あの美しい絵が、今、汚されようとしている。
朝陽が「彼」の名前を叫び、止めようとしたけれど「彼」はその絵に向かって銀色のバケツを振りかぶった。次の瞬間、まるで血しぶきみたいに赤いペンキが飛び散って「彼」の真正面にあった絵を塗りつぶしていく。それは一瞬の出来事だったのに、朝陽の目にはスローモーションに映った。飛沫ひとつひとつがまるで花火みたいはじけ飛び、彼――朔翔の頬にも一筋の赤い閃光が走った。それはまるで隈取みたいで、ペンキが飛び散った床に佇む朔翔は、まるでスポットライトを一人で浴びる役者みたいだった。
朝陽はただ、彼のことを呆然と見つめることしかできなかった。
***
四月。少しだけ期待に胸を膨らませて、武田朝陽は天陽高校に足を踏み入れる。玄関には「入学式」と書かれた立て看板が立っていて、その横で明るく笑う少女が仏頂面の少年の腕を絡めて、親に写真を撮ってもらっている。その自然な光景、朝陽は一瞬羨ましく思ってしまい、すぐさま芽生えたばかりの感情を振り払うように首を横に振った。
恋愛なんて、自分には不相応なもの。喉から手が出るほどそれが欲しいと望んでいた過去の自分は、地元に置いてきた。妬むのも羨ましく思うのもやめよう、朝陽は再び二人を見る。少女ははしゃいで何枚も写真を撮ろうと彼にねだっていて、彼は少し面倒くさそうにそれに付きあっていた。じっと彼らを見つめるのをやめて、朝陽は自分に喝を入れる。新しい生活が始まるのだから、周りから変だと思われないようにしなければ。
上靴に履き替えて一年生の教室に向かおうとしたとき、一枚の絵が玄関に飾られていることに気付いた。朝陽はその絵に目を奪われる。心の底から「きれい」と思う絵を初めて見たかもしれない。絵には並木道が描かれていて、木漏れ日がさし込んでいる。その光の中を一人の少年が歩いていて、まるで彼の前途を祝福するみたいに光がキラキラと輝いている。朝陽がその絵をまじまじと見つめていると、ドンッと誰かが彼の肩にぶつかった。邪魔になっていたのかもしれない、朝陽の背筋に冷たいものが伝う。とっさに謝ろうとするが、それよりも先に相手が舌打ちする音が聞こえてきた。
「お前、邪魔」
朝陽を見てはっきりと「邪魔」と言ったのは、さっき看板のところで見かけた仏頂面だ。あまりにも失礼すぎる、ムッとした朝陽が言い返そうとしたけれど、彼はさっさと歩き出してしまった。先ほどの少女が慌てながら朝陽に近づいてくる。
「朔翔がごめんね! ほら、あんたも謝りなさいって! 朔翔!」
叱りつける少女の声も無視して、彼はすぐいなくなってしまう。少女は詫びながら彼を追いかける。アイツが「邪魔」と言い放った時の横顔、思い出すとイラッとする。まるで朝陽の事を道端の汚物か気持ち悪い虫か、まるでこの世に存在してはいけない物みたいなヘイトが篭った視線。地元でもあんな風に見られたことはない、と朝陽は思う。
「アイツとは絶対に同じクラスになりたくない」
祈りみたいな独り言……しかし、その祈りはすぐ空しいものであることが分かる。
「武田朝陽です、よろしくお願いします」
「……坪内朔翔」
同じクラスで、しかも出席番号順も前後してしまうなんて。長い長いため息を吐き出しながら、朝陽は自分の運命を呪う。
入学式後のホームルームも終わり、さっさと帰っていく朔翔の後ろ姿を見る。少しだけ崩したシャツとネクタイ、長い手足、朝陽よりも頭一つ分以上高い背。地元に比べると天陽高校があるこの街は都会で、女子も男子もスタイルがいい子が多い気がするけれど、その中でも朔翔は群を抜いている。仏頂面でもすぐに友達もできるんだろうな、と朝陽は思う。
ガイダンスも終わり、本格的に授業が始まった。あの仏頂面こと朔翔は予想に反して、友達ができる気配がなかった。前の席に座る朝陽でも、彼が誰とも関わりたくないと思っているのが手に取るように分かった。誰に対しても愛想がなく、声をかけられてもぶっきらぼうに返すか、最悪返事もしない。孤高を貫こうとする姿を見かけて、少しうんざりしながら教室に入ったとき、朝陽は入り口でクラスメイトたちに話しかけられた。
「武田君、おはよう」
「え、あ、お、おはよう……」
急に話しかけられると緊張して口元が硬くなってしまう。朝陽はなるべくリラックスしようと思うけれど、心がそれを意識するとさらに体が強張ってしまい、そのせいでまた緊張する。悪循環だ。。
クラスメイトたちは朝陽が緊張していることに気付かないまま話を続けようとしていた。
「武田君の地元、遠いんだよね?」
「どうしてこっちの高校に来たの?」
「えっと……あ、色々あって……」
質問をされても上手く取り繕うことも会話を広げることもできず、朝陽は視線を泳がせてばかり。クラスメイトたちに顔を見合わせてから「急に話しかけてごめんね」と引いてしまった。朝陽は席で今の自分を振り返る。変な奴だと思われて、周りから嫌厭されたらどうしよう、と不安が渦巻いていく。
入学して数日、周りから「あまり話しかけない方が朝陽のためかもしれない」と気遣われたのか、もしくはつまらない奴だと思われたのか、誰も朝陽に話しかけようとしなくなった。
けれど、誰かが朝陽の悪口を言っている様子もなければ、変にいじられることもない。言葉で当てはめるならば無関心。そのポジションが一番楽だ。
***
地元から遠く離れた高校に進学した朝陽は、この街で一人暮らしをしている。
簡単な朝食を済ませた後、パジャマを脱いで真新しいワイシャツに袖を通し、少しの隙も生まれないようネクタイをきっちりとしめる。それは自分の身を守るための鎧だ。パーソナリティを表に出してしまったら、この三年間も最悪なモノになってしまうかもしれない。
「大丈夫、大丈夫」
朝陽は毎朝、自分に魔法をかける。
中学の時にみたいに間違えなければ自分は大丈夫。だって、誰も自分のことなんて知らないんだから。
しかし、幾重にも重ねたその呪文をスマホの通知音が解いていってしまう。肩を震わせた朝陽は、スマホの画面を見る。
