「で? フラれちゃったんだ」
「……うん」
「……そっか。どれくらい続いたの?」
「半年」
土曜日の午後の喫茶店は意外と混んでいる。人が近くにないことを確認して、わたし達は隅にある席を選んだ。
「半年か……友香にしては続いた方じゃない?」
ストローの端をくねくねと曲げながら、知美はアイスコーヒーにストローを差し込む。
「……そんな言い方、しないでよ」
「あぁ……ごめんごめん」
大学を卒業して3ケ月。社会人になったわたしは……先週フラれたばかり。
「何。浮気でもされたの?」
「分かんない」
「……何よそれ」
「『忙しくなったから』って」
「……新社会人なんだから……当然でしょうに」
「何か……色々とすれ違うようになっちゃったからさ。もしかしたら……それが原因なのかも」
「……あんた達、いつも一緒だったもんねぇ」
慎吾とは大学が同じだった。学部や学科も同じだったから……お昼ご飯の時も、帰る時も……いつも一緒にいた。卒業が近づく12月。わたしは告白された。
「うん」
「最近は? すれ違いってこと?」
「……うん」
土日に「会いたい」ってラインを送っても「疲れた」とか「また今度」って返信が増えていた。一度直接、慎吾の家に連絡せずに行ったことがあったけど……「寝かせてくれ」と怒られてしまった。
「全然デートもしてくれなくなったしね」
「……そっか」
「月に1回あるかないかだったから」
「まぁ……毎日一緒だったあんたからすると……それじゃ少ないかもね」
「……」
細くゆらりと湯気が立ち上るコーヒーカップ。そっと抱えて、わたしは口に運んだ。
「はぁ」
「……また見つかるよ」
「……そうかなぁ」
「すれ違いか。怖いね」
「社会人になる時、覚悟はしてたんだけどね。……駄目だったな」
「大人の恋愛って、難しいんだねぇ……」
「そう言えばさ」
コーヒーをテーブルに置いて、ぐいっと覗き込むように、知美が言った。
「何?」
「聞いたことある?」
「……何を?」
知美はきょろきょろと左右を見渡し、誰も聞いていないことを確認する。
「失恋を買ってくれるところ」
「はぁ……?」
(失恋を……買う? 何を言ってるの……)
「何、それ」
斜め上の答えに、思わず笑ってしまった。
「私も知らないよ。詳しくは」
「失恋を? 買う? どういうこと?」
「何か、サイトがあるって言ってたの聞いたよ」
「サイト……?」
「ちょっと探してみようか……?」
知美がスマホを取り出し、何やら検索をし始めた。きつねにつままれた気分で、わたしはじっと見つめる。
「私もさ……どっかで耳にしただけだから……」
そう言いながらも、スマホを凝視しながら指を動かしている。
(ちょっと……知美、大丈夫なの……?)
知美も大学が同じ。よく一緒に遊んだり仲が良かった。いきなり変なことを言い出す人間ではないことは、わたしが一番知っている。
「あっ……これかも……」
知美の指がぴたりと止まった。
「えっ……? 本当?」
「……うん。だぶん……これだ」
わたしの顔の前に、スマホを差し出した。
『あなたの失恋、買取ります』
『小さな失恋から大きな失恋まで』
『何でもご相談下さい』
「……何よ、これ……」
『営業時間 日曜日13時~18時』
『アクセス………』
「ね? これじゃないかな……私が聞いたやつ」
「怖っ……ちょっと……」
「まぁ確かに……でもさ、興味沸かない?」
知美がにやっと笑う。わたしも自分で調べるためにスマホに目を向けた。
「……名前は喫茶店なんだね」
「ね。いかにもな感じだよねー」
「……怖いな。これ」
「どうする? 友香。行ってみたら? 落ち込んでるんでしょ?」
「えぇ……何か……変なもの売られないかなぁ」
「さあ? そしたら別に帰れば良いじゃん」
電車に乗ると、どうしてもカップルに目がいってしまう。「先週まで……わたし達もあんな感じだったのに」思わず席を移動する。
「ただいま」
「あら、早かったのね」
「ん? ……まぁ」
台所で手を洗い、足早に自分の部屋へと戻った。ベッドに寄りかかり、知美に教えてもらった喫茶店をもう一度落ち着いて調べてみることにした。
(……喫茶メモリー……)
(ベタな名前してるんだな……)
ちょっと興味はある。失恋を買うというのは……どういうことなのか。でも、正直怖い。知美の言う通り、何かあったらすぐに帰れば良いかな……と好奇心と恐怖の間で揺れ動く。
(……はぁ)
スマホをベッドに投げ捨てて、そのまま自分も飛び込んだ。
