ドゴォォォォォン!!
「……なに?」
大きな破壊音が、愁と陸玖のいる部屋にまで響き渡った。
「……向こうの部屋だよな」
愁は扉の向こうを指さす。
二人は顔を見合わせ、同時に立ち上がった。
「待って、僕も行く」
「は? ダメだ。お前はその子達とここで待ってろ」
愁は物陰に身を寄せる数人の子ども達を指し示し、ここにいろと諭す。
「嫌だ! 行く! お願い、連れてって!」
「ダメだって。ほら、隠れてろ」
「…………」
陸玖は、そのやり取りを黙って見ていたが、やがて少年に視線を向けた。
「……なんで、そんなに行きたいの?死んじゃうかもしれないよ?」
陸玖の問いに、少年は一瞬唇を噛みしめ、ぽつりと口を開いた。
「……お兄さんが、鬼ごっこが始まる前に言ってくれたんだ。『終わりにする』って」
鬼ごっこが始まる前。
始まりを告げるブザーが鳴り響く中で。
『何が起こるか分からねーけど、絶対俺が終わりにする。お前達を助けるから。だから……』
意識が途切れそうになる、その直前。
『生きろよ!』
確かに、そう聞こえた。
「……だから、僕はお兄さんと、もう一度会いたい」
その言葉に、陸玖は静かに息を吐いた。
ああ、いかにも“あの人”らしい。
何が起こるか分からない状況の中で、それでも必死に状況を読み、先を見ていたのだろう。
場の空気や言葉の端々から、これから起きることを察していた。
だからこそ、あんな言葉が出た。
「……だったら、尚更ここにいて」
陸玖は優しく、しかしはっきりと告げる。
「危険な場所へは連れて行けない」
「でも……!」
「絶対、会わせてあげるから。
だから――あの子達を守って、ここで待ってて」
しばらく沈黙が落ち、やがて少年は小さく、渋々と頷いた。
「あのね! 気をつけてね!」
「うん」
「それとね……ハクには気をつけて。あれ、他の人とは違うよ。吸血゛鬼゛だから」
「陸玖! 行くぞ」
「……うん」
陸玖は愁の背を追って走り出した。
さっきの、少年の言葉。
『吸血゛鬼゛だから』
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
(……吸血、鬼……)
少年はこれまで、ずっと「吸血種」と言っていた。
それなのに、ハクという人物に対してだけ、はっきりと「吸血゛鬼゛」と呼んだ。
その微妙な言い回しの違いが、陸玖の心に小さな違和感を落とす。
扉を開けては進み、また扉を開ける。
どこまでも続くような同じ造りの部屋。
床や壁に血の跡が残る部屋。
倒れたまま動かない子どもがいる部屋。
血痕ひとつ残っていない、静まり返った部屋。
子ども達の姿は見えない。
きっと、どこかに隠れているのだろう。
幸い、吸血種とは遭遇しなかった。
だが――破壊音は、確実に近づいてくる。
ガチャッ。
最も大きな衝撃音が響いた、その瞬間。
扉を開けた。
「……お兄」
陸玖は、思わず小さく呟いた。
目の前の部屋は、赤一色だった。
床には血の海。
壁一面に飛び散る血痕。
一部は崩れ、激しい戦闘があったことを物語っている。
だが、そんなことを考える余裕はなかった。
子どもを抱え、必死に逃げながら白髪の男と交戦する。
海偉の姿。
「海偉!!!!」
愁の叫びに、海偉がこちらを振り向く。
一瞬、驚いたように目を見開き…次の瞬間、優しく微笑んだ。
そして、抱えていた子どもを愁へと放り投げる。
小さな身体が、円を描くように宙を舞う。
「っ!!」
愁は間一髪で子どもを受け止めた。
その様子を横目で確認し、陸玖は再び海偉へ視線を戻す。
子どもを守れたことに、ほっと安堵した表情を浮かべる海偉。
だが、その背後。
白髪の男が、すぐそこまで迫っていた。
「お兄!!!!!!」
陸玖は、喉が裂けるほどの声で叫び、走り出す。
白髪の男は大きく口を開け、鋭い牙を覗かせた。
(お兄……! お兄……! お兄……!)
