あばぐだ図鑑

 よろしくお願いいたします。山梨県の小学校で教員として働いております、鮫島と申します。

 わざわざこんなところまで来ていただき、ありがとうございます。あの話ですよね……。誰にも打ち明けられないまま十数年が経ってしまったので、ようやく話せると思うと、正直嬉しいです。
 ええ。自分の胸の内に留めておくのは、かなり苦しかったので。

 僕は当時、東京の小学校に勤務していましたが、母の入院をきっかけに地元の山梨へ戻ることになりました。母校に勤務させていただけることになり、今に至ります。
 最初は一年生を受け持つことになりました。一年二組の担任を、ありがたいことに任せていただいたんです。教員生活が再び始まって、一か月ほど経った頃でしょうか。家庭訪問へ行くことになりました。時間は、午後三時くらいだったと思います。その日は、郷田早都子ちゃんのお宅へ伺う予定でした。

 入学式の日から一度も学校へ来ていなかったので、その相談も兼ねての訪問でした。片道一時間ほど、山道を車で進みました。地元のはずなのに、まったく知らない道で、何度も迷いながらの到着でした。
 立派な一軒家でしたよ。駐車場には、赤くて綺麗な車も停まっていました。カースのだったかな。車種は詳しくないので知りませんが。正直、ああ、羨ましいなと思いました。
 チャイムを鳴らすと、お父様が玄関から顔を出されました。家庭訪問で来たことを伝え、中へ通していただきました。早都子ちゃんはリビングのソファでぐったりしていましたが、僕が挨拶をすると、元気よく返してくれました。

 それから数十分ほど、お家での早都子ちゃんの様子や、学校での授業、クラスの雰囲気についてお話ししました。ひと通り話し終えたところで、お父様がお手洗いに立たれました。そのときです。早都子ちゃんが、小さな声で言ったんです。
「ぱぱがね、なんかへんなの」
 何が変なのか、僕もなるべく声を落として訊きました。すると彼女は、僕の腕を掴んで外まで引っ張り、
「このくるまもへんだから、ぱぱがへんになっちゃったの」
 と言いました。
 正直、その時はさっぱり分かりませんでした。
 ほどなくしてお父様が戻ってこられたので、すぐにリビングへ戻りました。早都子ちゃんはお父様のことを「変だ」と言っていましたが、実際にはとても穏やかで、優しい方でした。
 帰り際、お父様から、
「これから毎日、早都子に勉強を教えていただけませんか」
 と頼まれました。夕方の一時間だけ、お邪魔することにしました。教員として、早都子ちゃんに一日でも早く学校へ来てほしかったですし、勉強の楽しさを知ってもらう良い機会だと思ったんです。

 早都子ちゃんですか? 勉強は得意な子でしたよ。問題もすらすら解いてしまうので、僕が教えることは、あまりなかったくらいです。

 それから一週間ほど経った頃でしょうか。いつも通りお宅へ伺ったのですが、その日はお父様がいらっしゃいませんでした。
「おやまのこーえんにいってから、かえってこない」
 早都子ちゃんは、不安そうな表情でそう言いました。彼女の家からさらに山道を登った先に、大きな池と公園があったことを思い出しました。地図を何度も見ながら迷ったので、よく覚えていたんです。

 もしかしたら、と思い、僕は一人で車に乗って向かうことにしました。早都子ちゃんと二人きりで家にいて、変な疑いを持たれても困りますから。
 早都子ちゃんに留守番をお願いし、急いで公園へ向かいました。
 公園には、一台の車が停まっていました。すぐに、お父様の赤い車だと分かりました。運転席へ向かおうと走ったとき、車内の後部座席に、もう一人誰かが乗っているのが見えたんです。

 ただ……おかしかった。
 その人物の向こう側が、見えていました。透けていたんです。
 年齢は四十代くらいでしょうか。男でした。その瞬間、僕は悟りました。ああ、これは幽霊だ、と。このお化けにお父様は憑りつかれてしまったんじゃないか、と。気持ち悪い男が、お父様のほうを見て笑っていました。

 見た目ですか……。髭を生やしていたと思います。とにかく、ひどく気持ち悪かった。
 慌てて運転席のドアを開け、お父様を引っ張り出しました。
 お父様は、はっと我に返った様子で、周囲を見回してから、
「ここは……どこですか」
 とおっしゃいました。
 事情を説明し、一緒に帰ることにしました。ただ、車を置いていくわけにもいかず、僕は自分の車で後ろを走る形で、山道を下りました。
 不安で、ずっとお父様の車を見ていました。
 すると突然、ぶおおおん、という音とともにスピードを上げ始めたんです。僕の車との距離が、どんどん開いていきました。
 やがてカーブが現れました。右折すべきところを、お父様の車はそのまま直進しました。僕は焦ってクラクションを鳴らし続けましたが、スピードは落ちませんでした。

 その後のことは……ええ、おっしゃる通りです。車は、真っ逆さまに落ちていきました。
 あの光景は、今でも鮮明に覚えています。ゆっくり落ちていくように見えました。連続写真を一枚一枚眺めているように、すべての景色が、この目に焼き付いていました。

 正直、あまり思い出したくはありません。ただ、忘れようとしても、思い出してしまうんです。

 お父様の葬儀に、早都子ちゃんはいませんでした。
 お家ですか? あの後は心配になって、すぐに伺いました。ですが、すでに空き家になっていました。早都子ちゃんは学校にも来ませんし、警察にも捜索をお願いしましたが、まだ見つかっていないそうです。
 それ以来、家庭訪問に行くのが億劫になってしまって……。今は非常勤講師として、甲府市の方で勤務しています。

 (電話の着信音)

 あ、すみません。母からです。

 (電話の音声はカットしている)

 申し訳ありません。つい先日、退院したばかりでして……今は困るくらい元気なんですよ。夕飯はいるのか、という電話でした。
 そういえば、今日、車を買ったとも言っていました。


(鮫島氏の母が購入した車両)

 「真っ赤な車」を、中古で買ったと。