時計は午後三時を指しておりました。
昼の休憩時刻をとうに過ぎておりましたが、腹も空いてはおりません。
「旦那さん、そろそろ飯にいたしませんか」
若い番頭の榊原が、懐から取り出した写真を見せながら、小声で申しました。
場末の食堂の看板を写したものでございます。
榊原の左腕で、銀色の時計がやけに光っておりました。昨日、馴染みの娘御から誕生日に贈られたものでございましょう。朝から何度も自慢されましたが、わが家の加奈から贈られた懐中時計も負けてはおりません。
机の上の帳面を閉じ、財布をしまい込むと、榊原は鼻歌まじりに店の外に出て、わたくしの荷馬車の横に立ちました。
「ところで旦那さん、奥方とは最近どんな塩梅でございます?」
こやつは、いつもわたくしにだけ口の端を上げて話すのでございます。
侮っているのかおどけているのか、絶妙なところで言葉を放つのが常でございました。
榊原の言葉に、ふと家族の面影が胸に蘇りました。
短く結い上げた髪、大きく見開いた目、笑うたび大げさに歯を見せる姿――わたくしは加奈に一目で心を奪われました。
出会って半年で祝言を挙げ、その翌年に娘の綾が生まれ、家族を命に替えても守ると心に決めたものでございます。
いつまでも笑い合えるはずでございました。
けれど綾が小学校へ通い出した頃より、歯車は少しずつ狂い始めたのでございます。
週に一度は必ず言い争いとなり、その翌日は互いに口も利かぬ。
先週は「馬車の鍵が締まっておらぬ」と責められ、一昨日は「馬車の荷台に見知らぬ男がいると綾が泣き叫んだ」と叱られました。いずれも心当たりはございません。
最近、わたくしどもは中古の荷馬車を買い求め、その話題ばかりが夫婦の間を占めておりました。
今、わたくしどもが使っているのも、その馬車でございます。
これらを榊原に話しますと、
「奥方にも少しお休みを差し上げたらどうです?どこぞに連れて行ってさしあげるとか」
思いのほかまともな提案をいたしました。
加奈が行きたい場所などあっただろうか、と考え込んでいると、
「まさか行きたい所もご存じないんで?」
と、嘲るような顔で言われ、返す言葉もございませんでした。
やがて食堂へ着き、味噌汁と饂飩を頼んだ折、店の片隅のラジオが事故の知らせを伝えておりました。
<先週、山中で馬車ごと崖下へ落ち亡くなったのは、町に住む伊田英之さんで――>
「酔っていたんじゃないですかねえ」
榊原は茶をすすりながら呑気に申します。
「酔うて山道へ行くものか」
「僕なら海へ行きますけどねぇ」
「そういう話をしておらん」
そんなやり取りをしているうちに料理が運ばれ、わたくしどもは黙って箸を進めました。
食事を終え、店を出ると、日は西へ傾きかけておりました。
夕方までに腹が空くだろうか、などと思いながら歩いておりますと、懐の中で文箱が震えました。
「すまん。加奈からでございます。先に馬車へ乗っていてくれ」
榊原を馬車へ乗せ、わたくしは道の端へ寄って電話を取ります。
「もしもし嶺?」
透き通った声の向こうで、
「おとうさまー」
綾の声も聞こえました。
「今宵の夕飯、どうなさいます?」
「もちろん頂くが、少し遅くなります」
「はあ……」
加奈は溜息をひとつついて、電話を切りました。
昼飯を食べすぎたことを悔やんでいると――
――ドカアアアアアアアンッ!!
すさまじい爆音が響き渡り、わたくしは振り返りました。
乗ってきた馬車が、炎に包まれていたのでございます。
どうして。
先週買ったばかりでございましたのに。
また加奈に叱られてしまう。
いや、それよりも――
「榊原が……!」
榊原は馬車の中にいる。
馬車の心配などしている場合ではございません。
「榊原!」
わたくしは炎の中、必死に駆け寄りました。
火の粉が肌を刺し、煙が目を灼きます。
しかし不思議と、炎は数十秒ほどで急に弱まり、やがて鎮火いたしました。
その異様な光景に、言葉を失いながら扉を開くと――
そこには、人の形を留めぬ、黒焦げの肉塊が乗っておりました。
左腕だけが、まるで嘲笑うように銀色の輝きを残して。
救急の者が駆け寄り、わたくしはその場から離されました。
その後の記憶は朧でございます。
警察にて長い尋問を受け、事情をありのままに話し、ようやく解放されました。
地下鉄に揺られ家路を急ぎながら、車窓の景色をただ眺めておりました。
何かが生まれ、何かが消える。
榊原の遺骸は今も脳裏に焼きついて離れません。
ふと屋敷の前に着いたとき、わたくしは凍りつきました。
――燃えたはずの馬車が、いつものように佇んでいたのでございます。
「少し遅いじゃありませんか」
玄関から加奈と綾が駆け寄ってまいりました。
「……どうして……馬車が……」
「さっき警察の方が来ましてね。“馬車は無事でした”って」
加奈は平然と言いました。
あれほど炎に包まれたというのに、無事であるはずがない。
榊原だけが燃え、馬車は元のまま――そんなことがあり得ましょうか。
確かめると、榊原が座っていた席も、何ひとつ変わっていないのでございます。
「馬車が無事なら、よろしいではありませんか」
「おとうさまー、ごはんー」
綾が裾を引っ張り、わたくしは戸惑いの中で家に入ったのでございます。
夕餉を済ませても、この不可解な現実は呑み込めずにおります。
しかし風呂で身体を温め、寝床で綾が腕に抱きつくと、少しだけ心が和らぎました。
「おとうさまー、だいすき……」
小さな寝息を感じながら、わたくしはそっと綾の頬を撫でました。