(慎吾に会いたいな……)
そもそもわたしは、失恋の傷だって癒えていないのに…。イヤホンを耳に付けて、傷心にピッタリの曲をわたしは探した。
次の日、わたしの好奇心は恐怖心に勝った。「何かあれば逃げれば良い」この言葉を胸に、住所にある渋谷の坂をゆっくりと登っていく。
(……確かこの辺……)
狭い袋小路を進み……誰も足を踏み入れる事のない禁足地のような場所をイメージしていたわたしは、肩をすかされた気分だった。
「喫茶メモリー」は、そこまで路地に入らずに、1歩小脇に入った所に堂々と店を構えていた。
(こんな場所にあるんだ……)
半分透けている窓ガラス。目を凝らして見てみると、中には5~6人のお客さんが楽しそうにしゃべっているように見える。
(普通の喫茶店に……見えるけど……)
「せっかくここまで来たんだから」と勇気を振り絞り、金属製のドアノブをぎゅっと握り締めた。
カラン……カラン……ッ……
高い金属音を出す鈴の音が、細く店内に響いていく。どきどきして……呼吸が少し浅い。
「いらっしゃいませー」
奥の方から女性の声。
「お一人様ですか?」
30歳手前くらいだろうか……ポニーテールの可愛らしい女性が、わたしを出迎えてくれた。
「あっ……えっと」
「お連れ様が……いらっしゃいますか?」
「いっ、いえ……あの」
「……」
「すいません、これって……こちらでしょうか」
わたしは女性にスマホの画面を見せた。女性は確認すると、再び笑顔を見せる。
「……あちらにどうぞ」
女性はお客さん達がいるエリアではない場所に向けて、腕を伸ばした。目で追うと、細く長い道がある。どうやら奥にあるらしい。
前を歩く女性の後にゆっくりとついていく。「足元、お気を付け下さいね」時折話かけてくれる女性の優しい声が、わたしの緊張を緩ませてくれる。
(……こっちにあるのね)
「さ、こちらです」
正面のドアの横に立つと、ゆっくりとドアを開けてくれた。ドアがギイと開くと、アロマの香りがふわっと鼻を抜ける。
「どうぞ」
ニコリと笑って、女性が少し首を傾けた。
「ありがとう……ございます」
恐る恐る、中へ入る。真っ暗な部屋をイメージしていたけれど、なんてことはない……普通の部屋に見えた。
「お客さんかな?」
ギイと椅子の音がして、またもや女性の声が出迎えてくれた。
「あっ! は、はい……よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくね」
先ほどの女性とほとんど年齢が変わらなく見えた。スラっとした体型。同じようにポニーテールだ。
「どうぞ」
女性はわたしに座るように勧めてくれた。
「あっ……ありがとうございます」
「失恋……されたのかしら」
「……はい」
「ホームページを見たの?」
「……そうです。それで……」
「ここではね、皆さんの失恋を買わせてもらっているの」
「……失恋を……買う……」
「そうよ」
「それって……どういうことですか?」
「どういうことって? 文字通りよ」
女性はきょとんとした顔で、わたしを見つめている。
「買うって? ……どうやって買うんですか?」
「あぁ、そういうことね。具体的な方法ってことね」
「まぁ……はい」
女性はゆっくりと椅子から立ち上がり、後ろの書庫からファイルを取り出した。
「これが必要事項になるわ」
そう言うと、ファイルを開き、わたしの前に広げた。
『失恋買取サービス』
『必要書類……健康保険証、運転免許証など住所が確認できるもの※1』
(何? これ……)
その他にも色々と記載してあるけれど……よく分からない。
「住所があれば良いってことですか?」
「そうね。あなたの住所があれば良いわ。あとは、その『失恋』についての話を聞かせてもらう感じかしらね」
「わたしが……話をするんですか?」
「そうよ。それで、その失恋の買取価格を決めるわ」
「え? 話をするだけ……ですか?」
「ええ」
女性は穏やかに微笑んでいる。まるでわたしが言うことが予め分かっているかのように。
「皆さん、初めての方は同じことを言うわよ」
「……そうですよね」
「不思議な感じがするみたいね」
「何か取られたりするのかと……思ってました」
「そんなこと、しないわよ」
ポニーテールを揺らしながら、女性が初めて笑った。笑顔が可愛らしい。「性格が良い人に見えるな」とわたしは思った。
「でも、きっとまだ怖いでしょ?」
「ま、まぁ……そうですね……」
「小さい事から始めるのはどう?」