その瞬間。
血飛沫が舞った。
世界が、スローモーションになる。
躊躇もなく、海偉の首元に噛みつく男。
視界が、赤に染まる。
赤……
赤……
赤……
赤赤赤赤赤赤。
――ぁ……まただ……。
◇
その頃の私は、いつも本を読んでいた。
周りの子ども達が外で走り回って遊ぶ中、私は一人、部屋の中で過ごしていた。
窓越しに眺める外の世界は、私には少し眩しすぎた。
聞こえてくる音も多すぎる。
五感が人よりも鋭かったせいで、私はよく体調を崩していた。
そんなある日、両親が亡くなった。
仕事先で事故に遭ったのだという。
親戚のいなかった私は、そのまま養護施設へ送られた。
両親が死んだと聞いても、涙は出なかった。
感情が顔に出にくく、自分自身の感情にも鈍感だった私は、大人達から少し距離を置かれていた気がする。
あの時の、大人達の視線を、今でも覚えている。
養護施設に行っても、私の生活は何も変わらなかった。
毎日、部屋で本を読み続ける日々。
そんな中だった。
兄様が現れたのは…。
『陸玖ちゃん、ちょっといいかな』
ある日、施設の先生が珍しく声をかけてきた。
不思議に思いながら、私は先生の後についていった。
通された客間で、真っ先に目に入ったのは窓の外を眺めている、一人の男の人だった。
『陸玖ちゃんの親戚の方よ』
先生はそう言った。
自分に親戚がいたなんて、この時まで知らなかった。
男の人は私に気づくと、ふっと表情を緩めて微笑んだ。
『陸玖、迎えに来たぞ』
きらりと揺れた、緑色の瞳。
私と、同じ色。
それが、加賀美空羅。
兄様との出会いだった。
その日、私は養護施設を出て、加賀美家へ引き取られた。
何が起きているのか理解できないまま、ただ流されるように。
施設の外へ出るのは久しぶりで、
街の音、人の匂い、気配…
あらゆる刺激に当てられ、加賀美の家に着いた頃には、身体が悲鳴を上げていた。
『空羅、お帰りなさい』
『お帰り、空羅』
迎えてくれたのは、加賀美の両親だった。
柔らかな雰囲気の女性と、少し怖そうな、きりっとした男性。
その二人の姿を見た瞬間、兄様の表情が、ふっと優しくなる。
『ただいま。この子が陸玖だよ』
『あら……可愛い。陸玖ちゃん、これからよろしくね』
『疲れただろう。まずは食事にしようか』
その声を聞きながら、私はただ、ぼんやりと天井を見つめていた。
両親の優しい笑顔。
暖かい家。
この人達は、今まで出会ってきた大人とは違う。
そう感じた。
嫌な感じがしなかった。
怖くもなかった。
その瞬間、安心したのだろう。
私はそのまま、意識を手放した。
次に目を覚ました時、見慣れない天井が視界に入った。
ああ、加賀美家に来たんだ。
まだ覚醒しきらない頭でぼんやりと天井を眺めていると、ふと横から視線を感じた。
そちらへ顔を向ける。
空羅とよく似た顔立ちの、幼い子どもが、じっと私を見つめていた。
目が合った瞬間、
その子はぱっと驚いた顔をして、勢いよく部屋を飛び出していく。
『兄ちゃん!陸玖が起きたー!』
その声と同時に、空羅とさっきの子が部屋へ入ってきた。
『陸玖、大丈夫か?』
空羅の言葉に、私は小さく頷いた。
『まだちょっと熱が高いな。ご飯、食べられそうか?』
『……うん』
『無理しなくていいから、少しでも食べような。あ、そうだ』
そう言って、空羅は先ほどの子を自分の前へ促す。
『こいつは海偉。俺の弟だよ。陸玖より三つ年上だ。仲良くしてやって』
空羅から視線を移し、海偉を見る。
少し緊張したように背筋を伸ばすその姿が、なぜか印象に残っている。
少し、面白いな。
そんなことを思ったのを、今でも覚えている。
それから私は、この加賀美家で多くのことを教えてもらった。