<了>
昼の休憩時刻をとうに過ぎておりましたが、腹も空いてはおりません。
「旦那さん、そろそろ飯にいたしませんか」
若い番頭の榊原が、懐から取り出した写真を見せながら、小声で申しました。
場末の食堂の看板を写したものでございます。
榊原の左腕で、銀色の時計がやけに光っておりました。昨日、馴染みの娘御から誕生日に贈られたものでございましょう。朝から何度も自慢されましたが、わが家の加奈から贈られた懐中時計も負けてはおりません。
机の上の帳面を閉じ、財布をしまい込むと、榊原は鼻歌まじりに店の外に出て、わたくしの荷馬車の横に立ちました。
「ところで旦那さん、奥方とは最近どんな塩梅でございます?」
こやつは、いつもわたくしにだけ口の端を上げて話すのでございます。
侮っているのかおどけているのか、絶妙なところで言葉を放つのが常でございました。
榊原の言葉に、ふと家族の面影が胸に蘇りました。
短く結い上げた髪、大きく見開いた目、笑うたび大げさに歯を見せる姿――わたくしは加奈に一目で心を奪われました。
出会って半年で祝言を挙げ、その翌年に娘の綾が生まれ、家族を命に替えても守ると心に決めたものでございます。
いつまでも笑い合えるはずでございました。
けれど綾が小学校へ通い出した頃より、歯車は少しずつ狂い始めたのでございます。
週に一度は必ず言い争いとなり、その翌日は互いに口も利かぬ。
先週は「馬車の鍵が締まっておらぬ」と責められ、一昨日は「馬車の荷台に見知らぬ男がいると綾が泣き叫んだ」と叱られました。いずれも心当たりはございません。
最近、わたくしどもは中古の荷馬車を買い求め、その話題ばかりが夫婦の間を占めておりました。
今、わたくしどもが使っているのも、その馬車でございます。
これらを榊原に話しますと、
「奥方にも少しお休みを差し上げたらどうです?どこぞに連れて行ってさしあげるとか」
思いのほかまともな提案をいたしました。
加奈が行きたい場所などあっただろうか、と考え込んでいると、
「まさか行きたい所もご存じないんで?」
と、嘲るような顔で言われ、返す言葉もございませんでした。
やがて食堂へ着き、味噌汁と饂飩を頼んだ折、店の片隅のラジオが事故の知らせを伝えておりました。
<先週、山中で馬車ごと崖下へ落ち亡くなったのは、町に住む伊田英之さんで――>
「酔っていたんじゃないですかねえ」
榊原は茶をすすりながら呑気に申します。
「酔うて山道へ行くものか」
「僕なら海へ行きますけどねぇ」
「そういう話をしておらん」
そんなやり取りをしているうちに料理が運ばれ、わたくしどもは黙って箸を進めました。
食事を終え、店を出ると、日は西へ傾きかけておりました。
夕方までに腹が空くだろうか、などと思いながら歩いておりますと、懐の中で文箱が震えました。
「すまん。加奈からでございます。先に馬車へ乗っていてくれ」
榊原を馬車へ乗せ、わたくしは道の端へ寄って電話を取ります。
「もしもし嶺?」
透き通った声の向こうで、
「おとうさまー」
綾の声も聞こえました。
「今宵の夕飯、どうなさいます?」
「もちろん頂くが、少し遅くなります」
「はあ……」
加奈は溜息をひとつついて、電話を切りました。
昼飯を食べすぎたことを悔やんでいると――
――ドカアアアアアアアンッ!!
すさまじい爆音が響き渡り、わたくしは振り返りました。
乗ってきた馬車が、炎に包まれていたのでございます。
どうして。
先週買ったばかりでございましたのに。
また加奈に叱られてしまう。
いや、それよりも――
「榊原が……!」
榊原は馬車の中にいる。
馬車の心配などしている場合ではございません。
「榊原!」
わたくしは炎の中、必死に駆け寄りました。
火の粉が肌を刺し、煙が目を灼きます。
しかし不思議と、炎は数十秒ほどで急に弱まり、やがて鎮火いたしました。
その異様な光景に、言葉を失いながら扉を開くと――
そこには、人の形を留めぬ、黒焦げの肉塊が乗っておりました。
左腕だけが、まるで嘲笑うように銀色の輝きを残して。
救急の者が駆け寄り、わたくしはその場から離されました。
その後の記憶は朧でございます。
警察にて長い尋問を受け、事情をありのままに話し、ようやく解放されました。
地下鉄に揺られ家路を急ぎながら、車窓の景色をただ眺めておりました。
何かが生まれ、何かが消える。
榊原の遺骸は今も脳裏に焼きついて離れません。
ふと屋敷の前に着いたとき、わたくしは凍りつきました。
――燃えたはずの馬車が、いつものように佇んでいたのでございます。
「少し遅いじゃありませんか」
玄関から加奈と綾が駆け寄ってまいりました。
「……どうして……馬車が……」
「さっき警察の方が来ましてね。“馬車は無事でした”って」
加奈は平然と言いました。
あれほど炎に包まれたというのに、無事であるはずがない。
榊原だけが燃え、馬車は元のまま――そんなことがあり得ましょうか。
確かめると、榊原が座っていた席も、何ひとつ変わっていないのでございます。
「馬車が無事なら、よろしいではありませんか」
「おとうさまー、ごはんー」
綾が裾を引っ張り、わたくしは戸惑いの中で家に入ったのでございます。
夕餉を済ませても、この不可解な現実は呑み込めずにおります。
しかし風呂で身体を温め、寝床で綾が腕に抱きつくと、少しだけ心が和らぎました。
「おとうさまー、だいすき……」
小さな寝息を感じながら、わたくしはそっと綾の頬を撫でました。
<了>