「小さい事?」
「そう。あなた……ここに来たってことは……最近失恋しちゃったってことでしょ?」
「はい……」
わたしはうつむいた。一瞬にして慎吾との思い出が蘇ったから。
「その失恋じゃなくて、もっと……昔の」
「……昔の?」
「そう。もうあなたの中で、心の傷が癒えてるものなら……良いんじゃないかしら?」
「えっ……そういうのでも……良いんですか?」
「ええ。ホームページに載せてたでしょ? 『小さい失恋』でも『大きい失恋』でもご相談下さいって」
まだわたしはきつねにつままれた気分。でも、女性の言う通り……子供の頃の失恋なら、良いかなと思うようになっていた。
「じゃ、それでお願いします……」
「分かったわ」
「どうすれば良いですか?」
「私にお話しをしてもらえれば、それで良いわ」
わたしは目の前の女性に、小学4年生の時の話をした。
この時期、わたしは同じクラスの翔くんが好きだった。翔くんはスポーツ万能。女子からの人気が凄かった。わたしはいつも休み時間に……そっと見てるだけ。
2月に入ってバレンタインデーの時、わたしは勇気を振り絞って、人生で初めて「本命チョコ」を作った。
バレンタインデー当日、帰りの会が終わった後に……下駄箱で翔くんが来るのを待って……渡したけれど、「好きな人がいるから」と断られてしまったのだ。
女性に話終わると、目を瞑って優しく頷いてくれている。
「ありがとう。小学4年生の時の……失恋ね」
「あっ……はい。これが最初……かな」
「失恋って、いつ味わっても……辛いものよね」
「はい……」
「2,500円で買い取らせて頂くわ」
「えっ?」
「あら? ご不満かしら?」
「いえっ……そうじゃなくて……何か、必要なものというか……」
わたしは何か代わりに差し出すものが必要だと思っていた。
ふふっ……と女性は優しく微笑む。
「何もいりませんよ?」
「今、あなたがして下さった……お話で十分ですよ」
わたしは状況を把握できず……ぽかんとただそこに座っているだけ。
「2,500円の買い取りで……良いですか?」
「あっ……はい……」
「では、こちらにサインを」
すっとわたしの目の前に出てきたのは、1枚のA4の用紙。
『買取承諾書』
わたしはそこに住所を書いてサインをする。「あらすじ」を書く必要があるため、今の話を文章で書く。そして――2,500円を受け取った。
家に帰ってからも、わたしはしばらくぼんやりしていた。
(何……これ……)
わたしはただ、話をして、あらすじを書いただけ。なのに……お金を受け取った……。
(これって……やばいやつなの……かな)
家に帰り、段々落ち着いてくると、今更ながら怖さが出てきたことに気付く。脇の下に変な汗をかいている。
(でも……怪しい雰囲気は無かったな)
(……女の人、綺麗だったし)
知美に相談してみようかな……とも思ったけれど、言うのは止めておいた。
次の日曜日。またわたしは喫茶メモリーに向けて家を出た。今度は違う失恋の話をしてみようと思ったのだ。別にお金が欲しいわけじゃ無かった。慎吾との失恋を買い取ってもらうための……練習のようなイメージだった。
カラン……カラン……ッ……
「いらっしゃいませー」
先週と同じ。奥からポニーテールの女性がぬっと姿を現した。
「あっ……」
女性がわたしに気付いてくれる。ちょっと恥ずかしくなり、わたしはにやけながら……頭を軽く下げた。
「先週と同じでよろしいですか?」
女性は相も変わらず優しい笑顔を向けて、聞いてくれる。
「はい……」
ちょっと小声で、わたしは答えた。
「もう、お一人で大丈夫ですか?」
「あっ、はい。もう大丈夫です」
喫茶店の奥に延びた細い廊下を歩き、今回は一人で正面のドアを開ける。
「……すいませーん」
なぜか腰を少しかがめて、小声を出しながら部屋の中へと入っていく。
「いらっしゃい。また来たのね」
ギイと椅子から立ちあがり、わたしの方に向かって歩いてくる。
「はい。……先週はありがとうございました」
「良かった。気に入ってくれたみたいで」
どうぞと言いながら、女性はわたしに椅子に座るよう促してくれた。
「で? 今日はどうなさったの?」
「また……失恋を買い取ってもらうかなと思いまして……」
「もちろん。是非伺わせて欲しいわね」
もう手順は理解している。わたしは女性に向けて、先週とは違う失恋の話をした。