「……晴樹?」
メッセージが届いている。中学の友人・晴樹からだった。
『そっちの高校どう? 楽しい?』
朝陽の横顔に、苦悩の色が滲んだ。嬉しいのに、まるで大きなものに押しつぶされた時みたいに苦しい。大きく息を吐きだし、セットしたばかりの髪をぐちゃぐちゃと掻き乱し、その場にしゃがみ込んだ。甘ったるい感傷がじわじわと広がっていくより先に、中学時代に感じた惨めさが体を支配していく。朝陽はそのメッセージに返信することなく、スマホの電源を落とした。
初恋のときめきも、誰かに罵られていた過去も全部捨てて、この街では「無」として生きる。これが彼の新しい生き方。その決意が揺らがないように、朝陽は再び「大丈夫」を繰り返していた。彼の心の中には、まるで今日の空と同じように暗い曇天が広がっていった。
玄関に飾られている並木道の絵。朝陽は登校するたびにその絵を見るのが習慣になっていた。降り注ぐ木漏れ日を見ていると、自分がまるでそこに立っているような錯覚に陥る。若葉の匂いや吹き抜けるさわやかな風、眩しい太陽の光。それらが朝陽の心を捉えて離さない。人を感動させる絵って本当にあるんだ、と朝陽は感嘆してしまう。
「この絵、いいだろう?」
「うわっ!」
我を忘れて絵を食い入るように見ていたから、自分の隣に人が立っていることに全く気付かなかった。驚きながら朝陽は相手を頭のてっぺんからつま先まで見渡す。制服とは違う黒いスーツの上下、先生みたいだ。年は20代くらいだろうか? 彼はぴったりと張り付くように朝陽の隣に立っていて、あまりの距離の近さに思わずのけぞってしまう。
「あぁ、驚かせてごめん。美術部顧問の水口です。この絵、好き?」
「はあ……」
水口と名乗った教師は朝陽の反応を無視して話を続ける。
「今の三年が一年の時に描いて、コンクールで大賞を受賞した絵なんだ。そうだ、君、美術部に興味ない?」
「は、はあ……」
「大丈夫、初心者大歓迎。佐々木、ちょっとこっち来て」
近くにいた三年生を水口が呼び止める。佐々木と呼ばれた男子生徒は小さく「おはようございます」と挨拶をしている。
「コイツがこの絵を描いた佐々木。彼、この絵が気に入ったんだって」
朝陽は「はあ」と間抜けな返事しかできない。佐々木も突然のことに戸惑っているのか、表情は強張っているように朝陽の目には映った。水口は笑いながら朝陽の肩を叩き、耳元に口を寄せる。
「気になったら見学においで」
それはとても小さくて、声というよりも吐息に近かった。ぞわっと肌が粟立ち、朝陽が大きく身を引くと水口は笑いながら去っていった。佐々木もさっさと姿を消し、朝陽だけが絵の前で取り残されている。あの先生、一体何だったのだろう……朝陽は戸惑っていると、どこからか視線を感じた。顔を上げると下駄箱のあたりにいる朔翔と目が合った。思わず小さく頭を下げるけれど、朔翔はそれを無視してさっさと教室に向かう。嫌な奴だ、と朝陽は改めて思った。けれど、それは自分も同じだ。朝、春樹からメッセージが送られてきたのに無視したまま。自分だってアイツと同じように嫌な奴なんだ。そんな自己嫌悪に苛まれながら、朝陽は朔翔に続くように教室に向かった。
午後一番の体育は、今にも雨が降り出しそうだからとグラウンドから体育館に変更になった。持久走の予定がバトミントンに変更になったのは良かったけれど、傘を持ってくるのを忘れてしまったから雨が降ったら嫌だなと朝陽は窓の向こうを見つめる。その時、足元にシャトルが落ちてきた。
「……どこ見てんだよ」
正面にはラケットを持った朔翔の姿。出席番号が前後しているから自然とペアになってしまった。悪態をつく朔翔にバレないように小さくため息をつき、朝陽はラケットでシャトルを拾い、サーブを打った。ラケットとシャトルの羽がそれぞれ空気を切り裂く音は朝陽には心地よかった。
何度かラリーを繰り返しているうちに、朝陽は、目の前にいる彼があまり運動が苦手なのだろうか? と思うようになった。高い身長と長い手足はスポーツに有利なように見えるけれど、朔翔は活かしきれていない。まるで自分の体のパーツに翻弄されているように見える。サーブを打とうとしてもシャトルを見失って空振りしてしまうし、朝陽が打ったシャトルをラケットのフレームの部分に当ててしまう。腕が長いことに朔翔自身が気づいておらず、距離を見誤っているのかもしれない。
ラリーを繰り返した後、次のペアとスペースを交換した。朝陽がひょいっとラケットでシャトルを拾っていると視線を感じる。見上げると、朔翔が朝陽の手元を見ていた。
「……なに?」
「いや」
朔翔はぷいっと視線を逸らして体育館の隅に向かう。その横顔は何か言いたげだった。彼の表情が気になってしまって、朝陽は彼を追いかける。
「なに?」
朝陽は彼の隣に座る。何をしゃべろうか朝陽が迷っている間に体育館にはリズミカルなシャトルの音で満ちていく。朝陽はその音に負けないように、いつもより少し大きな声を出した。
「俺、中学の時、バト部で」
「はあ?」
「だから坪内君よりは上手かもしれない」
「自慢かよ」
スポーツが得意ではないことが彼のコンプレックスだったのかもしれない、会話の選択肢を間違えてしまった。朝陽は心の中で頭を抱えて、恥ずかしさでのたうち回る。謝った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか。その選択肢で迷っていると、朔翔が先に口を開いた。
「で、高校ではバト部入んの?」
「……ううん」
「そう。もったいないな、上手いのに」
朝陽は呆気に取られていた。すぐ悪態をつく朔翔に褒められるなんて。口はぽかんと開き、目も大きく見開いてしまう。朔翔はその表情をちらっと見て「変な顔」と小さな声で朝陽をこき下ろす。でも、朝陽にとってそれは以前のように不快なものではなかった。
