六花の薔薇 ―refrain―



【11年前】

「あの御方がこの国の次期後継者候補、現当主のご子息だよ」

初めて訪れた舞踏会で、父からそう教えられた。
金色に輝く髪、光に揺れるその姿。
まるでおとぎ話の王子様のようで、真理愛の目に特別に映った。

分家に生まれた真理愛の家では、鋳薔薇家の人々と話すことすら許されず、目線さえも交わすことを禁じられていた。
住む世界が違う。
幼い真理愛の心にも、その違いは理解できた。

吸血種の中でも、鋳薔薇家は特別な存在だった。
彼らがいなければ、そもそも吸血種は存在していなかったのだ。

「真理愛、父様はこれから会議に出なくてはならない。大人しく待っていられるかな?」
「うん! お庭でご本でも読んでおくわっ、父様」

そう言うと父は微笑み、会議へと向かっていった。

窓の向こうに広がる庭には、薔薇が咲き乱れている。
真理愛はその光景に見惚れ、小さな体で大きな庭へと続く扉を両手で押し開けた。

居心地の良さそうな場所に腰を下ろし、持ってきた本をペラペラと捲る。
少し冷たい風が頬を撫で、木々がさやさやと揺れる。
風の音と薔薇の香りが心地よかった。

「ねぇ」

その瞬間、風が止んだ。
静寂の中で、声だけが落ちる。

声のした方へ視線を向けると…

「その本、好きなの?」

そこに立っていたのは、その王子様だった。

「…ぇっ…と」

この国の次期後継者候補が、目の前にいる。
真理愛は驚き、その浮世離れした姿に目を奪われた。

「僕、その本大好きなんだ」
「…ぁ、」
「……話せないの?」

真理愛は、勢いよく首を振る。

そして、父の言葉が脳裏をよぎった。

『鋳薔薇家の方々と視線を合わせてはいけないよ。失礼に当たるからね。言葉を交わすなんてもってのほかだ』

その言葉が、頭の中でぐるぐると回る。

どうしよう。どうしよう。
視線を合わせてしまった……父様の言いつけを……。

「……君も、僕とは話してくれないの?」

伏せられた視線。
その言葉に、思わず顔を上げてしまった。

「…違っ」

ぎゅっと服の裾を掴み、悲しみに耐えるような表情をしている。

「皆、話してくれないんだ。視線だって合わせてくれない」
「………」
「まるで、僕はここにいないみたい……」

「違う!」

気づいた時には、声が出ていた。

「…ぁ、」
「……びっくりしたぁ」

大きく見開かれた目が、こちらを見る。

「…あの、ごめんなさい」
「ふふっ。僕、初めて同い年くらいの人と話したよ」

そう言って、無邪気に笑った。

今思えば、これが会話と呼べるものだったのか分からない。
それでもあの時の笑顔は、あまりにも綺麗だった。

「御影」

優しい声に呼ばれ、振り向く。

そこにいたのは、長い金髪をひとつにまとめ、華やかなドレスを纏った少女。
真理愛より、少し年上に見えた。

その姿を見た瞬間、王子様はぱっと表情を輝かせ、彼女の手を取る。

王子様は振り返り、声を出さずに「またね」と口の形だけで伝え、手を振った。
そして光の差す場所へと戻っていく。

あの時、真理愛は恋に落ちた。
あの笑顔が、もうずっと、頭から離れない。





【5年前】

舞踏会デビューを果たした真理愛の前に現れた王子様あの無邪気に笑っていた鋳薔薇御影は、すっかり笑顔を忘れ、目には深い闇を宿していた。
空白の数年間に、彼に何かがあったことは、一目で分かる。

その異様な雰囲気に、真理愛の身体は自然と強張った。
まるで、あの御影は別人のようだった。

そして彼の隣に静かに立つ、ほんのりグレーの髪の少年。少し背が高く、瞳にも闇を宿している。
その暗い視線が、真理愛を捉えた。
スッ、と真理愛を見つめるその目背筋がぞっとした。