中学2年生の秋。わたしの学校は2泊3日の修学旅行で奈良と京都を巡る。中学1年生の頃から、ずっと気になっていた彰人くんに告白をしようと計画をしていた。
これまでに無かった、宿泊の旅。クラス中のテンションも高く、女子の友達は私の告白を手伝ってくれることになっていたのだ。
2泊目の夜。次の日は解散。「最後の夜だね」と言われ、友達が彰人くんを食堂横にある静かな場所に呼び出してくれた。わたしは一人でそこにスタンバイをしている。みんなの協力もあって……2人きりになることができたけれど……告白は失敗してしまった。彰人くんは違う中学校に好きな人がいるらしかった……。
「……という失恋です」
「なるほど……それは辛かったわね……」
目を瞑りながら、女性はうんうんと頷いている。
「お年頃ですし……お友達も、あなたに声をかけにくくなっちゃいましたしね……」
もの凄く同情してくれているように見える。
「分かりました。今のお話……買い取らせて頂いて良いかしら?」
「あっ……大丈夫でしたか? 是非お願いします」
こうしてわたしは5,000円を手にすることができた。
「では、前回と同じですが……こちらにサインを」女性は先週と同じ用紙を、わたしの前に用意する。
「あの」
わたしは女性にしゃべりかけた。
「……? どうされました?」
女性は首を少し傾けて、わたしに言った。
「あの……実は」
「もう一つ、あるんです」
「失恋」
慎吾のこと。言おうと思った。元々は……慎吾との失恋のことで、この喫茶店を見つけた。今……わたしが失恋中の話も……買い取ってもらおうと決心がついた。
「あら……そうでしたか」
「はい……」
「大丈夫ですよ? 是非、お聞かせ頂きたいです」
にこやかに女性は微笑んだ。
わたしは勇気を振り絞って話をした。
大学で初めて慎吾と出会ったこと。
学部や学科も同じで、いつも一緒に楽しく過ごしていたこと。
社会人になって……すれ違いが始まったこと。
ラインの返信の内容のこと。
突然、家におしかけてしまったこと。
フラれてしまったこと。
今、わたしは失恋をしていること――
話を終えて、わたしは涙を流している自分に気付いた。
(そうだよね……)
(これまでの話と違って……最近のことだもん)
自分の感情を、まだ整理できていないらしい。
「……」
女性はいつもと同じように、静かに目を瞑って話を聞いてくれている。そして……ゆっくりと目を開けると、わたしに向かってこう言った。
「今のお話……買い取りはできません」
わたしは動けなくなってしまった。当たり前のように……買い取ってもらえると思っていたから。
「な……なんですか……?」
「わたし、頑張って……勇気を出して話をしたのに……!」
「つい最近のことなんですよ!?」
涙を流しながら、つい声を荒げて女性にわめいてしまった。
「……だからですよ」
わたしとは対照的に、落ち着いた声で女性は言った。
「だからです。だから買い取れないのです」
「まだ……失恋ではないですね。このお話は」
「えっ……?」
「お話を伺う限り……まだ失恋していないと申しております」
「……?」
「失恋とは……お相手があなたに好意が無い状態を指します」
「……」
「慎吾さん? でしたか。このお方は……まだあなたに好意を寄せていらっしゃると思いますよ?」
「でも……わたし……フラれましたよ……?」
「それは、あなたのことを嫌いになったからなのでしょうか?」
「わたしには……そう思えませんけどね」
女性の言葉がナイフのように胸に刺さる……
「もっとちゃんと……お2人でお話をされた方が良いかと思いますね。手遅れにならないうちに」
「……」
「ですので、申し訳ありませんが……このお話は買い取ることができません」
目を瞑り、にこやかに女性は微笑んでいた。
――
――
――
「仕事、無理しないでね?」
「あぁ。最近忙しくて……ごめんな」
「いいよ! ちゃんと今度……埋め合わせしてよねー!」
その後、わたしは慎吾と復縁した。
お互いに新社会人として……自分のペースをつかむことできずに、いらいらしていた。
何度も何度も話合いを重ねて……お互いの事を尊重することが身に付いたような気がする。
(あのお店は……わたしの救世主だ)
あの女性のお陰で……わたし達はまた付き合うことができた。そう思っている。でもネットで「喫茶メモリー」と検索しても……渋谷の街には、検索結果がヒットしない――
また別の街で、悩める女子に優しく微笑んでいるのかも知れない――
電車で渋谷を通る度に
優しく微笑む女性を思い出す――
