫なのかと翼は心配になる。

チラッと弦里を見ると、彼は翼に軽く視線を向け、先に部屋から出るよう促した。
翼はそっと部屋を出て、廊下で弦里が出てくるのを待つ。
部屋の中からは、ふたりが話す声が聞こえてくるが、内容までは聴き取れなかった。

やがて弦里が部屋から出てきた。

「…ぁ、翼ちゃん」
「琉伽、大丈夫ですか?」
「うん、ちょっと熱でおかしくなってたみたい。さっきはごめんね、琉伽の代わりに謝るよ」
「いえ、大丈夫です。あの…」
「ん?」

琉伽が言った「あの部屋」。
一体何があるんだろうか――。
それを弦里に聞いていいのだろうか、と翼は迷う。

「あの部屋のこと?」
「…え」

思わぬ弦里の返答に、翼は喉が詰まる。

「あの部屋は…んー、なんて言えばいいのかな」

弦里は言葉を選びながら口を開く。
あの部屋は、弦里と琉伽しか記憶していない。
誰が使っていたのか、誰の思い出が詰まっているのか、御影を含めた他の者たちは誰もその存在を覚えていない。
俺たちが、琉伽とふたりでそうしたんだ、と弦里は思う。

「…秘密の部屋」
「…秘密?」
「そう、秘密」
「…秘密」
「翼ちゃん、君が御影を大事に思うなら、あの部屋のことは誰にも言わないでほしい」
「……」
「…お願い」

弦里の真剣な言葉に、翼は頷くしかできなかった。
本当は知りたいことは山ほどある。
あの部屋は?あの人って?御影はなぜ?どういう関係?

しかし口に出せず、翼はただゆっくりと頷いた。