放課後、やっぱり雨が降り出した。朝陽は玄関で立ち尽くしたまま。もし雨で体を冷やして風邪をひいてしまったら、と悪い想像をしてしまう。誰も看病してくれない一人暮らし。遠方の高校に進学することを反対し続けた親からは「それ見た事か」と言われるに違いない。
雨、早く止まないだろうか。朝陽がスマホで天気アプリを見ようとしたとき、何か固いものが肩にぶつかった。ちょっとだけ痛む。朝陽が振り返ると、真後ろに朔翔が立っていた。驚きのあまり声を出せずにいると、朔翔は朝陽に向かって何か差し出した。
「ん」
朔翔の短い言葉に朝陽は首を傾げ、朔翔の手元を見る。彼の手には紺色の折り畳み傘が握られていた。
「傘ないんだろ?」
やっと朔翔が喋った。
「う、うん」
「使っていいから」
朔翔の思いがけない言葉に朝陽は動揺して、声が上擦ってしまう。
「で、でも、坪内君は?」
「俺は大丈夫」
朔翔は少し離れたところに立つ少女を指さした。入学式の時に彼と一緒にいた女の子が、傘を手に朔翔を待っている。彼女は朝陽と目が合うと、小さく手を振ってくれた。朔翔は朝陽に傘を押し付けて、彼女の元へ向かっていく。
「行こう、朱璃」
「うん」
朔翔は朱璃から傘を受け取り、それを開いた。朱璃は自然に彼の隣に立ち、ぴったりと寄り添った。とても自然に、相合傘で帰っていく二人。朝陽はその姿に憧憬の眼差しを向ける。想いあっている相手と一緒に同じ傘に入って歩くなんて、朝陽の人生では絶対に起こり得ない。
たとえこれから先、好きな人が現れたとしても、朝陽はそれを決して表には出さずに胸に秘めていることしかできない。そういう星の元生まれてしまったのだから。
あほらしい、とネガティブになっている自分を追い払うように頭を振る。自分の生き方を隠したまま社会に混じっていく、そう決めたのに。朝陽は二人から視線を背けて朔翔の傘を開いて一歩外に踏み出す。傘に雨粒が当たる。自然に生まれるその心地いいリズムに身を任せて朝陽は歩き出す。
「アイツもいいところあるじゃん」
小さな声で呟いた。その声は誰にも届くことなく、雨粒に吸収されていく。今日は朔翔のいい面を知れたような気がする。
「……でも、いっか」
ちゃんと話をしていたら、朔翔のいい面をもっと知ることができる。でもそれは、朝陽の色んな面を彼に見せていくことだ。そんなことをしていたらいつか「見せたくなかったところ」を知られてしまうかもしれない。朝陽にはそれが怖くて、やっぱりこれからも人を遠ざけていこう、そんな決意ばかりが硬くなっていった。
借りた傘を一晩乾かし、朔翔に返そうとちゃんと翌日持っていったのに、肝心の朔翔は教室にいなかった。いつもなら朝陽が玄関に着いたタイミングで朔翔も玄関にいるのに。教室を探した後廊下を見渡すと、昨日朔翔と一緒に帰っていた彼女の姿が見えた。あちらも朝陽に気付いたのか明るい表情を見せる。
「朔翔の友達の武田君!」
「坪内君の彼女?」
そう言いあった二人は、お互いの言葉に全力で首を横に振る。
「違う違う! 朔翔の幼馴染ってだけで」
「俺も、友達っていうか、ただのクラスメイトで……」
「朔翔がクラスの子と喋ってるの珍しいから、てっきり友達になったんだと思った。あ、私、相沢朱璃。隣のクラスだけど仲良くしよ」
朱璃が差し出す手を朝陽は控えめに握る。
「坪内君がどこにいるか知らない? 傘を返そうと思ったんだけど」
「今日休むって。風邪ひいたんだって」
意外だ。朝陽は「へー」と小さく頷く。
「ありがとう、相沢さん」
「朱璃でいいよ。アイツのことも『朔翔』って呼び捨てにしていいから!」
そんなに親しくないし、と朝陽はまた首を横に振る。それを見た朱璃は微笑んだ、その表情には慈愛で満ちているようだった。
「アイツも色々あって性格ひねくれちゃったけどさ、根は素直ないい子だから。仲良くしてあげて欲しいな。幼馴染のお願い」
首を傾げて「ね?」と微笑む朱璃。ただの幼馴染を、こんな風に面倒をみたり甘やかしたりするだろうか? 彼女が「朔翔」と彼の名前を呼ぶたびに、友情とは異なる「情」が混じっているような気がした。朝陽は疑問を抱きつつ、その言葉に曖昧に頷く。朱璃は満足したのかまた笑みを浮かべる。
「じゃあ、私行くね。ありがと、武田君」
「う、うん」
去っていく朱璃を見ながら、自分の耳にぎりぎり届くくらい小さな声で朝陽は「付き合ってないんだ」と呟いた。
朔翔がいないことに誰も気づいていないのかと思うくらい、クラスメイトはいつも通りだった。すぐに放課後になり、掃除当番の朝陽は朔翔の机も運び、ブラシで黙々床を掃き始める。他のクラスメイトはブラシや箒で適当に教室を掃除しながら「ある噂話」を始めた。
「そういえば、今の三年が一年の時にいじめがあったって聞いたんだけど、知ってた?」
その言葉に朝陽は思わず息を飲み、手を止めてしまった。足元から指先まで、一気に凍り付いたように冷たくなっていく。心臓はまるで秒針のように脈打ち、体は小刻みに震えだす。朝陽は動揺していることを誰にも気づかれないように、なるべく平気な顔で掃除を再開して、聴覚だけはクラスメイトたちに向けた。
「それ、結構噂になってなかった?」
「うちも親がそれ知ってて、天陽高校行くのは辞めた方がいいって言われたわ」
朝陽はそんな噂がある事すら全く知らなかった。朝陽が通っていた遠方の中学校までその話が広まってこなかった。知っていたら、朝陽だってきっとこの高校には来なかっただろう。
「でも今は落ち着いてるんだろ?」
「いじめやった方が学校辞めたって」
「え? 俺、いじめられた方が辞めたって聞いたけど」
噂の信憑性がどんどん薄れていく。情報が錯綜していて、話しているクラスメイトも何が真実であるのかは分からないようだった。けれど「いじめがあった」という話は共通していて、朝陽もそれだけは真実なのだと実感した。嫌だな、と朝陽は思う。頭の中に「かつての部活仲間たち」の声が蘇っていく。
――アイツ、キモイよね。