加賀美家が、代々ヴァンパイアハンターの一族の末裔であること。
今もなお、【リアゾン】と【リデルガ】の均衡を保つため、表には出ない仕事をしていること。
ハンターの一族は、緑の瞳で生まれることが多いということ。
そして
私の父が、空羅と海偉の母親である希那さんと、姉弟であったこと。
知らなかったことを、少しずつ、少しずつ。
ある日、希那さんがふと、こんなことを言った。
『陸玖ちゃんは、悟によく似てる』
『……お父さん?』
『ええ。特にね、目の形がそっくり』
そう言って、優しく微笑んだ。
希那さんは、時折、私の父の話をしてくれた。
父はハンターの一族に生まれたことを嫌い、成人してから加賀美の姓を捨て、私の母と結婚したのだという。
ハンターの歴史は深く、完全に切り離すことはできなかったらしく、時折、仕事として関わっていたそうだ。
その事実を、当時の私は知らなかった。
私が十三歳になった頃、希那さんは静かに教えてくれた。
両親が亡くなったのはハンターの仕事の最中だったのだと。
加賀美家での私の日常は、とても穏やかだった。
希那さんの家事を手伝い、歳の近い海偉と一緒によく遊んだ。
空羅はハンターの仕事で家を空けがちだったが、帰ってきた時は必ず、私と海偉に時間を割いてくれる優しい兄だった。
私は一人っ子だったから、空羅と海偉の兄弟の関係が、少し羨ましかった。
空羅が海偉を見る眼差し。
海偉が空羅を見る眼差し。
そこには、尊敬と愛情がはっきりと宿っていた。
兄を慕う弟
海偉は、空羅が帰宅すると、必ず一番に駆け寄った。
『兄ちゃん!』
そう言って飛びつく海偉を、空羅はいつも笑って受け止める。
『ほら、陸玖もおいで』
そう言われて、私は少し遠慮しながら空羅に抱きついた。
その様子を見て、二人は楽しそうに笑った。
こんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。
加賀美家に来て一年が経った頃。
私は少しずつ表情が表に出るようになっていた。
そんなある日。
何気なく、ぽつりと零した一言。
『……兄さまに、会いたいな』
本当に、ただの独り言だった。
『……会いに行く?』
思いがけず、海偉がそう言った。
『え?』
『俺も兄ちゃんに会いたい』
『でも、どこに行ってるか分からないよ?』
『……俺、分かるよ』
そう言って、海偉は家を出た。
迷いのない足取りだった。
小さな身体で必死についてくる私を気遣いながらも、
海偉は立ち止まらず、進み続ける。
『……ここ、どこ?』
辿り着いたのは、境界線付近の森の中。
枝を払い、草花を踏み分け、私たちは奥へ奥へと進んでいった。
『……兄様、こんな所にいるの?』
『前に、後をつけたんだ。あそこ』
海偉が指さした先には、大きく口を開けた古いトンネルのような通路があった。
海偉は中へは入らず、入口近くの木にもたれて腰を下ろす。
『ここで待っとこう。兄ちゃん、来るから』
『……うん』
私は海偉の隣に座り、二人でただじっとトンネルを見つめた。
けれどどれだけ待っても、空羅は現れなかった。
しびれを切らした私は、ゆっくりと立ち上がる。
『陸玖! ダメだって!』
『大丈夫だよ〜。兄様に会うだけだからっ』
『陸玖!』
呼び止める声を背に、私はトンネルへと駆け出した。
入口に立った瞬間、冷たい風が一気に吹き抜ける。
それでも、足は止まらなかった。
暗いトンネルの奥も、空羅に会えると思うと、不思議と怖くはなかった。
『陸玖! 戻って!』
慌てた海偉が追いかけてくる。
――その時。
ピタリと、私の足が止まった。
『……陸玖?』
追いついた海偉が、私の視線の先を見る。
そこには私たちと同じくらいの歳の子どもが、蹲っていた。
『……』
誰?
