稲穂と麺太の日常

 それはいつかの、家でのこと。

 稲穂が洗濯物に躓き、ずっこけて、それにより麺太は押し倒されて、キスをしていた。

 事故によってされたファーストキスはそんな感じ。稲穂はすぐに身体を起こして、真っ赤な顔で謝りながら、戸惑った顔で麺太を見下ろしていた。
 麺太としては、指の一本も動かせないほどの衝撃だった。キスとは、もっとスマートにしたりされたりするものだと思っていたのに、初めては痛みの方が強かった。
 そんなことをする相手だとは想定していない稲穂とのキスに、それによる痛み。麺太はなかなか次の行動に移せないでいた。
 先に動いたのは稲穂で、麺太に大丈夫か、ごめんな、と言いながら、麺太の身体を起こし、痛い所はないかと心配そうに訊いてくる。
 麺太は放心しながら、稲穂を見つめていた。何も言わない彼に、稲穂は怒らず、ごめんと謝るばかり。

「これは事故だから、取り敢えず忘れろ」
「……」

 それは嫌だな、と思ったのが、麺太としては不思議だった。
 数日の間はどことなくぎこちない雰囲気だったが、自然と普通に会話できるようになっていた。けれど麺太の中では、あのキスが忘れられない。
 どんなキスを、してみたかったんだろう。
 そんな風に考えて、家の漫画やネット小説のキスシーンを読みまくった。それでも気持ちが治まらなくて、スマホに自分の気持ちを打ってみる。それが次第に小説になって、色々書いている内に、麺太の中ではやり直したい気持ちが強くなってきた。

 ファーストキスをやり直したい。
 ……稲穂と。

 もう、今までと同じようには見られない。気が付けば稲穂の唇を見ていて、それを稲穂に気付かれて、黙る時間が増えてきた。
 稲穂は赤い顔をして、じっと麺太を見つめてくる。一度も視線を逸らさない。
 最初は見ているだけだった。けれどそんなことが何度も続いて、稲穂の目を見れば分かる。稲穂だって、忘れられていない。

「……稲穂ちゃん」

 何度目かの見つめ合いの際に、麺太の方から切り出した。
 やり直さない? と。

「やり直すって、何をだよ」
「……キス」
「……後悔しねえか?」
「何で?」
「……他にも、選択肢はあるだろう? たまたまキスしただけの俺にこだわんなくても、いいんだぞ」

 それは優しさから来るものなのか、怯えから来るものなのか。
 そんな言葉に苛立って、麺太の方からキスをした。
 色々と妄想してきたというのに、結局、噛みつくようにしていた。
 驚いた顔の稲穂に、麺太は言ってやる。

「選択肢なんて、稲穂ちゃんと出会った時点でなくなってるよ」

 稲穂は目を見開いて麺太を見た後、眉根を寄せて、麺太の後頭部に手を添えた。

「それは、言い過ぎだろ」

 そうして、添えた手に力を込めて、引き寄せられ、麺太は拒むことなく受け入れる。
 ようやくできた優しいキスは、だんだんと、激しくなっていった。
 それなりに長い時間を、麺太は稲穂と過ごしてきた。素直じゃないけど優しい人。ずっと変わらぬ稲穂への認識。それがこの時を境に変わった。

 あ、好き。

 麺太は自然と、稲穂の背に腕を回して、稲穂への認識をゆっくりと塗り替えていくのだった。

◆◆◆

 惚気話をできる相手はいない。
 だがこの幸せを誰かに語りたい。

 だから麺太は、今日も小説を書く。

 自分と稲穂をモデルに、楽しい日々を、甘い展開を、願望を、盛り込んでいく。
 稲穂も楽しんでくれるから、当分やめられそうにない。

 さあ、今日は何を書こう。

 そう考えるだけで、麺太の心は踊るのだった。