地元を離れたら、嫌な思い出もあの時感じた悲しみも、全部振り払えると思っていたのに。ブラシを持つ手に力が籠っていく。頭の中でどれだけ「やめろ」「やめてくれ」と叫んでも、その記憶はまるで昨日のことみたいに新鮮に蘇ってきた。
その記憶は今から一年ほど前――朝陽が友人の春樹に対して、友人という枠組みを超えた愛情を抱いていると気づいた頃、それと同時に彼は「自分が同性愛者である」ということも認識した。彼との友情を壊したくなくて自分の気持ちを懸命に押し殺しそうと思っていた時、朝陽はバトミントン部の部室の前である話を聞いてしまったのだ。
自分の悪口を話している、友人だと思っていた彼らの話を。
「朝陽って晴樹に対して馴れ馴れしくない?」
「そう?」
部員の言葉に、春樹がそう返す。けれど、他の部員たちも彼の言葉に同調した。
「俺も思った。晴樹にめっちゃスキンシップするじゃん。髪触ったり、腕組んだり」
「春樹、嫌なら嫌って言えよ。俺たちもなんかあったら力になるし」
「いやじゃないけど……」
「晴樹優しいから」
「ていうか、朝陽ってホモっぽくない?」
さっと朝陽の顔が真っ白になっていく。
「キモイよな、なんか」
生まれ持ったパーソナリティ、それは他者から見たら「キモイ」と一方的に両断されるものだった。SNSやテレビで自分と同じセクシュアリティであるとオープンにしている人が増えて、朝陽もてっきり社会的に受け入れられているものだと思っていたのだ。でも、それは勘違い。他の人から見たら気持ち悪いことで、朝陽が晴樹に対して抱いている気持ちも、晴樹にとっては迷惑極まりないものなのだろう。朝陽はそれを胸の奥にぎゅっと押し込めて、その場を誰にも気づかれないように離れていった。
翌日の友人たちの態度は、いつもよりそっけないように感じられた。もしかしたら、いつも彼らは朝陽のいないところで自分の悪口を話しているのかもしれない……そう考えると、誰も信じることができなくなっていった。口数が減っていく朝陽を晴樹だけは心配してくれたけれど、朝陽は彼からも離れ、あえて孤立を選ぶことにした。そして自分の「キモイ部分」を誰も知らない街で暮らしたい、その一心でこの天陽高校まで来たのに……またバレたら同じことを言われるかもしれない。
掃除が終わり、誰もいなくなった放課後の教室。朝陽は自分の席に座り込んでいた。 三年間、誰とも関わらず、自分のことを知られないように過ごそう。長い時間かけて何度も自分にそう言い聞かせているうちに、オレンジ色の夕日が教室の窓に差し込んできた。眩しさを覚えた朝陽はいい加減帰ろうと席を立つ。
頭上からは吹奏楽部が奏でるメロディが、遠くからは運動部の活気のある声が聞こえてくる。まだ校内にはたくさん人が残っている、けれど、朝陽は自分が彼らとは別の世界に来ているような気になっていた。寂しさとは違う孤独感が朝陽の周りを漂い、包み込む。夕日に照らされながら、朝陽は足早に玄関に向かう。
「……あれ?」
玄関に着くと、朝陽は自分の目を疑った。彼の視線の先には今日休みだったはずの朔翔がいたから。朔翔は小さめな銀色の缶バケツを持って、飾られている絵を睨みつけている。何をしているんだろう、と朝陽が思った瞬間、朔翔はそのバケツを持ち上げていた。
「朔翔!?」
朝陽はとっさに彼の名を呼び、彼に向かって手を伸ばす。でも間に合わず、朔翔が振りかぶったバケツからは赤色のペンキが溢れ出し、飾られていた絵を真っ赤に汚していった。まるで血しぶきみたいに飛び散るペンキの、一つ一つのしずくがどこに飛んでいったのか分かるくらい、朝陽の目にはその光景がまるでスローモーションがかかったみたいに見えた。細かい飛沫が朔翔の頬や制服にこびりつき、まるで彼自身も一枚の絵になったみたいだった。
朔翔は真っ赤なペンキの溜まりの中で立ち尽くす。興奮しているのか息は荒く、空になっていた缶バケツを床に叩きつけた。その音が玄関に響いた瞬間、朝陽はハッと正気に戻った。
「おい、なにしてんだよ!」
朝陽は叫ぶと朔翔はとても驚いたように目を丸めていた。顔色は悪いけれど、目の色はまるで何も悪いことはしていないと主張しているように見えた。頬についたペンキを親指で拭い取りながら、朔翔は朝陽を睨みつける。
「お前こそ、なんでいるんだよ」
「なんでって」
言い返そうとしたとき、足音が近づいてきていることに気付いた。朝陽は思わず朔翔の腕を掴む。
「行こう、朔翔」
朔翔は再び目を丸め、朝陽に引っ張られるまま外に飛び出していった。二人とも上履きのまま、外を駆け抜ける。朝陽は朔翔を引っ張りながら走り続けて、いつしかひと気のない公園までたどり着いていた。朔翔は朝陽の手を乱暴に振り払い、二人は目を合わせないまま、しばらくの間上がった呼吸を整えていた。
「どうしてあんなことをしたんだよ」
沈黙に痺れを切らし、朝陽は朔翔に尋ねた。
「お前には関係ない」
「関係ないけど、あれ犯罪だろ?」
「だから何なんだよ」
「あの絵を描いた先輩の気持ちになってみろよ!」
朝陽の脳裏に佐々木という先輩の姿が過る。しかし、それはすぐに掻き消えた。目の前にいる朔翔がわなわなと震えだし、顔を真っ赤に染め、その目が飛び出しそうになるくらい見開いている。今まで生きていて、こんなに怒りを露わにする人を朝陽は初めて見た。
「あの絵は、アイツが描いた絵じゃない。あれは……俺の兄ちゃんが描いた絵だ!」
「……どういうこと……?」
朔翔はスマホの画面を朝陽に向ける。そこにはあの絵と、まだ背の低い朔翔と、朔翔によく似た少年の姿があった。
「兄ちゃんの絵を、兄ちゃんのことを虐めていたアイツらが盗んだんだよ」
先ほどクラスメイトの噂で聞いたばかりの、三年生のいじめ事件。まさか朔翔の兄が被害者だったなんて。朝陽は言葉を失いただ立ち尽くす。
「俺は復讐するためこの高校に来た。……あれは、宣戦布告だ。俺が兄ちゃんの代わりに、絶対に地獄に叩き落としてやる」
戸惑いを言葉にすることもできず、朝陽は足もとを見た。二人の上履きが赤いペンキで汚れていることに、この時初めて気が付いた。