「……うん」
「……そっか。どれくらい続いたの?」
「半年」
土曜日の午後の喫茶店は意外と混んでいる。人が近くにないことを確認して、わたし達は隅にある席を選んだ。
「半年か……友香にしては続いた方じゃない?」
ストローの端をくねくねと曲げながら、知美はアイスコーヒーにストローを差し込む。
「……そんな言い方、しないでよ」
「あぁ……ごめんごめん」
大学を卒業して3ケ月。社会人になったわたしは……先週フラれたばかり。
「何。浮気でもされたの?」
「分かんない」
「……何よそれ」
「『忙しくなったから』って」
「……新社会人なんだから……当然でしょうに」
「何か……色々とすれ違うようになっちゃったからさ。もしかしたら……それが原因なのかも」
「……あんた達、いつも一緒だったもんねぇ」
慎吾とは大学が同じだった。学部や学科も同じだったから……お昼ご飯の時も、帰る時も……いつも一緒にいた。卒業が近づく12月。わたしは告白された。
「うん」
「最近は? すれ違いってこと?」
「……うん」
土日に「会いたい」ってラインを送っても「疲れた」とか「また今度」って返信が増えていた。一度直接、慎吾の家に連絡せずに行ったことがあったけど……「寝かせてくれ」と怒られてしまった。
「全然デートもしてくれなくなったしね」
「……そっか」
「月に1回あるかないかだったから」
「まぁ……毎日一緒だったあんたからすると……それじゃ少ないかもね」
「……」
細くゆらりと湯気が立ち上るコーヒーカップ。そっと抱えて、わたしは口に運んだ。
「はぁ」
「……また見つかるよ」
「……そうかなぁ」
「すれ違いか。怖いね」
「社会人になる時、覚悟はしてたんだけどね。……駄目だったな」
「大人の恋愛って、難しいんだねぇ……」
「そう言えばさ」
コーヒーをテーブルに置いて、ぐいっと覗き込むように、知美が言った。
「何?」
「聞いたことある?」
「……何を?」
知美はきょろきょろと左右を見渡し、誰も聞いていないことを確認する。
「失恋を買ってくれるところ」
「はぁ……?」
(失恋を……買う? 何を言ってるの……)
「何、それ」
斜め上の答えに、思わず笑ってしまった。
「私も知らないよ。詳しくは」
「失恋を? 買う? どういうこと?」
「何か、サイトがあるって言ってたの聞いたよ」
「サイト……?」
「ちょっと探してみようか……?」
知美がスマホを取り出し、何やら検索をし始めた。きつねにつままれた気分で、わたしはじっと見つめる。
「私もさ……どっかで耳にしただけだから……」
そう言いながらも、スマホを凝視しながら指を動かしている。
(ちょっと……知美、大丈夫なの……?)
知美も大学が同じ。よく一緒に遊んだり仲が良かった。いきなり変なことを言い出す人間ではないことは、わたしが一番知っている。
「あっ……これかも……」
知美の指がぴたりと止まった。
「えっ……? 本当?」
「……うん。だぶん……これだ」
わたしの顔の前に、スマホを差し出した。
『あなたの失恋、買取ります』
『小さな失恋から大きな失恋まで』
『何でもご相談下さい』
「……何よ、これ……」
『営業時間 日曜日13時~18時』
『アクセス………』
「ね? これじゃないかな……私が聞いたやつ」
「怖っ……ちょっと……」
「まぁ確かに……でもさ、興味沸かない?」
知美がにやっと笑う。わたしも自分で調べるためにスマホに目を向けた。
「……名前は喫茶店なんだね」
「ね。いかにもな感じだよねー」
「……怖いな。これ」
「どうする? 友香。行ってみたら? 落ち込んでるんでしょ?」
「えぇ……何か……変なもの売られないかなぁ」
「さあ? そしたら別に帰れば良いじゃん」
電車に乗ると、どうしてもカップルに目がいってしまう。「先週まで……わたし達もあんな感じだったのに」思わず席を移動する。
「ただいま」
「あら、早かったのね」
「ん? ……まぁ」
台所で手を洗い、足早に自分の部屋へと戻った。ベッドに寄りかかり、知美に教えてもらった喫茶店をもう一度落ち着いて調べてみることにした。
(……喫茶メモリー……)
(ベタな名前してるんだな……)
ちょっと興味はある。失恋を買うというのは……どういうことなのか。でも、正直怖い。知美の言う通り、何かあったらすぐに帰れば良いかな……と好奇心と恐怖の間で揺れ動く。
(……はぁ)
スマホをベッドに投げ捨てて、そのまま自分も飛び込んだ。