『大丈夫?』
海偉は近づき、その子の背中にそっと手を伸ばす。
『……お兄……』
かすれた声。
『……気持ち悪い? 大丈夫?』
海偉が問いかけても、子どもは反応しない。
どうしよう…そう思った瞬間。
『お兄!! その子から離れて!!』
私の声が、トンネルに響いた。
『……え?』
その直後だった。
ふわりと、海偉の身体が宙に浮いた。
『……っ!』
衝撃に、思わず目を閉じる。
『海偉、大丈夫か?』
――聞き慣れた声が、闇の中から響いた。
耳元に、指先でなぞるような居心地のいい声が届いた。
『兄ちゃん!』
振り向くと、空羅が海偉をしっかりと抱きかかえ、例の子どもから距離を取っていた。
『陸玖、もう大丈夫だ』
『……兄様』
『海偉、陸玖を連れて逃げろ』
『でも、兄ちゃん……』
『大丈夫だ。父さんと母さんを呼んできてくれ』
『……陸玖、行くよ』
海偉は強く陸玖の手を引き、トンネルの出口へ向かおうとする。
『いや! 兄様といる!』
『ダメだよ、陸玖!』
『陸玖!!』
空羅が、はっきりと陸玖の名を呼んだ。
『帰ったら何して遊ぶか考えとけよ。今日は朝まで付き合ってやる』
そう言ってから、空羅は海偉を見る。
『頼んだぞ』
海偉は小さく頷き、今度こそ陸玖の手を引いた。
――それから先のことは、あまり覚えていない。
気がつけば大人たちが大勢いて、そして「兄様は死んだ」と告げられた。
あの子どもが何だったのか。
なぜ兄様が死ななければならなかったのか。
思い出そうとしても、記憶は霧がかかったように曖昧だった。
兄様が亡くなってから、加賀美家は変わった。
朗らかで優しかった希那さんは部屋に閉じこもり、時折、泣き声や叫び声が壁越しに聞こえてきた。
海偉の父は仕事に没頭し、ほとんど家に帰らなくなった。
あのとき、私がトンネルに入らなければ。
兄様は死なずにすんだのだろうか。
その考えが、何度も頭を巡った。
兄様が亡くなって一年後、希那さんも亡くなった。
死因は自殺だった。
兄様を失ったことが、耐えられなかったのだと思う。
私がここに来なければ。
ずっと幸せでいられたかもしれない。
お兄から、兄様を奪わずにすんだかもしれない。
みんな、みんな私のせいだ。
私の……。
『……陸玖』
『…………』
『陸玖のせいじゃない。僕のせいだよ』
そう言って、希那さんの葬儀が終わったあと、お兄は私の前で、初めて泣いた。
声を押し殺しながら、大粒の涙を、ぽろぽろと落として。
その姿を見た瞬間、私も、もう涙を止められなかった。
二人で、目が腫れるまで泣いた。
誰も知らない。
私たち二人だけの記憶。
まだ幼かった私たちには、あまりにも残酷で、心が壊れそうで、助けてくれる大人は、どこにもいなかった。
だから、二人で耐えた。
ただ、耐え続けた。
――もう二度と、あんな思いはしないと。
◇
「お兄!!!!!!!」
手を伸ばしても、掴めないものはこの世にきっとある。
けれど今は――絶対に掴まなければならない瞬間だ。
陸玖は、倒れ込む海偉の身体を咄嗟に受け止めた。
「お兄! しっかりして! お兄!」
腕の中で、海偉の身体から力が抜けていく。
ぐったりとした重さだけが残った。
「……嘘、だろ……」
海偉の首元から、赤い血が溢れ出す。
「あはははははっ! 美味しいねぇ〜。とっても美味しいよ〜!」
白髪の男――珀《はく》が、喉を鳴らして笑った。
「ハンターの血って、こんなに美味しいんだね。でも……」
珀は首を傾げ、少し考える。
「なんか前にも、似た味があったような……? あは、まぁいいや。覚えてないし」
その瞬間――
ゴォォォォ……という低い轟音が響き渡り、地面が地震のように揺れ始めた。
部屋が軋み、天井から破片が落ち、床には亀裂が走る。
「うわっ!」
愁の足元で、床が大きく割れた。
その裂け目が、陸玖と海偉との距離を引き裂く。
「陸玖!! 海偉!!!」
必死に叫ぶが、崩落音と轟音にかき消され、声は届かない。
視界の向こうで――
泣き叫びながら海偉の名を呼び、身体を揺さぶる陸玖。
そのすぐ傍で、楽しそうに笑い続ける白髪の男。
その光景を最後に、愁の意識は、暗闇へと沈んだ。