朝陽が「彼」の名前を叫び、止めようとしたけれど「彼」はその絵に向かって銀色のバケツを振りかぶった。次の瞬間、まるで血しぶきみたいに赤いペンキが飛び散って「彼」の真正面にあった絵を塗りつぶしていく。それは一瞬の出来事だったのに、朝陽の目にはスローモーションに映った。飛沫ひとつひとつがまるで花火みたいはじけ飛び、彼――朔翔の頬にも一筋の赤い閃光が走った。それはまるで隈取みたいで、ペンキが飛び散った床に佇む朔翔は、まるでスポットライトを一人で浴びる役者みたいだった。
朝陽はただ、彼のことを呆然と見つめることしかできなかった。
***
四月。少しだけ期待に胸を膨らませて、武田朝陽は天陽高校に足を踏み入れる。玄関には「入学式」と書かれた立て看板が立っていて、その横で明るく笑う少女が仏頂面の少年の腕を絡めて、親に写真を撮ってもらっている。その自然な光景、朝陽は一瞬羨ましく思ってしまい、すぐさま芽生えたばかりの感情を振り払うように首を横に振った。
恋愛なんて、自分には不相応なもの。喉から手が出るほどそれが欲しいと望んでいた過去の自分は、地元に置いてきた。妬むのも羨ましく思うのもやめよう、朝陽は再び二人を見る。少女ははしゃいで何枚も写真を撮ろうと彼にねだっていて、彼は少し面倒くさそうにそれに付きあっていた。じっと彼らを見つめるのをやめて、朝陽は自分に喝を入れる。新しい生活が始まるのだから、周りから変だと思われないようにしなければ。
上靴に履き替えて一年生の教室に向かおうとしたとき、一枚の絵が玄関に飾られていることに気付いた。朝陽はその絵に目を奪われる。心の底から「きれい」と思う絵を初めて見たかもしれない。絵には並木道が描かれていて、木漏れ日がさし込んでいる。その光の中を一人の少年が歩いていて、まるで彼の前途を祝福するみたいに光がキラキラと輝いている。朝陽がその絵をまじまじと見つめていると、ドンッと誰かが彼の肩にぶつかった。邪魔になっていたのかもしれない、朝陽の背筋に冷たいものが伝う。とっさに謝ろうとするが、それよりも先に相手が舌打ちする音が聞こえてきた。
「お前、邪魔」
朝陽を見てはっきりと「邪魔」と言ったのは、さっき看板のところで見かけた仏頂面だ。あまりにも失礼すぎる、ムッとした朝陽が言い返そうとしたけれど、彼はさっさと歩き出してしまった。先ほどの少女が慌てながら朝陽に近づいてくる。
「朔翔がごめんね! ほら、あんたも謝りなさいって! 朔翔!」
叱りつける少女の声も無視して、彼はすぐいなくなってしまう。少女は詫びながら彼を追いかける。アイツが「邪魔」と言い放った時の横顔、思い出すとイラッとする。まるで朝陽の事を道端の汚物か気持ち悪い虫か、まるでこの世に存在してはいけない物みたいなヘイトが篭った視線。地元でもあんな風に見られたことはない、と朝陽は思う。
「アイツとは絶対に同じクラスになりたくない」
祈りみたいな独り言……しかし、その祈りはすぐ空しいものであることが分かる。
「武田朝陽です、よろしくお願いします」
「……坪内朔翔」
同じクラスで、しかも出席番号順も前後してしまうなんて。長い長いため息を吐き出しながら、朝陽は自分の運命を呪う。
入学式後のホームルームも終わり、さっさと帰っていく朔翔の後ろ姿を見る。少しだけ崩したシャツとネクタイ、長い手足、朝陽よりも頭一つ分以上高い背。地元に比べると天陽高校があるこの街は都会で、女子も男子もスタイルがいい子が多い気がするけれど、その中でも朔翔は群を抜いている。仏頂面でもすぐに友達もできるんだろうな、と朝陽は思う。
ガイダンスも終わり、本格的に授業が始まった。あの仏頂面こと朔翔は予想に反して、友達ができる気配がなかった。前の席に座る朝陽でも、彼が誰とも関わりたくないと思っているのが手に取るように分かった。誰に対しても愛想がなく、声をかけられてもぶっきらぼうに返すか、最悪返事もしない。孤高を貫こうとする姿を見かけて、少しうんざりしながら教室に入ったとき、朝陽は入り口でクラスメイトたちに話しかけられた。
「武田君、おはよう」
「え、あ、お、おはよう……」
急に話しかけられると緊張して口元が硬くなってしまう。朝陽はなるべくリラックスしようと思うけれど、心がそれを意識するとさらに体が強張ってしまい、そのせいでまた緊張する。悪循環だ。。
クラスメイトたちは朝陽が緊張していることに気付かないまま話を続けようとしていた。
「武田君の地元、遠いんだよね?」
「どうしてこっちの高校に来たの?」
「えっと……あ、色々あって……」
質問をされても上手く取り繕うことも会話を広げることもできず、朝陽は視線を泳がせてばかり。クラスメイトたちに顔を見合わせてから「急に話しかけてごめんね」と引いてしまった。朝陽は席で今の自分を振り返る。変な奴だと思われて、周りから嫌厭されたらどうしよう、と不安が渦巻いていく。
入学して数日、周りから「あまり話しかけない方が朝陽のためかもしれない」と気遣われたのか、もしくはつまらない奴だと思われたのか、誰も朝陽に話しかけようとしなくなった。
けれど、誰かが朝陽の悪口を言っている様子もなければ、変にいじられることもない。言葉で当てはめるならば無関心。そのポジションが一番楽だ。
***
地元から遠く離れた高校に進学した朝陽は、この街で一人暮らしをしている。
簡単な朝食を済ませた後、パジャマを脱いで真新しいワイシャツに袖を通し、少しの隙も生まれないようネクタイをきっちりとしめる。それは自分の身を守るための鎧だ。パーソナリティを表に出してしまったら、この三年間も最悪なモノになってしまうかもしれない。
「大丈夫、大丈夫」
朝陽は毎朝、自分に魔法をかける。
中学の時にみたいに間違えなければ自分は大丈夫。だって、誰も自分のことなんて知らないんだから。
しかし、幾重にも重ねたその呪文をスマホの通知音が解いていってしまう。肩を震わせた朝陽は、スマホの画面を見る。