(慎吾に会いたいな……)
そもそもわたしは、失恋の傷だって癒えていないのに…。イヤホンを耳に付けて、傷心にピッタリの曲をわたしは探した。
次の日、わたしの好奇心は恐怖心に勝った。「何かあれば逃げれば良い」この言葉を胸に、住所にある渋谷の坂をゆっくりと登っていく。
(……確かこの辺……)
狭い袋小路を進み……誰も足を踏み入れる事のない禁足地のような場所をイメージしていたわたしは、肩をすかされた気分だった。
「喫茶メモリー」は、そこまで路地に入らずに、1歩小脇に入った所に堂々と店を構えていた。
(こんな場所にあるんだ……)
半分透けている窓ガラス。目を凝らして見てみると、中には5~6人のお客さんが楽しそうにしゃべっているように見える。
(普通の喫茶店に……見えるけど……)
「せっかくここまで来たんだから」と勇気を振り絞り、金属製のドアノブをぎゅっと握り締めた。
カラン……カラン……ッ……
高い金属音を出す鈴の音が、細く店内に響いていく。どきどきして……呼吸が少し浅い。
「いらっしゃいませー」
奥の方から女性の声。
「お一人様ですか?」
30歳手前くらいだろうか……ポニーテールの可愛らしい女性が、わたしを出迎えてくれた。
「あっ……えっと」
「お連れ様が……いらっしゃいますか?」
「いっ、いえ……あの」
「……」
「すいません、これって……こちらでしょうか」
わたしは女性にスマホの画面を見せた。女性は確認すると、再び笑顔を見せる。
「……あちらにどうぞ」
女性はお客さん達がいるエリアではない場所に向けて、腕を伸ばした。目で追うと、細く長い道がある。どうやら奥にあるらしい。
前を歩く女性の後にゆっくりとついていく。「足元、お気を付け下さいね」時折話かけてくれる女性の優しい声が、わたしの緊張を緩ませてくれる。
(……こっちにあるのね)
「さ、こちらです」
正面のドアの横に立つと、ゆっくりとドアを開けてくれた。ドアがギイと開くと、アロマの香りがふわっと鼻を抜ける。
「どうぞ」
ニコリと笑って、女性が少し首を傾けた。
「ありがとう……ございます」
恐る恐る、中へ入る。真っ暗な部屋をイメージしていたけれど、なんてことはない……普通の部屋に見えた。
「お客さんかな?」
ギイと椅子の音がして、またもや女性の声が出迎えてくれた。
「あっ! は、はい……よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくね」
先ほどの女性とほとんど年齢が変わらなく見えた。スラっとした体型。同じようにポニーテールだ。
「どうぞ」
女性はわたしに座るように勧めてくれた。
「あっ……ありがとうございます」
「失恋……されたのかしら」
「……はい」
「ホームページを見たの?」
「……そうです。それで……」
「ここではね、皆さんの失恋を買わせてもらっているの」
「……失恋を……買う……」
「そうよ」
「それって……どういうことですか?」
「どういうことって? 文字通りよ」
女性はきょとんとした顔で、わたしを見つめている。
「買うって? ……どうやって買うんですか?」
「あぁ、そういうことね。具体的な方法ってことね」
「まぁ……はい」
女性はゆっくりと椅子から立ち上がり、後ろの書庫からファイルを取り出した。
「これが必要事項になるわ」
そう言うと、ファイルを開き、わたしの前に広げた。
『失恋買取サービス』
『必要書類……健康保険証、運転免許証など住所が確認できるもの※1』
(何? これ……)
その他にも色々と記載してあるけれど……よく分からない。
「住所があれば良いってことですか?」
「そうね。あなたの住所があれば良いわ。あとは、その『失恋』についての話を聞かせてもらう感じかしらね」
「わたしが……話をするんですか?」
「そうよ。それで、その失恋の買取価格を決めるわ」
「え? 話をするだけ……ですか?」
「ええ」
女性は穏やかに微笑んでいる。まるでわたしが言うことが予め分かっているかのように。
「皆さん、初めての方は同じことを言うわよ」
「……そうですよね」
「不思議な感じがするみたいね」
「何か取られたりするのかと……思ってました」
「そんなこと、しないわよ」
ポニーテールを揺らしながら、女性が初めて笑った。笑顔が可愛らしい。「性格が良い人に見えるな」とわたしは思った。
「でも、きっとまだ怖いでしょ?」
「ま、まぁ……そうですね……」
「小さい事から始めるのはどう?」
