あばぐだ図鑑

 本日はよろしくお願いいたします。職業柄、言葉遣いに違和感を覚えられるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

 ええ、これはわたくしの母から聞いた話でございます。わたくしが五歳になった頃のことでしょうか。とうの昔の話ですから、わたくし自身には、ほとんど記憶がございません。

 両親は、新しい車を買うために、わたくしと、当時飼っていたペスという犬を連れて出かけたそうです。新車を買うほどの余裕はなかったらしく、中古車を購入することに決めたと聞いております。その中古車は、綺麗な朱色を纏い、まるで新車のような輝きを放っていたそうです。えーと、車種はよく覚えていません。
 両親は大変喜んでいたようですが、わたくしとペスだけは、その車を見て怯えていたといいます。ペスは車に向かって吠えるようになり、わたくしも、その車に乗せられると泣いていたそうです。両親は、わたくしどもがその車を嫌っているのだと思い、次第に、わたくしたちを車から遠ざけるようになりました。

 それから数日が経った頃のことです。わたくしは、車の外から後部座席に向かって、ぶつぶつと何かを呟いていたそうです。わたくし自身に、そのような記憶はございません。母は不思議に思い、わたくしに尋ねました。
「誰とお話ししていたの?」
 と。
 わたくしは、こう答えたそうです。
「おじさん」
 母は、わたくしが夢でも見ているのだろうと考え、その言葉を信じなかったようです。

 その日を境に、わたくしは毎日のように、後部座席へ向かって話しかけていたといいます。
 どんなことを話していたのか、ですか。
 母に聞いたところによれば、「寂しいね」「悲しいね」「辛いね」「ぼくが助けるよ」といった具合に、そのおじさんに同情するような言葉をかけていたそうです。車に悪戯をしていたわけでもありませんでしたから、両親も、特に気には留めなかったのでしょう。

 わたくしがペスを連れて話していたこともあったそうです。その際、ペスは尻尾を振り、舌を出して、まるで笑っているかのようだったと聞いております。よほど、後部座席にいた“おじさん”が気に入っていたのでしょう。わたくし自身も、まったく覚えておりませんから、きっと楽しかったのだと思います。嫌な記憶であれば、しばらくは覚えているものですから。

 両親はそれ以来、わたくしとペスを、より一層車から遠ざけるようになりました。それでも、あのおじさんだけは、わたくしたちに構ってくれていたようです。

 ある夜、車の横に、煙草の吸い殻が落ちていました。わたくしの家には、喫煙をする者はおりませんでしたから、すぐに、あのおじさんのものだと思い、母に自慢したそうです。母は、その吸い殻を見て「ただのゴミだ」と言い張り、そのままゴミ箱へ捨ててしまいました。
 母が寝静まったあと、わたくしはこっそりとゴミ箱に手を入れ、その吸い殻を懐へしまいました。

 ――これです。

 (カメラのシャッター音)


(何者かの吸い殻)

 今も、持っております。
 臭いは確かに良くありませんが、ここに宿っているおじさんは、今もわたくしに勇気を与えてくれています。父は、次第にわたくしを無視するようになっていましたから、あのおじさんは、わたくしにとって父親のような存在でございました。

 化け物、ですか。
 そんなふうに思ったことは、一度もございません。
 わたくしにとっては、大切なお父さまの一人でございます。

 現在は、この寺の住職として、毎日お経を唱えております。生前は、あのおじさんにも大変お世話になりましたから、いずれ、そちらへ参りました折には、共に酒を酌み交わすつもりでおります。

 葬儀の際にお経を読み上げることもございますし、お祓いの依頼を受けることもございます。
 お祓いとは、幽霊をただ取り払うことではございません。幽霊の魂と、その心を、どうにかしてあるべき場所へ留める行為でございます。
 無理に祓おうとすれば、幽霊は怒り、時には、人にとって良い影響を及ぼす存在までも失われてしまいます。何でもかんでも祓えばよい、という人間の考え方は、わたくしはとても嫌いです。

 幽霊と人間の立場を、もし入れ替えて考えてみたとしたら――

 (インタビューはここで終了している)