「……晴樹?」
メッセージが届いている。中学の友人・晴樹からだった。
『そっちの高校どう? 楽しい?』
朝陽の横顔に、苦悩の色が滲んだ。嬉しいのに、まるで大きなものに押しつぶされた時みたいに苦しい。大きく息を吐きだし、セットしたばかりの髪をぐちゃぐちゃと掻き乱し、その場にしゃがみ込んだ。甘ったるい感傷がじわじわと広がっていくより先に、中学時代に感じた惨めさが体を支配していく。朝陽はそのメッセージに返信することなく、スマホの電源を落とした。
初恋のときめきも、誰かに罵られていた過去も全部捨てて、この街では「無」として生きる。これが彼の新しい生き方。その決意が揺らがないように、朝陽は再び「大丈夫」を繰り返していた。彼の心の中には、まるで今日の空と同じように暗い曇天が広がっていった。
玄関に飾られている並木道の絵。朝陽は登校するたびにその絵を見るのが習慣になっていた。降り注ぐ木漏れ日を見ていると、自分がまるでそこに立っているような錯覚に陥る。若葉の匂いや吹き抜けるさわやかな風、眩しい太陽の光。それらが朝陽の心を捉えて離さない。人を感動させる絵って本当にあるんだ、と朝陽は感嘆してしまう。
「この絵、いいだろう?」
「うわっ!」
我を忘れて絵を食い入るように見ていたから、自分の隣に人が立っていることに全く気付かなかった。驚きながら朝陽は相手を頭のてっぺんからつま先まで見渡す。制服とは違う黒いスーツの上下、先生みたいだ。年は20代くらいだろうか? 彼はぴったりと張り付くように朝陽の隣に立っていて、あまりの距離の近さに思わずのけぞってしまう。
「あぁ、驚かせてごめん。美術部顧問の水口です。この絵、好き?」
「はあ……」
水口と名乗った教師は朝陽の反応を無視して話を続ける。
「今の三年が一年の時に描いて、コンクールで大賞を受賞した絵なんだ。そうだ、君、美術部に興味ない?」
「は、はあ……」
「大丈夫、初心者大歓迎。佐々木、ちょっとこっち来て」
近くにいた三年生を水口が呼び止める。佐々木と呼ばれた男子生徒は小さく「おはようございます」と挨拶をしている。
「コイツがこの絵を描いた佐々木。彼、この絵が気に入ったんだって」
朝陽は「はあ」と間抜けな返事しかできない。佐々木も突然のことに戸惑っているのか、表情は強張っているように朝陽の目には映った。水口は笑いながら朝陽の肩を叩き、耳元に口を寄せる。
「気になったら見学においで」
それはとても小さくて、声というよりも吐息に近かった。ぞわっと肌が粟立ち、朝陽が大きく身を引くと水口は笑いながら去っていった。佐々木もさっさと姿を消し、朝陽だけが絵の前で取り残されている。あの先生、一体何だったのだろう……朝陽は戸惑っていると、どこからか視線を感じた。顔を上げると下駄箱のあたりにいる朔翔と目が合った。思わず小さく頭を下げるけれど、朔翔はそれを無視してさっさと教室に向かう。嫌な奴だ、と朝陽は改めて思った。けれど、それは自分も同じだ。朝、春樹からメッセージが送られてきたのに無視したまま。自分だってアイツと同じように嫌な奴なんだ。そんな自己嫌悪に苛まれながら、朝陽は朔翔に続くように教室に向かった。
午後一番の体育は、今にも雨が降り出しそうだからとグラウンドから体育館に変更になった。持久走の予定がバトミントンに変更になったのは良かったけれど、傘を持ってくるのを忘れてしまったから雨が降ったら嫌だなと朝陽は窓の向こうを見つめる。その時、足元にシャトルが落ちてきた。
「……どこ見てんだよ」
正面にはラケットを持った朔翔の姿。出席番号が前後しているから自然とペアになってしまった。悪態をつく朔翔にバレないように小さくため息をつき、朝陽はラケットでシャトルを拾い、サーブを打った。ラケットとシャトルの羽がそれぞれ空気を切り裂く音は朝陽には心地よかった。
何度かラリーを繰り返しているうちに、朝陽は、目の前にいる彼があまり運動が苦手なのだろうか? と思うようになった。高い身長と長い手足はスポーツに有利なように見えるけれど、朔翔は活かしきれていない。まるで自分の体のパーツに翻弄されているように見える。サーブを打とうとしてもシャトルを見失って空振りしてしまうし、朝陽が打ったシャトルをラケットのフレームの部分に当ててしまう。腕が長いことに朔翔自身が気づいておらず、距離を見誤っているのかもしれない。
ラリーを繰り返した後、次のペアとスペースを交換した。朝陽がひょいっとラケットでシャトルを拾っていると視線を感じる。見上げると、朔翔が朝陽の手元を見ていた。
「……なに?」
「いや」
朔翔はぷいっと視線を逸らして体育館の隅に向かう。その横顔は何か言いたげだった。彼の表情が気になってしまって、朝陽は彼を追いかける。
「なに?」
朝陽は彼の隣に座る。何をしゃべろうか朝陽が迷っている間に体育館にはリズミカルなシャトルの音で満ちていく。朝陽はその音に負けないように、いつもより少し大きな声を出した。
「俺、中学の時、バト部で」
「はあ?」
「だから坪内君よりは上手かもしれない」
「自慢かよ」
スポーツが得意ではないことが彼のコンプレックスだったのかもしれない、会話の選択肢を間違えてしまった。朝陽は心の中で頭を抱えて、恥ずかしさでのたうち回る。謝った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか。その選択肢で迷っていると、朔翔が先に口を開いた。
「で、高校ではバト部入んの?」
「……ううん」
「そう。もったいないな、上手いのに」
朝陽は呆気に取られていた。すぐ悪態をつく朔翔に褒められるなんて。口はぽかんと開き、目も大きく見開いてしまう。朔翔はその表情をちらっと見て「変な顔」と小さな声で朝陽をこき下ろす。でも、朝陽にとってそれは以前のように不快なものではなかった。