「真理愛?」

後ろから、慣れ親しんだ声がした。

「壱夜…」
「……」

壱夜は真理愛の反応を見て、彼女が見ていた視線の先を確認する。

「ぁ、琉伽」
「知ってるの?」
「…うん」
「…ぇ、ちょっ、壱夜!?」

壱夜は真っ直ぐに、琉伽と呼ばれた少年に歩み寄り、二人の前でピタッと足を止めた。

「…琉伽」
「………」

御影は目だけを動かし、壱夜を目の端で捉えた後、再び一点を見つめる。
まるで魂の抜け殻のように、そこに体だけがあるようだった。

少し苛立った様子の壱夜が御影に何か言おうとした瞬間、琉伽が制止するように前に出た。

「ごめん、まだ…」

琉伽はそう言って御影を横目でちらりと見た。
御影はぼーっと一点を見つめ、何も反応しない。

「あれ? 君は?」

琉伽は壱夜の隣にいた真理愛に視線を向ける。

「ぁ、えっと…」

突然話しかけられ、真理愛は戸惑った。

「俺の婚約者」
「ぁ、そうなんだ」

琉伽はそう言って笑った。

「なら、将来関わることになるね。俺は次期六花の一人、桃李琉伽。よろしく」
「……よろしくお願いします。私は真理愛と言います」
「うん、よろしくね。壱夜に婚約者がいたなんて知らなかったよ」
「言ってなかったし。別に隠してもねーけど」

ぶっきらぼうに、壱夜はそう呟いた。

この時、真理愛は琉伽と出会った。
十三歳の冬。
そして同じ冬に、瞳に闇を宿した鋳薔薇御影と、再び巡り会ったのだ。

木々が風に揺れる中、真理愛は広場の木陰に身を潜めるように腰を下ろし、幹に背中を預けた。

雲一つない空。

真理愛は空を仰ぎ、過去を反芻する。

御影は、なぜあんな風になってしまったのか。
理由が知りたかった。
そして、あの無邪気な笑顔を、もう一度見たかった。

何かできることはないのだろうか。
そう考えずにはいられなかった。

将来、六花の婚約者となる身である壱夜は、頻繁に会議へ出向く。
真理愛はそのたびに同行し、遠くから御影の姿を探した。

言葉を交わす機会など、ほとんどなかった。
それでも。

ただ姿を見つけるだけで、胸の奥が静かに安堵する自分が、そこにいた。




【4年前】

壱夜の六花会議に、いつも通りついてきた真理愛は、庭で本を読んでいた。

ガチャ

扉の開く音に、思わず振り返る。

「…ぁ」

息を飲んだ真理愛の前に、御影が立っていた。

「………」

何も話さず、虚空を見つめるだけの御影。

あれ?会議は?

思わず声をかける。

「…あの、御影様」

小さな反応を示す御影。

「…会議は…?」
「今日は、話してくれるんだね…」
「え…?」

今日?もしかして、あの日のこと…覚えて…。

無邪気な笑顔を見せてくれたあの日のことを、御影は覚えていたのだろうか。

「…うっ」

その瞬間、御影は頭を押さえ、苦しみだした。

「大丈夫ですか!?御影様?」
「…はっ、痛っ…」

目の前で膝をつく御影を見て、真理愛はどうしていいかわからず、とりあえず背中をさする。

「…御影様…」
「…あれ、俺…」

御影が真理愛の顔を見る。

その瞬間、ふわっと風が吹き抜け、横に大きな背中が立ちはだかった。

「…御影」

ほんのりグレーの髪が、月夜に揺れる。

「…やっぱり、不十分か…」

――え?

琉伽が小さく呟く。その声を、真理愛は聞き逃さなかった。

「皆、待ってるよ。戻ろう」
「…はっ、頭が…」
「大丈夫、すぐ収まるよ」
「……………」

琉伽は御影を支え、立たせると、真理愛に背を向けて歩き出す。

「あの、」

琉伽は振り返り、真理愛を見る。

「御影様は大丈夫なんでしょうか…」
「大丈夫だよ、心配ありがとう」

そう言って微笑み、屋敷へ戻っていく。

ひとり残された真理愛は、御影の小さな背中を見つめることしかできなかった。

御影の異様な様子、琉伽のあの言葉…。
薔薇が咲き乱れる中庭で初めて出会った彼は、優しい笑顔をしていた。
再会した彼は、薔薇の棘のように「近づくな」と言わんばかりの棘を纏っていた。

その後、愁の父親のおかげもあり、七人での交流は増えた。
一緒に色んなことを経験するうち、堅苦しさは消え、話し方や呼び方も自然に崩れていった。
子どもって、やっぱりすごい。