「小さい事?」
「そう。あなた……ここに来たってことは……最近失恋しちゃったってことでしょ?」
「はい……」
わたしはうつむいた。一瞬にして慎吾との思い出が蘇ったから。
「その失恋じゃなくて、もっと……昔の」
「……昔の?」
「そう。もうあなたの中で、心の傷が癒えてるものなら……良いんじゃないかしら?」
「えっ……そういうのでも……良いんですか?」
「ええ。ホームページに載せてたでしょ? 『小さい失恋』でも『大きい失恋』でもご相談下さいって」
まだわたしはきつねにつままれた気分。でも、女性の言う通り……子供の頃の失恋なら、良いかなと思うようになっていた。
「じゃ、それでお願いします……」
「分かったわ」
「どうすれば良いですか?」
「私にお話しをしてもらえれば、それで良いわ」
わたしは目の前の女性に、小学4年生の時の話をした。
この時期、わたしは同じクラスの翔くんが好きだった。翔くんはスポーツ万能。女子からの人気が凄かった。わたしはいつも休み時間に……そっと見てるだけ。
2月に入ってバレンタインデーの時、わたしは勇気を振り絞って、人生で初めて「本命チョコ」を作った。
バレンタインデー当日、帰りの会が終わった後に……下駄箱で翔くんが来るのを待って……渡したけれど、「好きな人がいるから」と断られてしまったのだ。
女性に話終わると、目を瞑って優しく頷いてくれている。
「ありがとう。小学4年生の時の……失恋ね」
「あっ……はい。これが最初……かな」
「失恋って、いつ味わっても……辛いものよね」
「はい……」
「2,500円で買い取らせて頂くわ」
「えっ?」
「あら? ご不満かしら?」
「いえっ……そうじゃなくて……何か、必要なものというか……」
わたしは何か代わりに差し出すものが必要だと思っていた。
ふふっ……と女性は優しく微笑む。
「何もいりませんよ?」
「今、あなたがして下さった……お話で十分ですよ」
わたしは状況を把握できず……ぽかんとただそこに座っているだけ。
「2,500円の買い取りで……良いですか?」
「あっ……はい……」
「では、こちらにサインを」
すっとわたしの目の前に出てきたのは、1枚のA4の用紙。
『買取承諾書』
わたしはそこに住所を書いてサインをする。「あらすじ」を書く必要があるため、今の話を文章で書く。そして――2,500円を受け取った。
家に帰ってからも、わたしはしばらくぼんやりしていた。
(何……これ……)
わたしはただ、話をして、あらすじを書いただけ。なのに……お金を受け取った……。
(これって……やばいやつなの……かな)
家に帰り、段々落ち着いてくると、今更ながら怖さが出てきたことに気付く。脇の下に変な汗をかいている。
(でも……怪しい雰囲気は無かったな)
(……女の人、綺麗だったし)
知美に相談してみようかな……とも思ったけれど、言うのは止めておいた。
次の日曜日。またわたしは喫茶メモリーに向けて家を出た。今度は違う失恋の話をしてみようと思ったのだ。別にお金が欲しいわけじゃ無かった。慎吾との失恋を買い取ってもらうための……練習のようなイメージだった。
カラン……カラン……ッ……
「いらっしゃいませー」
先週と同じ。奥からポニーテールの女性がぬっと姿を現した。
「あっ……」
女性がわたしに気付いてくれる。ちょっと恥ずかしくなり、わたしはにやけながら……頭を軽く下げた。
「先週と同じでよろしいですか?」
女性は相も変わらず優しい笑顔を向けて、聞いてくれる。
「はい……」
ちょっと小声で、わたしは答えた。
「もう、お一人で大丈夫ですか?」
「あっ、はい。もう大丈夫です」
喫茶店の奥に延びた細い廊下を歩き、今回は一人で正面のドアを開ける。
「……すいませーん」
なぜか腰を少しかがめて、小声を出しながら部屋の中へと入っていく。
「いらっしゃい。また来たのね」
ギイと椅子から立ちあがり、わたしの方に向かって歩いてくる。
「はい。……先週はありがとうございました」
「良かった。気に入ってくれたみたいで」
どうぞと言いながら、女性はわたしに椅子に座るよう促してくれた。
「で? 今日はどうなさったの?」
「また……失恋を買い取ってもらうかなと思いまして……」
「もちろん。是非伺わせて欲しいわね」
もう手順は理解している。わたしは女性に向けて、先週とは違う失恋の話をした。
中学2年生の秋。わたしの学校は2泊3日の修学旅行で奈良と京都を巡る。中学1年生の頃から、ずっと気になっていた彰人くんに告白をしようと計画をしていた。