放課後、やっぱり雨が降り出した。朝陽は玄関で立ち尽くしたまま。もし雨で体を冷やして風邪をひいてしまったら、と悪い想像をしてしまう。誰も看病してくれない一人暮らし。遠方の高校に進学することを反対し続けた親からは「それ見た事か」と言われるに違いない。
雨、早く止まないだろうか。朝陽がスマホで天気アプリを見ようとしたとき、何か固いものが肩にぶつかった。ちょっとだけ痛む。朝陽が振り返ると、真後ろに朔翔が立っていた。驚きのあまり声を出せずにいると、朔翔は朝陽に向かって何か差し出した。
「ん」
朔翔の短い言葉に朝陽は首を傾げ、朔翔の手元を見る。彼の手には紺色の折り畳み傘が握られていた。
「傘ないんだろ?」
やっと朔翔が喋った。
「う、うん」
「使っていいから」
朔翔の思いがけない言葉に朝陽は動揺して、声が上擦ってしまう。
「で、でも、坪内君は?」
「俺は大丈夫」
朔翔は少し離れたところに立つ少女を指さした。入学式の時に彼と一緒にいた女の子が、傘を手に朔翔を待っている。彼女は朝陽と目が合うと、小さく手を振ってくれた。朔翔は朝陽に傘を押し付けて、彼女の元へ向かっていく。
「行こう、朱璃」
「うん」
朔翔は朱璃から傘を受け取り、それを開いた。朱璃は自然に彼の隣に立ち、ぴったりと寄り添った。とても自然に、相合傘で帰っていく二人。朝陽はその姿に憧憬の眼差しを向ける。想いあっている相手と一緒に同じ傘に入って歩くなんて、朝陽の人生では絶対に起こり得ない。
たとえこれから先、好きな人が現れたとしても、朝陽はそれを決して表には出さずに胸に秘めていることしかできない。そういう星の元生まれてしまったのだから。
あほらしい、とネガティブになっている自分を追い払うように頭を振る。自分の生き方を隠したまま社会に混じっていく、そう決めたのに。朝陽は二人から視線を背けて朔翔の傘を開いて一歩外に踏み出す。傘に雨粒が当たる。自然に生まれるその心地いいリズムに身を任せて朝陽は歩き出す。
「アイツもいいところあるじゃん」
小さな声で呟いた。その声は誰にも届くことなく、雨粒に吸収されていく。今日は朔翔のいい面を知れたような気がする。
「……でも、いっか」
ちゃんと話をしていたら、朔翔のいい面をもっと知ることができる。でもそれは、朝陽の色んな面を彼に見せていくことだ。そんなことをしていたらいつか「見せたくなかったところ」を知られてしまうかもしれない。朝陽にはそれが怖くて、やっぱりこれからも人を遠ざけていこう、そんな決意ばかりが硬くなっていった。
借りた傘を一晩乾かし、朔翔に返そうとちゃんと翌日持っていったのに、肝心の朔翔は教室にいなかった。いつもなら朝陽が玄関に着いたタイミングで朔翔も玄関にいるのに。教室を探した後廊下を見渡すと、昨日朔翔と一緒に帰っていた彼女の姿が見えた。あちらも朝陽に気付いたのか明るい表情を見せる。
「朔翔の友達の武田君!」
「坪内君の彼女?」
そう言いあった二人は、お互いの言葉に全力で首を横に振る。
「違う違う! 朔翔の幼馴染ってだけで」
「俺も、友達っていうか、ただのクラスメイトで……」
「朔翔がクラスの子と喋ってるの珍しいから、てっきり友達になったんだと思った。あ、私、相沢朱璃。隣のクラスだけど仲良くしよ」
朱璃が差し出す手を朝陽は控えめに握る。
「坪内君がどこにいるか知らない? 傘を返そうと思ったんだけど」
「今日休むって。風邪ひいたんだって」
意外だ。朝陽は「へー」と小さく頷く。
「ありがとう、相沢さん」
「朱璃でいいよ。アイツのことも『朔翔』って呼び捨てにしていいから!」
そんなに親しくないし、と朝陽はまた首を横に振る。それを見た朱璃は微笑んだ、その表情には慈愛で満ちているようだった。
「アイツも色々あって性格ひねくれちゃったけどさ、根は素直ないい子だから。仲良くしてあげて欲しいな。幼馴染のお願い」
首を傾げて「ね?」と微笑む朱璃。ただの幼馴染を、こんな風に面倒をみたり甘やかしたりするだろうか? 彼女が「朔翔」と彼の名前を呼ぶたびに、友情とは異なる「情」が混じっているような気がした。朝陽は疑問を抱きつつ、その言葉に曖昧に頷く。朱璃は満足したのかまた笑みを浮かべる。
「じゃあ、私行くね。ありがと、武田君」
「う、うん」
去っていく朱璃を見ながら、自分の耳にぎりぎり届くくらい小さな声で朝陽は「付き合ってないんだ」と呟いた。
朔翔がいないことに誰も気づいていないのかと思うくらい、クラスメイトはいつも通りだった。すぐに放課後になり、掃除当番の朝陽は朔翔の机も運び、ブラシで黙々床を掃き始める。他のクラスメイトはブラシや箒で適当に教室を掃除しながら「ある噂話」を始めた。
「そういえば、今の三年が一年の時にいじめがあったって聞いたんだけど、知ってた?」
その言葉に朝陽は思わず息を飲み、手を止めてしまった。足元から指先まで、一気に凍り付いたように冷たくなっていく。心臓はまるで秒針のように脈打ち、体は小刻みに震えだす。朝陽は動揺していることを誰にも気づかれないように、なるべく平気な顔で掃除を再開して、聴覚だけはクラスメイトたちに向けた。
「それ、結構噂になってなかった?」
「うちも親がそれ知ってて、天陽高校行くのは辞めた方がいいって言われたわ」
朝陽はそんな噂がある事すら全く知らなかった。朝陽が通っていた遠方の中学校までその話が広まってこなかった。知っていたら、朝陽だってきっとこの高校には来なかっただろう。
「でも今は落ち着いてるんだろ?」
「いじめやった方が学校辞めたって」
「え? 俺、いじめられた方が辞めたって聞いたけど」
噂の信憑性がどんどん薄れていく。情報が錯綜していて、話しているクラスメイトも何が真実であるのかは分からないようだった。けれど「いじめがあった」という話は共通していて、朝陽もそれだけは真実なのだと実感した。嫌だな、と朝陽は思う。頭の中に「かつての部活仲間たち」の声が蘇っていく。
――アイツ、キモイよね。