ある日、御影が突然言った。

「…ため口でいい」
「え?」

「そんな無礼なこと、出来ません!」
「六花の5人にも言った」
「私は六花ではありません!」
「…いいんだ。それでも…対等に話せる相手がほしい」
「…御影様」

幼いあの日、御影は言った。

「皆話してくれないんだ、視線だって合わせてくれない。まるで、僕はここにいないみたい…」

「…わかりました。」
「うん、ありがとう」

少し笑った御影を見て、真理愛は心の中で小さく安堵した。


あれから、もう四年。

翼が来てから、御影は以前より少し笑うようになった。
雰囲気も、どこか柔らかくなった気がする。
それがすべて、翼のおかげなのだということも、真理愛はわかっている。

――なのに。

あの光景を見て、はっきりと理解してしまった。
自分は、御影の“友達”になりたかったのではない。
唯一無二の、特別な存在になりたかったのだと。

もし、御影の隣にいるのが翼ではなく、自分だったら。
もし、弱さもすべて見せてくれていたなら。

そんな、叶いもしない想いばかりが募っていく。

御影は次期後継者。
身分が、違う。

バカみたいだ。本当に。

それでも、諦められなかった。
あの笑顔を、もう一度見たいと思ってしまった。
自分が、笑わせたいと思ってしまった。

けれど、もう翼がいる。
吸血行為を許し、幸せそうに微笑む御影の顔を見てしまったら……もう…。

「……あれ? 真理愛ちゃん?」

声をかけられ、はっとして振り返る。

「……かぐや、どうして?」
「庵様から、翼さんが濃吸症にかかったって聞いて。お見舞いに来たんです」
「……あ、そっか」

「濃吸症はわりと辛いですから。熱に効くものをいくつか持ってって、真理愛ちゃん?」

「…………」

なぜか、かぐやの顔が見られなかった。
視界が揺れ、くらりと眩む。

そして、頬を伝う一筋の雫。
かぐやはそっと近づいてくる。

「……あれ? なんで、私……」

手の甲で拭っても、止まらない。
次から次へと溢れ出す涙は、決壊したダムのようだった。

「……真理愛ちゃん……」

かぐやは何も言わず、真理愛を強く抱きしめる。

「……ふっ……」
「…………」

言葉は、いらなかった。

「……うっ……」

大好きだったのになぁ……。
その想いだけを胸に、真理愛は、ただ声を殺して泣いた。






あれから1ヶ月。
1ヶ月の休校を経て、今日から授業が再開された。

「はーい、おはようござい〜ます。お前ら久しぶりだな〜。うんうん、皆元気そうだな。よかったよかった」

藤堂は教卓に手を付き、いつもの気怠げな雰囲気で話す。

「まあ、色々驚いたと思うが、暗血線の方々がちゃんと捜査してくれて、安全性に問題はないと判断された」
「……」
「だから、今日から安心して【学園】生活を送ってくれ。じゃあ、授業始めるぞ」

授業は再開されたが、謎は残った。
御影はあの正体不明の子どもを調べたが、情報は何一つ得られなかった。
1人の犠牲と共に、子どもの襲撃事件は幕を降ろしたのだ。

ふと隣を見ると、真理愛と目が合う。
真理愛は翼と目が合うと、サッとそらす。困ったように笑うその表情に、翼は少し違和感を覚えた。

あの子どもは、何だったんだろう。

知りたくても知ることのできない、正体のわからない存在。
その“もやもや”が、翼の胸に気持ち悪さとして残った。



そして昼休み。
【学園】のテラスで、真理愛、かぐや、翼の三人は昼食を取っていた。

「翼さん、もう体調はいかがですか? 濃吸症、きつかったでしょう?」

かぐやが心配そうに尋ねる。

「大丈夫。かぐやちゃんが色々持ってきてくれたし」
「それは良かったです」

真理愛が申し訳なさそうに口を開く。

「…ごめんね、私お見舞い行けなくて」
「ううん、そんな謝らないで」

肩を落とす真理愛の姿に、翼はいたたまれなくなった。
話題を変えようと口を開く。

「…あの子ども、何だったと思う?」
「…何だったのでしょう。とても嫌な感じがしました」
「かぐやも見た?」
「えぇ、私は庵様と一緒でした。廊下を出たところで、数人の子どもがヨタヨタ歩いていて……庵様がおかしいって仰ったと思ったら、急に追いかけてきて……」
「…え、嘘? 追いかけてきたの?」
「はい。それで、私と庵様は逃げました。途中で大人に襲いかかる子どもも見ました」
「…それ、やばくない?」
「えぇ、とても。普通じゃないです」

かぐやの話を聞き、やはりあの子ども達は普通ではなかったと翼は思う。

「何なんだろうね。御影達も正体を突き止められず、皆ピリピリしてるし」
「専用室の雰囲気も凄いよ…」

翼はうなずく。

「…かぐやはあんまりこないもんね、皆すごくピリピリしてる」
「…そんなにですか?」
「まぁ、そりゃそうだよ。次期この国を背負う人達だもん」
「…難しい問題ですね」

三人は、答えの出ない問題に頭を抱えた。