これまでに無かった、宿泊の旅。クラス中のテンションも高く、女子の友達は私の告白を手伝ってくれることになっていたのだ。
2泊目の夜。次の日は解散。「最後の夜だね」と言われ、友達が彰人くんを食堂横にある静かな場所に呼び出してくれた。わたしは一人でそこにスタンバイをしている。みんなの協力もあって……2人きりになることができたけれど……告白は失敗してしまった。彰人くんは違う中学校に好きな人がいるらしかった……。
「……という失恋です」
「なるほど……それは辛かったわね……」
目を瞑りながら、女性はうんうんと頷いている。
「お年頃ですし……お友達も、あなたに声をかけにくくなっちゃいましたしね……」
もの凄く同情してくれているように見える。
「分かりました。今のお話……買い取らせて頂いて良いかしら?」
「あっ……大丈夫でしたか? 是非お願いします」
こうしてわたしは5,000円を手にすることができた。
「では、前回と同じですが……こちらにサインを」女性は先週と同じ用紙を、わたしの前に用意する。
「あの」
わたしは女性にしゃべりかけた。
「……? どうされました?」
女性は首を少し傾けて、わたしに言った。
「あの……実は」
「もう一つ、あるんです」
「失恋」
慎吾のこと。言おうと思った。元々は……慎吾との失恋のことで、この喫茶店を見つけた。今……わたしが失恋中の話も……買い取ってもらおうと決心がついた。
「あら……そうでしたか」
「はい……」
「大丈夫ですよ? 是非、お聞かせ頂きたいです」
にこやかに女性は微笑んだ。
わたしは勇気を振り絞って話をした。
大学で初めて慎吾と出会ったこと。
学部や学科も同じで、いつも一緒に楽しく過ごしていたこと。
社会人になって……すれ違いが始まったこと。
ラインの返信の内容のこと。
突然、家におしかけてしまったこと。
フラれてしまったこと。
今、わたしは失恋をしていること――
話を終えて、わたしは涙を流している自分に気付いた。
(そうだよね……)
(これまでの話と違って……最近のことだもん)
自分の感情を、まだ整理できていないらしい。
「……」
女性はいつもと同じように、静かに目を瞑って話を聞いてくれている。そして……ゆっくりと目を開けると、わたしに向かってこう言った。
「今のお話……買い取りはできません」
わたしは動けなくなってしまった。当たり前のように……買い取ってもらえると思っていたから。
「な……なんですか……?」
「わたし、頑張って……勇気を出して話をしたのに……!」
「つい最近のことなんですよ!?」
涙を流しながら、つい声を荒げて女性にわめいてしまった。
「……だからですよ」
わたしとは対照的に、落ち着いた声で女性は言った。
「だからです。だから買い取れないのです」
「まだ……失恋ではないですね。このお話は」
「えっ……?」
「お話を伺う限り……まだ失恋していないと申しております」
「……?」
「失恋とは……お相手があなたに好意が無い状態を指します」
「……」
「慎吾さん? でしたか。このお方は……まだあなたに好意を寄せていらっしゃると思いますよ?」
「でも……わたし……フラれましたよ……?」
「それは、あなたのことを嫌いになったからなのでしょうか?」
「わたしには……そう思えませんけどね」
女性の言葉がナイフのように胸に刺さる……
「もっとちゃんと……お2人でお話をされた方が良いかと思いますね。手遅れにならないうちに」
「……」
「ですので、申し訳ありませんが……このお話は買い取ることができません」
目を瞑り、にこやかに女性は微笑んでいた。
――
――
――
「仕事、無理しないでね?」
「あぁ。最近忙しくて……ごめんな」
「いいよ! ちゃんと今度……埋め合わせしてよねー!」
その後、わたしは慎吾と復縁した。
お互いに新社会人として……自分のペースをつかむことできずに、いらいらしていた。
何度も何度も話合いを重ねて……お互いの事を尊重することが身に付いたような気がする。
(あのお店は……わたしの救世主だ)
あの女性のお陰で……わたし達はまた付き合うことができた。そう思っている。でもネットで「喫茶メモリー」と検索しても……渋谷の街には、検索結果がヒットしない――
また別の街で、悩める女子に優しく微笑んでいるのかも知れない――
電車で渋谷を通る度に
優しく微笑む女性を思い出す――