地元を離れたら、嫌な思い出もあの時感じた悲しみも、全部振り払えると思っていたのに。ブラシを持つ手に力が籠っていく。頭の中でどれだけ「やめろ」「やめてくれ」と叫んでも、その記憶はまるで昨日のことみたいに新鮮に蘇ってきた。
その記憶は今から一年ほど前――朝陽が友人の春樹に対して、友人という枠組みを超えた愛情を抱いていると気づいた頃、それと同時に彼は「自分が同性愛者である」ということも認識した。彼との友情を壊したくなくて自分の気持ちを懸命に押し殺しそうと思っていた時、朝陽はバトミントン部の部室の前である話を聞いてしまったのだ。
自分の悪口を話している、友人だと思っていた彼らの話を。
「朝陽って晴樹に対して馴れ馴れしくない?」
「そう?」
部員の言葉に、春樹がそう返す。けれど、他の部員たちも彼の言葉に同調した。
「俺も思った。晴樹にめっちゃスキンシップするじゃん。髪触ったり、腕組んだり」
「春樹、嫌なら嫌って言えよ。俺たちもなんかあったら力になるし」
「いやじゃないけど……」
「晴樹優しいから」
「ていうか、朝陽ってホモっぽくない?」
さっと朝陽の顔が真っ白になっていく。
「キモイよな、なんか」
生まれ持ったパーソナリティ、それは他者から見たら「キモイ」と一方的に両断されるものだった。SNSやテレビで自分と同じセクシュアリティであるとオープンにしている人が増えて、朝陽もてっきり社会的に受け入れられているものだと思っていたのだ。でも、それは勘違い。他の人から見たら気持ち悪いことで、朝陽が晴樹に対して抱いている気持ちも、晴樹にとっては迷惑極まりないものなのだろう。朝陽はそれを胸の奥にぎゅっと押し込めて、その場を誰にも気づかれないように離れていった。
翌日の友人たちの態度は、いつもよりそっけないように感じられた。もしかしたら、いつも彼らは朝陽のいないところで自分の悪口を話しているのかもしれない……そう考えると、誰も信じることができなくなっていった。口数が減っていく朝陽を晴樹だけは心配してくれたけれど、朝陽は彼からも離れ、あえて孤立を選ぶことにした。そして自分の「キモイ部分」を誰も知らない街で暮らしたい、その一心でこの天陽高校まで来たのに……またバレたら同じことを言われるかもしれない。
掃除が終わり、誰もいなくなった放課後の教室。朝陽は自分の席に座り込んでいた。 三年間、誰とも関わらず、自分のことを知られないように過ごそう。長い時間かけて何度も自分にそう言い聞かせているうちに、オレンジ色の夕日が教室の窓に差し込んできた。眩しさを覚えた朝陽はいい加減帰ろうと席を立つ。
頭上からは吹奏楽部が奏でるメロディが、遠くからは運動部の活気のある声が聞こえてくる。まだ校内にはたくさん人が残っている、けれど、朝陽は自分が彼らとは別の世界に来ているような気になっていた。寂しさとは違う孤独感が朝陽の周りを漂い、包み込む。夕日に照らされながら、朝陽は足早に玄関に向かう。
「……あれ?」
玄関に着くと、朝陽は自分の目を疑った。彼の視線の先には今日休みだったはずの朔翔がいたから。朔翔は小さめな銀色の缶バケツを持って、飾られている絵を睨みつけている。何をしているんだろう、と朝陽が思った瞬間、朔翔はそのバケツを持ち上げていた。
「朔翔!?」
朝陽はとっさに彼の名を呼び、彼に向かって手を伸ばす。でも間に合わず、朔翔が振りかぶったバケツからは赤色のペンキが溢れ出し、飾られていた絵を真っ赤に汚していった。まるで血しぶきみたいに飛び散るペンキの、一つ一つのしずくがどこに飛んでいったのか分かるくらい、朝陽の目にはその光景がまるでスローモーションがかかったみたいに見えた。細かい飛沫が朔翔の頬や制服にこびりつき、まるで彼自身も一枚の絵になったみたいだった。
朔翔は真っ赤なペンキの溜まりの中で立ち尽くす。興奮しているのか息は荒く、空になっていた缶バケツを床に叩きつけた。その音が玄関に響いた瞬間、朝陽はハッと正気に戻った。
「おい、なにしてんだよ!」
朝陽は叫ぶと朔翔はとても驚いたように目を丸めていた。顔色は悪いけれど、目の色はまるで何も悪いことはしていないと主張しているように見えた。頬についたペンキを親指で拭い取りながら、朔翔は朝陽を睨みつける。
「お前こそ、なんでいるんだよ」
「なんでって」
言い返そうとしたとき、足音が近づいてきていることに気付いた。朝陽は思わず朔翔の腕を掴む。
「行こう、朔翔」
朔翔は再び目を丸め、朝陽に引っ張られるまま外に飛び出していった。二人とも上履きのまま、外を駆け抜ける。朝陽は朔翔を引っ張りながら走り続けて、いつしかひと気のない公園までたどり着いていた。朔翔は朝陽の手を乱暴に振り払い、二人は目を合わせないまま、しばらくの間上がった呼吸を整えていた。
「どうしてあんなことをしたんだよ」
沈黙に痺れを切らし、朝陽は朔翔に尋ねた。
「お前には関係ない」
「関係ないけど、あれ犯罪だろ?」
「だから何なんだよ」
「あの絵を描いた先輩の気持ちになってみろよ!」
朝陽の脳裏に佐々木という先輩の姿が過る。しかし、それはすぐに掻き消えた。目の前にいる朔翔がわなわなと震えだし、顔を真っ赤に染め、その目が飛び出しそうになるくらい見開いている。今まで生きていて、こんなに怒りを露わにする人を朝陽は初めて見た。
「あの絵は、アイツが描いた絵じゃない。あれは……俺の兄ちゃんが描いた絵だ!」
「……どういうこと……?」
朔翔はスマホの画面を朝陽に向ける。そこにはあの絵と、まだ背の低い朔翔と、朔翔によく似た少年の姿があった。
「兄ちゃんの絵を、兄ちゃんのことを虐めていたアイツらが盗んだんだよ」
先ほどクラスメイトの噂で聞いたばかりの、三年生のいじめ事件。まさか朔翔の兄が被害者だったなんて。朝陽は言葉を失いただ立ち尽くす。
「俺は復讐するためこの高校に来た。……あれは、宣戦布告だ。俺が兄ちゃんの代わりに、絶対に地獄に叩き落としてやる」
戸惑いを言葉にすることもできず、朝陽は足もとを見た。二人の上履きが赤いペンキで汚れていることに、この時初めて気が付いた。



